月の道、太陽の道
鐘の音が遠くから聞こえてきた。
続けて三度。ちょうど今、午前三時になったところか。
「ときにファルス様、この牢獄に立ち入るのに、どんな手段を用いましたか」
教師だった頃のくせなのかもしれない。アイドゥスは立ち上がり、人差し指を立てながら、そう尋ねた。
「それはもちろん、お金です。金貨を、僕の担当のプレッサンに握らせて、それを牢番にもばら撒くように言いました」
「きっとそうだと思っていました。というのも、ファルス様にはこの国における権力がおありでない。何かを直接的に与えるためには、金貨によるしかなかったのです」
当たり前の話だが、これがどうして信仰と結びつくのか、さっぱりわからない。
まぁ、金と宗教……うん、親戚みたいなものかもしれないが。
「さて、では質問です。なぜ、彼らはお金を受け取ってくれたのでしょうか」
「なぜって、お金に価値があるからでしょう? プレッサンはそれで隠れ娼婦を買っていましたし、牢番達も、自分の楽しみのために使うはずです」
「価値……では、ファルス様、金貨はお持ちですか?」
俺が懐から取り出し、手渡すと、彼はそれをしげしげと見つめた。
かと思うと、いきなりそれをゴリゴリと壁に押し付けて、削ろうとした。
「ちょっ! 何をしてるんですか」
「うーん、これで壁をぶち抜くのは難しそうですねぇ」
何を馬鹿なことを言っているんだ。そんなに脱獄したければ、ツルハシでも持ってこい。
それより、そんなに乱暴に扱ったら、金貨のほうが削れてしまう。
呆れかけている俺を尻目に、今度はそれを人差し指と中指の間に挟んで、パンチを繰り出し始めた。
「どうです? これなら痛そうですね」
「自分も痛いと思いますよ」
「ただ殴るより威力はありそうですし、剣士相手に戦えますか」
「戦うだけなら。まず殺されるだけですけど」
明日、死のうとしている人間が、何をやっているんだか。
俺が完全に呆れ果てると、彼は金貨を投げ返した。
「今、ファルス様は金貨に価値があるとおっしゃいました」
「え? はい」
「でも、それが何の役に立つんですか? 使ってみようとはしましたけど、全然うまくいきませんでしたよ」
まるで道化だ。本当に僧侶なのか?
とはいえ、確かにそうだ。
金貨は壁をぶち抜けない。金貨を装備しても戦えない。金貨は食べられない。ただの金属の破片でしかないから、そのままでは役に立たない。
「使い方が悪いだけです。しかるべきところで使えば、食べ物も、酒も、道具や家も、護衛も、ひょっとすると女や地位や名誉だって買えるんですから」
「そう、それは『買う』ための道具ですね」
彼は頷いた。
「つまり、それ自体には固有の価値などありません。金貨の価値は、まったく取引に依存しています」
その通りだ。
現代日本に帰ったとする。そこでは、日本銀行券……古くは聖徳太子、最近なら福沢諭吉が金貨に等しいものとなる。
しかし、世界的な核戦争が起きたとしたら? 或いは気候の大変動、大地震などなど、国家システムが崩壊するような事態が発生したら。警察も自衛隊も機能しない無法状態に陥ったらどうなるか。
最初は、高値でダイコンを売ろうとする奴が出てくるかもしれない。一本一万円とか。しかし、だんだんとそんな取引も消えていくはずだ。それより、現物を手に入れなくては始まらない。
「ところが、ファルス様も、プレッサンという方も、どなたも疑うことなく金貨を使っておいでです」
「それは、まぁ、そうですね。そういうものだとわかっていますから」
「なんとなく、ではありますが」
彼は背筋を正した。
「あなたはその金貨に価値を与えています。もっと言うと、価値を与えることに同意し、協力しているのです」
「え、えっと、はい」
「これは、プレッサンという方についても同様です。他の人も、きっと世界のほとんどあらゆる人が、同意を与えています」
この世界では、一千年前に金貨の規格も固定されたから、図柄は違っても、どこであっても同じ通貨を利用できる。ということは、この金貨には、世界中の同意が詰まっている。
「ですが」
藁束の上にだらしなく腰掛けながら、アイドゥスは重ねて尋ねた。
「これはそんなに信用がおけるものでしょうか」
「と言いますと」
「ファルス様、ピュリスでは鋼鉄の剣はおいくらでしょう」
価格を思い出す。
昔、リリアーナにもらった剣の値段。ドロルはだいたい金貨二十枚だと言った。
「二十くらいでしょうか」
「では、オプコットではいくらでしたか」
「少し割高ですね。二十五ほど」
左手に四本、右手は開いて、見比べてみせる。
「地域を見ても、それだけの差が出ます。では、食べ物はどうですか。今年は豊作でも、来年は凶作かもしれません。金貨一枚で買える麦の量は、毎年変わるのではないですか」
「それは、はい」
前世のスーパーでも同じだった。キャベツの値段なんか、頻繁に変わっていた。一年前の二倍近い価格になることもあったっけ。
そうしてみると、むしろ相場が安定しているほうが例外なのかもしれない。コンビニに行けば、いつも同じ値段でカップラーメンを買うことができた。
「つまりファルス様、あなたが取引をなさる時……たとえばここに薬があったとして、それを金貨一枚で売る場合、ファルス様はこう考えるわけです。これで小麦を一袋買うことができるぞ、と」
「その時の相場がそれなら、そうでしょうね」
「ですが、金貨の形で貯蔵しておいた財産は、増えることもあれば、減ることもあるのです。一年後、大豊作となれば、その金貨で二袋の小麦を買うことができますし、逆に凶作となれば、金貨を十枚も要求されるかもしれません」
「それが取引じゃないですか」
「いいえ。これは、特にお金を介した場合に顕著な特徴です」
それもそうなのか? 現物しかやり取りしない場合、一応、その現物の機能は残る。食べ物みたいに消費しなければだが。
例えば、俺が鉄の鍬を差し出して、農耕用の牛を受け取ったとする。一年後、確かに鍬は磨り減っているし、牛も寿命が一年縮まってはいるものの、まだどちらも使える。つまり、物それ自体の価値の変動は、予期された範囲を超えては発生しない。もちろん、鍬が牛よりずっと評価される状況にもなり得るし、逆だって発生するが、交換さえしなければ、価値は不動だ。
「いや、現物同士で物々交換すれば……でも、その場合でも、モノとモノの交換レートは変わりうるでしょう?」
「はい。ですが、それとは少し違うのです。考えてみてください。途方もない大凶作がやってきたら、あなたは金貨と引き換えに小麦を手放すでしょうか?」
つまり、物としての値打ちに加えて、社会の安定度が金貨の価値を変えてしまう。
金はこの世界において、そこまで実用的な金属ではない。前世であれば精密機器の部品に使われたりするが、こちらでは高価な装身具などを作るのに役立つだけだ。飢餓に直面した庶民にとっては、使い道などない。
とはいえ、この世界では金貨は万国共通なので、仮に戦争になっても、人々は金貨を手放さないだろう。但し、社会が崩壊すればするほど、取引は危険で、しかも法外なものとなる。それこそダイコン一本に金貨百枚を要求する状況だって起こり得る。
最悪、流通が絶たれた孤立社会が分散して存続するような時代になったら、金貨はその価値を失いかねない。その場合、成立するのは、ご近所同士で助け合う、市場経済のない社会だろう。そういう贈与経済において、ダイコン一本に金貨百枚を要求する……仲間達から村八分にされそうだ。到底成り立たない。相場なんてものは、あってなきがごとしとなるだろう。
とすると、やはりこれは、アイドゥスが言う通り、俺達が自発的に、なんとなくだが金貨や金に価値を与えている、ということになる。
「ですが、人々はそこまで極端な未来を予想しません」
「ええ」
「いいですか。予想です。予想なんですよ。どんな取引であっても、金貨を介してのものである場合、それらはすべて『先物取引』ということになるのです。つまり、無意識のうちに、将来においても価値が持続すると信じているのです」
先物取引。怖い単語が出てきた。
先物というと、ひたすら詐欺のイメージがある。そういう商品を扱う会社から営業がやってきて「今年はトウモロコシが上がりますよ! 燃料需要で高騰が見込まれますから、ここは買いで」みたいなことを言われる。実際にそうなればいいが、うまくいかなかった場合は、投資資金が没収される。
株でも、それから各国の通貨でも。FXなんて恐ろしいモノもあったっけ。円とかドルが値上がりするか値下がりするかなんて、わかったものじゃないのに、どっちかになることを期待して、資金を担保に、資金以上の売買を予約するわけだ。で、しくじったら強制ロスカット。
じゃあ、銀行預金が一番安心なのか? でも、実はそんなこともなかったりする。
なぜなら、アイドゥスが言う通り、通貨を介したあらゆる取引は、先物だからだ。
タンス預金なんかは論外だが、銀行に預けておいたところで、物価上昇率が激しいと……つまりインフレが起きると、あっという間に過去の努力が無駄になる。世界恐慌の時の笑い話に、働き者の兄の貯金が紙切れになって、酔っ払いの弟の酒瓶が高く売れた、なんてものさえあったっけ。
彼が説明しようとしているのは、取引が実物の価値に基づくのでなく、それに対する『期待』によっている、という点なのだ。
「なのに、私達は金貨を信じているのです。何の役にも立たないのに。信用すら危ういというのに。滑稽ではありませんか」
「誰が考えたんでしょうね、これ」
「その由来もなかなか滑稽で……ここ、セリパシアで通貨が使われ始めたのは、知られている限りでは、龍神ギウナによるムーアン大崩壊以後のことらしいですが」
その前の超文明時代には、金貨なんか、なかったのだろうか。もしかしたら、電子通貨とか、魔法通貨とか、そんな形に残らないモノがあったのかもしれないが。
「少なくとも千五百年前、ティクロン共和国時代には、出回っていました。今とは少し大きさも形も異なっていましたが」
「そうなんですね」
「ですが、何しろ小さな都市国家が分立していた時代です。当時はアルディニアの鉱山との通商もなく、南方大陸のクース鉱山も未開発でした。それぞれの国が保有する金の量も限られていましたから、今みたいに純度の高い金貨なんて、とても作れません。よって千五百年前には、混ぜ物だらけの金貨が出回っていました。つまり、ただの金塊としての価値さえもないものが貨幣として出回っていたのです」
そこでアイドゥスは身を乗り出し、珍しく意地悪そうな顔をした。
「さて、また問題です……もともとこの国では、金貨は金貨というよりは、あるサービスを受けるための『引き換え券』でした。そのサービスとは、なんでしょう?」
はて?
なんだろう。足裏マッサージでもしてくれるんだろうか?
「牛と交換……いや、違うな」
「はい、不正解です」
「じゃあ、ちょっとわかりませんが……何かこう、人が手伝ってくれるとか?」
「惜しいです」
「働いてくれるお友達チケット」
「はい。どんな仕事をしてくれるチケットですか」
「戦争……うーん、それは違う。治安悪くなるし、個人的に兵士を雇うとかではない……」
悩む俺を見て、彼はニヤニヤしている。
「ヒントを差し上げます。ファルス様もよくご存知のアレでございます」
「よく知ってる? 僕が? なんですか、それは」
「おお、ひどい方です。仮にもセリパス教の聖職者に、不潔な言葉を言わせるおつもりですか」
ブッ、と噴き出した。
「まさか!」
「そのまさかでございます。はい、娼婦ですね」
ウソだろ?
セリパシアでこんなネタを話題にするとは思わなかった。
ってか、結局自分で言ってるし。
「あの時代は、小さな都市国家同士で小競り合いが繰り返されていました。だから、略奪も頻繁にありました。その際、女性を戦利品として持ち帰るわけですが、それは勝った側のお話です。戦いには、勝利も敗北もありますから、自分の妻を奪われる男も少なくはありませんでした。一方で、他所から新しい女性を手に入れることもできたのです」
「野蛮な世界ですね」
「問題はそこからです。食料や家畜は分配することができました。では、女性は? 強い人が独り占めすることもあったようですが、やはりそれでは恨みを買います。だから、共同体の安心のためにも、これまた共有されることになりました」
それは合理的な取り決めだ。
考えてみればわかる。一部の強者だけが女を独占する都市国家。戦争になったら、どうなる? 末端の兵士には守るものもないし、自分の属する社会にありがたみも感じていない。いざとなったら逃げたり、裏切ったりするかもしれない。
そうなるくらいなら、いっそ女性を共有したほうがいい。但し、まったく平等とはいくまい。戦場での活躍に応じて、共同体への貢献度の高さによって、与えられる比率が変わる。これなら、みんな納得して努力するようになる。
だから、チケット制が成り立つ。問題は、どうやってそのシステムを運用するか、だ。
「当時、金はずっと希少でした。だから黄金でチケットを作れば、偽造が難しくなります。これで不当に娼婦を侍らせる男はいなくなりました。ちょうど今、聖女の廟堂がある場所に、ティクロン時代の神殿がありまして、そこで娼婦達が春を鬻いでいたそうです」
ひどい。ひどすぎる。
世界でもっとも性的に清らかであるはずの場所。実は昔のソープランドの跡地でした、なんて。
「まぁ、ヴェイグが街を占拠した際、みんな追い出されたのですけれども。ただ、その後どうなったのでしょうね?」
「と言いますと」
「そこにいた娼婦達を処刑した、とは一言も書いてないのですよ。淫らな罪に耽っていた女達なのに、ですよ? 案外、配下の兵士達に分配したのかもしれません。ああ、そういえば、史書のどこを調べても、ヴェイグの妻の名前も見当たりませんね。いつ結婚したかもわからないのです。ひょっとすると……」
うわぁ。言いやがった。
セリパシア神聖帝国の祖はサース帝だが、彼はヴェイグの娘と結婚した。しかし、娘ということは母がいるはずで、しかしその母は身元不明、そしてヴェイグの結婚についての記述がない……要するに……
帝国はサノバビッチな血統によって成立しました、と。クソミソだ。
「あの、これ」
「いやぁ、ははは……普通の授業でこんなこと、言えるわけありませんよ」
「で、ですよね」
軽く引いている俺に構わず、彼は講義を続けた。
「さて、話を戻すと、ティクロン時代から売春チケットはあったのです。しかし、それは帝国初期には既に通貨でした」
「なんでそうなったんでしょうか」
「簡単です。ファルス様が、神殿にいる、とある娼婦に首っ丈になっていたとして。でも、手元にチケットはもうない。でも会いたい……どうなさいますか?」
「それは……」
取引。これしかない。
「そうですね。まさか、同じ街の仲間を襲って奪うわけにはいきません。だから、普通は自分の財産を差し出して、チケットをもらうはずです」
「ですね」
「そうなると、モノとチケットの交換が成り立ちます。みんながみんな、そうやって融通しあうようになっていったら、どうなるでしょうか」
エロチケットは、いつしかエロコインになった。
そして……
「帝国時代になってからは、もちろん神殿に娼婦なんていなくなりましたが、金貨を交換し合う習慣は残りました。それはそうです。神殿娼婦を買わない人々にとってさえ、それは価値があったからです。なぜなら、チケットを欲しがる人に売ることで、別の何かを買うことができた……誰かが欲しがるだろうと信じていたのですから」
誰かが必要としているに「違いない」という信頼。
それが、最初の小さなきっかけで動き出した。さながら大きく重い車輪が回りだすかのように。
「だから、今日の金貨には、かつての機能、本来の意味など、当の昔に失われてしまっているのです。これは無価値です。もうティクロン共和国は娼婦を提供してはくれません。なのに、人々はまだこれを信じています。そして、信じていること、それ自体が価値を生み出しているのです」
回り始めた車輪は、それを押す人がいなくなっても回り続ける。回るがゆえに回るのだ。
これが機能しなくなると、つまり失速すると……通貨の価値が暴落する。信用不安、そしてインフレだ。滅多にないが、車輪が完全に止まると、それが通貨の死となる。誰も取引に使わなくなるということだ。
要するにこれが……彼の言う『信頼』の価値でもある、ということか。
確かにそうだ。なぜ宗教が信者を増やそうとするのか。増えれば増えるほど、通貨のように通用する先が確保される。逆に、信者が減れば宗教の持つ信頼の力は発揮されない。だからどんな宗教でも、棄教は最大の罪とされる。信頼を裏切ってはならないのだ。
「信仰もまた、同じです」
人差し指を立てながら。彼は続けた。
「考えてもみてください。果たして、正義の女神モーン・ナーは実在するのでしょうか? それは聖典に語られているような、全知全能のような存在だったのでしょうか? もしそうなら、どうして今、私が見舞われているような不正、不幸を見過ごすのでしょうか?」
「では、アイドゥス様は、女神などいないと」
「いないかもしれません。いなくても不思議ではありません。いても、人々が信じているようなものではないのでしょう」
セリパス教的には、この発言だけでアウトだ。
明日、火刑だからって、言いたい放題にもほどがある。
「なのに信じるんですか」
「はい。信じること、それそのものが価値を持つからです」
人差し指に続いて、中指まで突き立てて、彼は話を続けた。
「私は今、金貨の恐ろしい面、汚らわしい部分についてお話しましたが、もちろん、良い点もあるのです」
「はい」
「まず、取引を公正にする、という働きです」
これはなんとなくわかる。
まず、端数が出ない。例えば、鉄の鍬の価値は、牛一頭の四分の三だとする。しかし、そうなるとどうやって交換したらいいのか。何かオマケをつけるのか。食べるためであれば、牛の肉のうち、四分の一を受け取らなければ済むのだが、農耕用となればそれも不可能だ。そういう不都合を、金貨は解消してくれる。余計な『貸し借り』を覚えておかなくても済むのだ。
また、価値の保存という機能があるので、取引に時間差があっても、埋め合わせてくれる。常に同時の売買をしなくてもよくなる。
しかも、まだある。
「単一の基準で取引をする……これも、信仰に似ていますね」
そういうことだ。
いろんな取引ではなく、人々は通貨や信仰を通して、たった一つの取引をする。セリパス教なら、モーン・ナーとだけ契約すればよい。
そしてそれは、公平性、即ち正義を保証する。なるほど、モーン・ナーは誰とでも同じ基準で契約をするのだから、必然的にそうなるわけだ。
「まだあります。匿名での協力を可能にします」
「匿名?」
「仮にあなたが商売を始めるとしましょう。南方大陸への交易船を仕立てるために、資金を募ります。すると、利益を求める人々が、あなたに投資します」
「ええ」
「その方々は、あなたのことをよく知らないかもしれないし、特に友人というわけでもありません。それでも、共通の目的のために力を貸してくれるのです」
なるほど、わかった。
信仰もまた、そうだ。同じ神を信じる。同じ教義に従う。なら、セリパス教徒というだけで、共通の目的に向かって、共通の基準でもって行動できる。
どこの誰かという点をいちいち調べ尽くさなくても。効率的に助け合うことができるのだ。
「かくして、世界は平和に保たれるのです。これで平和と言ってしまっていいのかわかりませんが……少なくとも、金貨や信仰がないよりは、ずっと過ごしやすい世の中になっているはずです。ゆえに、聖職者は信仰という一つの社会の基盤を維持するために働かねばなりません。たとえ危険を伴っても、です」
彼が既に述べたように、兵士と同じだ。
兵士は、国境に立って外国の軍隊から国民を守る。無論、兵士の命が民衆のそれより軽いわけではない。それでもやらねばならないから、彼らはあえて最前線に立っている。
僧侶も、まったく違った戦場ではあるが、最前線に立たねばならない。彼らが清く正しくあることで、社会には公平性と、それに付随する精神的なインフラがもたらされる。時に宗教的な活動は、死すら招くような危険にも直面するが、それでも怯んではならない。兵士と同じく、どんな犠牲によっても、決して退いてはならないのだ。
「ファルス様からすれば、セリパス教は意味不明な、やたらと厳しいだけの宗教かもしれません。ただ、これを必要とする人々はいるのです。例えば、性的に厳しい制約がある一方で、必ず一夫一婦制です。性を自由化しない、ということ自体が、様々な効果をもたらしているのです」
「それは、どんな?」
「まず、必ず相手が得られる、ということです」
フォレスティアみたいに、一人の有力者に無数の妾がいる、という状況にならない。
では、権力面で平等なら……男女同権で、かつ権力の偏在がなければ、同じように一夫一婦制が保たれるかというと、それは違う。早い話が、帝都だ。差別をなくすと、差別が生まれる。
「また、相手が互いに一人しかいないがゆえに、必ずその人と取引をするしかありません。利害関係といってしまえば潤いもありませんが、それが絆を強めることはあるはずです」
これも、恋愛と離婚の自由のある帝都とは正反対だ。これに対し、セリパス教徒にとって配偶者とは、世界で唯一のパートナーなのだ。窮屈ではあろうが、確かにそれが力になる面はある。
「しかし、その分、不自由ではありませんか?」
「おっしゃる通り、何もかもが自由な帝都の文化とは、正反対です。あちらではすべてが個人の意志と契約で決まります。しかし、それゆえに、衝突もまた多いのです。それがいけないわけではありませんし、もちろん世界にとって必要な価値観ではありますが……それとは逆の方面から世界を支える、もう一つの文化が必要だと、私は考えます」
確かに、自由が進んだ統一時代は、一度破綻している。
誰もが自分なりに考え、哲学を持ち、常にあらゆることに自ら判断を下して生きていく……それは理想的であると同時に、あまりに困難なのだ。不便と言い換えてもいい。
あらかじめ道があることが、生きる上で大きな助けになる場合がある。
「それに、これは人間の本来の生き方でもあったはずなのです」
「本来の? どうしてそうなるんですか」
「ではお伺いします。お金が作り出される前、人々はどうやって暮らしていたのでしょう?」
原始的な村のイメージが心の中に浮かび上がる。
俺もみんなも、一緒に畑を耕す。助け合って暮らしている。
「助け合い? 僕もみんなも、一緒に働く村しか思いつきませんが」
「はい。では、ある日、ファルス様は病気になりました。さあ、どうなさいますか」
「それは、村のみんなが僕の代わりに働いてくれるはずです」
「では、翌日には別の誰かが倒れました。一方、ファルス様は元気になりました」
「僕が彼の代わりに頑張る。当たり前でしょう?」
「そう、当たり前です」
彼はニヤニヤしながら言った。
「おわかりですか? 金貨なんかないのに、ファルス様は今、取引をしていたのです」
「そんなつもりはないですよ。僕が困ったらみんなが助け、みんなが困ったら僕が助けている。それだけじゃないですか」
「いいえ。あなたは最初に債務を負い、次にそれを返したのです」
つまり、言葉の上での貸し、借りというやつだ。これで借りは返した、なんて言い回しもある。
言われてみればそうか。病気や怪我といった理由もないのに、ずっと働かない仲間がいたら、どうなる? そのうち村から追い出されるはずだ。
「この事実に気付くと、ファルス様、お金の種類は一つではないとわかります……金貨はお金のあり方のほんの一部で、実はもっと大きな流れが取引を形作っているのです」
「は、はい」
「まだおわかりになられませんか? では、仮にファルス様が帝都で自由な暮らしをしているとしまして。恋人ができたと致しましょう。その方と……そうですね、かの英雄が作らせた、あの『時の箱庭』で散歩をし、食事を楽しみ、最後には同衾までして」
つまり、わかりやすく言い換えるなら、現代日本で彼女とデートをしたとして……
「別れ際に、ファルス様は恋人に金貨を握らせます」
「は?」
……彼女とのデートのシメが諭吉? 一万円札?
「ありがとう、楽しかったよ、と」
「ちょ、ちょっと」
「どうなると思いますか」
考えたくない。
恋人は恋人だから恋人なのであって、それでお金なんか払ったら、まるで援助交際とかパパ活とか、なんかそういう関係みたいになってしまうじゃないか。
そんな真似をされたら、彼女はどうするだろう?
「……頬っぺたにモミジのマークがつきます」
「よくできました」
彼女からすれば、侮辱にも等しい振る舞いだ。
「あっ」
「ようやくおわかりですか」
「彼女への支払いは、金貨ではできない」
「その通りです」
逆に考えてみよう。風俗店に入って、サービスを受けて、さぁ帰ろうというところで、キャストが料金を請求する。そこで「君の愛に僕も愛を返すよ」と言ったらどうなるか。黒服が出てきて、俺を袋叩きにする。支払い手段を間違えてはならないのだ。
では、どうすればいい? この場合、恋人にはひたすら愛情という形で負債を返すしかない。
これが彼の言う「見えないお金」ということか。
「ティクロン共和国も、大きくなり始めたばかりの小さな共同体でした。娼婦が神殿にいたのはなぜでしょう? そもそもチケットで管理される前は、みんなの共有物だったからではないでしょうか。いいえ、もっと厳密には、娼婦が共有されていたというより、彼女らもまた、金貨を介さない貸し借りの中で、社会の一員として、その役目の一つとして娼婦の仕事をしていたと言った方がいいでしょう」
「そうか。最初に金貨を作って、その支払い手段として娼婦を置いたんじゃない。最初に娼婦がいて、その後で金貨ができた。最初は互いの信用だけで、利用を許可していた?」
「それが社会が大きくなってきて、ただの貸し借りや譲り合いだけでは成り立たなくなったから、匿名の誰かとやり取りできる手段が必要になった……それが金貨であり、法律です。ですがそれは、互いの信用という古来からの見えない貨幣を完全に代替するものではありませんでした」
「と言いますと?」
彼は首を振った。
「帝都の文化は、一度大失敗を経験しています。アルティが始めた諸国戦争がそれですが、その支持者は貧しい男達であり、彼らには妻子がいませんでした。失うものがない人々が、自暴自棄になって武器を取ったともいえます」
「そうですね」
「当時は、今の帝都と同じ、何もかもが自由な意志と契約によって成り立っていました。つまり、取引はお金に頼っていたのです。今話したような『見えないお金』の力が失われていた時代でした。しかしファルス様、よく考えてみてください。あなたが妻となる女性を探す時、どんな手段を用いますか? フォレスティアでは奴隷市場で適当なのを見繕う人もいますが、それでは不安ではありませんか?」
市場に並んでいる女性の奴隷。外見はわかる。年齢や名前も。犯罪奴隷なら、前科も。
だけど、本当のところはわからない。生活をともにできる相手かどうかを判断するには、絶対的に『信用』が足りない。
「では、代わりに私が友人知人の家を巡り歩いて、この人なら、という女性を見つけたとします。私からの紹介と、奴隷市場と、どちらがよろしいですか」
「言うまでもないでしょう」
彼は頷いた。
「結局のところ、例えばこの結婚という取引は、金貨に頼るには不向きな取引なのです。さっきの恋人との逢瀬の例を考えても、それは明らかですね。でも、それを見えない金貨でやり取りできなくなると、実物の金貨で取り扱うしかなくなるのです。ですが、それが不幸を招いてしまうのです」
思い当たるところがある。俺が死んだ頃の前世の日本でも、ちょうど未婚に少子化が急激に進んでいた。
男性の稼ぎが少ないから、女性の社会進出が進んだから。いろいろ理由はあったが、高度成長期前まであった共同体の消失も大きい。世話焼きおばさんがいなくなり、その真似事を結婚相談所が引き受けた。けれどもこちらには友人知人の縁がない。つまり、見えない通貨……信頼が枯渇した中での取引だったのだ。自然、互いに信用できない分、安全マージンを大きく取る。結果、条件ばかりが目に入って、なかなか決断できない。
では、結婚が減った代わりに何が増えた? 援助交際、つまり売春だ。言い換えると、結婚市場でダブついた性という商品を、市場経済に横流しした結果なのだ。
長引く不況と貧困のせい? それは半分事実だが、半分は嘘だ。なぜなら、バブル崩壊前後から、既に女子高生達の一部は援助交際で大金を稼いでいたからだ。貧乏でも裕福でも、やることはやっていたのだ。
俺が死ぬ直前くらいの時期には、若い男女は恋愛に興味を持たなくなりつつあった。だが、パパ活などの売春もどきは、ますます盛んになる一方だった。
もう一つ、若者の特徴を思い出す。友人同士の繋がりから弾き出されるのを異様に恐れるというのが、それだ。だが、なぜそんなに怖がるのか。怖がりながら、なぜしがみつくのか。
なんのことはない。どれもこれも、薄い繋がりしかない社会ゆえ、信頼という通貨が枯渇したがゆえの現象だったのではないか。
「こうしてみると、お金も信仰も、もともとは人の本質から出ているものだとわかります。人は助けられ、また助けて生きるものなのです。そうせずにはいられないのですよ」
そこでアイドゥスは、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「もっとも、お金はときに人を狂わせます。もともとは『たくさん頑張った』ことの証拠、信用だったはずなのに、なぜか欲望を満たすために暴走してしまうのですね。その辺は、昨今の教会も同じですが……まったくこんなところまで似なくてもいいのに、とは思いますが」
「だからこそ、見えないお金を機能させる必要がある、と」
「それが信仰であり、聖職者の正義です。犠牲を払うだけの価値があるとは思いませんか」
アイドゥスもまた、その正義に殉ずることを受け入れているのだ。
それは彼の生き方、価値観、信念なのだろう。
だが、理解はしても、なお釈然としなかった。
なぜなら、俺は……
「納得できません」
……俺の心臓には、黒い血の塊がある。
信仰の有無が問題なのではない。金貨があるかどうかでもない。その根幹にある秩序と信頼……
俺は、その「外」にいるのだ。
「ほとんどの人にとっては、それでいいのかもしれません。女神がいて、司祭がいて。手にした金貨を受け取ってもらえるし、逆に支払ってもらうこともできる。でも、そうじゃない人は? 世界の外に置かれた人は、どうすればいいのですか」
何かの弾みで、秩序の外に放り出される人がいる。
セリパス教では、そういう人達について、どう述べている? 触れるな、近寄るな、穢れるから。
別に、この宗教に限った話じゃない。人は自分の世界の外側に対しては、どこまでも冷淡になれる。
「他の僧侶達がどうするかはわかりません。私なら、いつでも、いつまでも手を差し伸べます」
「その手は取れません」
俺は、内面から滲み出る黒ずんだ怒りにせきたてられて、思わず立ち上がった。
「なぜでしょうか」
「この手は汚れているからです」
俺は呪われている。
この呪いを、お前はどうするつもりなのだ。
「父を殺し。母を殺し。それからも数え切れないくらい殺しました。悪かったなんて思ってない。みんな敵だった」
いいとか悪いとかではない。俺はたまたま、そう生まれついたのだ。
「手を伸ばすたび、誰かが血を流す。何度も、何度も。傷つけ、傷つけられて、結局居場所はなくなる。そのことに怯えて、また人間をやめる。逃げ出すしかない……こんな生き方しかできないのなら、どこにもいないほうがましだ!」
俺の問いに、彼はしばらく考えた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「やっと話してくれたのですね」
俺が不死を求める理由。
人の世の秩序の中にいたくないのだ。誰もいない虚無の世界で、永遠に眠りたい。それが俺の望みなのだ。
「普通なら」
深い吐息が漏れた。
前置きをして、まず一般論を述べることにしたらしい。
「次こそあなたの住処がありますよ、と言うのでしょうね」
そう、それが彼の言う信仰の限界だ。
だが、これはギャンブルだ。受け入れられる保証もないのに、そうなることを期待して一歩を踏み出す。その時、善人ぶった連中は「勇気を出して」なんてほざいたりする。だが、大抵結果には無頓着だ。
運よく居場所が見つかれば、そこで人間ゴッコに興じることができる。あとは死ぬまで、夢から覚めなければ御の字だ。だが、俺に限らず、なかなかそうはいかない。
「さっきまで説明していた信仰のことを、私は月の道と呼んでおります」
「月の道?」
「月は太陽に照らされて輝く……眩い太陽を直視できない人々でも、安心して見上げることのできるのが、夜空に輝く月です」
理解の追いつかない俺に、彼は言った。
「ファルス様、手っ取り早く立派な人を作るには、どうすればいいとおもいますか」
「そんな方法があるんですか」
「もちろんです。とても簡単ですよ」
彼の余裕の滲んだ表情に、かすかな皮肉が感じ取れた。
「どうするんです」
「借金をします。私が、ファルス様から」
俺は目を丸くした。
金を貸す? 借りる? それがどうした?
「お友達なら、貸して下さいますよね。私は大変困っているのです」
「まぁ……で、貸したらどうするんですか」
「もちろん、時間をかけてお金を貯めて、お返しします」
今の話に利子が含まれるかどうかは知らないが、基本的にはプラマイゼロ。何も生まれていない。
「その後、今度はファルス様が私に借金をするのです」
「それは、何かで入用になった時に?」
「ええ」
「そして、僕も働いて借金を返すと」
「はい。そうなさってください」
これまた同じ。
金貨百枚を借りて、返す。貸して、返してもらう。
「それを繰り返します。何度も、何度も」
「はぁ」
「二十年もすれば、私とあなたは立派な人です。ファルス様は友人の窮状を見捨てない男の中の男に、私は恩義に報いる誠実な人物に、それぞれ格上げされます」
「ま、まぁ、そういうことになりますか……でも、それに何の意味があるんです?」
「わかりませんか」
彼は笑みを深くした。
「くだらないことに、世の中の人は、意識せずにこれをしているだけなのです。大事に育てられた息子が年老いた親の世話をすると、孝行息子と呼ばれます。主君に保護してもらった騎士が次の戦で奮戦すれば、忠臣と称えられます。本人も、周りの人も、実は何も増えも減りもしていないことに気付いていません。ただ取引を重ねただけのこと。その程度のことで成長した、立派な人間になったなどと……片腹痛いと思いませんか」
「うっ」
さっきの廟堂の娼婦の話もそうだが、この元枢機卿……実は結構ドぎつい。
ほとんどの人が美談にするようなことを「くだらない」「片腹痛い」と切って捨てる。その容赦のなさときたら。
「ですが、これが月の道の効用なのです。月の光と同じように、ただ借り物の恩恵を与え合うだけで、なんとか幸せに生きていけてしまう。金貨と同じように、ただそうあると信じるだけで、なにより尊い愛が生まれ得る。けれども悲しいことに、世の中のほとんどの人は、この月の光がなければ、夜道を歩くことさえできないのです」
そして、だから彼は、月の光を守ろうとしている。
だが、それをくだらないとも言っている。ならば、別の道があるというのか。
「そのお顔でわかります。ええ、ありますよ。そしてこちらが……ファルス様の歩まれるべき道です」
「それはいったい……」
「私はこれを、太陽の道と呼んでおります」
はて。月が太陽の光を浴びて輝くというのなら、太陽はどうやって光るのか。
「それは何をするのですか。どうやって成長し、どんな風に愛し合うのですか」
「理屈は単純です。ただただ愛し、ただただ与えればよろしい」
俺は眉を寄せた。
「それは、誰を相手に」
「誰にでもです。いついかなる時、いかなる場所においても、一切の制限を設けずに、ひたすら愛し、ひたすら与える。それが太陽の道です」
「馬鹿な!」
そんなこと、できるわけがない。
「それじゃ、自殺と変わらないじゃないですか!」
「捨てるわけではありません。与えるのです」
「どうやって生きられるというんですか。手に入れる傍から手放して。よしんば生きられたとしても、それで精一杯ではないですか」
「それはそうですね。あってもなくても、本当に何もなくても、無からでも与える。そういうことですから」
デタラメもいいところだ。
まず、富がある。あるから、与えることができるのだ。なのに、何も持っていないのにまず与えよだなんて。
「そんなの、どうやってやるんですか」
「やればできます」
「無茶苦茶言わないでください」
「実を言うと、方法はいろいろございますが、理屈を上っ面で並べ立てても、きっとファルス様は納得などなさらないと思いますし、かえって勘違いをなさってもよくありません」
いきなり真っ暗闇に放り出すようなことを。
なんだか「尻尾を動かせ」って言われているみたいだ。
「それでどうやって幸せになれというんですか」
「さあ……ただ、私は明日、焼肉になりますが、今も幸せいっぱいでございます」
冗談じゃない。正気か? 道化か? 命懸けでふざけているのか?
「それで死んで、何になるというんですか」
「ファルス様、『コンソメ』ですよ」
だが、そうではない。
彼は真剣だ。そうする意味があると固く信じている。
「惜しむことは何もありません。私は、精一杯生きて、自分を無駄なく使い切るのですから……それに私がここから逃げ出せば、たとえここに私の遺体を置いて去ったとしても、犠牲は避けられません」
「何が起きるんですか」
「これも夢で見ています。たとえば私を売った娼婦達が、代わりに処刑されます。無論、それだけではないのですが」
「そんなのっ……」
馬鹿げている。
学識を積み重ね、世に尽くした僧侶が処刑される。それを裏切った女達が、今後彼より世の中の役に立つ見通しなどない。なのに。
「何度でも申し上げますが、僧侶は、自分のことを後回しにすべきです。命を比べるなど、あってはなりません。もし比べるなら、いつも自分が最後になるのです」
「だとしても」
俺は納得できなかった。
「ばかばかしい……あなたがどんなに賢くて、どんなに立派な人だったとしても。この死に様だけは、バカそのものだ」
「ふっ、ふふふ」
俺の罵声に、彼は含み笑いをした。
「何がおかしいんですか」
「いえ」
ちらりと俺の顔を覗き見ると、彼はほくそ笑んで言った。
「……なさいますよ?」
「は?」
「ファルス様も。私と同じように」
あまりのことに、意味を飲み込むのに時間がかかった。それから言葉を叩きつけた。
「あり得ない!」
すぐ冷静になって、付け加えた。
「いや、騙されてということなら、あるかもしれない」
「はい。ですが、そういう意味ではございません」
「愛する誰かのために、自分を犠牲にするとか……人質をとられてやむなくということなら」
「はい。それも考えられますが、そういうことではありません」
「いっそ、志半ばで無念に倒れるほうがまだあり得る」
「はい。そういう悲運も、ないとは言い切れません。ですが、それでもないのです」
彼は、俺を見て、はっきりと言った。
「あなたは、あなたを害そうとする者にさえ、愛を注がれます。そのために、自ら望んで何もかもを差し出します。いつかきっと、そうなさいます」
アイドゥスの声には、確信が込められていた。
そして俺には、返す言葉がなかった。
「……夢で見たんですか」
「いいえ」
彼は穏やかに微笑むばかりだ。
「見るまでもありません」
立ち尽くすしかなかった。
「不死を追求する旅……ですか」
彼は藁束に身を預けながら、呟くように言った。
「いろんな考え方もあるとは思いますが、私はよいことだと思います。ぜひ、続けていただければと」
「あなたは……否定しないんですか」
「どこまでも、納得できるまでなさるべきです。あなたが望まれる限り、それはあなたが行くべき道です。普通の人生とは比べものにならないほどの苦しみが待ち受けていることでしょう。けれども歩き通せば、そこには無上の輝きがあるはずです」
それで語るべきことはもう済んだとばかり、彼は長い息を吐いた。
「……もう時間がありません。本当に、ここから逃げないつもりですか?」
「はい。お気持ちだけ、ありがたくいただいておきます」
「そんな」
心の中にくすぶる怒りの火種。
また一つ、虚無の勝利を見過ごさなければならないのか。
「何も……できることはないんですか」
肩を落とし、俺は力なく尋ねた。
「いいえ、ございます」
顔をあげた。
「それは何ですか」
「見届けてください」
それは……明日の火刑のこと、だ。
見知った人が焼き殺される、無残な様子を見届けろと?
「お約束します。燃え盛る火の中で、私は最後に祈ります。だから、見届けてください」
「祈る? それが何の役に立つんですか」
「何の役にも立ちません。ですが、祈ります」
そんな。
そんなのって。
「私は、信じます」
「何を」
すると彼は立ち上がり、指を立てた。
「私を売った農婦達のことを」
もう一本。
「今は迷いに囚われているミディアさんのことを」
更にもう一本。
「あらゆる人を。女神の慈悲を」
そして、掌を開いた。
「そしてファルス様、あなたのこともです」
「そんな……やめてください!」
「最後に一つだけ。決して絶望なさらないでください。どんなことがあっても。なぜなら、絶望こそは誤謬だからです」
拳を握り締め、俺は顔を伏せる。
胸の中では、言葉にしがたい激情が荒れ狂っていた。
「私は、あなたを信じます。あなたもまた、信じてください。私では、あなたの道を遂げさせることはできません。ですが」
アイドゥスは、俺の肩に優しく手を置いた。
「せめてあなたの道を照らす星屑の輝きになりますように」
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