教導者の信頼

 崩れかけた石畳。背後には、かすかな月明かりに照らされた狭い廊下が見える。そこから道を折れ曲がって、今から下り階段に足をかけるところだ。気をつけないと、ひどいことになる。普通ならランタンを片手に歩く通路。しかし、俺はここにいないはずの人間だから、そんなものを持たせてはもらえなかった。

 壁に手をつき、一歩ずつ確かめながら下りていく。階段の造りも相当雑で、下り方向に向かって変な傾斜がついている。或いは、長年のうちに磨り減った結果だろうか。やがて、足場が平坦になった。ようやく安心だ。

 暗い通路の向こうに、朧な光の筋が見える。あそこだ。


 懐から鍵を取り出す。金属の擦れ合う音が、この狭い通路では、やけに響いてしまう。


「アイドゥス様」


 鉄格子の合間から見えたのは、貧相な部屋だった。

 ベッドの代わりに、古くなった藁束がいくつか転がされている。床の高さは廊下と変わらず、天井は高かった。だいたい二階建て相当の高さで、その上階部分、鉄格子の反対側に小さな窓が一つだけ口をあけている。あれでは開閉できないから、雨や雪を遮ることもできない。

 その部屋の真ん中で、アイドゥスは粗末な灰色の僧衣だけを身に纏って、背筋を伸ばして床に座っていた。


 俺に気付くと、彼は笑顔で振り返った。


「やぁ、こんばんは」


 やはり、いつも通りの穏やかな笑み。彼らしい。

 しかし、この落ち着きはどこからきているのか。俺が今夜、ここまでやってくることも、もしかしたら織り込み済みなのかもしれない。


「今、鍵を開けます」

「はい」


 逃げ出そうと身構えるでもなく。彼は座ったままだった。

 俺も急がない。どの道、彼をこのままの格好で外に出すのは不可能だ。いくら賄賂を支払ったからって。


 鉄格子の扉を開き、そこを潜って中に入る。


「ようこそおいでくださいました」


 ここをどこだと思っているのだろう。一瞬、そんな感想を抱いた。


「ようこそではないです。何をやっているんですか」

「何を……ご覧の通りです。閉じ込められています」


 まったくその通り。でも、そういうことじゃない。


「聞きましたよ。罪を全面的に認めたと」

「いえ? 罪は認めていません」

「はい?」

「貧しい隠れ娼婦達に薬を与えたり、治療を施したことは認めました。ただ、それを罪悪であるとは認めていないだけです」


 いや、何を言っているんだ。


「同じことです。わかっているんですか。死刑になるんですよ」

「もちろん、承知しております。明日の午前中に、丸焼きになるらしいですね」


 彼はあくまで平然としている。


「ふざけているんですか」

「大真面目ですよ」

「どうして自分に不利になるようなことを言ったんですか」

「あの状況で言い逃れなどできるとお思いですか」


 それは確かに……

 なにせ、たった一日で死刑まで決まってしまった。結論ありきだったのだ。


「いや、でも。あの時、逃げておけば……ほら、あの蜘蛛に使った魔法だってあったでしょう?」

「目くらまし……『万華鏡』ですね。普通の『閃光』と違って、あれは難しい分、使い勝手がよろしいです。同行者を巻き込む危険もなく、かけられた相手は、光が歪んで見えます……色や形、距離感がまったく狂ってしまうので、目に頼っている人は、積極的に動けなくなります」

「だったら、やればよかったじゃないですか!」


 彼は静かに首を振った。


「私やあなたはよくても、ソフィア様には耐えられません」

「あなたが何を想定しているかは知りませんけどね、僕にはアテがあったんです。真東に逃げれば、あなたも知らない、誰も知らない人々が暮らしている集落に辿り着けるんです。そこまで逃げ切れば」

「その途中で、ソフィア様が亡くなります」


 ハッとした。

 断言したということは……


「リント平原の冬は過酷ですから。朝、目覚めた時に、彼女が冷たくなっているのに気付くことでしょう」

「なら、連れて行かなければ」

「同じです。形は変わりますが、やはり近いうちに死ぬことになります」

「なぜ言い切れるんですか」


 彼は目を見開いて、静かに答えた。


「私は、たまに夢を見るのですよ」

「夢、ですか」

「未来のことが少しだけ、垣間見えるのです。何をしたらどうなるか……もちろん、変更可能な未来もあります」


 予知夢の神通力。それを秘密にもせず、彼はさらりと口にした。

 俺が黙っていると、彼は首を傾げた。


「驚いてらっしゃらない。疑ったりもなさらない。やはり、何かが見えているのですね、あなたには」

「そんなこと、今はどうでもいいでしょう」


 少しだけ恨めしい気持ちが顔を覗かせた。

 俺は、彼を問い詰めたくなったのだ。


「それより、どうしてくれるんですか」

「と言いますと」

「あなたは僕に協力すると言った」

「はい、申し上げました」

「これで、どうやって僕を廟堂に連れて行ってくれるというんですか」

「ふふふ」


 彼は静かに頭を下げた。


「申し訳ございません。こうなってしまっては、もはや私の力では」

「わざとらしい。あなたは薄々気付いていたはずだ。僕に廟堂への立ち入り許可を与えるなんて、できないと」

「はい。本当のことを申しますと、それはできないだろうと思っておりました」

「なら、どうして」

「ファルス様に協力する、というのは、本当だったからです」


 彼は右の眉毛を吊り上げながら、冗談めかして微笑んだ。


「理由ですよ」

「理由?」

「廟堂に立ち入る許可を掴み取ることはできません。不死を見つけることもできません。ですが、そのまた向こうにある本当の理由だけなら、私でも手が届くかもしれないと、そう考えました。だから、できることをしようと決めました」


 俺は腰を浮かしかけて、問い詰めた。


「な、何を言っているんですか。あなたは。僕はそんなこと、一言も説明なんてしていない!」

「ふふふ……ははは」


 だが、彼はさも愉快と言わんばかりに、笑い出してしまった。


「ファルス様、あなたは何しにここにいらしたのですか」

「なんですって」

「それはあなたの本心ではありませんよ。私の不誠実を詰りにきたのではない。あなたは……私を救いに来てくださったのでしょう?」


 それは、その通りだ。


「ええ、そうです、そうですよ。ただ」


 しかし、これには厳しい条件がついている。


「普通の方法では助けられないのです。言うまでもないですが、あなたを連れてここから出るなんてできない。でも、僕の言う通りにすれば、生き延びることはできます」


 彼は、穏やかな表情を浮かべたまま、じっと俺の説明を聞いている。


「但し。この方法を使うのは、僕にとっても大変なことなんです。大事な秘密を明かすことになる。これを知っているのは、この世界でも五人といない。もし、秘密を漏らすなら、それがどんなにまっとうな理由であっても、僕はあなたを殺します。でも、それだけじゃない」

「はい」

「今度こそ、あなたには動いてもらう。僕のために協力してもらう。だけど、あなたにとっても悪い話ではないはずです。あなたは僕に廟堂への立ち入り許可を与え、それからこの国の実権を握って、立て直すことができる……」

「お話はわかりました」


 まだ何も言っていないのに?

 ピアシング・ハンドの説明を聞く前に、彼はキッパリと言った。


「お断りします」


 迷いの見えない即答に、俺は一瞬、硬直した。


「な、な、何を」

「私が今更、権力などを求めるとお思いですか」

「いや、そういう問題ではないでしょう? 死ぬんですよ」


 だが、彼に戸惑いはなかった。


「ファルス様、お答えください。私があなたの目的に一切協力しないと言ったら、あなたはどうなさいますか?」

「えっ……」


 すると彼は、答えを待ち構えてニヤニヤしだした。


「そっ、それでも! いいでしょう、逃げ道は確保してある。この国なんか捨てて、どこか遠くで医者として生きればいいでしょう? なぜ生きようとしないんですか!」

「それが理由というものですよ、ファルス様」


 卵を殻ごと飲み込まされたような気分になった。

 彼はこの期に及んでも、まだ授業をしているのだ。


「理由を絞り込むべきである。前にそう申し上げましたね。やはりあなたは、私を助けに来たのです。廟堂に立ち入る手段、不死を得る方法とするためではなく」

「だ、だから! だからどうだっていうんですか!」

「それがあなたの本当の望みなのです」


 静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して。

 彼は言った。


「あなたは怒っていらっしゃる」

「ええ」

「表向きには、あなたの望みに応えようとしないこの国に。でも、本当は違います。貧しいままに搾取される人々、不自由を強いられる世の中、そしてそんな人々を救おうとした人間もまた断罪される……どこにでもありふれた苦しみ、愛のない世界……この現実に怒り狂っておいでなのです」


 俺は、何かに弾かれるようにして立ち上がった。


「わかっているなら、どうして動かないんですか。僕がせっかく、あなたに機会を与えようとしているのに。あの怪しげな聖典に書かれている正義なんかじゃない。あなたが。他ならぬあなたが正義を実現する、またとない機会が、ここにあるんですよ!」

「正義とは、なんでしょうか」


 座ったまま、俺を見上げて彼は尋ねた。


「お答えください」

「今、そんな議論をしている場合ですか」

「慌てて真実を取り違えては、元も子もありません」

「なら、さっさと答えますよ。それは公共の利益です。例えば、百人の人々が暮らす国があったとして。僕一人だけが大金持ちで、あとは貧乏だったらどうでしょう。使い切れない財産を独り占めするより、みんなのために使ったほうが効率的です。だから、分け与えることに意味がある」


 彼は頷いた。そして先を促す。


「人を殺すのは、正義に反します。なぜなら、誰もが自由に人を殺すようになったら、みんな安心して暮らせないからです。だから、逆に悪人を殺すのは、みんなの利益になるから正義に反しません。特に、人を殺して回るような悪人は」

「おっしゃる通りです」

「もういいでしょう」

「付け加えることがございます」


 しかし、彼はあくまで急ごうとしなかった。


「正義は立場によって、また役割によって異なる、ということです」

「それはそうでしょう。アルディニアと教国では利害が異なりますから」

「そういう大きなお話ではございません。もっと小さな、個人的なものです。例えば兵士の正義は、使命に従って戦い抜くことです。それが後ろにいる人々を守ることに繋がるからです。では、僧侶の正義とは、僧侶がそれをすることで守られる公益とは、なんでしょうか」


 考えもしていなかったところからの問いに、俺は身動きできなくなった。


「それは、悪を為さないということです。僧侶は、何かの技能で世に尽くすこともありますが、それが本来の存在意義ではありません。善をなし、善を勧めるのが僧侶です。ならば、どんな目的のためであっても、悪に手を染めてはならないのです」

「そっ、それは」

「ファルス様」


 ここで珍しく、彼は笑みを消した。その目には、いつになく凄みがある。


「具体的に、あなたはどうやって私を救い出すおつもりだったのですか」


 答えに窮したままの俺に、彼は鋭く言った。


「見慣れない景色が見えたのです。ある日の夢で、高いところからこの聖都を見下ろしているのが見えました。それから、白い僧衣に別人の手が、自分の手のように動くのを見ました。他にも、あのジェゴス枢機卿の立派な邸宅で、大勢のメイドに傅かれている夢も見ました」


 なんてことだ!

 ピアシング・ハンドの秘密こそ知られてはいない。だが、それを適用した結果については、既に見えてしまっていたのだ。


「あなたがそれをするのですね」

「なぜわかるんですか」

「あなたの姿だけが、夢でも見えなかったからです」


 そうか……!

 確かに、俺の姿は神通力では捉えられない。ジョイスの透視や読心などの能力も、俺が対象になると、ほとんど機能しなかった。

 しかし、その不自然さゆえに、ある程度の材料と思考力がある相手には、むしろ俺という存在が際立って見えてしまう。


「あの日、出産を助けるために居留地に向かう前にも夢を見ました。誰かと出会う夢です。ですが、その出会う相手の姿が、どうしても見えませんでした。こんなことは初めてです。何もかもが黒塗りで、そこだけ穴が開いていたのです」


 だからこそ、どんな出会いがあるのか、彼は身構えていたのだ。そこへ俺が現れた。

 最初から、異常な人物だと気付いていたのだ。


「夢は夢で、説明も何もありませんから、想像するしかないのですが……それでもわかることがあります」


 俺は息を飲んだ。


「ファルス様、あなたは私を救うために、誰かの命を、人生を奪おうとしておいでです」


 ようやく立ち直った俺は、言い募った。


「だからなんだっていうんですか。僕は、ちゃんと相手を選んだ。おっしゃる通りですよ、僕はあなたに代わりの体を用意した。犠牲になるのは、中年の僧侶です。でも、こいつは善人でもなんでもない。あなたは隠れ娼婦を治療したけど、こいつはこっそり巡礼の金を盗んで、それで娼婦達を買いに行くような下衆です」


 プレッサンごとき、犠牲にして何が悪い? アイドゥスを生かしておけば、今後とも大勢の人々に尽くすだろう。値打ちが全然違う。


「ジェゴスだってそうです。あんな不潔な男を生かしておいて、この国のためになるとでも思っているんですか。殺人は悪だと、それはそうですよ、僕も納得です。でも、ああいう極悪人を生かしておいたら、この国の人々はいつまでも搾取されるんですよ。なぜ躊躇するんですか」


 一息ついてから、彼は答えた。


「それでも、やってはなりません」

「なぜですか」

「私が仮に王であれば、おっしゃる通りにしました。王とは、それ自体が国体を為すものだからです。ゆえに、何が何でも生き延びなければなりません。また、私が兵士であれば、やはり逃げたかもしれません。兵士とは、命の軽重を比べて選び取る者です。他国の人の命を奪ってでも、自国の人の命を守るのが使命です。ゆえに、自身が生き残ることが、より多くの人命を救うことに繋がるなら、それは正義に反しません」

「では」

「ですが、私は僧侶です。医者でもあり、教育者でもありますが、それ以前に聖職者でもあるのです。神に仕える者は、その徳行によって正義を実現します。ゆえに、僧侶は目的によって手段を正当化してはなりません」


 俺は言葉を失った。

 すべてを弁えた上で、なおも彼は俺の申し出を断っている。命に代えても守り抜かねばならない信念がある。

 なんという苛烈さだろう。彼の表情は日向に生える樹木のようなのに、その内心は火のように、氷のように峻厳そのものなのだ。


「前に申し上げましたでしょう? 聖職者の特権は、ただ純粋に目的に向かって進むためにあるのだと。余計な荷物を持たず、ただただ行いを正し、善行をもって世の中に報いる。既にそういう目的を第一としているのですから、他の何物をもってしても、それらを正当な目的とすることはかなわないのです」


 僧侶は、信徒の布施によって生きている。この国では医療も僧侶の領分だが、別にそうした労働の対価で食っているわけではない。もしそうなら、ちゃんと「医師」と名乗るべきなのだ。

 ならば、僧侶は何をもってしてその存在を許されているのか。権利と義務とは、表裏一体だ。


 そして、こういう理屈に基づく限りにおいては、確かに彼らの頑迷さにも釣り合いがとれるのだ。

 前に俺が聖者の墓の見物を断った時、健康より信仰を優先すべきだと言われた。一般人なら許されることでも、聖職者であれば許されない。いついかなる時にも、どんな条件であっても、善行から外れてはならない。それは自分で敷いたレールなのだから。


「……なぜですか」


 俺は、力の入らない声で尋ねた。


「いったい、どうしてこんなことに」

「ああ」


 表情を和らげて、彼は説明した。


「……密告したのは、あの夜にいた娼婦達です」


 一瞬、俺は意味がわからずぼんやりしていた。理解が追いつくと、思わず吐き捨てていた。


「クソビッチどもが!」


 なんという。自分達の命綱になってくれていた闇医者を、背中から刺したのか。


「恐ろしくなったのでしょう。売春も犯罪ですが、彼女らを助けるのも犯罪です。ここで私を売れば、罪が許されるだけでなく、報奨金ももらえますから、無理して隠れ娼婦を続けなくてもよくなります。合理的ですね」

「なら、尚更、助けてやる義理なんか、なかったじゃないですか!」


 俺に見つかった、あの時のことだ。

 彼女らは、いつも気が気でなかった。俺は何もしなかったが、あれをきっかけに「いつ当局に摘発されるか、わからない」という気持ちになってしまったのだろう。

 しかし、そうすると、俺が軽はずみに散歩なんかしたから……


「ファルス様のせいでもございませんよ」


 俺の気持ちを先読みして、彼は言い添えた。


「これでよいのです」

「何がいいんですか。あなたは満足かもしれませんが、じゃあ、この国はどうなるんですか」


 すると、彼は笑顔で頷いた。


「ご安心ください。そのうちに、しかるべき人がその地位に就くことでしょう」

「それも夢で見たのですか」

「いいえ。ですが、わかるのです」


 釈然としないままの俺に、彼は言った。


「この国を正すのに、力でなすべきとは思いません。何事も積み重ねです。誰かが何かを述べた、主張した。その足跡を残すだけでも、決して無駄とは思いません」

「ですが。今、多少の無茶をやるだけで、距離が縮まるとは思わないのですか」

「あまり多くを期待なさらないでください。お忘れかもしれませんが、私もただの人間でしかないのです。できることもあれば、できないこともあります。それどころか、間違えることだってあるのです」


 彼の眼差しは、遥か彼方に向けられた。


「ファルス様は、聞いたところではティンティナブリアの農民の子だそうですが、私も大差ありませんでした」


 名前からして貴族ではないから、想像はついていた。それでいて乗馬のスキルがあれだけあった、ということは。


「この国の中西部の、まぁ、牧畜を生業とする家に生まれまして。だから、これといった教育を受けることもなく、ただの農民の息子として育ったのです。あの頃は、字の読み書きはもちろん、そもそも文字があることすら知りませんでした。ただ、毎日のように馬には乗っていましたが」


 目を細め、彼は過去を懐かしんでいた。


「このまま一生、村で生きるものだと思っていました。ですが、ある日、何もかもが変わってしまいました」

「何があったのですか?」

「疫病です。家畜はもちろん、人も次々と死んでいきました。私の両親や兄弟も、一人残らず」


 それは過酷な体験だったことだろう。そして幸か不幸か、アイドゥス少年は生き延びた。その後の日々の苦悩は、想像もつかない。


「あの出来事があってから、私は悩むようになりました。どうして人はこんなに苦しむのか、死んでいかねばならないのか。もっと役に立ってあげることはできないのか、と」

「司祭達は言いませんでしたか。女神の思し召しだとかって」

「もちろん、その言葉そのものを言われましたよ。でも、私は納得できなかったのです。教会の孤児院で育ちながら、私は毎日考え続けました。そんなある日の夜、いきなり奇妙な夢を見たのです。それは、近所の教会の司祭が、うっかり患者に用いる予定だった薬を置き忘れて出かけてしまうというものでした」


 神通力の覚醒、か。

 ここから彼の人生が変わり始めたのだ。


「それは現実になりました。ですが、私がそれを持って追いかけたので、大事には至りませんでした。ただ、私は興奮して……すぐに気をつけるようになりました」

「未来がわかる少年なんて知れたら」

「ええ。だから、用心深くこの力を使うことにしました。といっても、どうも自分で見る夢を選べるわけではないようで、だから余計なことを口走らないようにして、好ましい機会があれば逃さないようにすると、そういうことでしたが」


 あとは簡単だった。

 周囲の聖職者達に気に入られた少年は、出世街道を駆け上がる。


「既に十二歳で、二年遅れでしたが、地元の教会の推薦状をもらって、聖都の学院で学びました。私自身、勉学に励みましたが……これはもう、反則でしょう。試験前日の夜に、どんな問題が出題されるか、見えてしまうのですから、はは」


 そう言って、彼は白い歯を見せて笑った。


「十五歳になって、飛び級の首席で卒業しました。司祭位を得て、あちこちで医療に携わりました。今にして思えば、あの頃が一番充実していましたね」

「確かに、最初になさりたいと思っていたのは、苦しむ人々を救うことでしたね」

「ええ、ですから病人に寄り添えるのは喜びでした。ただ、自分の力不足で救えない方が大勢いらしたこともあり、だんだんと不満を感じるようになったのです。ですが、私に授けられた力は、それすら解決してくれました」


 とにかく、チャンスが見えて、そのためにどうすればいいかも教えてくれる神通力なのだ。ある意味、最強の能力とさえ言える。

 だから、異例の厚遇を手にすることもできたのだ。


「これは滅多にないことなのですが、優れた医学生として認められ、帝都に留学させてもらえることになったのです。しかも、それで終わりませんでした。ご存知ないとは思いますが、実は帝都の学院の奥には秘密の書庫がありまして、そこには失われた魔術の秘伝が遺されているのです。私はうまいことやって、治癒魔術の奥義をも学びました」


 こうして今のアイドゥスに備わる数々の能力が完成されていった。


「ですが、二十代半ばに帰国してからは、もうただの司祭では済みませんでした。一流の学識と医術の腕を誇る、若き俊英。随分ともてはやされたものです。次第に現場で患者と向き合うことは少なくなり、教会内での位階も上がっていきました。五年後には緋色の僧衣をいただいて、枢機卿にも抜擢されました」


 まさに異例の出世だった。

 それをいったらミディアだってそうだが、あれはジェゴスの後押しがあったからだ。一方のアイドゥスは、幸運と神通力のおかげとはいえ、自分の力で勝ち取った。


「何をすれば望みがかなうのか。前もって大抵のことがわかってしまうのです。私も得意の絶頂でした。枢機卿になって数年、次の教皇はアイドゥスで決まりだと、周囲の人はみんなそう思っていました」

「でも確か、トゥリルという方が、教皇になったんですよね」

「ええ。でも、はっきり言うと、彼は二番手でした。私よりも十も年上で、味方も少なく、そのままいけば、私に勝てる道理はなかったのです」

「では、どうして?」


 少し俯き、彼は喜びを噛み締めるようにして、言った。


「夢を見たのです」

「夢? 予知ですか?」

「はい」


 閉じていた目を開いて、彼はこの上ない幸せでもあるかのように、そのことを語った。


「聖都の近郊の、小さな村で。ただの農民が病気で死にかけている。そういう夢でした」


 神通力ゆえに栄光を手にし、ために権力争いに奔走していた当時のアイドゥス。

 その彼の目を覚まさせたのもまた、予知の力だったのだ。


「そしてその日は、新教皇選出がかかった聖教会議の日でした。朝一番に廟堂の広間に出向かなくては、間に合いません。私は迷いました。何度も心に蓋をして、これは仕方がないのだ、私が教皇になれば、この国はもっとよくなるのだ、そう言い訳をして……」


 そして、おかしくてならない、というように、彼は笑った。


「……気がついたら、馬に乗って聖都の外に駆け出していました。おかしいでしょう?」


 ひとしきり笑ってから、彼は続けた。


「いいことも悪いこともありました。トゥリルは、私を認めてくれていました。おかげで枢機卿の地位に留まることができ、この国の悪弊をいくらか正すこともできました。寄進という名の税金も減額し、聖典による生活の制限も緩和して、人々が笑って暮らせるように、尽力することもできました」

「悪かったことは?」

「敵ができたことです。私を後押しして、その見返りに恩恵を得たいと思っていたゲパティ伯爵家を中心として、旧貴族や高位聖職者達の恨みを買ってしまいました。それはそうです。彼らからすれば、私は裏切り者でした。自分達の権益を削って、農民達に還元しているのですから」


 その状況で、トゥリル教皇が急逝した。


「だから、三年後に教皇が亡くなり、次の候補をとなった時に、私の名前はありませんでした。ゼニット師が選ばれ、私はかろうじて枢機卿としては再任されたものの、実権はすべて奪われました」

「そこから、今みたいになってしまったのですか」

「いきなりではありません。徐々にですが、搾取がひどくなっていったのです。ですが、私もできることをしようと思っていました」


 それが、後進の指導だった。


「優秀な弟子を育て、彼らに未来を託す。能力だけあっても仕方がありません。それは私の若い頃の過ちを繰り返すことになりますから、現場の行いでもって、人に尽くす喜びを知っていただく。ファルス様にも二回ほどお付き合いいただきましたが、実はあの活動は、聖都の周辺だけではなく、今では各地に広がっているのです。僧侶は、あらゆる人の下に身を置いて仕えるべき存在ですから、自らの原点を忘れないようにと、大勢の若者に参加していただいているのです」

「でも、それは……」

「そうですね」


 彼は頷いた。


「それが私の寿命を縮めたのでしょう。傍から見れば、アイドゥスは若者を集めて自分の思想を吹き込む危険分子です。権力争いで一度負けていますから、そこから巻き返すために若いのを言いくるめて、味方につけているのだと。だからジェゴス派にも警戒されていたのです」

「それがあっての、この死刑ですか」

「ええ」


 よくわかった。

 彼もまた、回り道をした人間だった。すべてのことは、起きるべくして起きたのだ。


「もういいのではないですか」


 だとしても。

 アイドゥスは充分、この国にも、世の中にも尽くしたではないか。この上、なぜわざわざ焼かれて死ななくてはならないのか。


「お話はわかりました。でも、だからといって、どうしてこのまま死んでいかなくてはならないのですか。セリパス教がどうあれ、今の教会は腐敗しきっています。そんなもののために、どうして志ある人間が殺されなくてはいけないのですか」

「よい質問です」


 我が意を得たり、と彼は力強く頷いた。


「信仰を保つためです」


 結局は宗教か。いや、盲信か。

 そう思って落胆しかけた俺に、彼は補足した。


「正しくは、信頼ですか。宗教というものは、信頼のひとつのありようです。私はそれを守りたいと思っているからです」

「どういうことですか」

「これは大切なことです……つまり『この世界にあるものは、すべて価値がある』『この世界で起きることには、すべて意味がある』……そう感じられるようにする、その信頼を保つ一つの手段が信仰なのです。だから守るのです」


 俺が首を傾げていると、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「よくわかりません。この世界で起きることには意味がある、というのは、いい意味がある、ということですよね。では、人が死ぬことにも意味がある、と」

「その通りです」

「あなたのご家族が疫病で亡くなったことにも、意味がある」

「ええ、そうです」

「そんなわけないじゃないですか。たまたま疫病が流行して、運悪く亡くなった。それが現実ですよ。意味なんてどこにあるんですか」


 すると彼は、笑みをますます深くした。


「その通りですよ、ファルス様。現実は残酷です。意味なんてありません」

「じゃあ、意味があるというのは嘘じゃないですか」

「そうでもあり、そうでもないのです」


 彼の目は、謎かけを楽しむ少年のそれだった。

 ワクワクが止まらない。そんな風に見える。


「ではファルス様……いささか窮屈な場所ではございますが、元枢機卿にして元学院長、今はただの囚人であるこの私、アイドゥスの最終講義を、こちらで始めさせていただきましょう」

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