第二十三章 魔宮モー
黒の歓迎
滑る。滑り落ちる。床に、壁に触れる手に痛みを感じて、反射的に離す。
止まらない!
一切の光源のない暗いチューブの中を、滑り続ける。長いようでもあり、あっという間でもあった。
ふっ、と抵抗がなくなる。
空中に放り出されたのだ。
あっ、と思う間もなく、すぐ下に叩きつけられた。
その瞬間は、肌が弾かれる感触に、熱のようなものさえ感じた。
その反発は、一瞬だった。
破裂音のようなものが聞こえたかと思うと、すぐに息ができなくなった。手も、足も、つくところがない。これは……
……水?
当たり前だが、かなりの冷たさだ。早くも指先がずんと痺れてきた気がする。
さっきまでの興奮が、容赦ない冷水の責め苦によって、すぐさま冷まされた。代わって思考を埋め尽くしたのは、困惑と恐怖だ。
ここは、どこだ?
水? 深さは? どちらが上?
息が……
……沈む!
暴れだしたくなる衝動を抑えて、俺は体の力をあえて抜いた。
剣など、水に沈む重さのものを身につけてはいる。ただ、金属製の鎧を着ているわけでなし、そうそう簡単に沈んだりはしない。でも、大量の金貨も背負い袋にあるか。いざとなったら、どれもこれも捨てるだけ。
それより、どちらが上か……
トン、と足の裏に触れる床。
水の底に辿り着いてしまった。やはり金貨が重すぎるのだ。仕方がない。とはいえ、さほどの深さでもないはずだ。
息苦しくなりながらも、俺はなるべく気持ちを落ち着けて、背中の荷物を下ろした。あとで回収する。もう一度この冷たい水の中に入るのは、さぞつらかろうが。
旅の外套も脱ぎ捨て、剣とポーチだけを身につけて、俺はゆっくりと浮上した。
「プハッ」
苦しかった。
「ハーッ、ハーッ……」
息ができるだけでもありがたい。
ただ、こうしているうちにも、手足がどんどん痺れてくる。耳も痛い。水温はどれくらいだろうか。春先の十五度前後の水でも、慣れていない人が泳いだりすると、かなり消耗する。まして、今は冬だ。ここは地下だから、地上ほどには寒くないとしても。
パシャパシャと水しぶきをあげながら、俺はどこへともなく泳ぎだす。このプール、深さはそれほどでもなかった。しかし、幅は? 水面から顔を出しても、やっぱり光源がない。火魔術で光を生み出そうにも、全身ずぶ濡れのままでは、かなり難しい。とにかく地面を見つけなくては。
幸い、すぐにプールサイドの壁に手がついた。
よかった。ツイてる。
どれくらい滑り落ちたのかは、はっきりしない。真下に落ちたのではなく、背中のリュックをこすりながら斜めに滑っていただけだ。それでもかなりの距離だった。もし、落とされた先にこういうプールがなかったら……
全身、冷たい水に凍えて強張ってはいるが、他に痛みらしい痛みもない。怪我もしていないらしい。
とりあえず、ここからあがって、荷物を回収、そして体を暖めて……
手がかかる場所があったので、そこから体を引っ張り上げる。
ビチャビチャと水を散らしながら、俺は身を起こした。
その時、ゾッとする何かを感じた。
考えるより先に、剣を引き抜いていた。
パシッ、と軽い感触が柄を握る右手に走る。
……なんだ? 今のは?
中空に振り下ろした剣に、何かが触れた。
もう一度横に振っても、何もない。
すぐ後ろからも、気配が。
不安に駆られて振り返り、滅茶苦茶に剣を振り回す。
「キィ」
何かの声!?
なんだ、ここには何かが……いる?
寒がっている場合じゃない。
確認しないと。
剣を左手に持ち替え、詠唱を始める。
右手はまだ濡れているが、構ってなどいられない。
暗い赤色に染まった右手だけが、真っ暗な中に浮かび上がる。それがジュッ、と音をたて、黒ずんでいく。
手についた水滴が、火魔術の発動を阻害しているのだ。それでも、何度でも何度でも詠唱を重ねる。
突如、ボッ、と赤い炎が大きく燃え上がる。
それが周囲の状況を照らし出した。
「うっ……ひぎぁっ」
絶叫しそうになって、慌ててそれを抑える。
青白い壁、高い天井が、オレンジ色の光を照り返している。だが、足下には。
白い床がほとんど見えない。すぐ右手には黒々としたプールが波打っている。それ以外の場所には、みっしりと黒く平べったいものが集まり、這いつくばっていた。そいつらは細長い触覚を左右に揺らし、じりじりと近寄ってくる。
ゴキブリだ。それも、超特大の。
ざっと目測で、五、六十センチはある。
さっき、剣の先に触れたのは。跳び上がって襲いかかってきた、こいつらだったのだ。切り払われて、仰向けになったのが二匹ほど。だが、一匹は完全に断ち切られていないせいか、まだピクピクと脚と触覚を動かしている。
なんという悪夢。
大きさが大きさなだけに、より一層グロテスクに見えた。
しかし、燃え上がる右腕を前にしても、この巨大ゴキブリ達に負の走光性はないらしく、逃げ去る様子はない。
どうする?
いろんなことが意識の中で声をあげた。
このまま火を点していていいのか? かえってゴキブリどもの目印になるのでは?
戦う物音が、更なる敵を呼び寄せたりは?
早く体を暖めないと……
いや、先にこいつらを排除しなければ。
一歩の距離をおいて密集したゴキブリども。そこに殺到して、折り重なってさえいる。これは……
突然、その山が崩れて迫ってきた。
「うおっ!?」
よろめきながらも、下から切り払う。二、三匹が身を仰け反らせて弾け飛ぶ。さほどの重さも固さもない。だが、その程度では彼らの攻撃衝動……いや。食欲を止めるなど、できるはずもなかった。
「くっ!」
濡れた袖を、左右に咥えこむ顎。振り払おうにも、存外に力が強い。腕にぶら下がる格好で、ゴキブリが腹をさらす。
それを見た他のゴキブリどもが、その場で羽を広げた。
力任せに左手を振るう。袖に食いついたゴキブリごと。
バシッ、と音がして、羽の破片がゆっくりと散らばる。
その時、背後から引っ張られる感じがした。
「うっ、わわっ」
赤熱した右手で払いのける。だが、それでも一度食いついたそいつは離れない。
仕方なしに、俺はその手をじっと頭に押し付けてやった。
「ギィッ」
そいつは動きを止めたが、それは俺の腰のベルトに喰らいついたままでのことだった。
これは、まずい。
こっちは体も冷えて、力も入らない状態なのに、ゴキブリどもはいくらでもいて、ほぼ全方向から飛びかかってくる。
一匹ずつなら、なんてことない。軽い一撃で吹き飛んでくれる。だが、こいつらには恐怖というものがないらしい。このままでは……
ちらりと脇の水面を見下ろした。
プールに飛び込めば、当面は助かる。こちら側を泳ぐゴキブリはいないし、肉体の構造から考えても、水中まで追いかけてきたりはしないだろう。だが、あの低い水温だ。攻撃手段もないまま、俺はじわじわと弱っていくばかり。
なら、解は……これしかない。
覚悟を決めて、大急ぎで詠唱を重ねる。その合間にも、黒い虫けらどもは、距離を詰めてくる。剣を振るい、脚で踏みつけ、威嚇しながら、時間を稼ぐ。
後ろを取られたらダメだ。急いで俺は、水際に立つ。左からは剣で、右のは燃える右手で。なんとか打ち払う。
……できた。
濡れていた右腕の袖口が、今は黒く焦げていた。暗い赤色だった右手が、今は白に近い黄色に輝いている。
かざした右手を、左から右へと、半円を描くように伸ばす。さながら火炎放射器のように、指先からオレンジ色の炎が噴き出した。俺を取り囲んでいた数十匹のゴキブリが、脂ぎった黒い体を燃え上がらせる。
「ギィギィ」
虫けらといえども、やはり熱いし、苦しいのだろう。いきなり、弾かれたように走り出す。俺から遠ざかろうとしているのだ。
その間に、触りたくもなかったが、俺は左腕に取り付いた一匹を引き剥がし、これまた右手で焼いてから、群れの中に投げ込んでやった。背中のも……ただ、こちらは無理に引っ張ったせいか、頭が千切れてしまっていたが。
やっと奴らと俺の間に空間ができた。
これで追い払うことができれば……
ところが、やつらはそこに留まったままだった。
まだ俺を襲いたいのか、と思ってじっと見てみると。
別の獲物に飛びついていただけだった。それは、俺に殺された仲間の死体。いや、まだ死んでないのもいる。焼かれて走り回り、もがくあまりひっくり返って、脚をピクピクさせている。そいつに向かって、周りのゴキブリどもが殺到し、脚と言わず胴体と言わず、ところ構わず喰らいついているのだ。
「キィィー」
断末魔の悲鳴というには、あまりにか細い声が、死にかけのそいつから漏れた。だが、情なんてものを持ち合わせない虫けらどもは、猛然と頭を突っ込んで、さも嬉しそうに顎を左右に動かしていた。
なんて気色悪い。
気を取り直して、俺はまた詠唱を始めた。固まっているなら、チャンスだ。
少し物音が気になるが、まずは目の前のこいつらを始末しなくては。
今なら距離も空いている。
だから、もっと威力のある攻撃を選ぶことができた。右の掌の上に、赤い球体が浮かび上がる。
「ギッ」
歓喜の時間は、短い悲鳴を残して終わった。
炸裂音の後には、ところどころに散らばるゴキブリの脚や羽の他、何も残されてはいなかった。
僅かな生き残りはいたが、そいつらもさすがに危険を理解したらしく、そそくさと身を浮かせると、一目散に走り去っていった。
「……はぁ」
周囲に残されたのは、汚らしい残骸と、飛び散った灰色の体液のみ。それで俺は、ようやく安堵の息をついて腰を下ろした。
いきなりなんなんだ。
わけがわからない。
聖女の廟堂に忍び込み、隠された領域に立ち入った。そうしたら、そこを警備していた連中に追いかけられた。ここまではいい。
脇にある穴……俺が滑り落ちたあれは、いったい何のための管だったんだろう。とにかく、放り出された先は、冷水に満たされたプールだった。
すぐ下に広がる水面。こうして冷静になってから見渡してみると、さほどの奥行きもない。だいたい十五メートルほどか。その向こうには、暗闇の向こうにうっすらと青白い壁が顔を覗かせている。左右には長くて、たぶん三十メートル以上はある。深さは、よくわからない。ただ、浮上するのにそんなにかからなかったので、十メートルもあるなんてことはないはずだ。
そのプールの真上、天井の一角から、巨大なマカロニを思わせるチューブが突き出ている。色合いは銀色だ。その金属光沢を濁らせる錆など、どこにも見当たらない。いったい材質は何だろうか? どうあれ、俺はあそこから転げ落ちてきたのだ。
背後に目を向ける。プールサイドから向かいの壁まで、五メートルもない。右側は二十メートルもいかないくらいで行き止まりになっている。左側には、十メートルほど先に壁があり、そこに人が通れるほどの長方形の穴が開いている。
天井はかなり高い。三メートル、いや、四メートルはあるか。
ここは、どこだろう?
廟堂の地下。それはわかっている。問題は、どうして聖女の廟堂の地下に、こんな空間があるのか、だ。
しかし、それより重要なことがある。
どうすればここから出られるのか。
あのチューブを這い上がるのは、現実的ではない。中はかなり曲がりくねっていて、まるでジェットコースターだった。すべすべしていて、掴むところもない。それにきっと、かなり頑丈なのだろう。表面に傷をつけながら手がかりを作るようなことは、多分できない。
やってみなければわからないが、もし簡単に登れるというのなら、それこそここにいたゴキブリども、こいつらが真っ先に通り道にしていたはずだ。だいたいからして、あのチューブの口は、水面の上、一メートル以上の高さにある。取り付くのも一苦労だろう。
だが、出口は他にもあるはずだ。
ここはどう見ても人の手による建造物で、あの長方形の出口も、ちょうど人が出入りできるサイズになっている。歩いてここから出られるのでなければ、こんなものは必要ない。
なら、やることはシンプルだ。まずは歩き回って、更なる情報収集に努める。そして、なんとしてもここから脱出するのだ。
当面は……
またすぐ下のプールを見下ろした。
荷物を引き上げるのが先、か。
背負ったまま泳ぐのは無理だ。しかし、リュックの中にはロープがある。それをくくりつけておいて、ここまで戻ってから引っ張り上げればいい。
ただ、その前に。
無防備なまま、水中に潜る気にはなれなかったので、俺は予め、敵の姿を探しておくことにした。立ち上がり、左手で剣を構えたまま、右手を松明代わりに、そろそろと出入口に近付いていく。
物音は聞こえない。
それでも俺は、息を殺しながら、一歩を踏み出した。
目の前に広がっていたのは、立ち並ぶ円柱だった。その向こうには壁。左右を見渡すと、やはりすぐ壁があり、その合間に四角い廊下の入口が、ぽっかりと黒い口を開けていた。
辺りは、妙に威圧感のある冷たい空気に満たされていた。命あるもの一切の気配は、既に拭い去られていた。
俺は頭を振った。
なぜ廟堂の管理が教皇の専権事項なのか。
直感した。間違いない。この場所を見られたくなかったからだ。
では、では……
……生還者は、いるのだろうか?
それは考えてはいけないことだった。
違う、そうじゃない。本当はわかっているはずだ。もし、ここがどれほど危険で過酷な場所だったとしても。
俺は、ここに来るべくして来たのだ、と。
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