それでも月は翳る

「おぉーい……!」


 地平線の向こうから、農夫が一人、全力で駆けてくる。暗い藍色に染まりかけた、東の彼方から。


「助けてくれぇー……!」


 その場にいた僧侶達全員が、ハッと振り返る。


「どうしました!」

「毒、毒蜘蛛が、出た! 何人か噛まれて」


 ようやくキャンプ地に辿り着いた農夫は、膝に手をついて、肩で息をしながら、なんとかそれだけ言った。


 しかし毒蜘蛛?

 この寒い時期に? 普通の虫が活動できるような気温ではない気がするのだが。


「すぐ行きます」


 いつの間にか、アイドゥスは、愛馬の手綱を取っていた。今にも駆け出そうとしている。しかし、彼は魔術こそ使えるものの、戦士ではない。村人達もそうだろう。


「僕も行きます!」


 一瞬、考えたアイドゥスだが、頷くと、俺の手をとって、馬の背に乗せた。続いて彼自身もすぐ後ろに跨ると、すぐさま踵で馬の腹を蹴った。


「……蜘蛛ってどういうことですか?」


 俺は、馬上で尋ねた。

 さすがに緊急事態とあって、彼の顔も強張っている。


「この時期、本当にごく珍しいのですが、たまに地中から這い出てくることがあります」

「寒くて動けないのでは」

「さぁ、そこは、魔物ですから。大沼沢のムーアスパイダーの亜種らしいですが」


 行き先には見当がついているらしく、彼は迷いなく馬を走らせている。農夫が駆けてきた方角で、村のある場所がわかるのだろう。


「知識がないのですが、そんなに危険ですか」

「毒があります。噛まれた人は、理性を失って暴れだすことがあります。ですが、実際には神経を蝕まれていますので、そのままですと衰弱して死んでしまいます」


 それは怖い。

 精神や神経に作用する毒か。或いは一種の魔法なのかもしれない。しかし、そうなると犠牲者が一人増えるたびに厄介ごとも加速度的に増えていくわけだ。


「ということは」

「蜘蛛は何とかします。治療の時、もしできれば患者を押さえ込むのを手伝ってください。毒を処置するのに、どうしても時間がかかるのですが、暴れられると手の施しようがなくなります」


 なんと、魔物は一人で片付けるつもりだったらしい。しかし、そちらでも手間を省いてやれそうだ。


 程なく、視界の向こうに小さな集落が見えてきた。みすぼらしい平屋が十軒程度、散らばっているだけの村だ。

 だが、少し離れたところからでも、その混乱ぶりは明らかだった。女の悲鳴が小さく響き、扉や窓を叩き割る音が聞こえる。二人の男が、手に斧や鍬を持って、暴れているのだ。そして数人の男が、農具や棒切れを持って、魔物を取り囲んでいる。


 肝心の魔物は、やはり蜘蛛だった。体長およそ二メートルほど、但しこれは脚の長さも含めてのことなので、胴体はもっと小さい。

 白い体にところどころ、灰色の斑点が混じっている。その色合いに、言葉にできない本能的な嫌悪感をおぼえた。

 今は身を伏せ、いつでも飛びかかれるよう身構えている。威嚇らしい振る舞いさえしていないので、やはり村人を恐れてなどいないのだろう。


「動きを止めます! 離れてください!」


 馬を止めると、アイドゥスはそう宣言してから、大急ぎで詠唱を始めた。ほどなく、蜘蛛の顔のあたりに一瞬、小さな光が走った。すると、彼の言葉とは裏腹に、蜘蛛は小刻みに動き始めた。


「何を?」

「これで視界は封じました。あとは皆さんでトドメを」


 俺は、馬から飛び降りた。

 そして剣を引き抜き、すぐ左手に持ち替えて、詠唱を始めた。村人はすぐ距離を取ったし、下手に近付かないほうがいいのなら、火魔術で始末したほうがいい。


「キャアァッ!」


 背後の悲鳴に気付いて、振り返る。

 灰色の民家の上に、もう一匹。それが今にも飛びかかろうと、足を縮めて溜めて身構えた。


「くっ……!」


 反射的に右手を突き出す。火球は形を歪に変え、斜めに放物線を描く炎の槍となって、蜘蛛に突き刺さった。

 爆発音。瓦が弾け飛び、屋根の一部が崩れて穴が開いた。避け損なった蜘蛛は、家のすぐ下に落ち、背を下にして足を丸めた。


 もう一匹。


 明らかに戸惑ったままの最初の蜘蛛に向かって走り出す。音で敵の接近を察知したのだろう、バタバタとぎこちなく向き直り、飛びかかろうとする。俺は身を伏せ、低い姿勢で剣を懐に構え直した。

 相手の大きさが見えていない蜘蛛は、見当違いの高さに向かって跳びあがろうとした。その瞬間を狙って、俺は無防備な腹を縦に切り裂いた。同時に俺は左に身を捌き、蜘蛛の横に立ち、飛び散る灰色の体液を避けて、一歩下がる。


 それで終わりだった。

 たったの一撃で、蜘蛛はほとんど動けなくなった。


「お見事! あとは患者です!」


 見ると、犠牲者は男が二人。虚ろな目をしたまま、手にした道具で視界に入るものを殴りつけようとしている。


「止めます」

「できますか」


 俺は返事をせず、詠唱を始める。『四肢麻痺』だ。片足を奪えば、あとは道具を持つ手さえ押さえ込めばいい。それも踏ん張れない状態で振り回すのを避けるだけだ。村人達に拘束させれば済む。

 だが、そこからが長かった。


 散乱した家屋の残骸に、夕日が長い影を落とす。

 地面に寝かしつけられた二人の男は、まだ呻き声をあげていた。


「何かできることは」

「ありがとうございます。ですが、今は」

「なんとかなりそうですか」

「時間さえかければ……あと一時間ほどあれば」


 アイドゥスは付きっ切りで二人の看護にあたっている。

 そこに影が差した。


「申し訳ございません」


 そこへやってきたのは、若い司祭とソフィアだった。ここまで歩いてきたらしい。


「なんでしょう」

「申し訳ございませんが、私どもは明日の聖務がございまして」

「ああ、そうでしたね」


 引退したも同然のアイドゥスはいいが、他のボランティアには仕事がある。聖都へは、夜を徹してでも帰らねばならないのだ。


「済みません。手が離せないので、お先にお帰りください」

「はい、ですが、その」


 彼はソフィアに目を向けた。


「ソフィア様」

「私にもお手伝いさせてください」

「ありがとうございます。でも、あと少しかかりますし、お先に」

「いやです。私は」


 言いかけてやめた言葉に、アイドゥスは疲労の滲んだ顔で、少し寂しげに微笑んだ。


「わかりました……ソフィア様は私が預かります。明日の朝には、聖都にお連れできると思います。皆様は、お先に」


 それから二時間後、俺達は村を辞去した。


 村人を助けたのに、ただの一夜の宿さえ与えられない?

 だが、ここがセリパシアであることを忘れるわけにはいかない。基本的に、他所の男を宿泊させるなど、どこの家にもできない。男に限らず、女もそうだ。他所からやってきた女に、住民が誘惑されると考える。他ならぬ教会が、日々そう教えているのだから。ならば、やるべきことを済ませたら、直ちにその場を去るべきなのだ。

 もちろん、アイドゥスは枢機卿なのだから、強く言えば我儘も通せただろう。とはいえ、彼やその周囲はよくても、村には迷惑がかかる。だから、離れざるを得なかったのだ。


 昨夜、宿営場にした広場に、三人分の毛布と保存食が残されていた。

 愛馬には荷物とソフィアを載せ、俺とアイドゥスは暗い街道をただ歩いた。それでも、一日分の疲労もあり、聖都まで休まず歩くのは無理だった。


 風除けになる大きな岩陰を見つけて、彼は言った。


「今夜はここで休みませんか」


 俺はともかく、ソフィアはもう、体力的に限界が近かったのだ。


「きれいな夜空です」


 冬のセリパシアには珍しく、頭上に雲がなかった。すぐ手前を遮るのは黒々とした岩壁だが、今は地上の焚き火に照らされて、赤ら顔を見せている。そこからぽっかりと、果ての見えない深淵が垣間見えた。天上の宝石達は、ひっそりと息を潜めつつ、時折目配せをする。


「ですが、少々寒いかもしれませんね。ソフィア様、大丈夫ですか」

「平気です」


 アイドゥスの気遣いに、彼女は笑顔を返した。


「これもファルス様のおかげです」

「いえ」

「なんとも驚きですが……これはもう、薪いらずですね」

「なんでしたら、もっとつけましょうか?」


 魔術で壁と俺達の間に火を放った。ただの『点火』ではなく『火炎』、つまり燃料が尽きても燃え続ける魔法の火だ。そこに『防火』『防熱』の術をかけた。火の不始末による事故を未然に防ぎつつ、温もりだけは確保した、というわけだ。


「そうできればいいのですが、悪い空気が怖いので」


 確かに、四方を火の壁で覆ってしまえば、寒くはなかろうが……

 こんなところで酸欠、窒息死は勘弁だ。


「それより、アイドゥス様」

「なんでしょう」

「盗賊などはいないでしょうが、夕方に見た魔物がうろついている、なんてことはないでしょうか」

「滅多にありませんが、絶対ないとは言い切れません。ですが、私が見張りをしますから」


 もうすぐ六十歳の老人一人にすべてを押し付けるつもりはない。途中で俺が交代すべきだ。それに、魔術の火を点し続ける必要もある。


「こんなことになってしまい、申し訳ございません」


 いかにも野営に慣れてます、という俺はいい。実際、冬の山脈越えや、雪原踏破に比べれば、こんなところで一夜を明かすくらい、なんてことはない。

 だが、ソフィアは旧貴族の箱入り娘だ。さぞつらかろう。なので彼の配慮も、彼女に集中していた。


「ですが、明日の午前中には聖都に帰れます。ご安心ください」


 だが、この一言で、彼女の顔に翳が差した。


「どうなさいました?」

「いいえ」


 けれども、彼女は膝を抱え込んだまま、俯いてしまう。


「帰りたくないのですか」

「……はい」


 たっぷり時間をかけて、ソフィアはやっと返事をした。


「今日は楽しかったです」


 燃える火の影を虚ろな瞳が映し出す。

 ぽつり、ぽつりと、彼女から言葉が零れ落ちる。


「見たこともない場所で、初めてお会いする方々とお話をして。お仕えすれば、そうしただけ喜んでいただけて」


 人に尽くせば感謝される。その感謝が嬉しくて、ますますやる気が出る。

 俺は彼女の人生を知らないが、正のフィードバックループの中で頑張る喜びを、生まれて初めて体験したのかもしれない。まして、彼女にとっては初めて見る、聖都の外の世界だ。


「でも、たった一日で終わってしまうなんて」

「ソフィア様、それならまた参りましょう。手助けを必要とする方々は、まだまだ大勢いらっしゃるのですから」


 一瞬、彼女の顔は明るくなったが、すぐ泣き笑いのような表情になってしまった。


「……でも」


 首を振る。

 どうやら彼女は、そのたった一日で『本質』に気付いてしまったらしい。


「私は、余所者なんですよね」


 外の世界は、彼女にとって癒しであった。と同時に、毒でもあったのだ。


「病気の娘さんと、そのお母様がいらして。司祭の方が手当てをして、私もお手伝いをしたら、ものすごく喜んでくださいました」

「ええ」

「それから……ファルス様のスープを飲んで、お帰りになられたのですけど」

「はい」


 そこで、彼女は続きを言えなくなった。

 だが、いちいち訊かなくても、彼女の中で何が起きたかくらいなら、すぐわかる。


 みすぼらしい農婦とその娘がやってきた。清潔なお湯と布で患部を洗い清め、優しい言葉で励ましながら、女司祭が処置をする。どうやら快癒しそうだと告げられて、二人は満面の笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べる。そうして去っていった母娘は、一緒にスープを分け合いながら、笑顔で語り合っている。

 それをソフィアは、離れたところから見つめている。わかってしまったのだ。自分はあの母娘の人生の物語の中では脇役で、大事な相手はちゃんといる。喜びを共有できたのはほんの一瞬で……自分はまた、あの美しい監獄に戻らなくてはならない。


 いつまでも、いつまでも。檻の中から、自分の手の届かないものを持つ人々を羨み、手を伸ばし続ける。それは不毛ではないか。こんなもの、いうなれば、一種の嘘だ。


「なるほど」


 頷いたアイドゥスは、腕組みをして、少し考える素振りをした。それから俺を盗み見て、言った。


「ソフィア様、それでもあなたは『余所者』などではありません」


 俺は眉を顰めた。

 なんとなく、騙されているような気がしたのだ。


「どういうことでしょうか」

「頭上をご覧ください」


 地上の荒廃とは似ても似つかない豪奢が、そこにはあった。共有しているものがあるとすれば、それは静謐だけ。風もなく、時折、焚き火がはぜるのと、話し声の他には、何の物音も聞こえない。


「何が見えますか」

「星が、月が見えます」


 もうすぐ新年というこの時期。あと少しで満月になるそれは、煌々と輝いていた。


「こう考えてみてはいかがでしょうか。この世界を創った女神は、あらゆる人のために、この夜空をも生み出したのだと」


 どんな宮殿にも勝る美が、既に万人に与えられている。ならば、何を羨むことがあろうか。


「あの星々の瞬きが、聖人達の眼差しです。そして、あの月の輝きが、慈愛に満ちた女神の瞳ではありませんか」


 同じように。この世に生まれ落ちた時点で、既にあなたは愛されているのだ、と。この世界にいる限り、部外者などではあり得ない。あなたはここでは不可欠な一人で、孤独ということはない。


「なるほど、母には娘が、娘には母がおります。ソフィア様も、今は悩まれていることがおありなのかもしれません。それでも、女神は常にあなたを見守っているのですよ」


 どんなに不幸な人であっても、必ず救済が用意されている。

 最後は女神が白い手で優しく包み込んでくれるのだと。


「……そうなのでしょうか」

「もちろんです」


 信じられないのだろう。今の彼女の眼の色は、まるで聖都の灰色の壁のようだった。


「それを信じ、生涯を捧げるのが僧侶です。私達は、それがあることを知っています。だから手を伸ばすことができるのです」


 女神が愛を保証する。だからこそ、聖職者もその仲立ちができる。かくして世界は歓喜に包まれる。

 果たしてそうだろうか?


 アイドゥスは立ち上がり、自分の毛布をとって彼女の背中にかけてやった。


「ご自分を愛してください。女神はあなたのうちにもいらっしゃるのですから」


 一時間もしないうちに、ソフィアは火の横で眠りについていた。

 アイドゥスは、無言で暗い原野に目を向けていた。俺もまだ、眠ってはいない。


「ファルス様、見張りは私がしますので」

「アイドゥス様こそ、お休みください。僕はここまで一人で旅をしてきたのです。だから何とでもなりますが、猊下はお歳なのですから」


 すると彼は、今まで見せたこともないような、影のある笑みを浮かべた。


「眠りたくないのです」

「なぜですか」

「時が惜しいからです」


 彼はすっと立ち上がり、改めて頭上を見上げた。


「本当に、本当に美しいと思いませんか」


 この世界に生まれてから、何度見上げたことだろう。いろんな夜空があった。四角い収容所の庭から眺めた、新月の星空。ピュリスの酒場の軒先から、みんなで見上げた新年の月夜。タリフ・オリムの浴場から見た、なんともカラッとした空。

 遥か彼方、地平線が夜の闇に飲み込まれ、その境界すらない。その向こうから、無数の星々が列をなして瞬いている。遮るもののない広大な原野の頭上に広がるそれは、まさしく荘厳そのものだった。


「はい」


 心の中で反芻して、俺はやっと返事をした。


「この景色を、心に刻みたいのです」

「明日も見られるじゃないですか」


 どうせ夜空を楽しもうというのなら、聖都に帰って、安全なところからにすればいい。もっとも、明日も晴れるとは限らない。それに、そういえば彼の自宅は眺望最悪の物件だった。

 だが、彼はそれには応えず、思ったことを口にした。


「昔、誰かが、月は太陽の光を照り返しているのだと言ったそうです」


 俺にとっては常識だが、この世界では一般的な学説ではないのかもしれない。


「それは真実かもしれません。女神が太陽を生み出し、その光が月を照らす。凡愚なる私ども人間は、やっとこの月の光を拝むことができるのです」


 さっきソフィアに言ったことの続き、か。

 真理は美しくも、ときに苛烈で、難解でもある。それはさながら、俺達が太陽を直視できないのと同じようなものだ。月は優しく人と太陽の仲立ちをする。


「ファルス様」


 彼は向き直り、俺に尋ねた。


「なぜあなたは不死をお求めなのですか」

「それは」


 俺は、続きを言えなかった。

 無理を強いていると悟った彼は、目を伏せた。


「……あなたは、月の光では満たされないのですね」


 そう言うと、彼はまた、腰を下ろした。

 俺は立ち上がり、自分の毛布を彼にかけた。


「先にお休みください。夜明け前に、起こしますから」


 アイドゥスが眠りについてから、俺は一人で原野を見つめ続けていた。

 何もない、虚無の空間。果てしない暗闇ばかりが広がっている。


 月の光、か。

 俺は顔をあげて、もうすぐ満ちる月を一瞥した。


 満ちるということは、欠けるということでもある。そんなあてにならないものに縋るしかないのか? たまたま満月の下に生まれつけばいいのか? そんなものが、人生の正解なのか?

 今夜の月は、歳若い女王のようだった。どんな星も、空を圧する大きな輝きにはかなわない。十三夜月は夢、希望、喜びではち切れそうになっている。だが。


 俺は知っている。

 それでも月は、翳るのだ。


 翌朝、目が覚めてから、すぐ出発した。

 最初、アイドゥスはソフィア一人を馬に乗せようとしたが、彼女は頑として歩こうとした。年老いた彼を歩かせて、自分が休むなどできないと言っていたが、それはただの口実だった。

 アイドゥスが乗って手綱を取り、その前に彼女を乗せればいい。俺がそう提案すると、あっさり受け入れられた。このほうが遅くならなくていい。それにソフィアも、人目のないところで、少しでも甘えたかったのだろう。見て見ぬふりをして、先を急いだ。


 夜明けには晴れ渡っていた空だが、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。

 見る間に灰色の雲が頭上を覆う。ただそれだけで、雪が降ったりすることはなかった。


 聖地に入ってしばらく。全員が馬を下り、歩いていた。

 目の前には広大な聖都が、雪をかぶったディノブルーム山を背に、灰色一色に染まったシルエットになって佇んでいた。


 予定より遅れてしまったので、正規の手続きを踏んで、門から入らねばならない。俺達はあの、のっぺらぼうの白い門に向かって進んだ。

 それが間近に迫り、人の顔を見分けられるほどの距離になって、ようやく異変に気付いた。


 真っ先に顔色を変えたのは、ソフィアだった。


「アイドゥス様、いったい」

「お出迎えですね」


 彼は落ち着き払っていた。

 冗談めいた口調でさえあった。


 ソフィアは、自分のせいだと考えたのだろう。旧貴族の娘が、いわば無断外泊をしたのだから。

 けれども俺は、それどころではないと悟っていた。


 槍を手にした兵士達が、こちらを窺っている。その数、なんと二十人以上。襲いかかってくる様子はないが、強い警戒心が見て取れる。

 門には、数人の聖職者が陣取っていた。普段よりずっと多い。

 そして、その中心で仁王立ちしていたのは、枢機卿のミディアだった。


 これは……


「猊下、おかしいです」

「そうですね」


 俺はそっと囁いた。


「今からでも、逃げたほうが」

「あなたやソフィア様を巻き添えにしてですか」

「ソフィア様は立場があります。捨てておけば大丈夫でしょう。僕なら、あれくらいなんとでもなります。馬に乗って逃げれば」

「宿駅はどこも当局の管理下にありますよ」

「南ではなく、東に向かって逃れれば……」


 そこは無人の領域だ。

 不毛の地で、しかも寒冷な冬となれば、普通は生き残れない。だが、運よくダニヴィドが見つけてくれれば。


 だが、説明している時間はなかった。


「止まりなさい!」


 よく通る女の声。ミディアの命令に、兵士達は身構えた。


「いかがなさいました」


 バタバタと兵士達が駆け寄り、俺達を取り囲む。槍衾がこちらに向けられる。

 丸められた紙の束を手に、ミディアはその中を、一歩一歩近付いてきた。そして、一定の距離を保って立ち止まり、宣言した。


「アイドゥス・ハイブ。あなたを逮捕します」

「はい。罪状はなんでしょうか」

「恥を知りなさい!」


 かつての師を相手にしているのに、この居丈高な物言いはなんだろう。

 いや、それより、罪状というのは……


「淫行、ならびに不法行為の幇助。緊急の聖教会議にて、あなたの枢機卿としての権限は停止されました。抵抗、逃走は許されません。直ちに当局へ出頭し、裁きを待ちなさい」

「承知致しました」


 彼は静かに一礼した。


 ……バレたのか。

 祭りの町での闇医者稼業が。いや、お金儲けではないのだから、稼業ですらない、ただの人助けなのだが。

 しかし、売春を厳しく取り締まる教会からすれば、どっちにせよこれは犯罪だ。しかも、聖職者が手を染めたとなれば。


「アイドゥス様!」


 あまりのことに、ソフィアは驚いてアイドゥスの袖を引く。


「心配はいりません。何があろうとも、女神は私達と共にあります」


 そう言って、彼はソフィアの頭を優しく撫でた。


「汚らわしい!」


 ミディアが絶叫する。兵士が割って入って、アイドゥスとソフィアを引き剥がした。


「連れて行きなさい!」


 是非もなし、か。

 けれども、道理はどちらにあるのだろう? 見捨てられた人々がいなければ、彼も手を汚す必要などなかったというのに。

 この手の理不尽は、いつでも俺の火打石だ。思わず身構えた。だが、それと気付いたアイドゥスは、静かに振り返ると、そっと首を横に振った。


「参りましょう。すべては女神の御心のままに」

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