空論、羨望、妄執
『誰が買っていいと言った』
『だってあんなボロッボロのままで、ご近所に恥ずかしくないの!』
ここは……
薄暗い家屋の中。何もかもがぼんやりしている。
何かのアニメのキャラクターが描かれた、真新しい布団カバーのコントラストだけが、奇妙に浮かび上がっている。青一色のボディに、真っ赤に開かれた口。そいつは楽しげに笑っていた。この場の空気にはそぐわない。
『前のがまだあっただろう、どうした』
『捨てたわよ!』
『勝手なことをするな!』
『あなたこそ、いい加減、競馬にお金を遣うのをやめたらどうなの!』
パン、と乾いた音。
続いて、畳の床に倒れこむ、母の姿。
『うるさい!』
……これは、夢、だ。
覚えている。
あの頃の出来事のうちの一つ。
『余計なのを勝手に一人産みやがって、それで余計に金がかかってるんだろう、このバカが!』
『あんたがヤッたんでしょうが!』
『あぁ? お前が他所で仕込んできたんだろが! ええ、誰だ! あのトシキって奴か? ヤスヒロか? どいつのだ!』
きっかけは小さなこと。
いつもベランダに干している布団。だが、中身もカバーもとても古くてボロボロだった。
父は例によってこういうものに金を出さない主義で、母はそれが我慢ならなかった。家事一切を引き受けていたのもあり、どうしてもご近所の声が聞こえてしまう。どこかの婆さんが「みすぼらしい」とかなんとか言ったらしく、それでカチンときた母は、勝手に家のお金で子供達の布団を新調した。
それを知った父が「越権行為」に激昂して、暴力を振るっている。
『知らんわ!』
『トボけんじゃねぇ! 散々あっちこっちで咥えこんでんだろが、歳弁えろ、ババァ!』
母を踏みにじりながら、父は怒鳴り続ける。
だが、彼女はふっと表情を緩めると、勝ち誇ったように鼻で笑った。
『……ふん』
『なんだ』
『だったらどうだってんだ』
『なに』
『どこの男のモノでも、あんたの粗末なモノより、ずっとマシだよ』
『このアマァ!』
怒り狂って、父は腕を振り上げた。
この時、当時の俺は……
『やめてぇ』
『邪魔だ! どっかのガキが!』
『ごめんなさい』
……謝りながら、泣きながら、割って入った。
『ごめんなさい』
俺はいったい、何について謝っていたのか。
実のところ、俺が母の不倫の子だったかどうかは、はっきりしない。両親が離婚し、社会人になった後、母の生活費はずっと俺一人が負担していた。だが、やはりというか、俺と母の間も、折り合いがよくなかった。そして何かあるたび『あの男の息子だから』と毒づかれた。胃癌で死ぬ直前まで。
今となっては、もう、どうでもいいことだが……
……最悪の夢見だった。
のっそり起き上がり、目元をこする。
寝不足かもしれない。結局、祭りの町から戻ってくるのに、夜更けまでかかってしまった。あの遠征が、三日後にもう一度あるという。今度は南西方向の村で、俺はまだ、行ったことのない場所らしい。しかも、今回よりちょっと遠いとか。出発の当日は、もっと早起きしなきゃいけないのか。
着替え、談話室に出てきてもそもそと朝食を済ませた頃。静けさを求める俺のところに、プレッサンが駆け込んできた。
「ああ、ファルス様、おはようございます」
「おはようございます」
「昨夜はお忙しかったようですが」
「三日後にまた、出発だと聞かされています」
「その、お疲れだとは思うのですが、たった今……」
何かあったのかと思い、俺はパンを皿に置いた。
「ミディア師から、またお招きが」
「すぐですか」
「いえ、ただあと少しで迎えの馬車が来ます」
「わかりました」
あの女、今度は何の用事だろう。
しばらくして、馬車がやってきた。白い塗装の、簡素なものだ。教会から与えられたものだろう。
前回は庭先までの案内だったが、今度は家の中に招かれた。
「ようこそ、ファルス様」
俺の背中では、ここまでの案内を引き受けた聖職者が、一礼して去っていこうとしている。またしても二人きり。しかし、ここは。
半地下の密室。一応、高い位置に窓らしきものはあるが、ほぼ密閉された状態になっている。クリーム色の壁紙に、焦げ茶色の縁取りがこの部屋のコンセプトらしく、落ち着きあると同時に、どこか内向きな印象があった。部屋の中央には木の椅子とテーブルがある。明るい茶色の、繊細な造りのものだ。
部屋の突き当たりには暖炉があり、火があかあかと燃えていた。それと部屋の隅の燭台の灯り。真っ白なミディアの顔が、オレンジ色のほのかな光に照らされて、奇妙な艶かしさを漂わせていた。
今日はオフの日ということか、彼女が身に纏っていたのは、白い僧帽と、同じく白い僧衣だった。つまり、よりプライベートな関係性でもって俺と話をしようとしている。
「お招きありがとうございます」
「ああ、それと、お手数ですが、扉を」
俺の背後の扉を閉じるように、と要求された。密室で男女が……いや。ジェゴスの息がかかった女だ。本音では倫理もへったくれもないのかもしれない。
「お忙しい中、わざわざどうもありがとうございます」
「いえ、猊下のように重責を担っておいでの方々に比べれば、身軽な巡礼に過ぎませんもので」
席を勧められ、俺が腰掛けると、彼女はテーブルの上の水差しをとって、俺にコップを差し出した。
「ええ、まぁ、お互い多忙な身の上です」
腰掛けながら、彼女は言った。
「ですから、本音でお話をしませんか?」
「はい。願ってもないことです」
すると、彼女は一息ついた。
「この前は大変失礼致しました」
俯きがちになりながら、彼女は謝罪から始めた。
「この前とおっしゃいますと」
「どちらもですが、特にジェゴス枢機卿のところでは」
「ああ」
いったい、ミディアはジェゴスに、俺のことをなんと伝えたのだろう。
「結局、ジェゴス様は僕に何の用があったのでしょうか」
「あれは、私と彼とでは、立場が違ったのです」
首を振り、顔をあげると、彼女はあっさり言った。
「私はあなたを警戒していました。あの思想犯のクララとわざわざ面会した人物が、アルディニア経由でやってきたフォレス人、しかも王家から腕輪をもらった従士となれば……何か裏があると思ったのです」
「そんな、少なくとも、政治的な理由はありません」
「と言われても、そうそう信じられるわけもないですよね」
「それは、はい」
確かに、彼女の懸念も一理ある。
俺が探しているのは不老不死に至るための手段であり、聖女リントの居場所だが、仮にそれらを見つけたからと言って、世間に公表するつもりはまったくない。聖典派は間違っていました! なんて言いふらすことなど、考えられない。
だが、俺は外部に目的を知らせていない。学ぶために来ました、と言っているだけだ。胡散臭いこと、この上ない。
「だから、ジェゴス師には、怪しい人物がいると忠告したのです。というのも、教皇の健康状態も悪く、そろそろ次の聖教会議で後継者が決まるというところですし」
「外国の王が、この国のリーダーを決める場を、掻き乱そうとしているのでは、と」
「という事情であれば、私があなたを恐れ、排除しようとしたことについては、ご理解いただけるかと」
つまり、俺がこの件に介入する気がないのなら、悪意ある対応はしないと言っている。
なら、ここはこちらも矛を収めるべきだ。
「はい」
「お聞き届けいただき、ありがとうございます」
俺が特に逆らう素振りも見せずに返事をすると、彼女も肩の力を抜いた。
「では、ジェゴス師は」
「あの人の頭にあるのは、利権だけです。あなたを通じて、どれだけフォレスティアの貴族と繋がれるか、それを知りたかったのでしょう」
「だから亜人を買えとか」
「ああ、あれは本当に処分したいらしいです」
処分って。
滅多に入手できないとか言っていたのに。
「高すぎて、誰も買えませんよ、いくらなんでも」
「ふっかけただけです。とはいっても、さすがに十万枚くらいの値打ちはあるので、そこからいくらか割り引かれても、手放してしまいたかったようです」
ということは、十億円相当か。
それなら、ありかもしれない。でも、手を出すには、まだ少し高いか。
以前、グルービーは俺を買うのに、金貨三万枚までなら出すと言った。ノーラにはいくら出したっけ。一万か、二万か。将来性のある少年奴隷としても、割高に過ぎる。だが、これを絶世の美女に仕立て上げて売れば、だいたい五万くらいでは売れるのだから、悪くない。彼はその手の美女を何十人も売り捌いてきたのだから、それだけでも大儲けしていたはずだ。
という観点からすると、マルトゥラターレ十億円は、まぁ、妥当な額ではある。珍しい異種族で、寿命も長く、高度な魔術も使いこなせる。問題は、どれだけ働いてくれるか、だ。仮に絶対服従してくれて、戦闘その他もしっかりこなしてくれるなら、ピュリスに置いてきた金で買い取ってもいいくらいだ。
……買うって言っちゃえばよかったかな。
あ、でも、視力を潰されてたんだっけ。やっぱりダメだ。
「そんな貴重なものを、どうして」
「近々、聖教会議があるのですが、新教皇が決まると、枢機卿は再任されます」
「は? はい」
「その時、素行に問題があるなどの告発を受けると……」
「ああ」
自分の地位が脅かされるのがいやだから、汚点を消し去りたかったわけだ。
「でも、ジェゴス派は、今、一番有力なんでしょう?」
「ええ、その通りです。ただ、あなたが懇意にしているシスティン家もそうですが、やはり彼を好ましく思っていない旧貴族も多いですから」
つまり、いくらなんでも大騒ぎされたら、裏番のジェゴスといえども、ただでは済まない、と。
しかし……
「では、あなたは?」
「私?」
「どうやら、ジェゴス師と行動を共にしているようですが」
「ええ」
彼女は一口水を飲んで、息をついてから言った。
「次の教皇に担ぎ上げてもらえそうです」
権力欲しさ、か。
「でも、その……そのため、ですか?」
「他に何が」
「あんな、その……好色な……」
バン! とテーブルを叩く手。
「ファルス様、誤解なさっておいでではないですか」
「はい?」
「言っておきますが、私はジェゴスには指一本、触れさせてはいませんよ」
「え、あ、はい」
なんだ。てっきり愛人に収まって、後押ししてもらっているのかと。
「考えていることはわかります。ですが、そうされたら、それこそ先がなくなります。だからこそ、身を守るために、私は結婚までしたんですから」
「け、結婚!?」
いや、前にリンも言っていた。
セリパス教の聖職者であっても、結婚自体は許されている。しかし、誰と?
「お相手は」
「ヴェイグ様です」
「……は?」
「聞こえませんでしたか。ヴェイグ様です」
ヴェイグって、あの?
聖女の弟で、宣教戦争を指揮した将軍の一人で。でも、何年前に死んだと思っている?
「はい、あのヴェイグ様ですよ」
「いや、とっくに」
「だからこそいいのです。ご存知ありません? これは聖なる結婚と言いまして、聖人やそれに匹敵する歴史上の方々と結ばれることを言います」
「だ、だって、会えないし、何もできないじゃないですか」
「そう、純粋に精神的な……思慕の念のみがある、そういう繋がりですね」
ダメだ。理解できない。
宗教って、そこまでするものなのか。
「ま、まぁ、その、ジェゴス師と変な関係でないことは理解しました」
「ならいいのです」
「でも、それはそれとして、彼の手先になって、教皇になるんですよね」
「はい。そういう計画です」
正直、いい印象はない。
だが、それはこの国の問題だ。俺が首を突っ込む話じゃない。
「であれば、別に……思うようになさったらいいのではないですか」
「お話は、ここからです」
背筋を伸ばし、彼女は顔を伏せて、神妙な様子で口を開いた。
「ファルス様……私に味方するつもりはありませんか?」
「僕が何の役に立つと思っているんですか」
「あなたがどれだけの人を動かせるか。もちろん、そこが重要ですが」
彼女は席を立ち、彼方を見つめながら、考えを語り始めた。
「例えば、あなたはタンディラールやミールとどれだけ親しいのですか? あなたの言葉で、動いてくれますか?」
「何をおっしゃっているのか、わかりかねますが」
「もし、彼らがあなたの味方なら、私の味方にもなって欲しいのです」
頭の中にハテナマークが浮かぶ。
タンディラールは、俺に利用価値がありそうだと思っているだけだ。ミールは……もう少し、人情味がある気がする。それでも、俺に対して親しげだったのは、自国のために働いて欲しいからだ。個人としては友人にもなれそうな人物ではあるが、そこはそれ、王者としての義務と責任を忘れることはない。
……こいつ、何か勘違いしてないか?
「仮にそれが可能だったとして、あなたはどうして味方が欲しいのですか」
「今の私には、力が足りません」
俺に向き直り、彼女はか細い手で拳を作る。
「この国を正して、よりよく作り変えていくだけの力が。私がやらなければ……今だって、重要な政務は私がこなしているのです」
「このまま、ジェゴス師の支援を受けて、教皇になれば、力を得られるのでは」
「それは違います。彼が欲しているのは、今のゼニット師のような操り人形です。でも、私は、ああはなりません」
ジェゴスは利用しているだけ。うまいこと教皇になったら……
「彼を罷免するつもり、だと?」
「そのためにも、力が必要なんです」
少し、立ち止まって考えてみる。
彼女の言う力って、なんだろう? もし、俺が声をかければ二人の王も動いてくれるとして。彼らが何をすれば、ミディアにとって利益になるのだろう。
例えば、ミール王に、セリパシアの統治権を放棄させる? 建前だけの話とはいえ、アルディニア王国は神聖王国の後継者だ。それは形だけでも認められないだろう。形式以外の話としては、何を期待する? 交易か? もっと金属製品の値段を下げろとか。できたらすごいけど、それは先方にとってのメリットがなくては成り立たない。じゃあ、他に何がある? 軍事力? 他国の軍隊に頼る? 自殺行為だ。
「私が耐え難きを耐え、あのような不潔な振る舞いを見過ごしているのも、いつかこの国を清めるため」
だが、彼女の中には、何かの熱がある。
「あなたもご覧になったでしょう。あんな不潔な男が、この国を支配している。よりによって、邪悪な亜人と交わるなど……言葉もありません。こんな時代は、早く終わらせなくては」
「もし、何でも思い通りにできるというのなら、あなたは何をするつもりですか」
「前に言いませんでしたか。この国を清めるのです。より人々の心が信仰に向けられるように励む。それが私の理想です」
他にもっとやることがあるんじゃないのか?
あんな締め付けだらけの生活を続けさせておいて、清いも何もあったものじゃなかろうに。
「今でも、そのために働いているのです。国家の根幹を成す聖典を正しく解釈、定義して、それを伝えさせる。それを進めることで、人々の心に善を求める気持ちを呼び起こす。現に、ここ一年でも、過ちを起こす人の数は減ってきていると報告されています。ですが、まだ足りません」
どうやら……
彼女の評価を、下方修正すべきかもしれない。
「今だって、私が国を動かしているのです。教皇になった暁には、行いの悪い者を一掃し、世界の一切から穢れを除かなくては」
「待ってください」
なんて独善的なんだろう。
「あなたは、人々の幸せを考えないのですか」
「考えています。だからこそ、世界を清く保ちたいのです」
いや、これがセリパス教なのだ。絶対的な正義は既にあり、それに従えばいいと教える。その結果が、これだ。
「あなたは今、自分が国を動かしていると言いました」
「ええ、その通りです」
「おかしいですよね」
「どこがおかしいのですか」
「畑を耕し、麦を収穫するのは誰ですか。南方の国境を守るのは誰ですか。オプコットから荷馬車を出して、外国の物資を持ち帰るのは誰ですか。国を動かしているのは、彼らではありませんか」
経済、軍事。生産活動や交易があって、やっと暮らしが成り立っている。
彼女の言うことは、その上に乗っかった空理空論だ。狭い部屋の中で聖典とにらめっこ。使っているのは、ペンを握る右手と口先だけ。真っ先に不要になる先っぽでしかない。
「人はパンのみに生きるにあらずですよ」
「聖典の話ならそれでいいかもしれません。でも、現実には、人はパンがなかったら飢え死にするんですよ」
こんな世間知らずな女が国の頂点に立ったら。
ジェゴスよりマシだろうか? 不正をしない分、余計にまずいかもしれない。
「外国の貴族や王族の話にしてもそうです。いいですよ、これからアルディニアに引き返して、ミール王に助けてくれと言っても。だけど、あなたは彼から何をもらうんです? それと、彼に何をしてあげるんですか」
「なっ、なにを?」
「取引をするなら、条件が必要でしょう。あなたは、どうやって彼らの役に立つつもりなんですか。神聖教国が清く正しくなりました……それでミール王やアルディニアの人々は、どんな利益が得られるんですか」
俺も席を立った。
こいつは、いわゆる頭でっかちだ。俺もそのケがあるが、こいつは正真正銘のそれだ。なまじっか優等生だったせいで、しかも順調に出世したせいで、間違いに気付く機会がなかった。だが、冗談じゃない。
「とっ、取引なら、戒律で禁止されています」
「そういうディベートなら、あなたもうまいんでしょうけどね。実利がなければ、誰も動かないですよ」
「実利? いやらしい!」
彼女は、ついに憤慨し始めた。
「正義の女神の前で、利益、利益などと」
「だからそのカチコチの頭をなんとかしてください」
「ゆっ、許せません! 誰も、彼も! 私がどんな思いで今、ここに立っていると思っているのですか!」
身を震わせ、拳を作って。
ドス黒い怒りの中で、彼女は呻いた。
「私より身分も才能も恵まれた人々がこんなにいて……なのに旧貴族の連中は、何も変えようとしない! 安楽な生活の中に浸って、女神の正義を忘れて! でも、私の前には、クララもリンもいた。だけど、二人はどうしました? クララは欲に溺れて罪に堕ち、リンは国外に逃げ出しました! みんな、自分のことばかりで! でも、私は違う、私だけが……」
「ああ、わかりました」
俺はわざと冷淡に言った。
「あなたは羨ましかったんだ。華やかな暮らしを楽しむ旧貴族。自分よりいい成績を修めたクララやリンに、嫉妬していた」
「なっ……!」
「だから、出世したかった。枢機卿になってもまだ足りない。だから教皇になりたい。それだけなんだ」
「ち、違う! 違うっ!」
だが、俺は首を振った。
「だいたい、あなたがしたいことって何ですか。もっと信仰を? 清くあるべき? それは、誰に教わったんですか。自分で考えたこととは到底思えない。あなたには自分がないんだ。唯一、自分と言えるものがあるとすれば……」
頭の中で、それを探した。すぐ見つかって、言葉になる。
「……出世して、自分を認めさせたいって気持ちだけですかね」
そのために、とっくに死んだ人間と結婚までした。
こいつも、教国の狂気に囚われていた。それだけのこと。
「よ、よくもっ……」
「怒ることじゃないでしょう? 最初に本音で話しましょうって言ったのは誰ですか」
こいつが次期教皇になるなら、ここで適当なことを言って取り入って、廟堂に入り込むという手も考えないでもなかった。ただ、それは実現しないだろう。
彼女には、さほどの実権がない。あれば、俺を呼び出してこんな相談なんかしない。その意味では、恐れる値打ちさえない。
もし、実際にジェゴスを下ろしにかかったら、大変なことになる。ここまで考えなしの女だと、あっさり暗殺されて終わりかもしれない。いや、それならまだマシで、ひょっとするともっとひどい結果になる可能性もある。
こいつはダメだ。俺が彼女の尻にくっついて行動したら、巻き添えになる。
「僕が言うことではないですが……悪いことは言いません。あなたに必要なのは多分、教皇になることじゃない」
親しくなる値打ちもないが、敵対するのも面倒だ。関わらないのが一番いい。俺も自前で抱えているからよくわかるが、この手の屈折した劣等感と真っ向からぶつかると、ろくなことがない。
「じゃあ、何をしろというんですか」
「さぁ……でも、多分」
記憶をまさぐって、なんとか答えを捻り出した。
「もっとよく寝て、よく食べて、たまには遊んでみては? それと、歴史上の誰かじゃなくて、生身の人間の温もりも。聖典の知識で心の穴を埋めようとしても、うまくはいかないんですから」
彼女のかつての師であれば、こう言っただろう。
「ま、待ちなさい!」
だが、妄執に憑かれた彼女は、俺の肩を掴んで引き止めた。
「て、点数が……まだ、もっと成果を挙げなくては……教皇になるために」
「何を言ってるんですか」
呆れ果てて、溜息が出る。
「一番上に立とうというのに、誰に評価してもらうつもりなんですか」
手を振り払うと、俺は背を向けた。
「まだお若いんですから。やり直すなら、今のうちですよ」
これが俺にとっての最大限の善意だ。
それ以上を求めるのなら、次は取引しかない。対価があれば、働いてやってもいい。
「それでは、ごきげんよう」
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