使い切るスープ

 荷馬車がゲートをくぐる。無人の街に、轍の音が響き渡る。

 この国ではあまり見かけない、茶色の瓦屋根。焦げ茶色の支柱に白い壁。無機質な聖都からこちらに来ると、その人間臭さにほっとする。ただ、どの建物もラブホテルにしか見えないのが玉に瑕、か。


 ほぼ一ヶ月ぶりに、俺はここ、祭りの町に戻ってきた。といっても、目的を捨てて帰路についたわけではない。


「予定通り、昼過ぎに到着できましたね。時間がかかるとおっしゃっていましたが、間に合いそうですか?」

「なんとかします」


 隣で自ら手綱を操るアイドゥスが話しかけてきたので、そう答えた。


「それより、荷物がダメになってなければいいのですが」

「馬車を止めたら、確認しましょう。ただ、私は」

「わかっています。それぞれ仕事をしましょう」


 奉仕活動に尽力すれば、或いは当局に認めてもらえるかもしれない。


 アイドゥスの提案が、それだった。いかに枢機卿といえども、なんでもかんでも鶴の一声で、というわけにはいかないのだと。ファルス少年は善良かつ勤勉で、信徒達の幸福のために尽くす気持ちがある。その信仰心を支え、育むのは聖職者の義務である……この方向で聖教会議にかけてみると、そう言ったのだ。

 そんな、ちょっとやそっと、貧民どものために頑張ったからって、あのジェゴスがいい顔をするだろうか? いっそ、あの亜人……マルトゥラターレとかってのを満額で買い取ってやったほうが、遥かにいいのでは?

 また、仮に全会一致で俺の廟堂への立ち入り許可を認めたとしても、その決議に意味はあるのだろうか? なにしろ、廟堂内のことは教皇の専権事項であり、中の職員は教皇本人の命令でなければ受け付けないらしい。外から枢機卿がいくら騒いでも、ダメなものはダメ、と言うかもしれない。


 正直、どこまでアテにしていいのか、半信半疑なのだが……


 広場に馬車が止まった。俺は御者席から飛び降りると、荷台の後ろに回った。

 まず、見上げるのは天井だ。いくら道が整備されているといっても、この馬車にはサスペンションもない。卵を持ち込みたかったのだが、荷台に積み上げたのでは割れてしまうと思った。それで籠に入れ、互いにぶつからないよう布で包んで、上から吊り下げ、しかも揺れないよう更に布で固定して、運ぶことにしたのだが、どうやら無事だったらしい。ほっと一息。

 他にも、必要な食材が積み込まれている。この寒さのおかげで、衛生状態にも問題はなさそうだ。


 今回、奉仕活動に参加しているのは、俺だけではない。アイドゥスの指揮下、だいたい十名くらいの司祭が参加している。

 目的は、周辺住民の治療。明日、近隣の村々から、病気を抱えた農民達がここに殺到する。そこで前日に祭りの町……正しくはティングラス居留地というらしい……に入って、人々を迎える準備をする。


 問題は、俺が何をするかだった。

 薬品の製造なら、スキルがあるし、ピュリスでの勤労経験もある。だが、これは意味がなかった。既にアイドゥスが準備した薬品があるので、新たに作り出す必要がないためだ。そして俺には、医術のスキルも知識もない。診断を下したり、手術を施したりといったことができない。治癒魔術も使えない。魔術で一時的に痛みをとるなどの補助はできるが、それも大抵は薬でカバー可能だったりする。

 要するに、俺なしでもアイドゥスは困らない。以前から機会があるたび、こうした活動を繰り返してきているので、ノウハウも蓄積されている。


 そこで今回、彼は俺のために、新しい役割を作り出すことにした。

 それが……


「あの、ファルス様ですか」

「はい」


 振り返ると、若い聖職者が立っていた。


「食材の運搬を手伝うようにと」

「ありがとうございます」


 ……料理の提供、だった。


 セリパス教の司祭は、医師ではあっても、料理人ではない。だからこれまで、ここに医療を受けるためにやってきた農民達は、弁当を持参してやってくるのが普通だった。今回も、特に何も伝えていないので、きっとそうするだろう。

 ただ、食事が健康と密接に結びついているのは、周知の事実だ。だから「できることはないか」と問われて出てきたのが、料理だった。それで彼は急遽、食材と調理器具を手配して、俺を一行に加えることにした。


 据え付けられた大鍋を前に、俺はポーチから包丁を取り出した。ピュリスから持ち込んだ、あの包丁だ。

 他の道具がどうでもいいわけではないが、包丁の切れ味は特に重要だと思う。状態が悪いと事故に繋がりやすいし、料理の出来栄えにも影響する。だから、せめてこれだけはとリュックから取り出して、ここまで持ってきたのだ。もっとも、今回の一品においては、脇役でしかない。


「さぁて……」


 大鍋よし、まな板よし、ボウルよし。

 やってやる。


 俺は、この前のことを根に持っていた。藁の結婚に巻き込まれて、無理やり飲み下したあの塩抜きの粥だ。

 あの不快な一口。今にして思えば、まさにこの国の姿をそのまま料理にしたような。


 あの時の気持ちを、なんと言い表せばいいのか。聞くに堪えない罵詈雑言でさえ、あれよりはマシだった。自分に向けられた侮辱以上に許しがたかった。何か、似ている感情があるとすれば、なんだろう……ああ、わかった。

 セリパス教徒に向かって、女神と聖女が主役のエロ動画を見せ付けるようなモノ。もしかすると、神聖教国とは、聖都とは……壮大な冒涜そのものなのかもしれないとさえ思ったのだ。


 別に、明日ここにやってくるのは、あの時あの場にいた人々ではない。関係なんか、まったくない。ないが、それでも殴り返してやらねば気が済まない。だからといって、実際に農民を打つわけではない。聖職者にしてもそうだ。そういう報復ではない。

 俺はここに至るまで、貧しい村落をいくつも見てきた。ありあまるほどの食糧を生産しておきながら、その多くが庶民の口に入らない。だが今回、アイドゥスは料理について、すべてを一任してくれた。何を作って出してもよい、と言ったのだ。


 俺は振り返り、並べられた食材を見つめた。

 仔牛の骨、牛の脛肉、鶏肉、鶏ガラ、パセリやローリエといったハーブ類。ニンジンやタマネギといった野菜もある。


 さぁ、裁きの時間だ。

 この国に相応しい一品にしてやろう。


 まずは聖職者から。財貨に埋もれた僧侶達を何かに喩えるとすれば、やはり肉だろう。贅沢な暮らしに慣れたその体を釜茹でにしたら、さぞ濃厚なダシが取れるに違いない。

 大量に用意された水を使って、骨や肉についた汚れや血を丁寧に洗い落とすと、俺はそれらを煮始めた。足元の釜にどんどん薪を放り込む。強火あるのみだ。するとどうだ。まさに汚い司祭どもの中身のようなものが浮かび上がってきた。大量のアクを、次から次へと掬って捨てる。

 少ししてから、俺は農民達に僧侶を踏みつけにすることを許した。つまり、野菜も放り込んだ。ここからが長丁場だ。アクを取ったら、弱火にしてじっと監視する。


 不思議なもので、いざ、調理に取り掛かると、すっと頭の中のノイズが消えていく。怒りに駆られてレードルを取ったのに、アクを掬うごとに、余計な思いも捨てられていく。残るのは、純粋な集中だけだった。

 横では会場設営の準備が進められている。ガタガタと椅子や机を運び込んだり、バタバタと走り回ったり。薬品の入ったガラス瓶を運ぶ時の、あのキンキンと瓶同士が触れ合う音が聞こえてきたり。けれども、すべては遠い物音だった。

 ふと、気付くと、頭上の光がうっすらと弱まっているのを感じた。高緯度地帯、それも冬場とくれば、日没は早い。そして目の前の大鍋からは、えもいわれぬ香りが漂い始めていた。


 見ているだけではない。鍋は時間と共に汚れていく。このスープに不純物はいらない。木箸で布を摘んで掃除もする。

 匂いに惹きつけられるのか、準備作業がほぼ片付いたらしい聖職者が、たまにこちらを窺うように盗み見る。だが、俺は振り返らない。


 頭上が藍色に染まった。地平線に橙色の帯が走る。

 食べるだけでいいなら、これで終わりにできる。だが、これではポトフだ。それは目指す一品ではない。


「おや?」


 サク、サクと静かな足音が近付いてくる。


「やはり、少し早すぎたのではないですか。もう、既に随分とおいしそうですが」


 俺は反射的に手を突き出し、黙らせた。

 そっと一歩、後ろに下がり、横を向いてから、アイドゥスに言った。


「気をつけて。唾の届く場所に立ってはいけません……聖典の御言葉です」

「ぷっ」


 噴き出しそうになって、彼は慌てて口元を押さえた。

 だが、俺は真顔だった。スープを汚すなんて、絶対に許されない。


「ファルス様、確かに何を作っても構わないとは申し上げましたが……最初の患者は、明日の昼前ですよ」

「承知しています。その時間にやっと完成するんです」

「もうできているのでは」

「これからですよ。見てください」


 俺はそっと鍋の中を指し示した。


「まだ野菜が沈んでいません。旨みを出し切っていないのです。これではいけません」

「ですが……」


 アイドゥスは周囲を見回した。


「そろそろ夜です。休まれませんと」

「申し訳ありませんが、少なくとも、あと一時間、ことによると二時間以上、煮詰めなければ完成しません」

「お食事もまだでしょう。ここは寒いですし」

「では、余り物のパンでも後で届けさせてください。僕は鍋の前を離れません」


 断固として俺が言い放つと、彼は頷いた。


 頭上に星が瞬き始め、それをうっすらと覆い隠す灰色の雲が、どこからともなくやってくる。かすかな灯りを頼りに、俺は準備段階における完成を確認した。底に沈んだ野菜を目にして、俺は火を消した。

 幸い、今は冬場だ。この大きな鍋も、一晩ですっかり冷めることだろう。


 翌朝、まだ早い時間に俺は寝床から抜け出した。

 鍋の蓋を開け、確認する。


 浮かび上がってきたのは、金色のブイヨンだった。

 余計なものが混じらないよう漉したそれは、既にして溶けた黄金のようだった。


 だが、ここからもう一手間が必要だ。

 細切れにした肉、野菜、ハーブをブイヨンの中に投入する。卵も使うが、ここでは卵白だけだ。火にかけて、じっくりと掻き回す。


「おや、おはようございます」


 既に作業を始めている俺に、アイドゥスが声をかける。だが、俺は集中していた。ここには温度計がない。世間話をしている余裕はない。卵の白身が凝固し始めたら、手を止めなくては……今だ!


 一歩下がって、額の汗をそっと拭う。

 ふと、横を見ると、少し驚いたような顔をしたアイドゥスが立っていた。


「……どうしました?」

「いえ」


 すぐに微笑を浮かべると、彼は言った。


「かなり気を張っておいでのようだったようなので」

「それはそうです」


 鍋に視線を向けながら、答えた。


「ここまで手をかけた料理を無駄にするわけにはいきません」


 今は目が離せない。


「ご覧ください」


 レードルで卵白を掻き分けて、中を見せた。


「ほおぉ」


 垣間見える金色のスープに、彼は短く感嘆の声を漏らした。


「まだ少しかかります。あと一時間は。その後、漉したら出来上がりです」

「こんなに手間をかけるなんて……まるで王侯貴族の料理ですね」

「アイドゥス様、それは正反対です」

「反対、ですか?」


 顔をあげると、俺は言った。


「患者の皆様がいらっしゃるまで、あと少しあるかと思います。お出しできるように整えておきますので、こちらは任せて準備のほうにお戻りください」


 スープはできたが、他にもやることがある。

 持ち込んだ残りの材料と、スープのだしがらを具にして、パンに挟んでいく。上品なスープだけ飲ませても、農民は満足しそうにないから。


 準備万端整って、俺のすぐ横にアイドゥス達が戻ってきた。例によって性別ごとに固まっている。男性は男性、女性は女性が診察しなければならないからだ。

 ゲートが遠くで開かれたのだろう。無数の足音が近付いてくる。交通整理を引き受ける若い聖職者達に先導されながら、彼らは列をなした。その目はアイドゥスを見上げて輝いていた。

 だが、こちらを見ると怪訝そうな顔をした。今まで料理を出されたことがなかったからだろう。

 流れとしては、まず診察と治療、それからこちらに来るという形になった。パンのほうはいいが、スープは器の数が限られているので、俺も暇ではない。洗ってすぐ次の客に出さなくてはいけないのだ。


「先生……」


 体を引き摺る初老の農民が、苦しげに声を漏らす。ようやくにしてアイドゥスの前にしゃがみこむ。


「どうなさいました」


 彼は笑みを絶やさない。


「肩が、右が痒くて、肌が」

「そうですか。拝見しますね」


 上着を脱いだその皮膚は、右肩を中心に灰色に染まっていた。変なブツブツまで出ている。


「ああ、これはさぞおつらかったでしょう」


 振り返ると、アイドゥスは助手に短く指示をする。薬品を浸した布で皮膚をさっと一拭き。患者は苦痛に顔を歪める。


「先生」

「はい」

「これ、うつるんですか。村の連中が気味悪がって」

「大丈夫ですよ。これは他の人にはうつりませんから、触っても大丈夫です。医者がそう言っていたと伝えてください」

「なんか、焼いたほうがいいって言う人もおるけど」

「そんなことはしなくていいんですよ。この薬を毎日塗ってください。あと、ほどほどに日光を浴びてくださいね」


 医師の笑顔は、薬の一種なのかもしれない。

 患者の顔にも笑顔が戻ってくる。


 処置のほうも、現実的かつ効果的だった。

 これはピュリスにいた頃から感じていたのだが、この世界、文明の水準の割に、医療や衛生面のレベルが高い。地域によっては温水浴の習慣もあるし、コーナの実みたいな消毒薬の材料が安価で手に入る。もっとも、病気とは重症化してから高価な医薬を用いるもの、という遅れた考えが一般的なのは、問題だったのだが。

 地球の中世なんかと比べると、こちらのほうが遥かに優れている。ものの本によれば、大昔の地球では、迷信と医療に違いなんかなかった。ペストが流行するのは惑星の運行が原因で、傷口を治療するには患者を傷つけた武器に薬を塗ればいいとか、現代人にとっては狂気そのものの世界だったのだから。

 この世界では、ちゃんと患者の状態を見て、経験則に従って対策を決めている。おまけに治癒魔術なるものまで存在する。迷信ではなく、本当に効き目のあるおまじないだ。


 患者のほとんどは無学な農民だ。合理的にただ症状のみを訴えて、すんなりと治療を終える人は少なかった。あらぬ憶測や不安、ひどいのになると病気とは全然関係なさそうな文句や愚痴まで垂れ流す。

 二人目の男が、まさにそれだった。


「最近、妻が文句ばかりで……」


 病気の話が一つも出てこない。そうじゃなくて、体の症状をさっさと言えよ。


「口が臭いとか、なんとか」

「それはおつらいですね」


 なのに、アイドゥスはやはり笑みを絶やさず、同意してみせる。

 それどころか、この遠まわしな表現で、患者に必要な薬が何かを察したらしい。


「では、こちら。まず、お口のほうは、歯茎の腫れが問題ですから、よく磨くようにしてください。皆さん、お年を召されると、どうしても歯がやせ細ってきますから、歯と歯の間に汚れが溜まるんですね。ですから、食後一時間ほど経ったら、お掃除してあげるとかなりよくなります」


 これはわかるとして……


「もう一つのほうは、こちらのお薬を。ただ、食べるものにはご注意くださいね」

「食うもの、ですかぁ?」

「お塩が多いのではないですか。あとは、怒りを溜めておいでです。そういうことが、こうした病気のきっかけになることもありますから」


 顔を寄せて、アイドゥスは言う。


「お心当たりがあるのではないですか。最近、お小水のほうが出がよくないとか」

「あっ」

「あとは……いわゆる『聖水』もよくありません。夜更かしも避けてくださいね」

「へ、へぇっ」


 病名に一切触れずに、彼の診察は終わった。

 それでピンときた。男性機能の問題、か。


 これは大変だ。

 自分の症状を的確に伝える能力を持たない人々を相手に、辛抱強く話しかけ、適切な対処をしなければならない。問題の種類によっては、はっきり言ってくれないことさえある。特に飲酒や性行為なんかは、禁忌の領域だ。なのに、アイドゥスはあくまで我慢強かった。


 診察が終わった患者がこちらに流れてくる。

 俺は声をかけた。


「スープがあります。パンもあるだけですが、召し上がっていただけますよ」


 振り返った男に、俺はそっと器を差し出す。もちろん、スプーンも添えて。


「飲むというより、噛むように含んでください。熱いので、お気をつけて」


 飲む前から、男は目を見開いていた。黄金のスープ。こんなの見たこともないのだろう。

 ゆっくり食べろと言ったのに、あっという間に平らげてしまった。びっくりした顔のまま、器を返すと、フラフラしながら引き返していく。


 俺の横では、女性の聖職者が、同じく配膳を引き受けていた。女性の患者に食べ物を手渡すのが男ではまずいからだ。こちらも食べる人の顔を見ればわかる。処置の後で、苦痛や疲労感に滲んでいた顔が、いっぺんに明るくなる。


 してやったり、だ。


 日差しに黄色いものが混じりだす頃、やっと最後の患者が背を向けた。アイドゥスはその間、昼食もとらずに働き続けていたが、やっと手が空いたらしい。周囲の男達に声をかけてから、こちらに歩み寄ってきた。


「お疲れ様でした。今日はありがとうございました」

「いえ」


 これが彼、アイドゥスの生き様か。大国の要人になりながら、機会があれば医師として立ち働く。自らそう望んでいるからだ。それどころか、まだ物足りなくて、闇医師になったりさえしている。彼の視線はいつも、最も弱い人達に向けられているのだろう。

 大事な政務は? と言いたいところだが……恐らく、その方面では、今はやれることがないのではないかと推測できる。ジェゴス派が圧倒的な力を振るっている現状では、彼にはさしたる発言権もないのだろう。とはいえ、それが免罪符になるかどうかは、俺の中では結論が出ていない。


「どうなるかと思いましたが、ファルス様に来ていただいて大正解でした」

「そうですか?」

「どうしても病気のことですから、いいお話ばかりできるわけではありません。患者様の中には、気落ちして帰られる方もおいでです。そんな方々も、やはりおいしいものを口にすれば、明るい顔をなさいます」


 満足げに目を細める。

 だが、彼も疲れているだろうし、空腹でもあるはずだ。


「あの」

「はい」

「もうパンはありませんが、スープは少しだけ残っています。お召し上がりになりますか」


 一瞬、考える素振りを見せたが、すぐ返事があった。


「お願いします」


 器に最後のスープを注いで、彼に手渡した。


「どうぞ」


 彼は立ったまま、一口すすった。

 ガバッと顔をあげ、やはり目を見開いている。


「ファルス様、これは」

「お口に合いましたでしょうか」

「なんという……味、香り、美しい色合い。貴族の食卓に出しても通用します。これほどの贅沢とは」

「そう思われるのも無理はありませんね。でも、それは贅沢ではないのです」


 俺はキッパリと言った。


「これが贅沢ではない? どういうことですか」

「アイドゥス様、このスープの名前は『コンソメ』というのです」

「コンソメ……聞いたことがありません」

「遠い遠い国の言葉で、『使い切る』という意味です」


 英語で「消費する」っていうのと、語源は同じ。

 もっとも、この世界の言葉には存在しないので、彼にわかるはずもないのだが。


「素材を長時間煮て、味わいを出し切ります。丁寧に取り扱って、純粋な旨みだけを抽出する。まさに使い切るのです。ただそれだけで、特別と言えるほどの食材を必要とするわけではありません。ただ、手間だけはかかります」


 俺はレードルを鍋の中に放り出し、腰に手を置いてまっすぐ立った。


「僕がなぜこのスープを作ることにしたのか……聖都に至る途中で、僕は藁の婚礼に立ち会いました。そこでは、それこそ聖都の街並みのような、灰白色のつまらない粥が出てきました。わざわざ塩を抜いてまずくした、何の値打ちもない一品です。僕は、あれこそが贅沢だと思っているのです」

「と言いますと」

「食べ物は、飢えを鎮め、体力を増し、喜びを得るために摂るものです。その役目を果たさない、欠陥のあるものをわざわざ作る……これほどの無駄こそ、まさに贅沢ではありませんか」


 これは、俺のポリシーだ。

 料理を作る時、そういう要望があれば別だが、自分の裁量で決められるなら、無駄なものは出さない。前菜からデザートまで、客がちょうど食べきれる量のものを提供したい。ワンポイントで高価な食材を使うことはあっても、満遍なく贅を尽くした代物は皿にしない。限られた中でベストを尽くす。

 同時に、必要なものはすべて含んでいなければならない。


「この国も同じです。広大な農地があり、有り余るほどの食糧生産があるのに、どうして人々はこんなにも貧しいのですか。聖都の聖職者達が富を溜め込んで、外に出さないからではないのですか。でも、過剰は、欠乏と等しく病です」


 アイドゥスは、息を詰めて俺の言葉を聞いていた。


「この国の政治のことは、でもまぁ、知りません。それはそれをする人達が考えればいいことです。ただ、僕としては」


 俺は今、一介の料理人なのだから。

 その瞬間だけは、立場も出自も、身に帯びた騎士の腕輪も、何もかもが意味を失う。


「求める器にぴったり合うよう、ただただ手間をかけ、真心だけを込める。不足も無駄もなく、使い切る。これが料理の品格だと、僕は思っています」

「素晴らしい」


 器を持つ手が小刻みに震えていた。

 アイドゥスは静かに嘆息し、呟いた。


「ファルス様! ファルス様……あなたは道をご存知です」

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