脅迫は、暖簾に腕押し
「こちらで」
馬車が一揺れして、止まる。駆け降りた御者が扉を開け、高齢の枢機卿が降りるのを手助けする。
居心地の悪い昼食会の後。作り笑いの子爵夫妻と、苛立ちを溜め込んだまま、それでも「いい子」であろうとして俯くソフィアをおいて、俺とアイドゥスは馬車に乗った。彼は俺を自宅に招待してくれるという。もちろん、断る理由などない。
ただ、今、馬車が止まった場所は、彼の自宅の目の前ではない。大通りの真ん中だ。聖都の中心部、つまり窪んだ真ん中にある高級住宅街ではなく、そこを東側に駆け上がったところにある、環状道路の一角だ。
周囲に丈の高い建物がなく、街の外れが近いのもあって、見晴らしがいい。聖地トーリアは周囲を山々に囲まれているが、東側だけはそのまま口を開けている。ポツポツと真っ白な家が立ち並ぶ向こうには、遮るもののない雪原が広がっていた。季節柄、日が落ちるのも早く、頭上では、灰色の雲に橙色の光の帯が混じっていた。
「少し歩きませんか」
アイドゥスは、いつも穏やかな笑みを崩さない。
「はい」
こうしてみると、人のよさそうな爺さんにしか見えない。
だが、これから彼を脅さないといけないのか。とにかく廟堂を自由に調査したいから、手配しろ。さもないとお前を告発するぞ、と。
「私の家はこの向こう、北側にありますが、何しろ日当たりがよくないのです。それなら、少し冷たいですが、風を浴びながら歩いたほうが、さっぱりなされるかと思いまして」
「おっしゃる通りですね。ここは空気が澄み渡っている気がします」
周囲に人通りはない。
ここより南に行くと、大きな建物が密集しているし、北の区域に入ると、やっぱり同じような景色になる。街の南東部は男子学生が集まって暮らしているし、北東部には教国の中枢で働く役人達の住宅がある。その間に挟まれたこの領域は、聖都の中の未開発地域なのだ。
ここでなら、密談も……
「なるほど、ファルス様とおっしゃるのですね」
いきなり、的外れなことを言い出した。名前ならとっくに承知しているはずだろうに。
だが、彼は意味ありげな視線をこちらに向けた。
「遠くに噂だけは耳にしておりましたが、納得です」
こいつ……
「隠すつもりはない、と」
「ありますよ」
彼の表情に変化はない。
しかし、今の一言ではっきりした。俺が彼の正体……聖都付近の祭りの町で闇医者をやっているという秘密……を知ったことに気付いている。
「心配なさらなくても大丈夫です」
「心配するのはあなたでしょう」
「私の家には、他に誰もいません。だから慌てなくてもいいのです」
わかっているのか?
いちいち秘密をつつきにきている。俺は脅迫者だ。もしそうでないというのなら、この場でそれを否定するはずだ。
「お茶に毒でも混ぜるんですか」
「ははは、まさか。毒になる物なら持ってはおりますが」
歩きながら、彼は目を細めて西の空を見上げた。
「ただ、もったいないと思うだけです」
「何がですか」
「今日という一日……いいえ、それでは誤解されてしまいますね。この冷たい冬の風、灰色の雲、夕日の輝き」
足を止め、俺に振り返って、彼は言った。
「せっかくですから、味わいたいと思ったのですよ」
何の力みもなく。
俺が口を滑らせたら破滅する立場で、よくもまぁ、肝の据わったことだ。
「ファルス様も、よろしければ、楽しまれてはいかがでしょう」
「そうですね」
それから、無言で俺達は歩いた。
街の北東部の住宅街、その一角に彼の住居はあった。しかし、その外観たるや。
周囲を他の建築物に囲まれた、小ぶりなペンシルビル。そう評価するしかない代物だった。ほとんど日差しが届かない。それでも一応、南側に陽光の届く場所があったのだが、そこには小さな馬小屋があった。年老いた栗毛の馬が、中に繋がれている。
「おお、よしよし」
駆け寄ったアイドゥスは、馬の首筋をそっと撫でた。
「ご自分で世話を?」
「いいえ、残念ながら、そういう時間はあまり取れないので。留守にしている間に、人に頼んでやってもらっています」
それでも、彼に懐いているらしい。気の抜けた顔つきが、それを物語っている。
「では、入りましょうか」
彼は先に立って、懐から鍵を取り出した。
「むさくるしいところですが」
石造りの家、それもこの狭さとなれば。日差しを取り込む窓も不足しており、玄関付近はほぼ真っ暗だった。見えるのは、砂粒に塗れ、磨り減った床の敷石だけだった。
それでも彼は、何がどこにあるかを承知しているのだろう。戸惑う様子も見せずに先へと進んでいく。なんとかついていこうとした時、ふっと頭上に光が灯った。
「あまり光にさらしたくないので、お早めに」
廊下には、いくつもの壷やガラス瓶が所狭しと並べられていた。中には様々な色合いの液体が詰まっている。熱や光で変質するようなものも含まれているのだろう。
俺は足早に通り抜けた。
奥の部屋に入ると、彼は扉を閉じた。
薄暗さのあまり、何もかもが色褪せていた。壁という壁が本棚で、そこにはみっしりと書物が隙間なく収められていた。小さな木の椅子が二つ、それと机が一つ。
短い詠唱の後、この部屋もまた、明るい光に包まれた。
「少々寒々しい場所ではございますが」
「居間とか、暖炉とか、そういうものは……なさそうですね」
「一応、あるにはあったのですが、そちらは作業用の部屋にしてしまいました。ああ、つまり……薬を作るのに、火を使うこともありますから」
いつもこの部屋にいるのだろうか。足下には絨毯の一つもない。いい歳をして、これでは冷えるだろうに。
「ですが、ファルス様には寒いことでしょう、今、湯たんぽでも用意しましょうか」
「いえ、お気遣いなく」
「では、お茶くらい、出させてください」
そう言うと、彼は部屋を出て行った。俺はおずおずと粗末な椅子に腰掛ける。
およそ潤いというもののない空間。どう考えてもお金持ちには見えない。廊下には所狭しと薬品の瓶が並べられ、書斎にはこの通り、本ばかりが積みあげられている。
セリパス教の徳目の一つに、清貧がある。アイドゥスの生活は、まさにそれだ。
もっとも、この狭苦しい家と、使用人のいない暮らしぶりには、他の目的もある。目立たず、見咎められない。変装して祭りの町に出向いても、簡単には気付かれない。
「お待たせしました」
「これはどうも」
「ああ、座ったままで結構です。お気遣いなどなさらず」
空のカップに、ティーポット。それらを机の上に置く。
「それにしても……」
「はい?」
「あの時とは、まるで口調が違うんですね。演技ですか」
「ははは」
アイドゥスは俺の向かいに座ると、笑って手を振った。
「こちらが自然で、あちらが演技ですよ」
「わざとああいう口調に?」
「ええ。あんまり丁寧な態度を見せると、聖職者らしいと勘付かれてしまいます。まぁ、意味がなかったようですが」
説明を終えると、彼は手を差し伸べて、俺にお茶を勧めた。
「さぁ、ファルス様」
彼は悪戯めいた笑みを浮かべて言った。
「好きなほうのカップを選んでください。それと、先に毒見を致しましょうか」
「どういうおつもりですか」
「ファルス様こそ、目的がおありなのでは」
彼はポットを持ち上げて、それぞれに茶を注ぐ。まだ充分色が出ていない。それをまた、ポットに戻す。こうやってかき混ぜるのと同時に、適度に冷ましていくのだろう。
「ここでなら、盗み聞きもされません。ご安心を」
「では」
俺は居住まいを正して、はっきり言った。
「アイドゥスさん、あなたは祭りの町で、闇医者をなさっておいででしたね」
「その通りです」
「僕がこの事実を公にすれば」
「はい。私は処罰されます」
公然たる脅しにも、彼の笑みは変わらなかった。
「それで、どうなさりたいのでしょうか」
「僕に協力すれば、黙っているつもりです」
「はい。何をすればよろしいですか」
というか、素直すぎる。
俺は脅しているのに、うろたえるでもなく、怒り出すでもなく、怯えるでもなく。楽しい世間話をしているような顔のままだ。
構うものか。
「聖女の廟堂に立ち入りたいです」
「それは、一般の説教会とは別にですか」
「隅々まで調べたい、といったほうがいいかもしれません」
「それはなぜですか」
俺は少し考えて、言った。
「理由なんて関係ありません。協力するかしないか、です」
「では、お断りします」
やはり何の力みもなく。水が流れるように、すんなりとそう答えた。
「断ったら」
「はい。あなたが当局に密告なされば、私は捕縛され、処罰されます」
「ではなぜ」
「理由がわからないからです」
「そんなに理由が大切ですか」
すると、彼は至極当然といった様子で、穏やかに説明した。
「もちろんそうです。なぜなら、あなたが誰かを傷つけるかもしれないからです。財貨を盗み出したり、誰かを殺害したり、国同士の揉め事を惹き起こそうとしていたりするのであれば、それに加担することは許されざる大罪となるでしょう」
言われてみれば、確かに常識的な……って、そうじゃない。
「だとしても、言う通りにしなければ、あなたが罰を受けます」
「はい。構いません」
「それでいいんですか」
「ふふふ」
彼はいかにも面白そうに笑った。
「ファルス様、これでは脅しになっていませんよ」
「なんですって」
「あなたは廟堂を調べたいとおっしゃる。ですが、そんなことは普通、誰にも叶わないことです。だからこそ、あなたはこうして私を頼ろうとしていますが、ではいざ、私を罪に落としたら、どうなりますか。この後、あなたは誰に頼って目的を果たせるというのでしょう」
確かに、アテがない。ドーミル枢機卿があのザマでは。
「あなたを嫌っている人達は、僕を好いてくれますよ」
「例えば、ジェゴス師のことですか」
「ええ、僕としては、目的が果たせさえするなら、相手が誰だって構いませんから」
「なるほど、それはよい心がけです」
と言いながらも、彼は首を横に振る。
「ですが、好意をもってもらうことと、交渉することは、まったくの別ですよ。私を陥れ、彼に喜んでもらっても、あなたにはもう、差し出せるものがありません」
……読みきっている、か。
アイドゥスを破滅させる。それはジェゴスの望みの一つかもしれないが、俺がそれを実現したところで、彼が俺に何か御礼をする義理はない。事前に契約を交わした仕事ですらないのだから。まして、俺がジェゴスに対して切れるカードは、これで打ち止めとなる。
だいたいからして、あの人柄だ。感謝なんかが彼の原動力になるはずもない。もし、アイドゥスの秘密を利用したいなら、先に交渉しなければなるまい。しかし、そもそも話し合いのテーブルにこの件を持ち出した時点で、はっきり事実を伝えずとも、ジェゴスは重大な手がかりを得てしまう。
「では、アイドゥス様、あなたは何が欲しいのですか」
「何もいりません」
「脅迫も通じない、買収もできない。つまり、あなたを動かすことはできないと」
「いいえ」
彼はとても簡単な結論を口にした。
「ただ、欲しいものを言えばいいのです。対価など要りません。差し上げられるものなら、差し上げます。また、脅しても返事は変えられません。差し上げられるものしか、差し出せないからです」
これはまた。手強いのか、容易いのか。
彼自身、そういう意識や目的はないのだろうが、彼は俺に断固とした対応をとっている。何の見返りもなくても、なんでもしますよ、でもできないことはしません……但し、何ができるかは「私が決めます」……柔和な表情の内側には、案外、剛直な精神が潜んでいるのかもしれない。
「少し見方を変えてみてください」
俺が沈黙していると、彼は提案してきた。
「あなたは廟堂を調べたいとおっしゃっていますが、それにはちゃんと目的がおありです。ですが、探し物が見つかる保証はありません。もしかすると、見当違いな探し方をなさっているとも限らないのです。であれば、事前に私に伝えておけば、手間を省けるというものでしょう」
「信用しろというのですか」
「ファルス様に後ろ暗いところがなければ、何の問題もございません」
どうする?
問題ない、か。いざとなれば、俺は彼を殺すことができる。証拠も残さずに。
「聖女を見つけるつもりです」
「聖女の亡骸をですか」
「いいえ、生きている聖女です」
一瞬、彼は目を丸くしたが、すぐ頷いた。
「では、ファルス様は、聖女が不死であるとお考えなのですね」
「その可能性があると思っているだけです」
「では仮に、不死の聖女を見つけたとして、ファルス様は何をなさりたいのですか」
やっぱりそうなるか。
質問に質問を重ねていくと、どうしたって核心に近付いていってしまう。
「同じく不死を得たいと思っています」
「なるほど……差し支えなければ、何のためかを教えていただいても?」
「人間、死ぬのが怖いのは、当たり前でしょう」
これ以上は。
俺の内心の話だ。彼には関係ない。
「とにかく。僕は聖女を見つけて、不死の秘密を探りたいと思っています。もちろん、聖女が死んだのなら、死んだ証拠を目にできれば満足です。どちらにせよ、誰かを殺すつもりもないし、何かを盗もうとも思っていません」
「しかし、不死への手がかりを得たら、どうなさいますか。そのために何かを奪おうとなさるのでは」
「もし、不死に至るための何か、秘密の宝物などがあるのかもしれませんが、それにしたって、今まで誰も使い方も知らずに置いていたものでしょう? 少し借りたって、誰も損をしませんし、それを持ち出したせいで大勢の人を傷つけるというのなら、手控えます」
一気にそれだけ言い切ると、アイドゥスは頷いた。
「わかりました。そういうことでしたら、協力させていただきます」
あっさり。
本当か? と疑った。
「ファルス様が誰かを欺いたり、傷つけたりするおつもりがない以上は、お手伝いしない理由がございません」
「で、でも。聖典派では、聖女は既に亡くなったと」
「教義の上ではそう解釈されていますが、それはそれでしょう。第一、本当に聖女が亡くなっているというのなら、それをファルス様が改めて確認なさったところで、何の不都合もありません。また仮に聖女がまだ存命であるのなら、それは大変価値のある発見です。聖女の導きに従って女神に仕える私どもにとっては、朗報ですから」
暖簾に腕押し的な、この手応えのなさはなんだろう? 掴みどころがないというか。剣術でいえば、うまく受け流されている時のような感触というか。
いや、彼は手伝うと言っている。なら、これでいいのではないか。
「協力して、くれるんですよね」
「はい」
「具体的には、何をしてくださるんですか」
「そうですね」
顎に手をやり、彼は少しだけ考えてから、言った。
「思いつく限りで一番確実なやり方は、やはり神学校ですか」
「学校?」
「ファルス様は、ただいま十歳でいらっしゃるかと」
「はい、その通りです。今年の四月で十歳になりました」
「本当は一年前に入学するところですが、そこはなんとでもなります。この国では、良家の子女は普通、五年間かけて神学校で学びます。そこで成績優秀な者は、司祭位を与えられますから、その資格でもって、廟堂の勤務にまわしてもらうのです」
やっぱりそうなるのか。しかし、五年?
「そんなにかかるのですか」
「最短でも、やはり三年……それも成績優秀者に限られます」
どこかで読んだような話だが。
「もしかして」
「はい」
「アイドゥス様、前から僕の目的をご存知でした?」
「いいえ? なぜそう思われるのですか」
「……宿舎の僕の私室に、同じ内容の手紙が差し込まれていました」
だが、彼は首を振った。
「それは私ではありません」
とすると、あれを送りつけたのは……
「どちらにせよ、五年でも三年でも、長いです。聖女がいるかどうか、保証もないのに、そんなにかけられません」
「では、なかなかに難しいですね」
「逆に、その、廟堂勤務の聖職者になれば、何でも調べられるのでしょうか」
「いえ……」
腕組みをして、アイドゥスは俯いた。
「やはり、常識的には許された行動範囲というものがあるでしょう。しかし、詳細を知っている人はいません」
「枢機卿でもそうなんですか」
「ご存知かもしれませんが、廟堂のことは教皇の専権事項です。だから、枢機卿といえども、中を自由に歩き回るというわけには参りません。ただ、現在のところはゼニット師が病に臥せっておりますから、実際の管理はジェゴス師が……ただ、どこまでご存知なのか。原則的に、廟堂勤務の司祭は、教皇以外の誰の指示も受け付けないことになっておりますから」
前に聞いた通りだ。
やはり、特に区別された管理体制が敷かれているらしい。
「その、あなた自身では無理でも、周囲に頼んでジェゴス師を動かすというのは」
「逆効果でしょう」
そう言うと、彼は苦笑いした。
「それに、私は枢機卿と申しましても、実権らしきものはほとんど持ち合わせておりません。昨年までは教育部門の責任者でしたが、それすら外されてしまいましたし……もちろん、多少の融通くらいは利かせられますが」
手紙一つで俺の滞在期間を延ばせてしまうのだから、相当な力なら持っている。ただ、それでも廟堂に手が届くほどではない、と。
「では、あなたをもってしても、これはなんともならないと」
「……いえ」
身を起こして、アイドゥスは俺をじっと見た。
「なんとかできるかもしれません。ただ……そうですね」
意味ありげな微笑を浮かべて、彼は言った。
「ファルス様、よろしければ、少しだけ『点数稼ぎ』をなさいませんか?」
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