噂話は心の毒

「なんだか済まなかったな」

「えっ?」


 帰りの馬車の中。

 いきなり男爵は、俺にそう言った。


 俺はというと、とにかくアイドゥスと再会したことで頭がいっぱいだった。どうやって連絡を取ろう、正体を知っているとこっそり伝えるにはどうすればいいか、そればかり考えていたのだ。だから、彼の一言は、不意討ちだった。


「ノベリク子爵には、下心があったみたいでね」

「下心、ですか。僕に?」

「ああ……」


 憂鬱そうに、長い溜息をつく。

 それから、何かを振り払うように頭を振って、やっと言った。


「彼は娘の処分先を探していた」

「は?」

「どうも先々に期待していないらしくて」


 開いた口が塞がらない。

 なに? まだ九歳の娘を? 見切り、早過ぎないか? で、俺? なんで?


「ああ……つまり、外国の、そこそこ影響力があって、卑しくない程度の家に嫁がせてしまいたいんだよ。できれば今すぐにでも」

「でも僕は貴族じゃないんですよ?」

「そんなの関係ないみたいで」

「なんでまた」

「聖都の中だけの話だが、まぁ、要するに家の恥だからだな」


 恥。でも、子供じゃないか。子供はバカなことをやらかすものだ。それをいちいち家の恥だなんて大袈裟に叫んでいたら、キリがないと思うのだが。

 男爵は、俺が釈然としない顔をしているのを見て、頭をガリガリ掻き毟りながら、説明した。


「もともとは司祭にするつもりだったらしくてね。勉強はできる子だったから」

「はい」

「でも、この国だから……きれいなことは教えても、悪いことを教えない。存在自体を知らせないんだ。わかるかい?」

「なんとなくは」


 ここでは、人は無菌状態で育つ。

 セリパス教では、汚らわしいものに近寄ってはいけないと考える。あれが悪だから、ああならないようにしましょう……ではない。最初から見ない、聞かない、触らない。そうすれば思いつきもしないから、それが一番いいという発想だ。

 しかし、これには弱点がある。いざ、それとは知らずに穢れたものに遭遇した場合……


「与えられたお小遣いで、片っ端から本を買って、読み漁ったらしい」

「勉強熱心ですね」

「ところが、中に『よろしくない』ものが混じっていたらしくてね」

「親とか家庭教師が、ちゃんと選別しなかったんですか」


 肩をすくめて、男爵は吐き捨てた。


「聖都特有の事情だよ。男親は娘にあまり近付かない。その分、愛着もそんなにないってわけさ。一方、旧貴族の娘で、司祭になれずに嫁いだ類の女となれば、そんなに教養もない。子供の勉強にもあまり関心を持たない。そこで家庭教師も見落としたら、もう誰も気付かない」


 ひどいな。軽くネグレクトだ。

 旧貴族の子女は、ただ用事をこなす使用人に囲まれるばかりで、人との触れ合いを欠いた状態で成長していく。それがまた、親になった時点での冷淡な感情を育むのだろう。


 もっとも、それを当たり前のものとして受け入れていける子供ばかりではない。

 ソフィアは、努力家らしい。しかし、その年齢に見合わない不自然なモチベーションは、どこからきているのか。屋内庭園の様子からの想像でしかないが、あれは自分に関心を向けてくれない両親に振り向いて欲しいからではないのか。

 彼女は明らかに、触れ合いに飢えていた。アイドゥスの優しい掌の温もりを払いのけなかったのだから。


「見たこともない言葉や表現に戸惑った娘さんは、あろうことか、その本を持ち出して通行人に意味を尋ねてまわったそうだ」

「うわぁ」

「挙句の果てに、著者の住居にまで押しかけたそうなんだが」

「もしかして、その著者って、クララとかいう」

「そう。よく知ってるね。彼女の著作の一部は、今では禁書扱いだ」


 あのエロい詩の意味がわからなくて、通行人に見せてまわったのか。それはまずい。他所では笑い話で済むが、ここでは。

 家の恥、どころか。軽く猥褻行為だ。セクハラだ。性犯罪者だ。痴漢同然だ。むしろソフィアはよく自殺しなかったものだ。というか、それさえも罪なのか。


 とにかく、その日以降、子爵は心無い噂話にずっと精神を蝕まれてきたわけだ。


「とある司祭の通報でことを知ったのが一年ほど前、だったかな? そういう事情で、彼はもう、娘を手元に抱えたままにしておきたくないんだ」

「いなかったことにしたい、と」

「そういうこと。で、ちょうどよく、君みたいな騎士が来たから、いっそくれてやれ、と」

「そんなメチャクチャな」


 旧貴族という立派な家柄の娘。成り上がりの少年騎士なら、欲しがっていい物件かもしれないが。セリパス教徒でもない俺からすると、さほどのメリットもない縁談だ。その代わり、デメリットもないが。共同体から切り離された女一人を引き取るだけの話なのだから。

 いずれにせよ、不老不死を追い求める俺には、不要なものだ。


「君を庭園に追い出してから、白状したよ。あの時間、娘さんが庭園に出てくるのを知っていたから、それとなく引き合わせようとしたんだ」

「たまたまアイドゥス師がいたからよかったものの」

「そうだな……二人きりだったら、どんな言いがかりをつけられていたか」


 とんだトラップだ。

 何もしてなくても、いかがわしいことをしたことになってしまう。なにしろあそこは、旧貴族の邸宅の敷地内。つまり、領主はトリエリクだ。証言できる有力な誰かがいない場合、彼の判断が事実になってしまう。

 だから男爵も、こうして俺に謝っている。まさかそんな目論見で呼びつけたとは思わなかったのだろう。


 もっとも、娘さん……ソフィアの反応からすると、きっとうまくいかなかったと思う。

 俺を見た瞬間、「穢れ」を遠ざけようと、一気に飛びずさった。父親からすれば、とっくに穢れてしまっているというのに、まったくご苦労なことだ。


「そういえば、アイドゥス師ですが……あれは、どんな方なんですか? 名の知れた聖職者なら、一応、出発前に調べておいたつもりなのですが」

「ああ」


 俺の質問に、男爵は頷いた。


「あれは、一昔前の人、だな」

「昔? でも、現役の枢機卿では」

「そうなんだが、もう政治の世界では、とっくに一線を退いているよ。二十年位前には教皇候補だったらしいが」

「へぇ」


 やっぱりそうか。

 あれだけ能力が高いってことは、それなりのバックグラウンドがあるのだろうとは思っていたが。


「今のゼニット師が教皇になる前は、トゥリル師って人が教皇だったんだけど、その人と地位を争ったらしい。で、どういうわけか、その後、そのトゥリル教皇の下で国内政治を一手に引き受けた」

「すごいですね!? じゃあ、相当なやり手だったんですね」


 だが、彼は首を振った。


「トゥリル教皇はたった三年で死んだ。その後がゼニット教皇だよ。あっという間に閑職に追いやられて……確か、教育部門の長官になったんだけど、それだって実権はなかったらしいし」

「どうしてまた、そんなことに」

「まぁ、批判だな。宗教的批判」


 何か、アイドゥスが道徳的にまずいことをしたとか?


「トゥリル師の時代は、今より規制が緩くてね。まぁ、こういう国家の方針なんてものは右に左に揺れるものなんだけど、ゼニット師の時代になってからまた変わって。アイドゥス師は先の教皇の下で失政を重ねたとされたんだ」

「失政、ですか」

「国全体としてみれば、貧しくなったわけでもないし、戦争に負けたわけでもないんだけど、ほら、ここは宗教国家だから、まず風紀第一なんだよ」


 とはいえ、彼自身が穢れた振る舞いに手を染めたのでもないのだろう。実績もあった。だからこそ、直接的には断罪できず、窓際に押し出すくらいしかできなかった。


「じゃあ、今は」

「仕事らしい仕事なんかしてないんじゃないかな? ああ、そういえば、なにか貧民救済のための有志の集いとか、そんなのを立ち上げて、ずっと活動してるらしいけど」


 ボランティアの会長ってところか。でも、そうなると、あんまり権力なさそうだなぁ……


「でも、聖都の若い司祭達や神学生の間では、今でもかなりの人気だそうだ。あとは農村とかだと、昔のことを知っている大人達にもね」

「へぇぇ」


 馬車が止まる。

 男爵の邸宅に着いたのだ。


「気を張って疲れただろう。うちで少し、休んでいったらいい。どうせ宿舎に戻っても、やることなんてないだろうからね」

「ありがとうございます」


 あの居心地のいい、寄木細工みたいな床の客間に通された。そこでソファに座って、香り高い紅茶を目の前に置かれると、ふっと余計な緊張が抜けていった。

 向かいに座った男爵が、喉を潤してから、口を開いた。


「君の滞在予定は、あと十日ほど、だったっけな」

「もうちょっとありますが」

「なら、その後はさっさと出国したほうがいい」


 なるほど。つまり、まだ俺に言うことがあるらしい。


「事情がおありなんですね」

「ゼニット教皇がとうとう危篤状態らしいと、さっき教えてもらった」


 また、そういう……

 最高権力者の死は、いつでも混乱を巻き起こす。さすがに内戦にはなるまいが。聖都には常駐している戦力も、ほぼないのだし。


「もし教皇が死去すると、選挙になる。といっても、投票できるのは枢機卿だけ、選ばれるのも枢機卿の中からだが」

「密室で決まる、ですか」

「君も見たことがあるだろう? 廟堂の大広間、あの聖女像がある場所で投票するんだ」


 となると、次の教皇候補は、誰なのだろう?


「庶民に一番人気があるのは、さっきのアイドゥス師だというがね。慈善活動に積極的で、しょっちゅう出かけていっては病人の世話をしているそうだから」

「有力なのは、また別だと」

「現時点での、この国の最高権力者は、ジェゴス師だな。ただ、彼は自分では教皇になろうとしない。代わりを立てるんだ」


 表に立つと、周囲の目も厳しくなるからだろう。房中術に長けた彼のこと、生活態度を改めるなんて、したくないのだ。


「キングメーカーってとこですか」

「そう。今のゼニット師もそうだったんだが、次はなんと、ミディア師だというんだ」

「ええっ? あの若い女の」

「ああ。まだ二十代なのにな。ただ、前例がないわけじゃない」


 横にいたもんな。ジェゴスの特別説教の時にも。

 けど、そうなると困った。ミディアはどうも俺を嫌っているようだ。これじゃあ廟堂に立ち入るなんて、夢のまた夢じゃないか。


「皮肉なものだよ。ミディア師は、もともと神学校時代には、アイドゥス師の生徒だったんだからね」

「そんな関係が」

「有名だったらしい。閨秀詩人だったクララ・ラシヴィア、とびきり優秀だったリン・ウォカエー、それにミディア・ピュテーレ。三人の才媛が同時期に頭角を現してね。これからは女が続々と枢機卿になるんじゃないかって噂されたとか」

「でも、実際には」

「クララは不祥事で出世レースから落ちこぼれたし、リンは中央から去った。残ったのは、ミディア師だけ。三人の中では、一番目立たなかったのにね」


 どうも彼の癖らしい。

 オールバックにまとめられたごま塩ヘアをガリガリ掻き毟りながら、話を続ける。


「君は目立たないように入国したんだろうが……だんだんと注目され始めている。ミディア師にも呼び出されたことがあるんだろう? そのせいで、あることないこと広まって、だから今日も、ノベリク子爵から名指しで招かれたんだ。今後、君を利用しようと目論む連中が、コネを得ようと面会を求めてくるだろう。そういうことに巻き込まれているうちに、きっとろくでもない目に遭う。だから」


 ハァ、と短く溜息をついてから、彼は言った。


「滞在期間を延長せず、そのまま聖都を去ったほうがいいと思うんだよ、私はね」

「お話、わかります。大変参考になりました」


 男爵の馬車で宿舎に送り返された。

 自室に戻ると、俺はベッドの上に身を投げ出した。


 人が感じる疲労感のうち、かなりの部分が、実は脳の疲れでしかないという。現に今日も、さほど動き回ったわけでもないのに、妙に体が重い。今までもストレスなら少なからずあったが、ここは格別だ。朝、目が覚めてから夜、眠りに落ちるまで。ずっと気が抜けない。ずっと毒の空気を吸い続けているような気がする。


 なんとも面倒臭い国だ。

 タリフ・オリムもそれなりに厄介だったが、ここはそれ以上だ。ほとんど糸口が掴めない。掴もうとすると、とんでもない罠が待ち構えていたりもする。


 こうなるともう、強行突破か。或いは、アイドゥス師の口利きでなんとかなればいいが。その前に、どうやって彼と接点を持てばいいのか。脅迫は、コミュニケーションなしには成立しない。

 せめてドーミル師が機能してくれれば……


 そう思って、ふと、視線を床に向けると、見慣れないものがあった。

 灰色の封書。それが床の色に紛れていた。


「なんだ、これ」


 俺は周囲を見回し、扉に鍵がかかっているのを確認した上で、それを拾い上げた。

 中には、これしか書かれていなかった。


『現時点での最短距離。神学校に三年。その後、廟堂の清掃担当。これ以上の支援は不可。受諾するなら滞在期間内に東部区域のシャルク神学校に出頭のこと』


 軽く怪文書だった。

 これを書いた人物は、俺の目的を知っている。協力してくれるつもりもある。だが、直接接触するのは避けたいらしい。そして、最善でも最低三年はかかるという。

 冗談じゃない。


 これは、本当に早いところ、方針を決めたほうがいいかもしれない。

 溜息をつきながら、俺はベッドに仰向けになった。

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