大使の気苦労
自室に引き篭もり、俺は今後について考えていた。頬を机にべったりつけて、日本語でブツブツ呟きながら。
タリフ・オリムでは、確かにそれなりにガードが固かったとはいえ、取引を持ちかけ、我慢を重ねることで、なんとか聖女の祠に立ち入る権利を得られた。あの時は、良くも悪くも人間関係が鍵だった。あの土地固有の面倒なコネが、俺を苦しめもしたが、後押しもした。幸運だったのは、庶民に至るまでが社会の一員で、影響力を有していたことだ。誰と仲良くなっても、無駄にはならない。必ず何かの手がかりになってくれた。
ここでは違う。不用意にも、旅の巡礼と何らかの関係を取り結びたいと思う住民はいない。全員が訓練された市民で、セリパス教にしがみついて生きている。社会の下層から上層へと糸を手繰るような真似はできそうにない。
だから、俺がどれだけ市民に話しかけても、挨拶以上のものは返ってこない。ここは厳格な思想統制国家なのだ。余所者との勝手な交際は、トラブルの原因にしかならない。
プレッサンに大金をあげても、形ばかりの仕事をしてくれるだけで、本当に俺の味方になってくれはしない。彼もまた、上から睨まれるのを恐れつつ、成績をあげようと必死なのだ。クララなら友達になってくれるかもしれないが、彼女と逢瀬を重ねると、後が怖いし、実質的には何も変えられない。
ならば、落下傘的に上から助力してもらえばいいのだが、頼みの綱のドーミル師は、どうやら「病気」らしい。教皇同様、高齢なのもあってボケが始まっているという。これではどうしようもない。
要するに、正攻法では手詰まりなのだ。
ということは……
非常手段に訴えるしかない、かもしれない。
具体的には、ピアシング・ハンドで肉体を強奪する。廟堂内部に立ち入る権限のある誰かになりすますためだ。ただ、それもなるべく、地位の高い人物を選ばねばならない。ここが問題だ。
廟堂の件は教皇の専権事項で、管理者達は教皇直属ということになる。ならば、強奪すべき対象は教皇になる。しかし、これがリスキーだ。
今までボケまくっていたゼニットが、急にシャキッとして廟堂の中をスタスタ歩き出したら、みんなどう思うだろうか? かといって、ボケたフリをしながら内部に立ち入ったら、さすがに止められるだろう。
もう一つ、リスクがある。ゼニットの認知症だが、肉体を取り替えたら、俺にも降りかかるんじゃないのか? 脳に損傷のある肉体を使うのだから。そうなった場合、俺は正気を保てなくなる。無論、元の肉体に戻ることを予め定めておけば、そのまま死ぬことだけは回避できるが、そうなると俺は、もしかすると最悪のタイミングで、いきなりポロッとファルス少年の姿に戻ることになる。
つまり、理想的なのは、廟堂管理の実務レベルでの最高責任者を見つけ出すことなのだが、これもできそうにない。この職務を引き受けている彼または彼女の名前自体、いちいち公開されていないのだ。それだけでなく、彼らが知っているであろう仕事上の常識や機密情報について、事前に調べておく手段もない。なりすますのが難しいのだ。
現状での最高権力者は、実質、ジェゴス師だ。しかし彼は枢機卿であって、教皇ではない。彼の肉体を奪って廟堂に……いいや、無理だろう。
それに、誰かの肉体を奪って行動するというのは、その間、ファルスが行方不明になることを意味する。プレッサンや異端審問官相手に、この間の不在をどうごまかしたものか。
つまり……
絡め手では無理。更なる強硬手段をとるしかない、かもしれない。
何らかの手段で廟堂内に忍び込み、邪魔する奴は殺してでも。最悪の場合、目撃者を片っ端から始末して、廟堂自体、焼き払ってしまう。
そんなメチャクチャな、と思うかもしれないが、意外と現実的だったりする。この街には、充分な数の警備兵もいない。周囲を囲う高い城壁もないので、逃走も不可能ではない。その分、身を隠すのに適した森なんかもないが。
しかし、俺にはピアシング・ハンドがある。つまり、誰かの肉体に乗り移って暴れまわるという手が使える。犯罪者は別の誰かで、ファルス少年は普通に正規の手続きを踏んで聖都を後にするのだ。
もちろん、これも簡単ではない。奪った肉体が充分健康で、かつ装備に困らない状態でなくてはいけないし、ちょうどいいところで使い捨てられないと、元の肉体に戻れなくなる。一連の変身の手続きを誰かに目撃されてもいけない。
どうしても、ということであれば、組織の指揮系統を混乱させるのもありだ。教皇は現在、機能していない。ジェゴスを中心とした枢機卿は、たったの二十四名。これを次々殺害する。俺の追跡なんかに割く労力などなくなるだろう。
神聖教国は、西方大陸一の大国だ。貧しい農民の生活を見ると、とてもそんな風には思えないのだが、広大な農地を南部に抱えていて、食糧生産には常に余剰がある。この世界の主要な産業は農業だ。豊かな農地は単純に人口を増やし、武力を高める。
その上、他国にはない強みがある。封建国家ではないことだ。なんと、中央集権制度が完成した国なのだ。王族の帰還は拒否、教会に逆らった貴族は全滅し、生き残った旧貴族も領地は没収、年金支給の対象に成り下がった。国家の運営方針は聖都の僧侶達が決める。要するに、指揮系統が一元化されているのだ。
だが、だからこそ、中央の混乱は地方を麻痺させる。
要人が全滅したら。ついでに政庁が破壊され、職員の大勢が突然死したら。国家としての機能は失われるだろう。その隙を狙って廟堂に立ち入るというのはどうか。
でも、完全にテロリストだ。
しかも、絶対に不死への手がかりがある、という保証もないのに。
バカにならないリスクもある。思わぬ強敵が控えているかもわからないし、遠くからダニヴィドが俺の所業を観察しているかもしれない。それに、自分の中でそれはさすがにどうか、と思う部分もある。いけ好かない国とはいえ、いくらなんでも無差別殺人というのは……
グチグチ考えていたところで、またドアがノックされた。
「ファルス様」
プレッサンだ。やってくるのは二日ぶりとなる。
俺がミディアの機嫌を損ねた件で、何か叱責でも受けたのだろうか。微妙に声に力がない。
「お客様がおいでです」
「どなたですか」
「エスタ=フォレスティア王国の方ですが」
誰だろう?
談話室に向かうと、ソファに凭れていた男性が、すぐ気付いて立ち上がった。
なるほど、フォレス人だ。亜麻色の髪、少し小柄な体つき、そして何より、カラフルな服。青く染められた衣服がカッコよくキマっている。セリパシアでは滅多に見かけない、洗練された雰囲気が漂っている。
「お休みのところ、申し訳ございません」
「いいえ、とんでもございません」
俺よりは年嵩だが、まだ二十歳前だろう。それがこのへりくだった態度。
顔立ちは整っているが、どこか威圧感がないというか、代わりにねっとりした印象を与えるというか。
何かに似ていると思った。そうだ、宮廷人。あれとそっくりだ。
「私、フォレスティア王国の大使に仕えるクルドゥンと申します」
大使?
では、俺の存在を見つけてくれたのか。こちらはまだ、相手の名前も知らずにいたのに。
そんなこともわからないのか、と言われそうだが、なにしろ、情報源がない場所だ。プレッサンも教えてくれないし、街には酒場も市場もない。世間話すらできない環境なのだから。
「本日は、ファルス様を公邸にお招きするようにと仰せつかりました」
馬車が止まると、そこは美しい芝生と木々に彩られた庭の前だった。やっぱり、聖都といっても富裕層はいいところに住んでいる。
「季節柄、お目にかける花もなく」
「あ、いえいえ、お構いなく」
フォレス人貴族の習慣に合わせて、クルドゥンは俺に緑を見せようとしてくる。そう、身分の高い人が客人を招く際には、これをやるのが通例だ。しかし、してみると俺は、ただ連れてこられたのではなく、歓待されている。
「ところで、そろそろ教えてくださってもいいかと思うのですが」
「もうすぐお目にかかれますよ」
問題は、大使が誰なのか。聖都には酒場も新聞もインターネットもない。よって、その程度のことすら、俺の耳には入ってこない。或いはオプコットに留まっていれば、逆に知り得た情報かもしれないが。
彼は、笑いながらはぐらかすばかりで、何も教えてくれなかった。すぐにわかることなのに? これはある種の悪ふざけと考えていいのだろうか。
ほどなく、応接間に案内された。温かみのあるクリーム色の壁に、なんと木の床だ。幾何学的な模様に見えるように、木材を隙間なく詰め込んだ代物。寄木細工のようだ。見るからにフカフカのソファがコの字型に置かれており、真ん中に丈の低いテーブルがある。すぐ近くには、あかあかと燃える暖炉があった。
「こちらでおかけになってお待ちください」
そう言い残すと、クルドゥンはさっさと消えた。
ソファの温もりを膝の裏に感じ始めた頃、足音に振り返る。
「やぁ! お久しぶり! まさかこんなところで会えるなんてね」
少し後退した髪。どちらかといえば痩せた体。しかし、顔立ちには人のよさが滲み出ている。
最後に会ってから一年とちょっと。束の間の出会いでしかなかったのだが、俺も彼もしっかり覚えている。
「閣下、お久しぶりです」
慌てて立ち上がる俺を身振りで制止しながら、彼……ベレハン男爵は大股に歩いて俺の向かいに座った。
一年三ヶ月前の内乱以来だ。
「あれからどうなさったのかと思っていましたが、まさかセリパシアにご着任とは」
「そうしたほうが、いろいろ都合がよかったんだよ。ほら、例の件があったから」
先王の侍医だったモール、そしてウィーを、王家の牢獄から勝手に逃がした。いくら内戦中とはいえ、完全にルール違反だ。ことが白日の元にさらされれば、お取り潰しは確実だろう。
「……イータ君から少しだけ聞いたが、彼女はどうなったかね」
身を乗り出して、囁くような小声で。名前は出さず、そう尋ねてくる。
「ご安心ください。別人の名前と身分証を用意して、西部国境を越えさせました。その先はわかりませんが」
「そうか。よかった」
友人の娘の無事を確認して、彼は頷いた。
「私もあれから不安もあってね……今の陛下の貴族狩りは、それはもう恐ろしかったから、ほとぼりが冷めるまで遠くに行くことにしたんだ。何しろ、こちらも脛に傷持つ身だからね」
「内乱中のことをあれこれ探られたら、大変でしょう」
「今のところは、何も起きていないようだけど。とにかく従順かつ勤勉でないと、どんな目に遭うかわからないよ」
そう言うと、彼は身を起こした。この話題はここで打ち切り。使用人にさえ、探られたくはない。
手を打ってメイドを呼んだ。
「お客様にお茶を」
「畏まりました」
一礼して去っていくメイドを見送ると、彼は俺に尋ねた。
「私のほうはそういう理由があってだが、君はなぜ、こんな国まで?」
「僕のほうもいろいろですよ。でも、今は興味を満たすためもあって修行の旅をしています」
「興味?」
さすがに不死という目標について語るわけにはいかないので、表現は選ぶ。
「聖女とは何者だったのか。それを追いかけています」
「ふうん?」
「神壁派の本拠であるタリフ・オリムでは、聖女の祠を見学しました。だから、こちらでは廟堂を見たいのですが……」
「見るだけなら、週に一度、説教会があるはずだ。司祭位以上の資格があるか、特別な許可を取れば参加できると思うが」
「はい、それで一度は立ち入ったのですが、そうではありません。中を調べたいと思っていまして」
「そ、それは」
俺の要求の大きさに、彼はしかめ面になった。
「難しいのではないか。考えてもみたまえ。一般人が、フォレスティアの王宮に立ち入れるかね? よしんば何か訴えることがあるにせよ、せいぜい謁見の間くらいまでだろう。その奥にある後宮には、普通は近寄ることさえできない。廟堂は、この国にとっての後宮、いや、それ以上に重要で、神聖な場所だ。聖職者でもないのに、自由に出入りなんて、できるはずもない」
まったくもって、道理だ。
「おっしゃる通りだと思います。でも、それでもなんとしても調べたくて」
と言いながら、頭の中で、別の道筋を考えていた。
この流れはまずい。まず、聖女に固執する……不死を追い求める理由を説明するとなると、俺の出自について語らなければいけなくなる。転生者であることやピアシング・ハンドの存在を知らせてしまうのは、あまりに大きな代償だ。
それだけではない。聖女や不死を追究する過程で、また使徒が顔を出した。下手をすると命に関わる。これほど危険なことに、まだ他人と呼べる関係性しかない男爵を巻き込んでいいものか。
他にもある。現に聖女の祠の奥には、誰にも知られていない謎の遺物があった。クララはあそこから出られないからまだいいが、タンディラールの臣下で、いわば情報の管理が仕事である彼に、この手の事実を伝えてしまっていいものか。
俺が悩んでいる一方で、男爵も腕組みして考え込んでしまった。
「しかし、興味本位でやっていいことではなかろうに」
「まぁ、そちらはどうしても無理なら諦めますが」
と言っておくしかない。
俺の本音や覚悟を知らせたら、不利益を蒙るのは彼なのだし。だから、切り口を変える。
「ただ、僕は手紙を預かっていまして」
「手紙?」
「ピュリスの常任司祭であるリン・ウォカエーより、師であるドーミル枢機卿への手紙を届けたいのもあって、この国に来たんです」
「届けることができないのかな」
いや、手紙自体はもう渡っている。
しかし、ここはなんとしても話を繋げてしまわないと。
「僕につけられた僧侶のプレッサン経由で渡っているはず、なんですが」
「なら、いいのでは」
「お返事もいただけていません。せめて顔を見て、言葉一つでも持ち帰らないと、リンさんに言い訳ができませんよ」
「なるほど」
ということで、頼るのは枢機卿にする。
どうせこんな国の生臭坊主だ。利用されて、利用して、おいしいところだけかっさらっていけばいい。何なら消し去ってやったって。
「そういうことなら、私が少しは力になれるかもしれないな」
「本当ですか?」
「この国のお偉いさんと仲良くするのが私の仕事だからね。私がご挨拶に伺う分には、先方も断るわけにはいかない。どこかで都合をつけてくれる。君は私のお供になればいい」
「助かります。このお礼はどこかで」
「いや、なに。私だって君に期待はしているからね」
そこへまた、さっきのメイドが戻ってきて、静かにティーカップを置く。
「閣下はどうして僕がこの街に来たことを知っておいでだったのですか?」
「ああ、それは難しいことじゃない」
そう言いながら、彼は指で輪を作った。
「ああ」
「そういうことさ。女神だなんだといっても、所詮はこいつがモノを言う」
外国の貴族といえども、例外ではないのか。
「なぁに。これも必要経費だ。逆に変にケチケチすると、仕事らしい仕事もできない」
「そうみたいですね……」
俺の表情で、何があったかを悟ったのだろう。
「どうやら、君も毟り取られているようだね」
「はい」
「しょうがないさ。彼らも必死なんだ。成績をあげないと」
一口、紅茶を飲み下してから、彼はカップを戻した。
「聖職者は掃いて捨てるほどいるのに、ポストはほんの少ししかないからね」
「枢機卿が二十四人でしたっけ」
「そうそう。で、それと同じくらいおいしいのが、外国の司教職かな。アルディニアにはないけど、フォレスティアの各国に一つずつ、あとワディラム王国と帝都、確か東方大陸と南方大陸にも一箇所ずつ、あったっけな……」
一応、世界的な大宗教だから、拠点もそこら中にあるのだろう。ただ、組織の詳細については知らなかった。
「で、それもそんなにはないから、次においしいのが、国内各地の司教と……あとは管轄教会の司祭職。こっちが狙い目で」
「管轄?」
「ああ、まぁ、これはあんまり知らないよね」
座り直した男爵は、前のめりになって、俺に説明をしてくれた。
「セリパス教会といっても、全部が全部、神聖教国の支配下にあるわけじゃない。たとえば、神壁派の教会なんかには、まったく支配が及んでいない」
「そうですね」
「もともと、帝国時代にはすべての教会が中央の統制下にあったわけだけど、一度滅んだからね。で、その後、政変だのなんだのとあって、教会組織も完全に分裂。諸国戦争のゴタゴタもあったから、数百年単位で、各地の教会と教国は関係がなかった」
大昔、帝国時代に作られたハコはあり、そこに司祭も信者もいる。しかし、世界的な戦乱の中で、中央組織からの援助や命令が一切届かなくなり、それが何百年も続いた。いざ、教国が成立して、ああせよこうせよと言ったところで、真顔で受け取る人は多くなかった。
「つまり、教国が直接関与して、援助と指導をしているのが管轄教会なんだ。ピュリスにあるのも、確かそれだったはずだよ」
「そうだったんですね、へぇ」
「こういうところのは、中央から直接司祭位をもったのが送り込まれてくる。司祭といっても、国内の司教並みの待遇といえるかもね。運営資金も、信徒から巻き上げるんじゃなくて、教会組織から出してもらえるし、何かの際の判断は司祭に任されているし」
とすると、あのリンも、結構なエリートだったというのは、伊達ではなかったということか。中央で枢機卿になったミディアほどではないにせよ、それなりの地位を確保しての帰国なのだから。
……で、ゲーム三昧の毎日か。誰にも縛られない身分で。結構なことだ。
「で、管轄教会以外のを……ま、俗に野良教会なんて呼んだりするね。こちらは大抵、もともとある教会が教国の支配下に入らないままになっているものだけど、信徒が自発的に作った新しい教会、なんてのもある。で、こういう野良も、それなりの努力をすれば、教国側から認めてもらえて、管轄教会になれたりもする」
「そうすると、お金をもらえるようになるんですね」
「その代わり、いってみればこの国の外部機関になるわけだから、勝手な真似はできなくなるけどね。教国は西方大陸で一番の大国だけど、それだけじゃなくて、こういう仕組みがあちこちにあるから、侮れないわけさ……ま、エスタ=フォレスティアでは、王都とピュリスくらいにしかないけどね。こちらは、領主の許可が必要だから」
この気持ち悪い国の影響力が及ぶ場所、か。まっとうな権力者なら、増殖させたくはないだろう。しかし、今でもセリパス教は世界的な宗教で、信者も多い。目立つ形では弾圧もできない。となれば、どうやって付き合うかが問題となる。
「管轄教会の司祭ともなれば、馬鹿にならない影響力があるよ。さすがに王族を相手取るのは無理だけど、地方の貴族くらいとなら、普通に面会できちゃうし……ま、今の私の立場と同じようなものだからね」
だからこそ、かつてリンは暴れることができた。サフィスを弾劾したり、逆に勲章を与えたり。そこらの木っ端教会の司祭では、ああはいくまい。バックに神聖教国の力があり、かつ地元の信者達の声もあるからこそ、貴族と渡り合えもするのだ。
というか、そもそもの話、彼女はどうして着任直後にあんな揉め事を起こしたのか。教会が嫌う性的逸脱と対決した事例が欲しかった? 何しろ、教国の判断によってはクビが飛ぶ地位だ。私は忠実ですよ、勤勉ですよ、というアピールをしたかったのかもしれない。今はともかく、当初の彼女の視線は、ピュリスではなく、そこの市民でもなく、教国のお偉いさんに向けられていたに違いないだろうから。
「私も、だから聖都でよく声をかけられたりもするよ……きっと役に立つから、教会を建ててくれって」
「野良教会で旗揚げして、なんとか管轄教会に格上げしてもらおうってことですか」
「そうそう。ヒラの司祭で飼い殺しにされるよりは、ってね」
俺がこの国で生まれ育ったとしても、目指すならその地位だろう。いくら上の身分になったって、旧貴族でもない限り、あれこれ息苦しすぎるし。
「考えていることはわかるよ。そう、みんなできれば外に出たいのさ」
「苦しいのは僕らだけじゃないんですね」
「君とは縁もある。それに、今の陛下のお気に入りでもあるようだからね。できるなら、恩を売っておきたくはあるが……この国はね……」
そう言いかけたところで、出入口にメイドが戻ってきた。
「なんだね」
「お話中のところ、申し訳ございません」
一礼してから、彼女は言った。
「エスティ様がおいでになられました」
「ああ」
男爵は、眉を寄せて不快感を示した。
「来客中だからと……ああ、いや、それでもよろしければおいでくださいと。個人的な時間を過ごしているとも付け加えておいてくれ」
「承知致しました」
一礼すると、メイドは去っていった。
俺は、訝しんだ。彼はエスティなる来訪者を好ましく思っていない。だが、はっきり断るのも面倒だから、こう言うしかなかった?
彼も気付いて、短く説明する。
「君のところのプレッサン、だったっけ? あれと同じだよ」
それで理解した。要は監視員だ。
「但し、それよりちょっとだけ厄介だ……いいかい、君は私の故郷から来た人で、また、私の友人でもあるトヴィーティ伯の縁者でもある。遠いフォレスティアの話を聞かせて、私を慰めるためにやってきた。そういうことにするんだ」
「は、はい」
「それと、彼女をまっすぐ見てはいけない。いいね」
「彼女?」
目を丸くする俺に、彼は小声で言い足した。
「私が一人でこちらに来たから、つまり……藁の結婚を回避した修道女の就職先だ。油断すると、弱みを……」
そこで気配に気付いた。
「シッ」
足音だ。それも軽い。とすると、彼の監視を担うエスティなる人物は、やはり女性なのか?
ほどなく、出入り口のすぐ裏に、揺れる法衣が垣間見えた。
「ご主人様、エスティ様がお見えに」
「ああ、お入りください……すぐにお茶を」
「畏まりました」
立ち去るメイドと入れ違いに、その女は室内に立ち入ってきた。
俺は目を瞠った。
流れるような金髪。サラサラのロングヘアだ。白い僧帽をかぶってはいるが、まったく髪を隠せていない。これは奇妙なことだ。セリパス教では、性的魅力は罪業の源。だから、スカーフをかぶったり、髪を振り乱さないよう三つ編みにするなどして、少しでも目立たないようにするのが常識だ。一般人でもそうするのに、女司祭がそれをしないなんて。
白い法衣も、変に着崩している感じがする。腰帯がやや高い位置にあるおかげで、体のラインがはっきり見えるのだ。華奢な体つきだが、出るところはしっかり出ている。
そして何より……うっすらと化粧をしている。白粉に口紅。そして香水。あり得ない。ここはフォレスティアではないのに。
信じられない。男女の接触が厳禁であるはずの聖都で、男のところに女を一人で寄越す。それも着飾った状態で。
何を考えているんだ?
「ご機嫌伺いに参りました」
水がしみこんでいくような声色。彼女はそう言って一礼した。
「どうも、エスティさん」
「まぁ、閣下」
愛想笑いを浮かべて、彼女はゆっくりと近付いてきた。
腰が揺れる。胸が揺れる。
一瞬だけ、男爵は俺にアイコンタクトした。それから、作り笑いを浮かべる。
「私のことは、どうか名前で呼んでくださいとお願いしていますのに」
「そんな、畏れ多いことですよ。人を導く司祭の方に、馴れ馴れしくなど」
「それを申しますと、閣下もやはり、人を導く貴族の方でしょう? 私のほうこそ、気後れしてしまいますわ」
心を蕩かす女の媚、か。
そう言いながら、彼女は俺に視線を向ける。
「ご歓談中のところ、お邪魔して申し訳ありません」
「とんでもありません。お会いできて嬉しいです」
「エスティさん、こちら、騎士の修行のために諸国を回っている従士のファルス君です。今日はうちで故郷の話でも聞かせてもらおうと思ってですね……ああ、ファルス君、彼女は二十歳前で正式に司祭位を得たエスティさんだ。優秀な方だよ」
「はじめまして」
俺も形だけ笑顔を浮かべて、頭を下げた。
内心で毒づきながら。
理解した。こいつは、神聖教国のハニートラップ要員だ。
男爵は外国の要人で、だから邸宅内であれば、セリパス教の制約には縛られない。妻や側妾と性的関係を持っても、罪に問われないのだ。しかし、この国の窮屈さを知っていた彼は、家族をこちらに伴ったりはしなかった。そもそも五十絡みの男で、もう性欲も枯れているから、側妾なんかも必要なかったのだろう。
しかし、そういう単身者相手に「突撃」するのが、彼女の仕事なのだ。もちろん、普通は誰もそんな役目なんか引き受けたくない。しかし、何事にも例外がある。既に貞操を失った女であれば? しかも、生涯にわたって結婚という選択肢が失われている場合には?
藁の結婚を回避した女の中で、素質がありそうなのを訓練し、こういう用途に使っているわけだ。妻との関係は罪にならなくとも、この国の女司祭を抱いたとなれば。もちろん、すぐに裁かれたりはしない。ただ、不祥事にはなる。その発覚を恐れるなら、外交官は教国の言いなりになるしかない。
男爵が、彼女の立ち入りを許したのはなぜか。司祭の訪問を拒むのは、いろいろまずい。変に勘繰られたくないのだ。それに、どうせ俺の来訪は隠せない。それより第三者がいれば、性的関係を迫られるのを簡単に防止できる。
やっぱり反吐が出る。
ここは最低最悪の国だ。
気苦労が絶えないんだろうな、と思いながら、俺は横目で彼の顔を盗み見た。
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