道を踏み外した秀才

「ファルス様」

「なんでしょうか」

「考え直すおつもりはございませんか?」


 俺が今、立っているのは聖都の西の街区だ。こちらは女性が多い区域となっている。神学校も当然男女別なので、東側には男子が、西側には女子が割り当てられているのだ。

 そういう都合もあって、女性の単身者も数多くここに居を構えている。性別ごとに集まって生活しているほうがトラブルになりにくい。すれ違う時に体が触れたり、相手を注視しただけで問題になる。それにいざ急病、となっても、女性を診察できるのは女医だけなのだし。

 東側の街区には、だから男性の単身者が多い。妻帯者でも、家族を別の街に住まわせたまま、本人だけがこちらに来て働いていたりする。


 そしてもちろん、街の景色にも変化はない。この時間、出歩く人がほとんどいないというくらいだ。朝一番の出勤か、夕方の帰宅を除けば、外出する理由がない。死んだように静まり返った真昼間。相変わらず、白みがかった灰色の、のっぺらぼうの壁と石畳ばかりが居並んでいる。


「あのように女神と聖女を称える詩人が、師の友人となれば、捨て置くことはできません。きっとよい学びがあることでしょう」


 いらないと思った五巻が、こんなところで役に立った。


 目の前にあるのは、二階建ての集合住宅だった。その門前に、俺とプレッサンが立っている。

 ここの二○三号室に、あの閨秀詩人、クララ・ラシヴィアが住んでいる。本日在宅というのも、既に確認済みだ。


「どうですか。せっかくですから、ご一緒に」

「いいえ、ご冗談を」


 身震いしながら、プレッサンは後ずさった。


「ここでお待ちしますが……」


 恨みがましい視線を向けてくる。だが、構うものか。


「僕の奉仕と向学心が不足しているとでも」

「いいえ、そのような」

「ご心配は無用です。ただ、神学上の疑問をいくつかぶつけてみたいと考えているだけです。大変に優秀な方だったというお話でしたから」


 あからさまに彼は苦々しげな表情を浮かべていた。淫らな女の部屋に立ち入る少年。こいつは何しに聖地に来たのだと。

 だが、文句は言えない。彼の「営業成績」に寄与してやったからだ。


 そう、俺は怒りを噛み殺して、追加で金貨百枚を納めた。どうせ金を持っているのはバレているのだ。おとなしくしていても、きっと絞り取られる。ならば、せめてクララに会うために。そして、彼女から何でもいいから助言を得るために。

 どうすれば目的を達することができるのか。とにかく、見当もつかない現状を打開しなくては。


「お早めにお願いしますよ? 日が翳る前にお戻りください」

「では」


 一礼すると、俺は中へと踏み入っていく。うっかり女性と鉢合わせないよう、前方に気をつけながら。


 二階に上がり、入口の扉の前で、備え付けられたベルを鳴らす。小さな棒が二本あり、これで叩いて鳴らすのだ。俺は一歩下がって待ち受ける。

 ややあって、扉は内向きに開いた。


「……ようこそ、おいでくださいました」


 玄関口に立った女性は、俺の姿を見て、一瞬硬直した。それでも静かな声でそう挨拶した。フォレス語で。


「突然の来訪、ご迷惑をおかけします」


 彼女……クララは、いかにもルイン人らしい体格の女性だった。しっかりとした骨格。肩幅もある。低くはない背。金髪に青い眼、白い肌。そして、彫りの深い顔立ち。

 と同時に、見た目には華のない人でもあった。野暮ったい黄土色のセーターに、似たような色のスカートを穿き、ボリュームのない髪の毛は肩にもかからないほど短く切られている。そこに申し訳程度のスカーフをかぶって、一応髪を覆っていますよというポーズを取っている。

 顔には化粧っ気がなく、大きな丸眼鏡をかけている。ただ、その眼差しの奥には、確かな知性と落ち着きある感情が宿っていた。


 これがあのエロい詩を書いた本人なのだろうか? 落ち着きすぎだし、色気もまるでない。

 無理もないか。ルイン人は、少女の頃にはとても可憐で、成人してからは肉感的だが、外見的に老いるのが早い面もある。ましてや彼女には、出会いもなければ、外出の自由もない。

 それどころか、自分から魅力を損なっているところもありそうだ。この極端に短い髪の毛……肩どころか、なんとか耳に届く程度というのは。長い髪は性的アピールで、つまりは淫らである。彼女は素行不良で自由を失った。現在は「反省中」なのだ。

 今からでは、なかなか想像できないが、きっと若い頃には、それなりにかわいらしかったのだろう。


「本日いらっしゃることは、教会より伝えられています。どうぞ、中へ」


 彼女が背を向け、距離が空くのを確認してから、俺も室内に立ち入った。


 単身者用のマンションとはいえ、そこはやはり聖都。ウサギ小屋ではなかった。玄関よりすぐ左手には物置があり、更にその先には恐らくトイレ、そして浴室まであった。ただ、自前で湯を沸かすのは大変だろう。たぶん、定期的にお湯を運んでもらえる約束になっているのではないか。

 そこを抜けると、通路は右に折れ曲がった。左と正面に扉がある。右の突き当たりの奥は……多分、厨房だろう。間取りを図面にすれば、コンパクトに見えるかもしれないが、廊下の幅も広いし、全体として大きめに作ってある。狭苦しさは感じなかった。

 薄暗いながらも、ランタンなしで視界が確保できている。明かり取りのための窓が、南側の高い位置にあるはずだ。


 クララが目の前の扉を開けると、途端に外の光が目を焼いた。


 応接室兼書斎は、南に面した広い部屋だった。その一面がガラス窓になっている。とはいえ、さすがにそこまでお金はかけられないのだろう、透明度は高くない。足下にはクリーム色に焦げ茶色で縁取りした上品な絨毯が敷かれており、そこを中心にソファと丈の低いテーブルが据えられていた。壁際には本棚があり、そこにぎっしり本が詰まっている。また、反対側にはデスクがあり、木の椅子があった。

 なんでもない部屋のように見えるが、この世界ではガラスも書物も値が張る代物だ。この水準の生活ができる人は、決して多くはない。


「そちらにお座りください」


 穏やかな口調だった。俺は一礼して、ソファに腰掛けた。


「遠いところからはるばるお越しいただけて、嬉しい限りです。それで本日はどのようなご用件で……」

「こちら、ご学友の司祭、リンより」


 俺が早速手紙をと、懐から封筒を取り出すと、クララは一変した。猛禽のような鋭さでいきなり引っ手繰ると、音も立てずに素早く開封し、あっという間に文面に目を通してしまった。その電光石火の動きに、俺は呆気に取られていた。

 いったいなんだ? この人は。急に豹変するとか。ついさっきまで物腰柔らかな、いい人っぽいオーラが出ていたのに。


 クララはデスクに近付くと、インクと紙を手にして、俺の向かいに座った。そしてキツい口調でピシャリと言った。


「お話はわかりました。どうやらファルス様、あなたにはルイン語と聖典に対する理解が足りていないようです」

「ええっ!?」

「手紙にもそう書いてあります。それで、どうにも指導が及ばないので、助力して欲しいとのこと」


 何を手紙に書いたんだ、あのゲーム狂は。

 と思っていると。


『これは読めますか?』


 クララは真っ白な紙に、手早くフォレス語で文字を書きなぐった。そして、そっと俺にペンを持たせる。


「とりあえず、聖典の……そうですね、『清純の誓い』の章をここに書き出してみなさい。これくらいは暗記しているのが常識ですよ」

「は、はい」


 これは……


『はい、読めます』


 無言のまま、彼女は頷くと、また紙に書き足した。


『私は監視されています。ここでの会話も聞かれています。言葉遣いにはご注意ください』


 昼下がりの応接間には、淡い冬の日差しが差し込んでいる。足元のカーペットも柔らかく、その温もりは足に心地よい。そんな中、出来の悪い生徒と厳格な女教師が、謝罪と叱責を繰り返している。


「ああ、また! そこ、間違えています! 書き直しです!」

「済みません。やり直します」


 察するに、すぐ隣の部屋に監視要員がいて、聞き耳を立てているのだろう。なんともご苦労なことだ。四六時中見張り続けているのでもなかろうが、今は俺という訪問者がいる。しかも、教会経由で来訪を伝えているのだから、この会話が盗み聞きされないと思うほうがおかしい。

 だから、本当の会話は筆談でやるしかない。


『どれだけ知識ばかり積み重ねても、私もまた、愚かな小娘でしかなかったということです』


 クララは身の上について、そう説明した。

 過去の恥とはいえ、説明しないわけにはいかなかったのだろう。俺に今、こうして面倒な筆談を強いている原因が、そこにあるからだ。


 セリパス教では、意外と男女差別がない。帝国時代までは、淫らな行いの原因は、主として女性にあるとするのが基本的な考えで、だから監視や処罰も女性に偏ってはいたが、それも統一時代に解消されたらしい。

 理屈としては性的接触が禁忌なのであって、男や女そのものが穢れているわけではない。ゆえに、神学校での成績がトップだったクララは、幹部候補生だった。このままいけば、聖職者になるのであればという条件付きだが、この国の支配者層の一員になれるのは確実だった。

 しかし、ときに若さは、ある種の傲慢を招き寄せる。あらゆることを学び、考えるうちに、彼女は疑問を抱くようになった。どうしてこんなにも性的に抑圧されなければならないのかと。そしてクララは、既存の教えを丸呑みするだけで満足できるような人物ではなかった。貪欲な知識欲を持つ、聡明な女性だったのだ。

 感情の発露が、場合によっては罪になるこの国で、彼女は出口を求めた。ごく若いうちから詩を書き、それを世に広めるようになったのも、そうした思いがあったからだ。当時は今ほど規制も厳しくなかったのもあり、結果としてそれなりの名声を博したが、そんなもので満足できるはずもなかった。


『東の果てから、貴公子が旅してきました。私はあっという間に心を奪われました』


 学問ばかりで、恋を知らなかった彼女のこと。女あしらいに長けた貴公子の前では、網にかかった魚同然だった。

 古くはチャナの王族の血を引くという青年、ユンイは、しなやかな体と、美しい黒髪の持ち主だった。逞しさではルイン人に一歩譲るとしても、背も高く、肌もみずみずしかった。蠱惑的な眼差しはクララの心臓を抉り取り、笑う時に見える歯がその残骸を滅茶苦茶に食いちぎった。

 戒律も法律もなんのその。あとは簡単だった。気付けば臥所に招かれて、すべてを捧げてしまっていた。


『私は、何もかもを捨てて彼についていくつもりでした。自由な帝都への憧れもありました。でも、ある日突然、彼はいなくなってしまったのです』


 本気だったのはクララだけ。ユンイにとっては、ただの遊びだった。

 無理もない。それまで恋の一つも知らずに育った、いわば無菌状態の箱入り娘だったのだから。しかし、傷ついたのは心だけではなかった。


 この国では、婚前交渉は恥辱による罰を受ける。少なくとも、藁の婚礼を挙げなければならない。だが、相手がいない。

 しかもクララは、既に重要人物だった。国外にも翻訳された詩集が出回り、国内では出世レースの第一線に立っていて、高位の聖職者達の後援を受けていた。それがいきなり、この不祥事だ。関係者は、すべてが明らかになった時点で、後始末に奔走しなければならなくなった。


 一時は死刑まで検討されたという。これはただの淫行ではない。聖なる都を汚したのだから、死をもって償うべきだと。

 だが、クララの名前は海外にも知られている。それをこういう形で断罪したのでは印象もよくないし、そもそも直前までは国の未来を背負う逸材と褒め称えてきた枢機卿達の立場もない。

 それで彼女は、聖都に留め置かれることになった。事実上の軟禁だ。


『当初は、数年でほとぼりが冷めるかもという見通しもあったのですが、今ではその望みもありません。このまま死ぬまで閉じ込められるのでしょう』


 リンが神聖教国を後にした時点では、まだクララの将来が完全に閉ざされたわけではなかった。だから、その学識も評価していたので、俺が現地で頼る先としてピックアップしたのだろう。だが、この二、三年で、状況はむしろ悪化していた。


『こちらの事情を知らないから仕方がないのですが、できれば私に接触しないほうがよかったと思います』

『僕としては、どちらでも同じです。ドーミル枢機卿には手紙も届けられませんし、聖女の廟堂にはちょっと立ち入っただけで終わってしまいました。これでは目的も何もありませんから』

『差し支えなければ、あなたの目的を教えてください』


 少し迷ってから、俺は書いた。


『聖女の不死性を確認し、僕自身、その不死を得ること』


 途方もない目標に、クララは目を見開いた。

 けれども、そこは聡明な彼女のこと。すぐに立ち直って、あれこれ考え始めた。口元にはうっすらと笑みさえ浮かんでいる。考えるのが楽しいのだろう。


『リンが在学中に研究していましたが、この件については証拠が足りていないと思います。ですが、差し当たってあなたができるのは、有力者の支持を取りつけること』

『僕には、この国に知り合いがいません』

『ドーミル師に面会を申し込みましょう』

『どうやって』

『私にしたように。お金を積めば、手紙くらいは届けられます。リンの紹介状なら、彼女はやり方……ドーミル師の欲しいものを知っていますから、何らか反応を引き出せるはずです』


 また出費か。

 しかし、それで得るものがあるのなら。


『それと、あなたはエスタ=フォレスティア王国の内乱で活躍し、貴族達にも名が知られているようです。私は詳しいことは聞いていないのですが、つい先月、この国に新任の大使がやってきたそうです。借りを作ることになるかもしれませんが、あなたの力になってくれるかもしれません』

『名前はわかりますか』

『いいえ。ここでは情報が制限されるので』


 こちらも要チェック、と。

 なるほど、相談しに来た甲斐はある。


『この国で自由に行動したいなら、聖職者達の支持を得ることです。二十四人いる枢機卿達の過半数を抑えれば、だいたい無理も押し通せます。今は教皇ゼニットも病床にあり、一切の聖務から手を引いているそうですから、ほとんどのことを枢機卿だけで決めています』

『そんなにひどいのですか』

『少しだけ聞きかじった限りでは、ここ二年ほどは日常生活もままならず、意味のある言葉も話せない状態だそうです。便所でもないところでいきなり排泄したり、誰も近くにいないのに大声をあげたりといった有様だそうで』


 完全に認知症ってわけか。

 だけどそのほうが都合がいいから、誰も彼を引き摺り下ろさない。


『だからドーミル師に助けを求めるべきだと』

『実は、彼も同様の状態にあるという噂があります』


 そんな。

 聖都の中枢は、あれか? 老人ホームか? じゃなければ精神病院か? あり得るな。街全体、国全体が狂っているんだから。


『では、誰の支持を取り付ければ』

『今、一番力を持っているのは、ジェゴス師です』


 あいつか。

 枢機卿のくせに、房中術に長けたハゲジジィ。


『ですが、皮肉なことですが、私に面会したことで、ジェゴス派はあなたに冷たい視線を向けるかもしれません。というのも、以前、彼らの腐敗を揶揄する詩を書いたからです。申し訳ありませんが、私とは二度と会わないほうが身のためです』


 この国を牛耳っている連中からすれば、今のガチガチの規制だらけの状態が好ましいということ。そのルールからはみ出た人間と仲良くする馬鹿者の話など、聞いてやる必要はない。


『それにあなたの目的も、聖典派の思想とは相容れません。聖女の不死性を確認する、ということを、私以外に言わないほうがいいです。少なくとも、主流派の枢機卿には』


 俺は頷いた。


『しかし、そうまでしても、あなたが廟堂の中を自由に歩き回るというのは、かなえられないかもしれません』

『なぜですか?』


 無理だろうが、仮に枢機卿全員がゴーサインを出してくれたら。なんでもやり放題じゃないのか?


『廟堂の管理は、教皇の専権事項だからです。教皇と、その直属の部下だけが廟堂の深部に立ち入れることになっています。あそこは清掃員まで含め、全員が司祭位以上を持っていて、しかも教皇以外からの命令すべてを拒否する権限を与えられています』


 もともとセリパス教の教会組織が、この廟堂の管理を目的として設立されたことを考えると、それも無理はない話、か。これでは、仮に俺がジェゴスの肉体を奪ったところで、自由に歩き回ったりはできない。


『この国にとっての最重要施設は廟堂ですが、その外側を神殿騎士達が守っています。しかし、その内側は、教皇直属の秘密警察が警備しているとも噂されています。ただ、これは誰かが目で見て確認したわけではありません』


 物騒この上ない。

 教皇直属の連中は今、上司不在だ。となれば、枢機卿が何を言おうと、構わず侵入者を排除するかもしれない。もっとも、秘密警察の件はあくまで噂だ。差し当たっては、廟堂の管理を担う聖職者達が問題か。

 なら、そいつらになりすますか? しかし、彼らには彼らの約束事があるはずで、仮に誰かの肉体を奪って侵入しても、いつもと違うことをしたら、一発で見破られるだろう。やはり簡単にはいくまい。


『とりあえず、私にわかることはこの程度です。他に何か、ありますか?』


 俺は頷き、懐から紙を取り出した。

 そこに書き込まれた文字に目を通すと、彼女は視線を向けて尋ねた。


『これはどこで?』

『タリフ・オリムの聖女の祠の奥に、未発見の遺物がありました。石碑と、その他の残骸に、それぞれ文字のようなものが』


 二枚の紙を見比べながら、彼女は頷いた。


『こちらは読めます』


 すると、サラサラとフォレス語に翻訳してくれた。


『使徒なるムンジャムは、モーン・ナーの御力により、異形なるテミルチ・カッディンを封印した』


 使徒!?

 テミルチってなんだ?


『このテミルチというのが何を示すのかは、わかりません』

『使徒というのは、確かですか』

『他に当てはまる言葉がありませんでした』


 それもそうか。現代のフォレス語やルイン語とは違う。


『第一世代のルイン語とされている文字でした。だからこちらはある程度、解読できました』

『もう一つは』

『まったく見たこともありません。ですが、興味深いです』


 さほどの手がかりにはならず、か。

 しかし、そうなるとこのテミルチというのは、魔王か何かか? しかし、そんな名前は聞いたこともないが。

 ムンジャムというのもわからない。そんな人は、歴史書に出てこない。彼女も知らないのだろう。


『書き写しても構いませんか?』


 少し考えてから、頷いた。

 ここから出られない彼女にとっては、知的な娯楽になることだろう。

 逆にこれがここに残されることによって生じるリスクは……ないとは言わないが、ごく小さいだろう。仮に使徒が俺を見張っていたとしても、彼女を手にかけるとは考えにくい。それこそ「見張ってました」と宣言するに等しいからだ。クララはここを出られない。何もできない人間をいちいち殺すのは無駄だし、デメリットもあるとなれば。


 それにしても、テミルチ、ムンジャム……

 ダメだ。やっぱり、まるっきり記憶にない。

 どこかの魔王か何かだと思ったのだが。


 ふと、昔の疑問を思い出した。


『そういえば、ギシアン・チーレムはなぜセリパシアを攻めたのでしょうか』


 彼の目的は、世界の統一と魔王の討伐だった。最後に戦った相手が「暴虐の魔王」とだけ呼ばれている存在だ。その魔王の「幽冥魔境」の跡地は、チーレム島の南部に残されている。

 名のある魔王なら、いくつか知られている。中でも最大の脅威だったのが、南方大陸を支配した「変異の魔王」イーヴォ・ルーだが、他にも東方大陸にはゼクエスというのがいた。

 では、セリパシアには魔王がいたのだろうか?


『魔王を討つためではなかったのか、わざわざ人間同士の戦争をしたのはなぜか、という疑問が、かなり昔にありまして』


 俺の問いに、彼女は少し考えてからペンを取り上げた。


『私個人としては、世界統一も彼の主目的で、魔王討伐と同じくらい重要だった、という認識です。ですが、ムーアン大沼沢といえば龍神ギウナが有名ですが、その後にも魔王がいました。ご存知でしょうか』


 なんか物凄く地味なのがいたっけ。でも、ちょっと思い出せない。


『狂気と腐毒の魔王グラヴァイアというのですが』


 どこかの本で、チラ見した程度だ。ほとんど話題にもならないくらい、マイナーな存在だった。


 何者だったのか。ほとんどプロフィールらしきものはない。モーン・ナーとギウナの争いのしばらく後、どこからともなく沼地にやってきて、ウロウロしていただけの魔王だ。

 というと、なんだかショボい奴のように思えてくるのだが、そんなことはない。無数の触手、黒いシミだらけの青紫色の不気味な巨体、そして撒き散らされる猛毒。周囲にはいつも黒竜達が付き従っていたという。

 帝国の騎士団は幾度となく討伐を試みたが、すべて失敗に終わった。やはり、魔王と呼ばれるだけのことはあったのだろう。

 それがどうしてこんなマイナーキャラに落ち着いているかというと……一つには、沼地を出ることがなく、従って強さのわりに被害もなく、帝国にとってさほどの脅威にならなかったから。もう一つには、ギシアン・チーレムの手によって、たった一日で倒されているからだ。以後、二度と問題になることもなかった。


『あれを倒すために、わざわざ帝国を攻め落とした、と』

『可能性はないでもないですが……やはり、世界統一と、魔王討伐、両方が等しく目的だったのかもしれません』


 筆談が途切れた。

 そこでクララは、ほのかな笑みを浮かべた。


『リンは元気にしていましたか?』


 手紙に書いてありそうなものだが。しかし、直に見てきた俺の声を聞きたいのだろう。


『ゲーム三昧に幼女趣味の、どうしようもない不良聖職者でした』

『相変わらずです』


 笑い声を漏らさないよう、彼女は口元を抑えた。


『でも、あれで昔は浮いた話もあったのです。私達は、友達同士でしたから。今はこんな私ですが、三人揃って学院の才媛だと、誉めそやされていました』

『あの人、男は臭いとか、理想の夫はお金だとか、メチャクチャ言ってましたが』

『二回も失恋したせいでしょうか? ステーキにスプレーを』


 そこまで書きかけて、クララは慌てて二重線を引いた。

 ステーキにスプレー……なんだ? その続きは? 気になる。


『済みません、今のはなかったことにしてください』


 そうして、悪戯っ子のような微笑を浮かべた。


 まぁ、これでだいたい、聞けることは聞けたか。なら、長居は無用。俺と彼女のためにも。

 そう思ったところで、クララは躊躇いがちにそっと筆を走らせた。


『ご存知であれば教えてください』


 何のことだろう、と座り直すと、彼女は続けた。


『私の詩に盗作疑惑がかかっているそうです』


 えっ?


『もちろん、そんなことはしていません。ですが、特に前半の作品……当局の処分前の作品が、外国の作家の模倣だという話を聞きました。心当たりがあれば、と』

『残念ですが、僕は何も知りません』


 知りようがないので、そう答えるしかない。

 彼女は眉をへの字にして、弱々しく微笑んだ。


『ありがとうございます』

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