藁の婚礼
翌朝は、よく晴れていた。朝一番から晴天というのは珍しい。
もっとも、起きる時間が遅かったせいもあるかもしれない。寝不足で頭がぼーっとする。
朝の一杯の後、俺は荷造りを始めた。あと二日も歩けば、ようやく聖地に辿り着ける見通しだ。
宿の部屋から出て、俺は隣の扉を睨みつけた。そして日本語で呟く。
『このリア充が一晩中楽しみやがっておかげでこっちは寝不足だっていうのに今は快眠貪りやがってどうせ今から体力温存して今夜も励むんだろ畜生俺はこれから一日歩くんだぞどうしてくれるんだこのクソ野郎どもとビッチどもめ』
それからふうっと息をつく。
俺は小心者なのだ。でも、たまに吐き出したくなることだってある。
なるほど、性欲は罪だ。なぜなら、俺の安眠を妨げたからだ。正義の女神が罰を下してくださるように。
階段を降り、外に出る。
神の飲料を飲んだばかりだが、やはり今のうちに何か温かいものを口に入れたい。コーンスープなんかを飲めれば最高だ。移動中は冷たい保存食しかない。どこか出店の一つでもないものかと、広場に向かって歩き出す。
そこの角を曲がれば、というところで、ちらりと大鍋、そして立ち上る湯気が見えた。ついてる。
自然と早足になった。
「おはようございます。済みません、おばさん……」
鍋の中の粥を売って、と言おうとしたところで、鍋の前に立つ中年女性の不自然な態度に気付いた。無言で首を振り、目を伏せる。そして手を前に突き出して、俺に沈黙を求めた。
なんだ? と思い、振り返る。広場には大勢の人がいた。その誰もが口を利かず、ある一方向に注目していた。だが、そこにはまだ、何もない。
それで俺は、人々の表情を見やった。
注目している割に、楽しそうな様子など一切なかった。この祭りの町で見かけた人の顔は、ほとんど誰もが生き生きしていたのに。これではまるで、ここの外にいるかのようだ。誰もが所在無く立ち尽くし、これから起きることを憂鬱そうに待ち受けていた。
ガシャッ、と金属が擦れる音。斜め後ろの通路から聞こえてきた。
振り返ると、そこには鎧を着た兵士が二人。彼らの片手には槍が、もう片方にはロープが握られていた。
繋がれていたのは……人間だった。
それは若い男女だった。この寒さなのに、上着も薄いのが一枚きり、それもボロボロになったのを着せられている。靴もなく裸足のまま。
驚いて、よく見ようと一歩を踏み出し、気付いた。ひどい臭いだ。さっきまで肥溜めにいたんじゃないかと思うほどの。
兵士の一人が、男のロープを解く。すると男は、なんと驚いたことに、女を縛っていた縄を解き始めた。それでは異性に触れてしまうではないか。だが、実際に彼の手が彼女に触れても、誰も何も言わなかった。
そのまま、男女は二人して正面を見つめていた。その表情には、色濃い悲しみが滲んでいた。
ややあって、反対側から数人の人影が現れた。先頭に立つのは白衣を身につけた中年の司祭で、その後ろに粗末な服を着た年嵩の人々が続く。
それを見た二人は、唇を噛んで俯いた。
「グノー、クリーマ、両名、前へ」
呼びかけられて、二人は下を向いたまま、人々の間を割ってとぼとぼと歩いた。そして、司祭の前で跪く。
司祭の表情には、あからさまな軽蔑が見て取れた。
「おお、見よ、人々よ」
わざとらしく、芝居がかった口調で彼は言う。
「罪穢れに染まった二人の、なんと醜いこと」
すると、周囲の人々もそれに唱和する。低く力のない声で。
「なんと醜いこと」
「道を踏み外した者は、悪臭芬々たり」
「悪臭芬々たり」
「邪悪の誘惑に屈した魂は、清められねばならぬ」
「清められねばならぬ」
胸が悪くなった。いったいどんな罪があってこんな陰湿なやり方を?
こんな不快なお芝居に参加したい人などいないはずだ。しかし、この国で聖職者に逆らうのは、文字通りの自殺行為。イジメに加担しなければ、自分がいじめられる。
それは、この二人の家族といえども同様だった。
「穢れしグノーの父よ」
「ここに」
司祭の背後に立っていた初老の男が進み出て、膝をついた。
「グノーに妻はおるか」
「おりません」
司祭は後ろを向きもしない。傲然たる態度のまま、同じように続けた。
「穢れしクリーマの母よ」
「ここに」
「クリーマに夫はおるか」
「おりません」
文脈が見えてきた。
ということは、この二人は……
「彼は妻を持たず、彼女は夫を持たぬ。ならば何故をもって、彼は彼女に触れ、彼女は彼を許したのか」
……未婚の男女が、性的接触をした。またはそうしたと看做された。
その裁きだ。
「既に穢れしクリーマよ、聖女の名において、ただ一度だけ、真実を述べる機会を与える」
「はい」
「そなたはグノーを許したのか」
性的接触があった場合。
一応、それは同意の上なのか、そうでないのかが区別される。もっとも、たとえそれが強姦だったとしても、女性の穢れがなくなるわけではない。穢れは穢れ、ゆえに彼女の行き先は女子修道院となり、そこで未婚のまま、生涯を女神への奉仕に費やすことになる。まさに残りの人生をかけて、自分の欲望を否定し続けなければならないのだ。
なお、同意なしの性的接触だったとされた場合、男の側は死刑だ。
クリーマと呼ばれた女は、じっくりと時間をかけてから、ようやく答えた。
「……はい」
彼女の中で、どんな葛藤があったのだろう。それは知る由もない。
ただ、婚姻関係にない男を性的に受け入れた、という事実を認めることは、自分自身に「淫乱女」の烙印を押すのと同じだ。強姦された場合と比べて、不名誉の度合いはずっと大きくなる。
場合によっては、愛し合ったはずの男を生贄にしても、体裁を保ちたいと考えた女もいたのではないか。
しかし、もっと深刻なケースも考えられる。そもそも、二人に性的関係があった、というのが間違いであった場合だ。強姦はおろか、恋愛関係にもなかったら。しかし、司祭の問いは、その可能性を考慮していない。呼びかけからしてそうだ。「既に穢れしクリーマ」なのだから。
だが、そうした場合、彼女は非常に厳しい選択を迫られることになる。触れられてもいないのに、あれは強姦だったのか、合意の上だったのかと問われるのだ。
「既に穢れしグノーよ、聖女の名において、ただ一度だけ、真実を述べる機会を与える」
「はい」
「そなたは何故にクリーマに触れたのか」
これはどう答えたらいいのだろうか。この土地の人間でない俺には、まるで見当もつかない。
正直に「情欲のままに」などと言ってしまっていいんだろうか? それとも「妻にするつもりだった」で済むのか? いや、そちらはむしろよくないか。罪を認識しない罪という、もっと深刻な状況を招く。
この文脈からすると、例によって「俺はやってない」と主張するのもアウトだ。それは偽証罪とされてしまう。
「……女神の恩恵を前に、我を忘れました」
よって、言葉を選びつつ、欲望に負けたと告白する。
彼らの中では、女の美貌もモーン・ナーの恩寵なのだ。しかし、それは勝手に触れてよいものではない。食事に招かれた人が、主人の許しなく皿に手を伸ばしたら、どう思われるだろう?
「この場に居並ぶ信徒らよ」
司祭の一人芝居は続く。
「今の言葉を聞かれたか。かの者は人にあらず、獣の如く、欲望に身を委ねた」
合図のように、司祭は手を広げた。
すると、何人かが非難の声をあげた。
「汚らわしい!」
「なんと不潔な」
「女神への裏切りだ!」
罵倒の雨が収まるのを待ってから、司祭は手を下ろした。
「既に穢れしグノーよ、そなたは何を望む」
「女神の裁きを望みます」
「よろしい。モーン・ナーは慈悲深くあらせられる」
司祭は背後に居並ぶ二人の親族に向けて言った。
「グノーは穢れた獣であり、クリーマもまたその片割れである。二人を人の世に放つなど、許されようか」
「許されません」
彼らの父母が、同時に頷いた。台本通りなのだろう。
「人は人と、獣は獣と番うのが道理。清き人々よ、穢れを遠ざけよ」
「遠ざけよ」
決まり文句らしい。
周囲の人々が唱和する。
「石もて打て」
背の低い男が、袋いっぱいの小石を抱えて、その辺をうろついていた。俺を後ろからつついて、一つ取るようにとせっついてくる。
誰かが石を投げる。小さな小石、それも勢いもついていないので、ぶつけられてもちょっと痛いくらいだろう。だが、それがいくつもとなると。バラバラと石の落ちる音がこだまする。
前を見ると、彼らの親族も同じように石をぶつけていた。
なんて気持ちの悪い……
だが、そこでふと気付いた。
司祭がじっとこちらを見ている。他の村人達も。
俺がまだ、石を投げていないのを、目敏く見つけていたのだ。
くそったれ。
石を投げた。
他にどうしようもないし、彼らを庇い立てする義理だってない。
だが、どうにも気分が悪かった。
「よろしい。だが、女神は寛大である」
全員がすべきことをしたと確認した司祭は、ようやく次の段階に進むことにした。
「よき花婿と花嫁は、頭上に草花よりなる冠をいただく。だが、獣には……」
背後に立っていた侍僧が、山吹色の輪を手渡した。
「……藁の冠こそが相応しい」
二人に諦めの表情が浮かぶ。
力なく肩を落とし、頭を低く下げた。
「この両名、グノーとクリーマを、獣の夫妻として認めるものとする。これは女神の赦免である」
何が赦免だ。
まるっきりさらし者じゃないか。
「だが、獣が人の間に生きることは許されぬ。そなたらは女神より地上の統治を委ねられた教会の命に従い、南へ向かえ。ノヴィリンティフィリクの地こそ、そなたらの新たな住処である」
これはひどい。
オプコットの裏側、神聖教国の最貧困地域だ。
性犯罪者は……自由恋愛も性犯罪だが、既婚者の場合は実刑を科せられる。鞭打たれたり、悪くすると死刑になったりもする。しかし未婚者同士の場合に限っては、若干、処分が軽減される。しかし、その軽減というのが。
クリーマは、二者択一を迫られたのだ。修道院でずっと罪の贖いを求めて暮らすか。それとも、愛し合った恋人と、この国で一番貧しい場所に送り込まれて、苦しい生活をするのかを。
しかし、これがもし冤罪だったなら、悲惨どころではない。愛し合ってさえいなかった相手と強制結婚の上、貧乏生活に甘んじなくてはならないのだから。といって、これを回避したら、何の罪もない男を一人、殺すことになる。
「今日は婚礼の日である。来客にはもてなしを」
背後で鍋の蓋が開かれる。どうやら一口食べずには済まないようだ。
ボロボロの木のお椀が山積みになっており、おばさんがそこにお粥らしきものをよそっていく。誰もが並ぶので、俺も逆らわずに後についた。
やれやれ。
温かいスープを飲みたいだけだったのに、こんなことになるなんて。
自分の番になり、俺はお椀を受け取った。
それは濁った白色の麦粥だった。口をつけて……
「んっ?」
これは。
味がない。塩が使われていない。
なるほど、この婚礼がいかに祝福されないものであるかを強調するために、客を歓待する塩を省いたのか。
いやがらせもいやがらせだが、食べ物をこんな風に使うなんて。
瞬間的にカッとなり、すぐに自分を抑えた。
振り返ると、クリーマが肩を震わせて、すすり泣いていた。
グノーはそれが気になって仕方がないようだったが、慰めてやることもならず、ただ俯いていた。
もういい。
俺はすぐさまお椀を返すと、そのまま歩き出した。無言のまま、まっすぐ北の門に向かって。
祭りの町を去ってから、二日。
山々に囲まれた広大な平野が目の前に広がっていた。轍の跡が僅かに残るだけの、一面の雪。頭上にはどんよりと雲がかかり、世界を灰色に染めていた。
遠くにうっすらと霞んで見える尖塔。白く浮かび上がる街の影。
俺はついに聖地トーリアの土を踏んだのだ。
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