不自由の国へ

 ログハウス風の壁を、あかあかと燃える暖炉の火が照らす。いろんな色と形の石がはめ込まれた床。じんわりと暖かい。すぐ目の前のテーブルの表面は滑らかだが、木目のあたりに微妙な凸凹がある。白い皿は、黄色いスープで満たされていた。

 なんて彩り豊かな世界だろう。そして……うるさくて、臭い。


 数日間、白い雪と青い空しか見えないリント平原を歩いていたのだ。余計なものが周囲にないと、臭いの元がどこにもないので、鼻が鋭敏になる。物音も自分の足音だけなので、耳が刺激を忘れてしまった。

 昼下がりに、オプコットの分厚い城壁の下に辿り着き、多少の順番待ちをしてから市内に入った。疲れもあったので、とりあえず宿屋をとろうと、まずはギルドに立ち寄った。そこで教えてもらったのが、この宿だ。


 ここ『切り株亭』は、一階が酒場で、二階から上が宿屋、三階と四階がその個室に割り当てられている。厨房と客席を仕切るのは分厚い木の壁だが、ちゃんと建物の四方は煉瓦で覆われている。寒冷地だけに、暖炉の熱を無駄遣いしない作りになっているのだ。

 個室の窓は濁りのあるガラスで、二重になっている。カーテンも分厚く、これまた熱を逃がさない。焦げ茶色の床板はしっかりしているし、ベッドも大きく、備え付けの毛布も清潔だ。浴場こそないものの、あとは文句の付けようもない。

 おまけに、出てくる料理も悪くない。一人用の部屋を確保できたのは、本当に幸運だった。

 だが……


 いい宿には客が集まる。その分、騒がしくもなる。

 二つ離れた向こうのテーブルでは、男達が輪になって酒をガブ飲みしている。いつもなら気にならないのだが、今は酒の臭いが鼻をつくし、笑いが巻き起こるたびに耳がワンワン鳴る気がする。

 今夜は眠れるだろうか? 少し疲れが取れるまで、のんびりしよう……


 そう考えていたのだが、翌朝には気持ちよく目覚めることができた。

 温かな布団があるというのと、やはり疲労が蓄積していたのだろう。本当はよくないのだが、熟睡してしまっていたらしい。一人旅では、この手の不用心は、ときに深刻な結果に繋がる。盗まれたり、襲われたりしても、誰もカバーしてくれないのだから。

 ひとしきり反省してから、銀色のゴブレットを取り出し、朝の一杯。本当に牛乳代わりにして、なんだか不遜というか、申し訳ないのだが、どう考えても体によさそうなので、飲まずにはいられない。それに、目も覚める。


 では、今日は何をしようか。

 なんだか不思議と解放感がある。


 二重窓を開けた。三階から見下ろす街は、白い雪と黒い街路の規則正しい模様だった。

 この世界の都市としては珍しく、直進できる大きな道路があり、碁盤状に区切られた区画が広がっている。多少の排水能力も備えているらしく、道路の中央の雪はとっくに掻き分けられて、黒々とした石の路面が顔を出している。その上を馬車が、毛皮を纏った人々が、足音高く通り過ぎていく。


 空は既に青く晴れ渡っていた。

 朝の引き締まった空気が、肌に貼りつく。それがなんともいえず爽やかだ。


 ……自由、か。


 今の俺は、自由であるといえる。

 ここには誰もいない。知り合いもいない、主人も下僕も、敵もいない。

 目的ならある。でも、それも別に強制されているものではないはずだ。


 今日、日が昇って落ちるまで、俺はどこにいてもいい。何をしてもいい。

 そのことに、たった今、気がついたような感じがした。


 よし、じゃあ、軽く用事を済ませたら、のんびり街歩きでもしようか。

 たまにはそれもいい。


 街路を歩きながら、左右の建物を見上げる。二階建てから三階建てが多い。どれも窓が縦長で、狭い。それと窓枠の作りから、壁の分厚さがわかる。バルコニーのような張り出す部分がほとんどない。やはり降雪量が多いせいか。

 さっき上から見下ろした時にも感じたのだが、屋根の勾配が鋭い。多くがスレート葺きになっているのを見るだけでも、この街の豊かさがわかる。前世でなら、どこでも見られた素材だが、こちらには天然モノしかないのだ。


 商店街に差し掛かると、どこも建物の出入口から迫り出して、品物を陳列している。木の支柱の上に黒い布を被せて、陣地を広げているのだ。その下では、中身がみっちり詰まった樽、木箱の中にぎっしり詰まった胡桃、干し葡萄などが場所を奪い合っていた。


 なんとも豊かなことだ。ざっと見ても食料品の質はよく、しかも割安だ。狭義のセリパシア……つまりアルディニアやマルカーズ地方を含まない範囲のことだが、ここには広大な平原が広がっている。それもリント平原のような不毛の地ではなく、西側の山脈からの雪解け水が注ぐ肥沃な大地だ。特に南部は、西方大陸有数の穀倉地帯なのだ。

 雨と温暖な気候ということなら、それこそフォレスティアのほうがずっとよさそうに思えるのだが、そう単純でもない。エスタ=フォレスティア王国の地図を思い出せばわかるが、田畑に向く平坦な土地で、かつ水源に困らない広い場所となると、レーシア湖に恵まれた王都近辺か、ティンティナブリア以南のエキセー地方かのどちらかしかない。スーディアは高低差の激しい盆地だし、トーキアの東はいまだに魔物の領域だ。そして、王国の中央部には人を拒む森林地帯が広がっている。ここもただ伐採したのでは農地にならないので、タンディラールはわざわざ水道まで引いて、開拓に励んでいた。

 それがセリパシア南部となると、この手の面倒がない。雪解け水のおかげで水源に不自由せず、しかもその水路は恐らく古ルイン人の時代に築かれた、この上なく強固なインフラだ。そこに千年以上前から変わらず大切に守られてきた農耕地が、どこまでも広がっている。帝国時代に整備された道路もいまだに健在で、日々の生産活動を後押ししてくれる。

 安全面でも完璧だ。ムーアン大沼沢を右に見据えた国境には、セリパシアが誇る神殿騎士団が腰を据えている。巨大な盾に重量のある剣、そして金属製の鎧に身を固めた彼らは、そこから北へは、魔物一匹通さない。彼らの背後にあるのは、無防備で豊かな農耕地。教国の生命線なのだから、当然だ。


 だが……

 やはりそこはセリパシア、しかも北部となれば。


 オプコットは北の街だ。よって、近所の物産が多く見られる。セリパシア北部にも、広大な農地がある。だが、産品はというと、少し毛色が違ってくるのだ。

 すぐそこの商店では、黒パンが山盛りになっている。寒い地域でも育つライ麦。その他雑穀が目立つ。さほど歓迎される食材でないのは明らかだ。

 また、干し葡萄はあるが、ワインは置いていない。外国人が宿泊する宿に直接卸しているのだろう。一般の信者達が酒を目にして、興味を抱くのを許さないため、か。というか多分、自国内での醸造すら許していないんじゃないか?


 食料品は比較的安価だが、工業製品はとなると、そうでもない。商店の壁にかかっている剣。昔、リリアーナに誕生日プレゼントでもらったのとほぼ同じサイズだが、金貨二十五枚もする。結構、割高だ。金属製品の値段は、アルディニア側の胸先三寸で決まってしまうところもあるのだろう。


 商店街を抜け、市街の中心に出た。街路が途切れ、広場に出る。正面に見えるのが、市庁舎だ。石造りの四階建て。クリーム色の外壁に、他と違ってなだらかな黒い屋根。どことなく威厳がある。そしてここが今日の俺の目的地だ。

 俺には騎士の腕輪があるので、どこの国も通行の自由を認めなければならない。それはそうなのだが、やはりお国事情というものはあって、神聖教国の場合、通行する「権利」は認めるが、「通行を認可」される必要があるというのだ。要するに、通っていいけど、通るよと一言断ってくれないとダメなのだ。

 なので、多少の手続きをしなければならない。


「聖地への通行許可ですか?」

「はい」


 色艶のある黒ずんだ木のカウンター。その向こう側には、神経質そうな顔の若い男がいた。白一色のローブを身につけている。制服だろうか?


「この通り、騎士の腕輪を所持しています」

「見せてください」


 腕輪を差し出すと、彼はそれを調べ始める。ところどころ、刻まれた文字を見てはメモを取り、真贋を確かめている。


「では、こちら」


 やや乱暴な手付きで書類とペンを寄越すと、ぞんざいな口調で要求してきた。


「氏名、生年月日、腕輪の授与者、授与された場所。それとこちらには職歴を書いてください」

「職歴?」

「書いてください。あと、あれば前科も」


 子供のなりをしている相手に、随分ではないか。

 だが、相手はお役人。逆らっていいことなど、何一つない。


「終わりましたか」

「はい」

「では、こちら。引き換え券なので、なくさないでください」


 チケット一枚を渡され、俺は引き下がる。

 ところが、いくら待っても声がかからない。


「あの」


 窓口に歩み寄って尋ねると、男は露骨にいやそうな顔をした。


「いつ頃」

「わかりません」


 にべもない。

 俺はただ、市庁舎の壁際に突っ立って待つばかりだ。


 かなりの時間が経った。だんだんと腹が減ってきた。

 ふと、窓口を見ると、担当の男が席を立った。さては昼飯か。


「あの」

「わかりません」


 そのままスッといなくなってしまった。

 これは……


 俺は、朝とは裏腹に、むっつりして宿に引き返した。

 どういうことだ。俺もバカじゃないから、さすがに「元売春宿経営者」なんて書いたりはしていない。噂はいろいろ行き渡ってしまっているかもしれないが。俺がアルディニアからまっすぐこっちに来たならともかく、贖罪の民の村にも道草しているし、もしかしたら降臨祭での戦いっぷりを言いふらされているのかもしれない。だとしてもだ。


 それから三日。

 疲れは完全にとれた。代わりにストレスが積み重なっていた。


「わかりません」


 それしか言えないのか。

 ぶん殴ってやりたい。でも、我慢だ。

 お役所仕事にしても、ひどすぎやしないか。いや、こんなものか?

 騎士の腕輪を持ってるんだぞ、と言っても、きっと効き目はないだろう。最初に確認しているし。何が足りないんだろう? 賄賂とか?


「ハハハ、そりゃあよぉ、決まってんじゃねぇか」


 朝一番に役所に顔を出し、無駄足だったと確認して宿に引き返す。それでプンプンしながら一階の居酒屋のカウンターに座ると、髭面のマスターが気付いてくれた。わけを話したら、こうなった。


「ただ通りたい、じゃあ、いい顔はされねぇさ」

「でも、腕輪があるのに」

「通さねぇってわけじゃねぇ。ただ、あんまり聖地に人を入れたくねぇっていう、まぁ、信仰心ってやつか? 黒髪のフォレス人じゃ、どう見ても信徒にゃ見えねぇしな」

「はぁ?」


 それ? それが理由?

 口をあんぐり開けて、呆れ果てた俺に、彼は首を振った。そして、カウンターに肘をつき、周囲を見回してから、顔を寄せてきた。


「坊主、この街だけ見て、この国のことを考えないほうがいいぜ」

「やっぱり、特別なんでしょう? それは」

「そんなもんじゃねぇ。いいか、この街に住んでるのは、外国人か、さもなきゃ……そりゃもう頑張って教会に尽くした人間か、技能がある奴か……あとは、その子孫だけだ」

「それがどうしたんですか」

「んで、役所にいるのは、ありゃあ役人だけど役人じゃねぇんだぜ? わかるか?」


 では何者か、と尋ねようとして、口を噤んだ。

 誘惑だらけの大都市だが、国としては、なしでは済ませられない。食糧生産では不足のない神聖教国といえども、何もかもを自給自足できるわけではないからだ。それに、交易は彼らにとっても利益となることが多い。

 だが、どうやって運営するか? 快楽とはほど遠いところで暮らす自国民が、この華やかな都会に出入りしたら。何より大事な信仰を保てなくなるのではないか。


 役所に勤める人間……しかし彼らは、いわゆる「官吏」ではない。いや、官吏だが、官吏である以上に「聖職者」なのだ。

 どの階級にあるかは知らない。司祭なのか、助祭なのか、それ以下なのかは。ただ、彼らが問題にしているのが「信仰の純粋性」であることには疑いがない。清らかであるべき聖地を、異教徒の靴の泥で汚したくないのだ。


「つまり、信仰心を示せば有利になると」

「そういうこったな。聖句の一つや二つは覚えとくもんだぜ。言えねぇと……ああ、くわばらくわばら」


 そういって彼は首を振った。

 もしかすると、抜き打ちチェックでもあるのかもしれない。神聖教国としては、聖典の言葉を忘れるような愚か者に、この街の居住権など与えておけないのだろう。


 翌日、俺はまた市庁舎に向かった。


「おはようございます」

「まだわかりません」


 返事をするのも面倒、といった対応だ。

 だが、俺はそこでわざとらしく嘆いてみせた。


「かのお方はこのようにおっしゃいませんでしたか。『日々の礼を忘れるなかれ。それは心の門である』と」


 ハッと顔色が変わる。

 よしよし、いい感じだ。だが、あれこれ突っ込まれると困るので、驚かせて一気に押し切る。


「私、ファルス・リンガはピュリスの司祭リン・ウォカエーに正しい知識の入口がどこにあるかを教わりました。また、私の元の主人であったトヴィーティ伯は、女神の思し召しにより、聖献身者銀勲章を授かりました。この私もまた、教会の活動に寄与し、疫病に苦しむ人々を救う一助となったこと、また今後とも学び続けることを誓った点を評価され、このように奉仕者銅勲章を授かりました」

「うっ、ええっ」

「ですが、今の私にはこれを身に帯びる資格がまだありません。聖地にて女神の正義を垣間見ようと願うばかりです。正しい学びの後にこそ、私は真の奉仕者になれるのだと、そう考えております」

「しょ、少々お待ちください」


 一気にまくしたててやった。

 男はうろたえて席を立ち、裏手に引っ込んだ。


 この反応を惹き起こしたものは、なんだろうか。女神への信仰心? それがないとは言わないが、もっと直接的なポイントがあるだろう。つまり、信仰を求めて聖地を目指すという「正しい動機」を遮ったという自覚だ。その事実が周囲にどう受け止められるか。信仰という名の国家思想を軽んじるということが、彼らにとってどれほど恐ろしい傷になるか、そのいい例だ。


「も、申し訳ございません、ただいま確認したところ、明日には」

「明日ですね。正義の女神の寛容を、共に願いましょう」


 上機嫌で宿に帰り、俺はカウンターに陣取るマスターに報告した。おかげで明日、出発できそうだと。

 すると彼は、顔を曇らせた。


「気をつけてな」

「はい」

「とりあえず、聖典はちゃんと暗記するんだ。もう一度、目を通しておいたほうがいい。それと、視線にも注意しないと」

「視線?」

「ほら」


 彼は周囲を見回して、誰もこちらを見ていないのを確認する。


「どこに異端審問官がいるか、わかったもんじゃない。迂闊なことをいえば、どうなるか。いつも見られてると思ったほうがいい」

「そんなにですか」

「それだけじゃない。自分自身の視線にも気をつけないと」

「自分の?」

「……そんなつもりなんかなくても、うっかり女をじっと見たら、それだけで……な?」


 なんという。

 息苦しい国だとは聞いていたが。


「服装もだ。冬だから大丈夫だとは思うが、なるべく肌は見せるなよ。女だけじゃない、男でもだ」

「はい」

「この街は……この街が、特別なんだ。この裏側にはな」


 いつの間にか丸めた背中を起こしながら、彼は静かに言った。


「この国が、一番見せたくないものがあるんだよ」


 翌朝、空を見上げると、一面曇っていた。

 荷物を背負って宿を出て、市庁舎に向かう。手続きは済んだとのことで、俺はまっすぐ西門に向かった。


 門を出て、歩き始めてしばらく。

 宿屋の親父が「見せたくないもの」と呼んでいた景色が視界に入った。


 目に付くもののない、寒々しい平原。そこに傾きかけた木造の家屋が点在している。あれでは隙間風も防げまいに。茅葺屋根の上に白い雪が居残っている。

 この数日の好天で、雪はかなり解けていた。そのせいで、澱んだ水溜りに俯く汚れた枯れ草ばかりが目に映る。

 道路だけは幅広で、しっかりと舗装されているものの、それ以外はまるで荒野だ。


 ここもセリパシアが誇る農地の一部だったはずだ。しかし、あの程度の降雪に対しても、ろくに排水すらできていない。なぜかというと、この辺の水路に限っては、基礎から破壊されているからだ。

 樹木も珍しい。遠くのほうに、いじけた針葉樹が固まって、白く濁った雪の塊を纏っているが、それだけ。


 一応、歴史上の知識としては知っている。この地の古名を、セオラニクということを。


 セリパシア帝国建国初期からの重臣だったブッター家……当時のルカオルジア家は、この東部国境に位置するセオラニクの地を所領として与えられた。かつてはここも南部と同様、古ルイン人時代からの用水路が機能していたので、作物の種類はともかく、生産性ならば高かったという。

 しかし、ギシアン・チーレムの侵攻を受けた際、タリフ・オリムの防衛に当たっていたターク将軍が降伏してしまった。これがいち早く聖都に伝わったために、悲劇が起きた。ルカオルジアの一族が、タークに従って反旗を翻すのではないか。セオラニクは、タリフ・オリムのすぐ対岸ではないか。

 それで帝国軍は、ことが起きる前にこの地を攻撃した。ルカオルジア家は、アルディニアに移り住んだ人々を除いて、ほとんど死に絶えてしまった。もちろん、ただの民衆も大勢が巻き添えになった。

 最終的にはギシアン・チーレムが聖都を包囲し、帝位についたばかりのヤリスは、降伏を選んだ。だが、セリパシアの人々の間には、わだかまりが残った。


 セオラニクの連中が裏切らなければ、帝国が滅ぶことはなかったのではないか。

 いや、裏切ってなどいない。勝手に疑心暗鬼になって手を血で染めたのは、そちらではないか。


 戦後の三百年間、世界は平和だった。この地の呼び名も、皇帝の一連の改名命令によってセオラニアに改められ、復興が進んでいた。それでも、どこか人と人の間に、見えない隙間が残っていた。

 それが表面化したのが、諸国戦争だった。セリパシア王が遠征先でアルティによって討たれ、国内が混乱すると、一部の貴族が生き残るために「解放軍」と手を組んだ。聖都に残っていた王族を虐殺し、国内の重要拠点を制圧して、政権の転覆を図ったのだ。

 これに呼応したのが、半ば差別的待遇を受けていたセオラニアの人々だった。


 最終的に勝利を得たのは王家でも反乱貴族でもなく、教会だった。それでも、裏切り者に加担したセオラニアの人々は、許されなかった。兵士はもちろん、ただの農民に至るまで、多くが死をもって裁かれた。都市は廃墟となり、用水路も再建できないほどに破壊された。森も懲罰的に伐採、収奪された末に火を放たれ、見ての通りの景観になった。


 それから五百年あまり。

 かつての城砦都市の跡地をなんとか再建したのがオプコット。だが、その周辺の開発は、いまだに捨て置かれたまま。現在、この地に住む人々は、生活に必要な最低限の木材にもありつけない。水路が機能しないので、農業用水どころか、生活のための水さえ不足する。また、環境が徹底的に破壊された影響は大きく、土壌流出が深刻な水準に達している。頑張って耕しても、見返りは小さい。

 だが、ここもその他の封建国家と同じだ。勝手な移住は許されない。しかも、それだけではない。

 今のこの苦しい生活は、正義の女神が課した試練であり、懲罰でもある。ならば、心から受け入れねばならない。体と生活のみならず、心の自由までも明け渡さねば、許されない。ここはそういう国なのだ。


 今、この地には別の名前が与えられている。ノヴィリンティフィリク、つまり「新リント平原」だ。

 かつてアルデン帝が東征を行った際には、あの砂漠を「リント平原」と呼んだ。そして今、この荒地を名付けるに当たって、またもや聖女の名を冠した。荒野ではない、聖女の地なのだと。仰々しい美称は、悲惨な現実を覆い隠すためのものだ。

 呼び名がルイン風に戻されている点にも注意すべきだ。ギシアン・チーレムの伝説を辿ると、女神教的な要素ばかりが見えてくる。世界統一の使命を授けたのも、時空の女神だ。してみると、彼の命名を捨てて聖女にちなんだルイン語の呼称を選ぶというのが、どういう意味か……この国のあり方が、自然と浮かび上がってくる。


 木枯らし舞う灰色の空の下。

 枯れ草ばかりの荒野を左右に、そこだけ立派な道路の上を歩きながら、俺は遠い聖都に思いを馳せた。

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