雪原を背に

 目の前を掻き分けると、途端に白い外の光が目を焼いた。分厚い獣の皮。それが狭い出入口を塞いでいた。

 手で庇を作り、注意深く外に出る。空は快晴、足下には真っ白な雪が居残ったまま。気をつけないと、目を傷つける。

 外の空気には、何の臭いもなかった。ただただツンとくる冷たさだけがある。足元の水気を僅かに吸っただけの清らかな微風が、喉の奥にまで流れ込んでくる。体の中の澱みが洗い流されるようだ。


 横合いから足音。降り積もって後、陽光に解かされた雪がまた凍ったところを踏みしめるので、大き目の霜柱を踏み砕くような音が聞こえる。


「お目覚めか」

「おはようございます」


 ダニヴィドは、片手に弓を携え、肩に鹿のような動物をぶら提げていた。


「今朝も仕留めたんですか」

「なに、わしには難しいことでもない」


 そうだろう。『探知』で鹿の居場所を調べ、『千里眼』でその周囲を観察し、『読心術』で鹿がこちらに気付いているか、どれくらい警戒しているかを知る。隠密、罠、弓術と、この手の仕事に必要な技術も一通り修めている。雪原に一人放り出されても、それこそ何日でも生き抜いていける。


「育ち盛りの体には、肉がなくてはなるまいて」


 そう言いながら、彼は笑った。

 俺も笑い返したが、内心は複雑だった。


 贖罪の民は、贅沢を避ける。その気になれば、今朝、こうして獲物をしとめてきたように、毎日肉をたっぷり食べるのも、難しくはない。だが、どうも普段はそんな暮らしをしていないようなのだ。

 この三日間、彼らの村に留まりながら、寝食を共にした。大人達には落ち着きがあったが、数少ない子供達は正直だった。肉と見ると、こらえることもできずに、すぐ手を伸ばした。それを周囲が叱ってとどめる。まずは客人に、ということなのだが、なんとも居心地が悪かった。


「僕でしたら、お気遣いいただかなくても」

「なんの。わしらとて、客人をもてなすのが楽しくないわけではないでの」


 別の小屋から、中年女性が出てきた。人の気配を察して、自分の仕事をしにきたのだろう。彼女は、ダニヴィドから鹿を引き受けると、物陰に去っていった。

 身につけている衣服はほとんどくすんだ茶色の毛織物か、黒い革だが、頭にだけは、白地に赤い紋様の布を巻いている。薄汚れてしまっているせいで、それも色鮮やかとはいえないが、これが彼らの唯一のオシャレだ。なんでも、二千五百年前のムーアン文明の頃からのデザインらしい。


「外の世界の話も、わしらには貴重だしのう」

「それなのですが……」


 俺は表情を曇らせる。


「あんなにあれこれ喋ってしまって、よかったのでしょうか」


 贖罪の民といえど、全員が使命に従事するわけではない。戦いに向かない者は、龍神の祝福を受けることなく、普通にこの村で生まれ、暮らし、死んでいく。寿命も常人と違いない。そして基本的には生涯、人里に出ることはないのだ。

 ここから最寄の街は、アルディニアの王都であるタリフ・オリムと、神聖教国側の交易都市であるオプコット。どちらも人間社会の誘惑に満ちている。無論、フォレスティアの大都市に比べれば、どちらもなんてことはない程度のものではあるが、彼らにとっては魅惑的な娯楽の世界だ。

 つまり、俺の話は一種の毒だ。味わうことのない喜びを眼前に突きつけるだけなのだから。使命を担えば外には出られるが、それは遊びにいっていいことを意味しない。都会の快楽を目前にしながら、禁欲的な生活を守らなければいけないからだ。


「わしらも、このままではおれん」


 だが、ダニヴィドは首を振った。


「わしは納得して使命に従っておるが……見ての通り、ここ二百年でも、村は小さくなるばかり。いずれわしらは絶え果てよう」

「みんな死ねば贖罪も終わり、ですか」

「ヘミュービからすれば、そういうことなのじゃろうな」


 俺の横に歩み寄りながら、彼は穏やかな表情を崩さず、そう言った。


「じゃが、正直なところ、わしらも龍神とは心の距離を置いておる」


 遥か彼方を見据えつつ、彼は続けた。その視線の向こうに何があるかは、言うまでもない。彼には見えているはずだ。遠い遠いオプコットの城壁が。


「今はできるのがおらんが、たまに『忘却』の神通力に目覚める者がおってな」

「忘却? 記憶を消す?」


 彼は大きく頷いた。


「この村のことを思い出せないようにして、外の世界に出してやる。もちろん、それだけでは生きていけぬから、まぁ、そこは、使命に従事する何者かを使って、それとなく支援をさせる。そうやっていなくなった者もおる」

「それは、許されるんですか」

「はなから龍神は、わしらを許してなどおらん。滅びるまで許すまい」


 なんと苛烈な神だろう。立ち去るなら立ち去れ、穢れたままいなくなれ、と。

 しかし、そういえばアイクのように、古ルイン人でも全員が贖罪の民になったわけではないし、彼らを罰している様子も見えない。見捨てているから、刑を科すまでもないのか。


「少しずつ、変わっていかねばならんのだろう。どこかで、わしらの贖罪の使命も終わる。また、終わらせねばならん」

「……そうですね」


 この村に生まれたというだけで。特に気の毒なのは、子供達だ。

 そのことは、村長である彼自身がもっとも強く感じているはずだ。自分は納得していても、子孫にまでそれを強要するというのは。


 会話が途切れた。

 その合間に、か細い歌声が滑り込んだ。誰かが物陰で口ずさんでいるのだ。

 これも、彼らに残された伝統のうちの一つ。二千五百年前から伝わる民謡だ。どこでも耳にしたことのない、不思議な旋律だった。


 ダニヴィドの表情が緩んだ。


「なに、悪いことばかりでもない」


 歌っているのは誰だろう。声色からすると、十代前半の少女あたりか。


「貧しい村ではあるが、ここには争いがない。一人きりになることもない。大地はいつも清らかだ。捨てたものじゃなかろう」


 そういって目を細めた。

 故郷を守り続ける人生、使命に従う日々。長年過ごした土地に対する思いは、一言では言い表せない。批判だけでもなく、愛着だけでもない。


「今日、発つのかの」

「そのつもりです」


 この村に留まったのは、本当に僅かな間だった。

 それも当然だ。俺の本来の目的は、ここでヘミュービに会って、不死に至る道筋を尋ねることだったのだから。それがこうなっては、目的自体が消えてしまった。


「では、昼に盛宴を張ろう。といっても、この村でのじゃがな」


 本当に慎ましい盛宴だった。村人総出の宴なのに、全員でも百人に満たない。雪を脇にのけて、そこに分厚い獣の皮を幾重にも敷く。その上に直に座って、みんなで皿を囲む。酒も出ない。肉があるだけで子供は大喜びだ。

 ふと思い出したのが、前世のお花見だ。ブルーシートを敷いて、子供連れでわいわいとお弁当をつついて……それに似た感じがある。ただ、ここで見られるものはといえば、ただただ広がる雪原だけなのだが。雄大な景色であるには違いないものの、起伏もなく、変化もない。だから、彼らの視線が景色に向けられることはなかった。

 きっと彼らにとって魅力的な季節というのは、短い夏なのだろう。ほんの一時、草が生え、ひっそりと花を咲かせる。俺が目にすることはないが、その時期のこの平原は、それは素晴らしいに違いない。


「では皆さん、お世話になりました」


 宴は、一時間程度で終わった。食べるものが潤沢にあるのでもなく、酒もないので、長引かせる余地がないのだ。もっとも、それでも彼らには充分すぎる娯楽だったらしい。


「そこまで送ろう」


 ダニヴィドが進み出る。


「では」


 俺は村人達に一礼し、彼に伴われて歩き出した。


 村の影が小さくなる頃、彼は静かに話し始めた。


「最後に言っておかねばならんことがある」

「はい」


 察していた。

 でなければ、見送るだけで済ませただろうから。


「使命を受けた者どもが、どこにいるかを明かすつもりはない」


 俺は頷いた。

 彼は俺に好意的な態度をとっている。だがそれでも、どうしても譲れない一線がある。俺を完全に信用するわけにはいかないのだ。


「そして、わしには『探知』と『千里眼』の神通力がある。そう簡単には、ファルス殿を見失うことなどあるまい」


 そして、『念話』の能力もある。

 要するに、ノーゼンのような贖罪の民が世界各地に散っている。その行方を俺に教える気はない。言い換えると、いつでも俺の寝首をかけるということだ。

 もっとも、彼の『千里眼』も万能ではないようだ。現に、聖女の祠の内側を見通すことはできなかったのだから。シーラの神域も、きっと見つけられないだろう。とすると、魔法や神通力に耐性のある俺を追跡するのも難しいのではないかと思うのだが……俺自体は捕捉できなくても、その足跡なら見つけられるのではないか。


「僕が邪悪な存在と手を組むかもしれないと?」

「ないと断言できるかのう」


 少し考えて、俺は答えた。


「いいえ」

「それでよい」


 悪を悪として、ゆえに「自分とは異なる何か」だとして切り離す発想は、逆に悪に陥りやすい。

 現に俺は実の親を殺したし、その後にも何人も殺している。ならば極悪人ではないか。だが、殺人犯にだって、理由も目的もあるのだ。


「わしが思うに、悪を生み出すのは、人を世界の外に追いやるものじゃ」

「世界の……外?」


 ある意味、そここそ俺の目的地なのだが。

 死がなく、人の世の善悪もなく、ただただ安息の中を漂うだけの、虚無の時空。誰もいない、俺自身すらいない世界。すべての外側にいるということ。


「うむ。のう、ファルス殿、妻子もいて、仕事もある男が、いきなり罪を犯すじゃろうか」

「普通はしないと思います」

「なくすものがあるからの。じゃが、仮に妻と険悪な関係になったらどうか。仕事をなくしたらどうか」


 妻によって「家庭から追い出される」。仕事をなくして「経済生活から切り離される」。自分はこの世界の一員ではない、と感じる。


「自暴自棄になるかもですね」

「それよ」


 この前の昔話を思い出す。偽皇帝アルティ自身はともかく、彼に賛同し、数々の凶行に走った人々には、まさに世界の外側に立たされているという実感があったはずだ。

 そして、そういう絶望が世を覆っていたからこそ、彼もまた挙兵できたのだ。そうしてみると、アルティ一人を邪悪として片付けるのは、本質から外れた極端な単純化といえる。一人の野心家だけでは、悪は成就しない。それを支える無数の絶望がなければ。


「ゆえに、ファルス殿も危うい」


 言う通りだ。

 俺自身、世界の外を目指している。だが、今の身分はどうか。騎士の腕輪はあるものの、誰とも繋がっていない。たった一人で生きる存在が、更に一人になろうとしている。

 世界とかかわりがないのなら、世界がどうなっても構わない。それが危ういというのだ。


 ……使徒が付け狙うわけだ。


「だが、万物は常に互いにかかわりあっているものじゃ」


 何気ない一言ではあるが、真理をついている。

 贖罪者の村で暮らす人々が世界の外に追い出されることはないだろう。不思議なことに、それは豊かで広い社会であればこそ、起きること。人が望んでそういう社会を作るのに、結果として人は孤独になってしまう。


「あるがままを見るのじゃ。そうお願いすることとしよう」

「お願い、ですか」

「誰に何を強いることができようかの。お主に願い、世界に願うだけじゃ」


 力の抜けた微笑で、彼はそう言って、立ち止まった。


「わしもここまでとしよう」

「はい」

「ファルス殿の旅路に、女神の祝福のあらんことを」


 俺は一礼して、背を向けた。


 それから一週間、俺はただただ、何もない雪原をまっすぐ歩いた。生き物の影は絶えてなく、足元も途中から固くなった。リント平原に戻ってきたのだ。

 やがて、遠くに小さく、尖塔の影が見えた。


 いよいよ神聖教国の玄関口、交易都市オプコットに辿り着いたのだ。

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