仮面を擲った少年

 砂利の匂いか、埃の匂いか。

 ひんやりとした石造りの建物の下。掃除はしたのだろうが、足元には掃きだしきれない砂粒が居残っている。周囲を覆うのは青みがかった灰色の壁。そこかしこに角ばった石柱が突き立っている。そのどれもが無骨で分厚い。

 建物の重厚さに比べ、設置された木のベンチの粗末なこと。乱暴に踏みつけたら割れてしまいそうだ。そこから前に視線を向けると、出口の床に短くくっきりと四角い光が映りこんでいる。その向こうには人、人、人。

 円形の競技場。向かい側にも小さな出入口がポツンと見える。壁には結構な高さがあり、その上が観客席だ。服の色が人込みの色になる。ならば席を占めているのは、ほとんど庶民らしい。赤っぽかったり青っぽかったりはするが、きらびやかな色合いは一つもないからだ。

 それもそうか。貴賓席は向かって右側、つまり北側に集中している。ここには平らな壁が聳え立っている。そのせいか、ここからの物音はよく聞こえる。円形の競技場とは言ったが、実態は劇場なのかもしれない。大会の進行役の人達も、ここに陣取っている。

 あちらの喧騒は遠いが、この控室も、必ずしも静まり返っているわけではない。そこかしこに男達が寄り集まって、軽く談笑している。


 王国最強を決める闘技大会、という触れ込みではあるが、参加者の本気度は必ずしも高くない。というのも、さほどの実利があるのでもないからだ。得られるのは、ほぼ名誉だけ。

 だが、その名誉を形だけでも保たなければいけない人達がいる。国軍の幹部達などがそうだ。特に家柄がよかったりすると、余計に圧力がかかる。それで彼らも、いやいや出場するのだが、痛い思いもしたくないし、恥もかきたくない。だから、前もって「準備」しておく。その結果が、これなのだ。

 この闘技大会はトーナメント制ではなく、飛び入り参加自由の勝ち抜き戦方式だ。一対一の戦闘が終わった後であれば、いつ乱入してもいい。つまり、名誉を稼ぎたい貴族の息子は、自分の息のかかった兵士に挑戦してもらい、わざと負けてもらう。だいたい、二人か三人ほどと戦ったふりをして、あとは疲れたからと静かに退出する。

 そのための打ち合わせか、さもなくばその後の雑談か。彼らに緊張の色は見えない。


 参加者の一覧表はあちこちに貼り出されているが、誰と誰が対戦するかは、明確ではない。しかし、出場の順序なら、だいたい慣習的に決まっている。

 早い時間帯には、まだ幼い貴族の子弟や騎士の息子などが顔を出す。前にギルが参加したというのも、この時間帯の話だ。

 本人らは必死なのだが、何しろ子供同士の戦いだ。傍目にはかわいらしい出し物でしかない。しかし、この後の参加者がだらしないと、ここから最優秀賞を与えられる場合もあるので、競技を賭けの対象にしている連中は、朝一番から陣取っている。

 それが終わると、中だるみの時間がやってくる。やる気がなくて身分のある大人達による、出来レースの始まりだ。ここから優勝者が出ることなど、あまりないので、観客ものんびりできる。この間にトイレに行ったり、持ち込んだガレットを食べたり、誰に賭けるかを決めたりする。

 それが終わる頃から、いよいよ本気の参加者が現れる。少しでも出世したい兵士、ハクをつけたい冒険者、はたまた恋人にカッコいいところを見せてプロポーズしたい男など、顔ぶれはさまざまらしい。ここから盛り上がる。


 なお、試合が始まってから「賭ける」ことができるのは、どういうことかというと。あくまで誰が最優秀賞に選ばれるかが勝負のポイントになるためだ。なにしろ誰と誰とが対戦するかもわからないので、個別の勝ち負けには賭けようがない。強いから選ばれるという保証もない。もちろん、勝てば勝つほど選ばれやすくなるので、そこまで理不尽な博打にはならないのだが。

 しかし、これこそ観客が朝から目を離さない理由なのだ。有望な子供がいれば、後の本気の参加者を待たずに勝負に出る手もある。

 だいたい、子供の部が終わって「中だるみ」の時間帯くらいまでなら、胴元も受け付けてくれるという。


 今は、その退屈な時間に差し掛かっている。観客にとっては昼食の時間だ。


 俺のすぐ横、椅子に座ったままで、ギルは石像みたいに固まっている。じっと俯いたまま。

 いったい何を考えているのか。自分から参加すると言い出したくせに。

 いつも陽気な彼が、今は一言も口をきかない。さすがにこれは息が詰まる。


 俺は俺で、自分をもてあましていた。

 王様からは「参加してくれ」と言われたものの。いつ、どこで飛び入り参加すればいいか、わからなかったからだ。

 少し前までは、自分と同年代の子供達がペチペチやり合って、観客から拍手を浴びていたが、まさかあそこに混ざって欲しかったのでもないだろう。ということは、この後の本気の試合に出ろということなのか。出来レースをブチ壊して顰蹙をかうのもどうかと思うし……


 一応、心当たりがないでもないのだが。陛下はきっと、俺に一仕事させたいのだ。なにしろ、この盆地の人間関係から自由でいられる、数少ない人材なのだから。


「おっと、ここでアイデルミ家の若獅子、カヴォノンが乱入! 父に代わってデルミアの統治に携わって三年、いよいよ貫禄がついてまいりました!」


 甲高い鐘の音に続いて、実況担当の女性が声を張り上げる。マイクなどない世界だ。手元にあるメガホンくらいしか道具がない。あとはこの競技場の構造が、北側の舞台からの声を響かせるのに役立っているだけ。一応、観衆の注意を引き付け、黙らせるために鐘を用いているが……それでもなかなかの肉体労働なので、声が嗄れたら、すぐ次の人に変わっているようだ。

 なお、国王陛下ご臨席ということもあり、またお祭りの娯楽ということもあって、参加者の身分が高い場合にも、敬称はなし。いちいち配慮しながらの実況では、観衆もしらけてしまうだろうし。

 むしろ、盛り上げようとしてスベっている感じさえする。今だって、随分な煽り文句だ。「若獅子」なんて二つ名を聞くと、さぞ強いに違いないと思ってしまうのだが、さにあらず。ピアシング・ハンドは、彼がその辺の一般人と同程度の実力しか備えていないと告げている。そもそも武官でも兵士でもない。平和な中部地方の代官を務めているだけの男なのだ。だから武功について語る余地がなく、仕方なくああいう紹介になるわけだ。


「これに立ち向かうは誰だ! おおっと、あちらにも人影が。あれは国軍の精鋭、ロイ・ハラッシュか! 北部辺境で磨いた剣技が若獅子を屠るっ!」


 屠るっ、とか言っているが……このロイなる兵士、つい十分前には、カヴォノンに笑顔で肩を叩かれていた。わざとらしすぎて、なにやら変な笑いさえこみあげてきそうだ。どうでもいいが、まともに戦ったら、ほぼ確実にロイが勝つ。


「おおお! 妙技炸裂! 見事な後の先っ! 鋭い袈裟斬りを返し技で破ったぁ! カヴォノン、勝ち残った! さあ、次は誰だ! 獲物が一匹では物足りない!」


 演技にしても、もうちょっとうまくやったほうがいいと思うのだが……

 カヴォノンの攻撃がろくに当たりそうにないので、ロイが自分から飛び込んでいって、わざわざ腹で木剣を受けていた。しかも、その一撃でバッタリ。あんなの痛いはずもないのに。

 百年以上も平和が続くと、こんなんになっちゃうのか。大丈夫か、国防は。開拓のために北部辺境で戦っている兵士以外、使い物にならないんじゃないかとさえ思えてくる。


「見事! 見事です! カヴォノン、三人抜き! しかし、疲労が出たか? 膝をついている! 膝をついている! さすがの若獅子も、もう戦えないか!」


 全力を使い果たして自主退場。予定通りだ。

 ただ、ヘトヘトになっているのは演技でなく、本気らしい。普段から鍛えていないので、ちょっと真似事をしただけで大汗をかいている。


「だが、この闘技場に空白は許されない! 次なる勇士は誰だぁ!」


 このテンションを維持できる実況さん、ちょっと尊敬に値するかもしれない。俺だったら、きっと心が折れている。


「で、でたぁ! 今大会の本命、イリシット・ブッター! 王都を守護する白き鷹!」


 ぶっ、と噴き出してしまった。あいつが? 白き鷹? よくもまぁ、こんなフレーズを次々思いつくものだ。まぁ、白いマントに、これまた白っぽい色合いの甲冑を身につけているから、そう言ってみただけなのだろうが。

 一応、こいつは武官で、それなりの剣技も身につけてはいる。だが、それだけだ。身分ゆえに辺境に出ることもなく、ゆえに実戦も知らず。ただ形ばかり鍛錬しただけの武術など、恐ろしくも何ともない。


「挑むは誰だ! あ、あれは! あれは近衛兵の豪傑、ブル・ウスタリクだぁっ! いきなり強敵! この勝負、どうなる!?」


 どうなるも何も、近衛兵ってことは、完全にイリシットの身内だ。

 なお、実況担当が次々名前を言い当てているのは、参加者の顔を覚えているからではない。担当者が控えていて、選手が出てくる時に名前を聞き、数字の書かれた札をこっそり掲げている。実況は手元のメモを見ながらやればよい。


 どうせこれも、三人くらい「倒して」おしまいにするのだろう。そう思って溜息をつき、そこで気付いた。


 ギルが、顔をあげていた。


「おおお! イリシット、二人目も難なく退けたぁ! だが、まだ終わらない! 本気の鷹は、まだこんなもんじゃないっ!」


 ガタッ、とベンチが揺れる。木の大剣を手に、彼は立ち上がっていた。


「ギル」


 俺が声をかけても、振り返らない。

 黙って一歩、また一歩。出口に向かっていく。


 まさか。本気の乱入を仕掛けるつもりなのか。

 だが、そんなことをしたら……


「ギル!」

「黙ってろ」


 粗暴な中にも気遣いを忘れない彼には、似合わない一言が飛んできた。こちらを見もせずに。

 と思ったら、すぐ我に返ったらしい。


「いや、わりぃ。けど、こいつは俺のことだからよ」


 相変わらず視線は前に向けたまま。そうでないと、気持ちが保てないのかもしれない。声が微妙に震えていた。


「鮮やかっ! イリシット、苦もなく三人目も打ち破った! 強い、強すぎる! これでは誰も挑めないかーっ?」


 準備しておいたサクラが全滅したらしい。イリシットは、観衆に軽く手を振って、競技場を去ろうとする。

 だが、そこでギルがゲートをくぐった。


 青みがかった灰色の空間でくすんでいた彼は、陽光を浴びて輝きを取り戻したかのようだった。目を焼く白さがたちまち彼を包む。金色の髪が、今になってやけに目についた。


「お、おや? こ、これは」


 実況が口ごもる。

 異変に気付いてイリシットが歩みを止めた。


「こ、これはー……ギ、ギル? ええと、あの、ああ……白き鷹・イリシットの遠縁に当たる少年、ギル・ブッターです! まだ十歳の少年ですが」


 飛び入り参加は許されているものの、常識とモラルの問題から、大人と子供が対戦するなんてことはない。子供達がワイワイやっているところに大人が本気で武力をふるったら。見世物になるどころか、顰蹙を買うだけだからだ。しかし、逆なら?


「ど、どうやら、えー、どうやらこれは、先輩たる戦士に挑みたいという、少年の冒険心というやつでしょうか! 素晴らしい! あの強さを見て、なお挑もうという勇気! お姉さんはギル君の挑戦を応援しちゃいますっ!」


 なんとか辻褄を合わせようと、大汗をかきながら実況の女性が絶叫する。


 観客席を見渡すと、案の定、誰も予想していなかった展開らしく、ざわめきが広がっている。

 ……お、あそこにガイ達がいるな。最前列に陣取っている。確かに彼には「お祭り男」がよく似合う。だけどなぜか隣にドランカードがいる。あの不安そうな顔はどうした?


「さぁ、イリシット、少年の気概に応えるか? 応えるかーっ?」


 大きく溜息をつき、肩をすくめてから、イリシットは振り返った。

 無視して去ってもいいのだが、子供相手に逃げたと言われるのもつまらない。ここは年長者が子供を指導するように戦って、きれいごとでこの場を去るのがよい。そう考えたのだろう。

 だが、それはあまりに短慮だ。ギルの本音がどこにあるのか、考えようともしない。というより、今回に限らず、彼はいつも短絡的だった。だから……


「異例の戦い! 上を目指せ、ギル! 受け止めろ、イリシット!」


 実況が叫び終わったところで、俺は『鋭敏感覚』を詠唱し始める。競技場の様子を聞き取るには、ただ耳を澄ませていたのでは足りないからだ。

 そしてやっぱり……


「どういうつもりだ、ギル」


 木剣を肩に、イリシットは上から彼を見下ろした。

 ギルは、興奮から肩を震わせながらも、やっと低い声で一言。


「……お前をぶっ飛ばす」

「はぁ?」

「お前をブチのめして、俺は前に行くっ!」


 それは彼にとっての決意の表明だったが、イリシットにとっては、何か悪い冗談のようにしか聞こえなかったようだ。


「……ぷっ、はーっはっはっは! なんだ? 変なものでも食ったのか? 馬鹿な奴だ。おとなしくしていればいいものを……まぁ、今からでも遅くはない。無難にこの場を済ませろ。そうすれば見逃してやる」

「俺は本気でやる。手加減なんかするな」

「まったく……面倒ごとを増やしやがって……パダールにも言っておかないとな。躾がなってないぞ、と」


 開始位置につく。そこで鐘が鳴り響いた。


「うっぉおぉおおぉっ!」


 数歩の間合いを、ギルは全力で詰めようとした。大剣を肩に背負うようにして、頭から突っ込んでいく。


「はぁ」


 だが、いくらなんでも見え見えすぎる攻撃だ。イリシットは体捌きで半身になり、振り下ろされた剣を受けて流す。つんのめったギルの脇腹に、下から一撃。


「うぷっ」

「ハイ、終わり」


 いくら道場剣法しか知らないイリシットとはいえ。ギルのそれは、ほとんど我流だ。それに今のは、まったくなってない。気持ちが前に行き過ぎて、隙だらけだった。


「おおっと! まぁ、当然過ぎる結果ですが、あっさりしすぎた決着っ! 少年の思いは、一瞬で断ち切られたぁっ!」


 うるさい。鋭敏になった聴覚に、いきなりの大音量。頭にガンガン響く。

 観客席から溜息が漏れた。時間の無駄だ、と言わんばかりだ。


「そら、終わったぞ。さっさと消えろ。俺も終わりにする」

「待てよフニャチン」


 鳩尾に一撃をもらったはずだが、ギルはすぐ立ち上がった。


「てめぇはブッ飛ばすっつったろが」

「ああ? 試合は終わっただろうが。邪魔だから消えろ」

「うるせぇ!」


 真正面に剣を構え直すと、ギルは構わず突っ込んでいった。


「なっ!?」


 さすがにイリシットの顔色も変わる。それでも、手にした木剣で一撃を受けるくらいは難しくなかった。


「おおーっ? 終わったはずが、まだ終わってなかった!? ギル少年、まだまだ挑みますっ!」


 当たり前だが、一度致命的な一撃を浴びたとされた場合、即座に敗北が決まる。ギルは敗退している。本人が一番よくわかっているはずなのだが、そんなのはもう、どうでもいいらしい。


「くっ、くそがっ、なんだ? 狂いやがって!」

「狂ってんのはてめぇだろ!」


 俺からすると、ギルの剣には技もへったくれもない。腕力で木の棒を無理やり叩きつけているようなものだ。それでも、猛烈なラッシュには、イリシットをたじろがせるだけの勢いがあった。


「なんだと」

「わかんねぇと思ってんだろ。このドスケベ!」


 彼らの会話が観客席に届くことはない。

 だが、ギルの一言に、イリシットは眉を顰めた。


「ぐっ!」

「ま、また一本! やっぱりきれいに入ってます! 勝者イリシット……えっ?」


 二度倒されても、なおギルは立ち上がる。

 苛立ちながら、イリシットは尋ねた。


「何の話だっ」

「俺はな」


 剣を杖に起き上がり、ギルは前に出た。


「好きだったんだ!」

「はぁ?」

「サフィ姉ちゃんのことが! 俺はぁ!」


 ギルとしては、真剣な想いだったのだろう。だが、それを聞いたイリシットはというと。剣を受け止めながらも、噴き出してしまい、腰砕けになった。


「なんのことかと思ったら! それがどうした、えっ?」

「だから、てめぇを許さねぇ!」

「ぷっ……あーっはっはっはっ」


 笑いで力が入らないらしい。それでも、ギルの大味な攻撃くらいは、難なく捌いてみせているが。


「だいたい、好きもなにも、あれはお前の兄の婚約者だろうが」

「そうだ!」

「だったらおとなしくしてろ」

「お前が消えればな!」

「なに?」


 ギルは体を寄せて、鍔迫り合いに持ち込んだ。


「わかんねぇと思ってるのかよ。お前、サフィ姉ちゃんのこと、愛人にしたいんだろ」

「根拠があるのか?」

「修道院に入れようとしたよな? お前が囲い込みたいからって」

「だったらどうだというんだ」

「させねぇよ!」


 イリシットの顔から、笑みが消えていた。

 ふっと身を翻す。つんのめるギルが、また膝をついた。


「三度目! 三度目です! ギル君、もう負けてますよ!」


 明らかに勝敗がついているのに。なおも戦いをやめない挑戦者に、実況担当は焦って呼びかける。客席のざわめきも大きくなるばかりだ。


「させないといって、お前に何ができる? その棒切れで俺を叩けば、何か変わるのか」

「わかんねぇ! でも、てめぇは許さねぇ!」

「馬鹿な奴……それに、お前はのぼせあがっているようだが……いいか、サフィはな、本当は」

「聞かねぇよ!」


 震える足に鞭打って、ギルはなおも立ち上がった。


「サフィはサフィ、俺は俺だ! 俺が好きだと思ったんだ! 姉ちゃんがどこで何してようが、俺のものにならなかろうが、そんなの全部、関係ねぇ!」

「チッ」


 イリシットの顔に、濃い苛立ちの色が浮かぶ。


「がああああ!」

「このっ」


 全力の一撃は、またもかわされ、横っ腹に木剣が食い込む。思わずギルは膝をついた。


「馬鹿が!」


 それでイリシットはトドメとばかり、顔にも一撃を叩きこんだ。

 途端に赤い鼻血が噴き出る。


 観客席からは、この無意味な虐待にブーイングがあがり始めていた。

 実況担当も、これ以上は黙ってみていられないとばかり、腰を浮かして宣言する。


「しょ、勝者、イリシット! 係員は怪我人を外に……えっ!?」


 試合を強引に止めようとした。当然の措置だ。

 なのに、それに横槍が入った。


 貴賓席の中央。一際立派な椅子に腰掛ける小柄な人物。誰あろうミール王が、それを止めたのだ。


「ぞ、続行、です……」


 尻すぼみになった声で、実況が呟く。


「いいぞー! やれー! やっちまえー!」


 斜め上から声がとぶ。ガイとその仲間達だ。


「ギルゥ! へばってんじゃねぇぞ! なんでもいいから、一発いれてやれっ!」


 その声援が力になったのかどうか。案外、関係ないのかもしれない。ギルは自分のために戦っていたからだ。


「ギル、貴様」


 怒りを露にして、イリシットは絡みつく声で言った。


「万が一にも、貴様が俺の立場を悪くしようというのなら、考えがあるぞ」


 そう。イリシットには、切り札がある。


「俺が一声かければ、パダールが何年もかけて積み上げてきた約束なんか、フイになる。お前のために、ずっと頑張ってきたのにな。祐筆の仕事は、他に任せることにしよう」

「知るかよ」


 だが、その切り札を、ギルは一蹴した。


「俺が……俺が自分で決めたんだ。自分で」

「何をわけのわからないことを」


 木剣が肩を打つ。顔を打つ。もう手加減はない。ギルの体は簡単にかしいだ。

 刃がついていないとはいえ、これではもう危険だ。なのに、王が中止を許さない。そして、ギルも戦い抜こうとする。


 仕方がない。

 俺はそっと詠唱を始めた。『四肢麻痺』だ。これをイリシットの足にでも命中させれば。


「もういい。お前など用済みだ。体中の骨をへし折ってやる」


 ギルは既に満身創痍だった。かろうじて立ってはいるものの、膝が笑っている。

 間合いは遠い。そもそも獲物が大剣で、子供の腕力では構え続けるのも難しい。どう見てもチャンスなどない。


「うっ……うおおおお!」

「馬鹿の一つ覚えか」


 イリシットが鼻で笑う。

 俺の手の中では、詠唱の済んだ黄緑色の矢が高速回転を繰り返している。だが、ギルの体がこちら側にあるせいで、まだ投擲できずにいる。位置がずれれば……


 ギルは、さっきからしているように、剣を肩に背負って、前に向かって駆け出した。

 当たるはずのない攻撃を繰り出すために、前へ。


「うおおぉああ!」


 そして剣を振り抜く……


「あっ!」


 ……ところで、剣がすっぽ抜けた。いや、捨てた!?


「なっ」

「くらえぇえぇっ!」


 絶叫しながら、身軽になった体でギルは跳び上がる。

 予想外の動きに硬直したイリシットの顔面に向かって。腕が突き出される。やっと反応したイリシットが、木剣を横薙ぎにする。だが、間に合わなかった。


「がっ」

「おごっ」


 イリシットがギルの胴体を薙ぎ払うのと、ギルの拳がイリシットの顔面を捉えるのと、同時だった。

 ダメージの軽重は明らかで、イリシットはよろめいたくらいで済んだが、ギルは大きく撥ね飛ばされていた。石畳の上に大の字になって寝転がっている。


 だが、一発が入った。その事実が、イリシットの怒りを暴発させた。


「このっ」


 離れた場所に転がるギルに歩み寄る。


「このクソガキがぁっ!」


 もはや動けないギルの脇腹に、爪先で蹴りを入れる。


「ごほっ……ふふっ、くふふふっ」


 だが、ギルは笑っていた。


「何がおかしい! このっ、この……!」

「ふふ、あはは、あははは」


 イリシットの顔を一発殴ったからって、何かが変わるわけじゃない。

 だが……


 ギルは、勝ったのだ。


 武術としては、お粗末そのものだった。だいたい、あれだけ先に攻撃を浴びておいて、勝利も何もあったものではない。剣とは一撃で決着がつくもので、だからギルはとっくに死んでいる。戦士としては、こんな試合は心得違いも甚だしいというべきだ。

 サフィを守るという意味でも、まったく役に立っていない。相変わらずイリシットはブッター家の嫡男で、近衛兵の指揮官で、貴族だ。サフィに対する不埒な思惑について訴え出るならまだしも、公共の場で一発ぶん殴ったからといって、何になるのだろう。

 逆に、なくすものならあった。イリシットはこの件を許さないだろう。タリフ・オリムにおけるギルの未来は閉ざされた。父の根回しは無駄になったのだ。

 それでも。それでも彼は勝った。


 人としての尊厳を守る戦いには、勝ったのだ。


 俺の手助けなど、必要なかった。いや、余計なことをせずに済んでよかった。

 ギルの勝利を穢さずに済んだのだから。


 だが、晴れやかなのは、彼の心の中だけだった。


 なんといっても、もはや試合と呼べる状況ではなかった。

 動けなくなったギルを、イリシットが踏みにじっている。だが、ミール王は何も言わない。いつもの笑顔もなく、無表情でこの惨状を見下ろすばかりだ。

 観衆も、この気持ちの悪い状況を、ただ見ているしかなかった。ただ、ざわめきの声がだんだんと低くなる。子供相手に怒りを爆発させるイリシットに、嫌悪の情を抱き始めているのだ。


 この状況。

 どうやらミール王は、始末をつけるつもりだったらしい。

 そのきっかけに、俺を使おうと。


 いいだろう。

 今回ばかりは、思惑に乗ってやる。


 木剣を手に、俺はゲートをくぐった。

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