放浪者の自由

 繁華街の奥に、その建物はあった。どんな大都市にも必ず見つかる、丈の高い構造物。狭い路地に囲まれて、これでは建て直しはおろか、ろくに修繕すらできないに違いない。

 城砦や宮殿の高所には貴人が住まうが、街中の高所には、決まって貧民が暮らす。ただでさえ土地が足りないこの街のこと。すぐにわかる。ここは特に貧しい人々が身を寄せる場所なのだ、と。


 先を行くアイクは、だんだんと無口になった。なんとなく不吉な空気が漂う。

 周囲も、どんどん暗くなる。貧しい人々は、ランタンの油すら惜しむものだ。まして、今は繁華街も謎のツルハシ男のせいで、活気がない。


「……ここよ」


 狭い入口を指し示す。

 一応石造りだが、なんとも頼りない印象を受けた。上から相当な重量がかかっているが、それに耐えられる構造になっているのかどうか。

 通路に踏み込む。彼ほど背が高いと、まっすぐ立って歩くのも難しい。周囲はほとんど真っ暗になったが、アイクにとっては、まったく問題ないらしい。俺は慎重に足元を確認しながら、なんとかついていく。


 急な階段を何度も登り、やっと細い廊下に辿り着いた。大人の拳一つ分の小さな窓が、ポツポツと空いているだけ。幅も狭く、アイクがギリギリ歩ける程度しかない。

 身を縮めながら、彼は古びた木の扉に手を添える。蝶番が軋む。埃が舞う。これでは住居というより、廃墟だ。


 くすんだ黄土色の扉が開くと、そこから月光がやわらかく差し込んだ。


「ようこそ我が家へ」


 少しおどけた、けれども微妙に元気のない口調で、彼はそう言った。


 部屋の中は、少しだけ広かった。建物の角らしく、間取りは歪な三角形で、入口付近の天井は狭かったが、奥に行くほど広くなっていた。窓も広い、と言いたいところだが……これは窓というより、壁の一部を構成していた石材が崩落した結果ではないかと思う。斜め上の空間にパックリ口を開けているので、雨でも降ったら、風向き次第で部屋の中も水浸しになりかねない。

 足元は一応、藍色のタイルに埋め尽くされていたが、これも古びていて、あちこちひび割れてしまっている。もとはもう少し高級な住宅だったのかもしれない。その名残か、部屋の隅には木製の置時計があったが、埃をかぶっているし、完全に壊れていて、短針が折れてなくなっており、長針は二時のところに向けられたままで止まってしまっている。

 とにかく、この部屋は狭すぎた。三角形の一番長い辺、外の壁に沿うように、木製のベッドが一つ置いてある。あとは簡素な椅子。家具といえばこれだけで、あとは横に目の荒い薄汚れた布が無造作に畳まれてあるばかり。当然、トイレもキッチンもない。到底、生活していける空間には見えなかった。


 その、窓というか、むしろ壁の穴とすべき場所から、かすかに青みがかった夜空と、銀色の大きな半月が見えた。


「ここは?」

「我が家って言ってるでしょ?」


 しかし、これでは寝泊りもできまいに。

 でも、だからだろう。俺が宿を求めた時に、この部屋を貸さなかったのは。雨風が少し強いと、このベッドにも……


 そう思って視線を下げると、俺は硬直した。

 なぜなら、ベッドのあちこちが黒ずんでいたからだ。しかも、かすかに赤みがかっている。この汚れが何に由来するものかは、考えるまでもなかった。


「これも言ったでしょ? 『先客』がいるって」


 とすると、その先客は、既にこの世の人ではあるまい。

 なるほど、人が死んだ場所で寝たいかと言われれば、誰だって首を横に振るだろう。


 だが、その先客を殺したのは誰だ? 病気ではあるまい。いや、病人だったにせよ、これだけの出血を伴っているのだから、きっと直接の死因は何らかの外傷によったはずだ。

 そして、その死者は、アイクと深い繋がりのある人物でもある。


 ……俺をここに招いたのは、何のためだ?


「何もないけど……椅子、一つしかないから、そこに座って」


 俺は彼から視線を外さず、ゆっくりと腰を下ろした。

 座っただけでわかるが、これも安物だ。しかも、とっくにガタがきている。


「どうして僕をここに?」

「お礼を言いたいから、かしら」


 どう考えても、人にお礼の気持ちを伝えるような空間ではないと思うのだが。まるで殺人現場ではないか。それも、スラムの上層とあっては。

 唯一、美しいものがあるとすれば、それは壁の裂け目から垣間見える、夜空と月くらいなものだ。


「お礼を言われるようなことがありますか」

「あるわよ。なんだかんだいって、チャルの面倒も見てくれてるし、ギルも近頃、あれでなかなかいい顔をするようになったわ」


 変な話だ。ユミレノストやサドカット経由で顔見知りだったギルはともかく、チャルとは付き合いがあったのでもあるまいに。


「結果論だけど、ノーゼンと一緒に開拓地に行ってくれたおかげで、国軍の兵士も、たくさん救われたはずよ。これだって感謝しなくちゃ」

「それとアイクさんと、何の関係があるんですか」

「おかしなことを言うのね? 顔すら知らない人でも、無事だったのなら、それはいいことじゃない?」


 わけがわからない。


「だからって、なんですか。アイクさんは僕をどうしたいんですか」

「そうね。できることなら、ファルスの願いをかなえてあげたいわ」


 もし本当に実現できるのなら、是非お願いしたい。今すぐ俺を不老不死にしてくれるなら、それこそ一人二人といわず、百人でも二百人でも助けてやるものを。


「……聖女の祠に」

「どうしてそこにこだわるの? 訊いてもいいかしら」

「確かめたいからです。聖女リントは、本当に不死だったのかを」

「それはなんのため?」


 構わない。もう秘密にする必要もないだろう。


「僕自身が、不死に至るためです」


 俺がそう言い切ると、アイクはしばらく真顔に戻って、じっと俺を見つめた。

 それから言った。


「死ぬに死ねなくなった、か」


 納得した、と言わんばかりの暗い声色だった。


「だからそんなにせっかちになるわけよね」

「僕のどこが」

「目的しか考えないところがよ。でも、焦っても慌てても、期日が来るまで、どっちにせよ祠には入れない。なのに、毎日そればかり考えて……せっかく遠い外国までやってきたのに、もっと楽しんだら? おいしいものを食べ歩くでもいいし、名所巡りをするでもいいし」


 反論しようとして、言葉が出なかった。騎士の修行、というのはただの名目だ。第一、実際に修行中の従士ならば、そういう名所巡りもするはずだ。無学では騎士としての務めなど果たせまいからだ。物見遊山といえば聞こえは悪いが、遊びすら知らない人が、どうして世直しなどできようか。


「もし、ユミレノスト師が約束を守らなかったら……殺すの?」

「さぁ、どうでしょう」

「隠さなくたっていいわ。ダメとは言わないし、言っても無駄でしょうし」


 その時に妨げになるのなら、誰であろうとも……


「ほら、そういうところがナイフの切っ先みたいだって」

「僕の勝手でしょう」

「それはそうだけれどもね。カチコチになったものって、強いようで脆いものよ」


 壁に身を預けながら、彼は続けた。


「あなたはこーんなに中身があるのに」


 大袈裟に両手を広げる。


「こんな先っぽしか使わないの? 本当はもっと見えるのに、聞こえるのに、わかるのに。知っているはずのことも忘れてしまう。あなたを見てるとね、そんな風に思えてならないのよ」


 ……忘れる、か。


「いいじゃないですか」


 もし、不老不死がかなわないのなら。俺の次の望みは、きっと忘却だ。


「何もかもを忘れられるなら、こんなにいいことはない」

「すべてを忘れて、何が残るの? まるで死人だわ」

「死人で何が悪いんですか。もう一度生まれさえしなければいい」


 俺の望みは、厳密には不老不死ではない。永遠の死、転生も覚醒もない、終わりのない眠りこそが願いなのだ。


「そうまでして、何を捨てたいの?」

「この世のすべて」

「それは、あなた自身を含めて、ってことよね」


 その通りだが、その言い方にカチンときた。


「自殺して終わるなら、とっくにやってます」

「殺したいくらい憎いのね? それは何が?」

「最初っから、何もかも」


 いちいちいやなことを思い出させてくれる。

 構わない。わざわざ踏み込んできたのだ。それなら聞かせてやろう。


「最初に殺したのは村の男」

「えっ?」

「次に父、それから母は、犯してから殺した」


 何を言ってるの? という顔をしている。

 まだ子供のなりをしているのに、どうやってそんなことができるのか、と。だが、疑問は疑問として、理解はしたらしい。嘘ではないのだと。


「流れ着いた先の村では、知らないうちに、意地汚い農夫にたった金貨五枚で売られた。奴隷の身分で貴族の下僕になって。それから……」


 最初に殺したのは、誰だったっけ? ああ、そうだ。海賊達だ。その後はティンティナブリアで。命は奪わなくとも、たくさん傷つけた。


「それから、たくさん殺した」


 それでも、あの頃はまだ、殺人を忌避する気持ちが強かった。グルービーの塔を駆け上がる時にも、彼の配下を、俺はなるべく殺さずに済ませていた。

 孤島で海賊に襲撃された後、俺が傷つけたことが原因で、一人の男が命を落とした。それまで何の縁もゆかりもない男だったのに、人間としての彼の素顔を見た時、なんとも耐え難い苦しみに落ち込んだ。


「何のために?」

「敵だった。実の親でさえ、殺そうとしてきた。だから、やった。ろくに動けない赤ん坊のうちから、散々痛めつけられてきた。たった数枚の銅貨と引き換えに、ババァのオモチャにもされた。あんな奴らは……死んで当然だ」


 だが……


「……それから」

「それから?」


 思わず喉が詰まる。


「母親代わりだった人も、殺した」


 最初からわかっていたことだった。彼女はスパイで、俺の家族ではなかった。それでも……


「……彼女は、家族が欲しかったんだ。病気で死にかけた時には自分のことのように苦しんで……でも、やるしかなかった。戦えば死ぬとわかっていて、なのに」


 俺は、悪魔だ。

 人間なんかじゃない。


 どれだけ殺した? どれだけ傷つけた? 途方もない力を持って生まれて。自分では落ち着いて行動しているつもりで、その実、力に振り回されている。

 だからって、どうすればいい? 誰だって生まれつきの特徴なら身に備えている。背が高いとか、男であるとか、お金持ちの家に生まれるとか。美女に生まれつくのも、逆に醜悪であっても、それは本人ではどうにもならない。俺の場合は、たまたまそれがピアシング・ハンドだった。

 初めから、悪魔になるべく生まれついたのだ。


 ただ……それでも、俺は自分に「無罪」の判決を下すことはできない。

 なぜなら、俺には選択肢があったからだ。生まれるか、生まれないか。俺は自分で決めたのだ。他の人達みたいに、勝手に生まれてきたのではない。


 いつもいつも俺を痛めつけ、苦しめるこの世界。許せない。そうだ。

 同時に、自分で自分を許せない。その通りだ。

 だからこそ、俺は自身を封印すべく、不死を得ようとしているのだ。


 苦悩の溶岩を噴き出し始めた火山を横目に、だが、アイクは、夜空の半月のように、ただ静かに呟いた。


「なら、問題ないわね」


 一瞬、耳を疑った。


「問題ないと言ったのよ」

「な? 何を言って」

「だってそうでしょ。自分で言ったじゃない。あんな奴らは死んで当然だって」


 それは、そうなのだが。

 俺は、親を殺しているのだ。それを事実と受け止めているのなら、やけにあっさりしすぎてはいないか?


「親でも何でも、あなたを痛めつけて、しまいには殺そうとしたんでしょ。じゃ、黙って殺されればいいの? 司祭達ならそういうかもしれないけど、ワタシは別に、聖職者じゃないからね。やられたくなければ、やるしかないじゃない」

「そ、そうではあるけれども」


 論理的ではあるが、なんとも割り切りがすごい。


「だいたい、あなたが人を殺してきた、その理由って、なに? お金を手に入れて、贅沢したかったから?」

「い、いや」

「やらないと、殺されるから?」

「それが……一番多い」

「憎いから?」

「それで殺したのも、いた」

「逆に、殺すのが楽しいから?」

「殺す理由ではなかったが……」


 とはいえ、本当に殺人を「楽しんだ」瞬間がなかったか、と言われると、自信がない。

 根底には怒りがあった。それが俺を積極的にさせた。ルースレスを葬る時には、一切の苦痛を与えられないことを嘆いた。アネロスにトドメを刺した時には、わざわざ恥辱を与えた。ジノヤッチ達を殺した時には……彼らをもてあそんだ。特に、余裕を持って始末できたヤラマに対しては。


 いつからだろう? 俺は変質しつつある?


「あなたの大切な人を殺したのは、なぜ?」

「それは……襲いかかってきたから」

「何のために?」

「裏切れない人がいたから」

「そのためにあなたを裏切ったのなら、仕方ないじゃない」

「違う!」


 そんな簡単な話じゃない。


「彼女は……どちらも裏切れなかった。だから、殺されることを自分で選んだんだ」


 一度は恨みがましくも思った。俺より、生まれる前に死んだ我が子を取ったのだ、グルービーとの約束を選んだのだ、と。

 だが、それは間違いだ。俺を捨てたのでもなかった。すべてを手放すまいとすれば、あとは自らの命を投げ出す以外になかったのだ。


「そう」


 壁にもたれ、いかにもリラックスしてます、と言わんばかりの調子で、アイクは言い放った。


「やっぱり問題ないじゃない」

「なに!」

「自分で言ったばかりでしょ。殺されることを選んだって。じゃあ、あなたの責任ですらないじゃない」


 そんな。だからって。


「それとも、あなたが殺されてあげればよかったの? それで彼女は幸せになれた?」

「それは……」


 もし、そんなことになったら。

 きっと彼女は耐えられなかった。絶望とともに、自ら命を絶っていただろう。


「単純じゃない。あなたは彼女のことを愛していた。彼女も、あなたのことを大切に思っていた。でも、彼女は死んだ。たまたまあなたの手の中で。それだけ」

「バカな」

「そう? じゃ、もし今、ここに彼女がいて、あのことをどう思うかって尋ねたら、なんて言うかしら? あなたのことを憎んでると思う?」

「だ……だからって。そんなに簡単に片付けられることじゃない!」


 人間は機械じゃない。

 論理でズバズバ割り切って、はい問題ありません、では済まないのだ。


 だが、アイクは俺の叫びを、微笑で受け流した。


「そうね。それがあなたの『正気』の部分だわ」


 壁から身を起こすと、アイクは狭い室内を歩いて、ベッドの脇、枕元まで歩み寄ってきた。


「矛盾なんかしない。殺した、ということと、愛している、ということは。どっちも受け入れればいいじゃない。ううん、他に何ができるの? 過ぎ去った刻は運命そのもの、変えようがないのだから」


 そして、ベッドの柱に手を添える。

 見ると、その丈の高い柱の上には、何か小さなものがあった。貝殻、だ。渦巻く表面に、ギザギザした突起がある。ほぼ白いが、ところどころ、ピンクに色づいていた。


「そんなこと……簡単にできることじゃない」

「簡単じゃないわ」


 指先で貝殻をもてあそび、またそっと置く。

 そして彼は振り返った。


「ワタシも似たようなものだから」

「えっ?」

「こう見えてもね、もともとは神聖教国の貴族の出身だったのよ」


 タリフ・オリムのオカマのチンピラが、実は貴族様。ピアシング・ハンドのおかげで、それはわかっていたが、なんともギャップのある話ではある。


「この髪、黒いでしょ」

「……はい」

「古ルイン人……モーン・ナーがギウナと争う前の時代から、セリパシアにいた人々のことなんだけど、その血をひいている証拠らしいわ。ワタシの場合、あの帝国の祖になったサース帝の分枝? トーリ家の傍流らしいけど」


 すると、聖女に協力した後のサース帝も、彼と同じように、黒髪の古ルイン人だった、ということか。

 考えてみれば、それも当然あり得る話かと思う。二千五百年前に大きな災厄があったにせよ、それまでの古ルイン人は高度な文明を築いており、となれば快適な湖岸だけでなく、内陸部にも生活領域を広げていたはずだ。

 そういう生き残りの一部が勢力を伸ばして、北方の支配者になった。アイクはその末の血筋なのだ。


「だから、子供の頃は、そこそこ大きなお屋敷で育ったわ。次男坊だったから、そこまで期待もされてなかったし、のびのび暮らしてた」


 思い出ゆえか、彼は目を細めた。


「神聖教国って、本当は宗教でガチガチの国よ? でも、ワタシの場合は、まぁ、恵まれてたのね。家の敷地から出なければ、異端審問官がギャアギャア言うこともないし。だから、あの国の普通の子供と違って、ワタシは……要するに、常識知らずだったのよ」


 じゃあ、家から一歩出たら、異端審問官がギャアギャア騒ぐのか。いったい、どれだけ窮屈な国なんだろう? 少なくとも、同性愛者がのびのび暮らせる環境ではなさそうだが。


「歳の離れた兄が結婚してね。まだワタシは十二歳の少年だったけど、それはそれは、本当に女の子みたいだったわ。色白で、ヒョロヒョロでね。今ではもう、似ても似つかない体つきになっちゃったけど……それでやっと、親も考えたの。跡継ぎの心配はなくなったから、今度は次男の将来をなんとかしなくちゃいけないって」


 この辺の事情は、どこの国でも共通らしい。貴族の家では、次男はスペアだ。長男を脅かすほど力をつけては困るし、かといって何かに特化させるわけにもいかない。そして、次世代の目安がついた段階で、今後をどうするかが決められる。


「で、まぁ、手っ取り早いのが神殿騎士になること。遅ればせながら、父は現役の神殿騎士の中でも、特に優れた人物を選び出して、ワタシの指導者に選んだ。それが」


 彼の目が見開かれ、熱を帯びた。


「ラズルだったのよ」


 前に一度だけ、その名前を口にしていたっけ。


「ファルス、ラズルはね……ワタシの知る限り、世界最高の男よ。彼より雄々しくて、美しくて、それでいて優しく勇ましい男なんか、きっとどこにもいないわ」


 恋する乙女が憧れの人を語るかのような口調。彼は陶然として、ラズルを褒め称えた。


「ワタシは出来が悪かったけど、彼は手を取って、優しく辛抱強く、剣の手解きをしてくれた。それは嬉しかったけど……そのうちに、なんといったらいいかしらね? 自分でも説明がつかない気持ちが湧きあがってきたのよ」

「というと?」

「こう……剣を構えるでしょ? でも、そうじゃない、こうやってやるんだって、彼が手を添えてくれる。その時の温もり。背中にあたる彼の胸板。吐息。ほっとするのに、胸のざわめきが抑えられなくて。気が気じゃなくて、鍛錬どころじゃなかった」


 何か理由があるわけでもなく。

 気がついたら……


「最初、自分の気持ちに気付きかけた時には、取り乱したわ。そんなはずはない、これは優れた騎士に憧れる、少年らしい心なんだって。だけど、日々が過ぎ去るうちに、どんどんごまかしきれなくなった。だって、そうよね。剣術なんてそっちのけ、褒められても喜んで、叱られても喜ぶのだもの」


 ……完全に恋をしていた、か。


「ワタシ、こっそり姉の服や化粧を取り出してね、一人で身につけたりするようになったわ。空想に浸っていたの。もしワタシが男でなければ。ある朝、目覚めたらワタシは女に生まれ変わっていて、そこへラズルがやってきて、求婚してくれるの。そうしたら、ワタシは堂々と彼の横にいられる。口紅を引いて、女言葉で喋って。でも、現実になるわけがなかった」


 その時、俺がそこにいて、肉体の入れ替えが可能だと言ったら……どうしただろう? アイクは俺に飛びついただろうか。


「でもね、奇跡が起きたの」


 胸に手を当て。何もない虚空を見上げながら。


「ある日、ラズルは私に言ったの。これ以上、君に剣術を教えることはできない、この屋敷にも来られないって。ワタシはビックリして、しがみついたわ。どうして、何がいけなかったのかって。絶対に納得できなかったから。だから問い詰めて、問い詰めて……とうとう白状したわ。道ならぬ思いを抱くなんて、神殿騎士として、人間として失格だ、未来ある少年を穢すような真似はできないって」


 偶然に偶然が重なった結果なのか。まさかの相思相愛とは。

 自覚のなかった同性愛者だったアイクが、ラズルと触れ合ううちに彼に恋慕の情を抱くようになった。だが、以心伝心、いつの間にか、彼のほうもまた、同じ気持ちを抱くようになっていた。


「それからの日々は、夢のようだったわ。彼が来て、傍にいる。晴れの日も、雨の日も、毎日が楽園にいるようだった。だけど、長続きはしなかった」


 もう、ここまでくると、想像がつく。


「知られてしまったんですね」

「ええ、そうよ」


 剣術を教授させるために招いた家庭教師が、あろうことか我が子を毒牙に。親なら怒って当然だ。


「ワタシ達は、選ばなければいけなかった。別れるか、それとも……二人ですべてを捨てて逃げるか」

「逃げたんですか」

「彼は反対したわ。自分が身を引けばいいんだって。でも、ワタシが納得しなかった。それで彼は、ワタシのためにすべてを捨てたの。神殿騎士としての……栄誉ある勇士の称号も、何もかもを」


 アイクにも、当時の自分を責める気持ちならあるのだろう。愛のためとはいえ、彼がどれほどのものを犠牲にしたのか。だが、それは恐らく、ラズルにもあったであろう感情だ。次男とはいえ貴族、それを愛の逃避行に連れ出してしまったのだ。最初、彼が反対したというのも、アイクの将来を考えたがゆえなのだろうから。


「最初、ワタシ達は南に向かった。東は……何もないリント平原を渡って逃げるなんて、見つけてくれって言ってるようなものでしょ。それに行き先はタリフ・オリムしかない。だったら、ムーアン大沼沢で、無数の冒険者達に紛れたほうが、見つかりにくいと思ったのよ」


 それで二人は、なんとか神聖教国の外側まで逃げ延びた。

 だが……


「逃げきったはいいけど、旅費がなかった。でも、ラズルは問題にしてなかったわ。何しろ、腕が立つことでは並びない、本物の勇士だったんだから。偽名で冒険者登録をして、大沼沢の遺跡を探索する冒険者の一人になったの」

「では、そこで怪我でも?」

「魔物如きに傷つけられる彼じゃなかったわ。だけどね……ワタシ達は知らなかったのよ」


 ムーアン大沼沢は、瘴気漂う湿地帯だ。足元の泥沼からは、常に毒気が漂う。それでも日中は不快な臭気が立ち上るだけで済む。蒸発した毒が、すぐさま日光に浄化されるからだ。しかし、夜間となると、話は別だ。


「いい? ファルス、もしあの沼地に行くのなら、必ず夜は、どこか高所に陣取って朝を待ちなさい。それとブーツや手袋についた泥は、なるべく丁寧に水で洗い流すこと。それができない場合は、頭を高い場所において、絶対に毒の空気を吸わないように気をつけるべきだわ。そうしないと……すぐには死ななくても、徐々に体を蝕む毒にやられてしまうから」

「ラズルさんも、それにやられたんですね? でも、なぜその程度のことも知らなかったんですか」

「それはワタシ達が人目を避けていたからよ。普通に他の冒険者と接していれば、当たり前に知ることができたはずなのに」


 逃亡者ゆえの不都合が、ラズルの命を縮めたのだ。


「気付いた時には、もう手遅れだった。それなりのお金はもうあったから、ワタシ達は東に向かったわ。まずはシモール=フォレスティア、それから船でピュリスに渡ったわ」


 そう言うと、彼は貝殻を摘みあげた。


「これはね、シモール=フォレスティアの海岸で拾ったもの。神聖教国は内陸にあるから、海がないのよ。だから、珍しくて。ラズルが子供みたいに海に入って、目をキラキラさせながら拾うものだから」


 かつての思い出に、アイクは頬を緩めた。だが、すぐ現実に引き戻される。


「でも、そこからどうするか。ワタシは帝都に向かうべきだと思った。あの街は、同性愛者にも寛容だって話を聞いていたから。でも、ラズルはタリフ・オリムを目指そうって言ったの。あそこも、ワタシ達みたいな人間には優しい土地だからって」

「でも、じゃあ、彼はそんな体調でティンティナブリアの北の間道を抜けたんですか」

「あの肺の病気はね……調子がいい時はなんでもないのだけど、悪くなると急に動けなくなる。だから、危険なところだけなんとか乗り越えれば、通るだけならできたのよ」


 そうして、元気な時と、病気の状態とを交互に味わいながら、ラズルとアイクは、西方大陸をぐるりと一周した格好になった。


「この街に辿り着いた頃には、またお金が尽きかけてた。ラズルは頑張ったけど、もう長い時間、動くのは難しくなっていたわ」

「貧乏だったから、ここに?」

「そうよ。それでも最初のうちは、彼も北の開拓地に出て行っては、魔物を退治していたわ。それに、これは彼の性分なんだけど、困った人を見かけると、絶対に黙っていなかったの。得にならなくても、必ず人助けをしていたわ。だけど、二年も経たないうちに、ついに寝たきりになった」


 とすると、やはりここがラズル永眠の場所なのだ。

 しかし、この血痕は?


「今度はワタシが頑張る番だって思った。ラズルほどには強くもなかったから、とにかく毎日、鉱石を掘りに出かけたわ。日々、日焼けして、たくましくなっていくワタシを見て、彼は苦笑いを浮かべていたっけ」


 少女のような美少年が、日々、大人の男になっていく。恋人の変貌は、頼もしくもどこか寂しくもあったに違いない。それにしても、貴族の家の色白なお坊ちゃんが、いまや鉱夫達に混じって穴掘りとは。申し訳ない思いもあったのではないか。


「稼いだお金は、全部ラズルの治療費に使ったけど、どうにもならなかった。どんどん病気は悪くなって……誰の目にも、もう助かりようがないところまできた。それで」


 一度、言葉を切る。


「あの日、ね」


 彼は、壁の裂け目に目を向ける。


「あの日も、こんな静かな夜だった。月が穏やかに輝いていて、星がくっきり見える、そんな夜」


 その弱々しい微笑には、この上なく不吉なものが滲み出ていた。


「ラズルは力なく咳を繰り返したわ。ワタシにはどうすることもできなかった。ただ手を握って、励ますだけ。それはいつものことだったけど、その日は、その後が違ったの」


 それは、まさか。

 末期の病人が望むもの。生きられない以上、苦痛を減らしたいと思うのは自然なことだ。


「そこにあるナイフで……終わりにして欲しいって」

「そんな」


 だが、最愛の彼を、アイクが殺せるはずもあるまい。


「自分では?」

「それができる体力も、もうなかったと思う。とにかく、ワタシは驚いたわ。だって、今まではどんなに苦しくても、つらいから死にたい、なんて泣き言、言ったことなかったもの。病人は彼なのに、ワタシよりずっと強気で、いつも笑顔でいてくれたのに」


 空元気、ということもあるだろう。

 どこかでプツリと糸が切れれば、どんな強者だって弱気にもなる。


「どうしたんですか」

「そんなのできない、どうしても無理だって、泣きながら言ったわ。でも、彼はやめなかった。どうしてもと一晩中……このきれいな夜を見ながら世を去りたい、ちゃんと看取られて死んでいきたいって」


 本人からすれば無理もない。

 だが、なんと過酷な要求だろう。


「世界の終わりだと思ったわ。でも、やるしかない。ワタシじゃなきゃ、彼は納得しない。この苦しみから、彼を自由にしてあげられるのは、ワタシだけ。だから、すぐに後を追おうと覚悟を決めて……」


 それ以上は、言葉にならなかった。

 地獄。掛け値なしの。あらゆる幸せが、呪わしい苦痛に塗り潰されていく。

 思い出しただけで、彼の唇は色を失い、小刻みに震えていた。


「……しばらく、自分がどうしていたか、わからなかった。だけど、我に返ってすぐ、どうすべきかを思い出したわ。私も彼の後を……」


 拳を握り締め、それを静かに下ろし。


「でも、できなかった」

「やめたんですか」

「ううん。取り押さえられたからよ」


 誰に?

 問うまでもなく、彼は頷いて答えを口にした。


「ラズルが、前もって手配しておいたのよ。元気に動けるうちに、教会にも顔を出していたらしくて。当時からユミレノスト師ともうまく付き合っていたのね。だから、教会の人達が、死のうとするワタシを捕まえて、無理やり教会に引っ張っていった」


 すると、さっきのラズルの自殺幇助も、少し意味合いが変わってくる。

 計画的に自分を殺させた?


「数日間、牢獄みたいな部屋に閉じ込められて。でも、当然よね。事情はどうあれ、人を殺したんだから。これで死刑でもいいって思ってた。でも、違ったのよ」


 それはそうだろう。

 文脈からして、ラズルがアイクを陥れる理由がない。むしろその逆だ。

 自分が死ぬ瞬間を特定できない場合、つまり予想外のタイミングで死んでしまうと、その後のアイクの行動を制御できない。この時、まさに彼がそうしようとしたように、いきなり自殺してもおかしくない。それを防止するために、自分の死を計画したのに違いない。

 だから、監禁の目的は、刑罰ではなかった。自殺を防止して、気持ちを落ち着ける時間を与えるためだったのだ。


「引き出されてきたワタシに、ユミレノスト師は、手紙を見せてくれたわ。教会の印章が押された、公的な報告の形に仕立ててあった。それにはこう書いてあったの……犯罪者・ラズルが、年少のアイクを誘拐して、ここタリフ・オリムまで逃げてきた。けれども、隙を突いたアイクが、ラズルに抵抗して逃げようとした結果、彼は死亡した」


 意図が読めた。

 ラズルは、アイクに人生のやり直しの機会を残そうとしたのだ。


「ワタシが自分で逃げたんじゃなくて、欲に負けたラズルが、勝手にワタシを連れ去って、ここまで来たって言うのよ? 最初は怒り狂ったわ。冗談じゃないって。でも、ユミレノスト師は説明してくれた。こういう話にすれば、神聖教国に帰る事ができる、人生もやり直せるのだと」


 多少、経歴に傷は残るが、人生が閉ざされるわけではない。

 男に誘拐され、性的搾取を受けたというのは、きっと生涯にわたって付き纏う恥になるだろう。少なくとも、神殿騎士になるには相応しくない過去だ。しかし、他のポジションでよければ、いくらでも道ならあった。たとえば修道僧になるとか。同性愛者であるアイクには、子供を残すという選択肢がない。つまり、その必要もないのだ。聖職界に進むなら、穢れを洗い流すためとかなんとか、いくらでも話の辻褄を合わせることができる。

 それに、ラズルを殺害したのはアイクで、これは動かしようのない事実だ。目撃者まで用意したのだから。これもアイクの立場と名誉を守るために役立つ。


「……帰らなかったのですね?」

「ええ、そうよ」


 考えた末にアイクが選び取った結論。

 それは……


「嘘をつきたくなかったの。誰かにじゃなくて、自分にね」

「だけど、帰国したからって、別に本当の意味でラズルさんを裏切ることにはならなかったでしょうに」

「もちろんよ。彼はそんな小さな男じゃないわ」

「だったら、なぜ」


 愛に満たされた人間の笑顔で、彼は応えた。


「彼と生きたいから」


 そこには、迷いなど一片もなかった。


「もう、亡くなっているんですよ?」

「ええ、もう声も聞けないし、抱きしめることもできないわ。でも、ここにいる」


 魂がこの世界を離れ、あの紫色の空間に送られることを知っている俺からすれば、そんなのは意味をなさない。ラズルは立派な男だったかもしれないが、ここにその霊魂は留まってなどいないし、今のアイクを気遣うことさえできない。

 だが、きっと彼にとっては、そんなの些細なことなのだろう。


「なんと言ったらいいかしら。もし、私が国に帰ったら……なんとなく、彼と過ごした日々を、自分で否定したことになるような気がしたの」

「心の中で肯定すればいいじゃないですか」

「それも間違ってはいないけれど。その代わり、ワタシはもう、本当のことを言えなくなるわ。人生で一番美しい思い出を、自分で踏みにじるなんて、絶対にイヤだったの」

「でも、故郷にはご両親が」

「それなんだけど」


 バツが悪そうに、彼は笑ってみせた。


「それもね、ラズルがこっそり手紙を書いてたの」

「ええっ」

「すべての罪は自分が被るから、どうか息子を許してやってください、とかね。それを知ったから、ワタシは自分でまた、手紙を書いたわ。本当はこうだったんだって」

「どうなったんですか」

「きっと、穏やかな気持ちではいられなかったと思うけど……許してくれるって、返事には書いてあったわ」


 一応は解決している、か。

 だが、それで本当によかったのか。


「ワタシは、最愛の人を手にかけてしまった。もちろん、彼も納得の上。誰も罪には問わない。だけど、ワタシの中には、それがずっと残る。ひどいと思わない? 彼、一番大事なことを忘れてる。こんな形で彼と別れたワタシが、どうやって生きていけるというの?」

「それは……国に帰れば、家族もいますし……支えてくれる人達に囲まれて生きていけると思ったのでは」

「そうだけど。でも、その中に彼はいない。彼だけがいない。それが我慢ならなかったのよ」


 何よりも大切な、たった一つのものを守り抜くために。

 彼は選んだ。


「貴族の家の息子が、こんなところでチンピラの仲間入り? それも変態になった? いいじゃない! 好きに言えばいい。その通りよ。ワタシは彼を愛したの。いいえ、今でもそう」


 両腕を広げて。何もない夜空に向けて、彼は高らかにそう宣言した。


「ねぇ、ファルス」


 俺に振り返り、尋ねる。


「あなた、もし人生をやり直せるなら、どうしたい?」

「えっ」

「今度は誰も殺さずに生きる? それとも、いっそ割り切ってどんどん殺すのかしら?」


 けれども、アイクの中の答えは決まっていた。


「ワタシなら、いつも答えは同じ。何度生まれ変わっても、何度やり直しても。あの日、あの時、ワタシは絶対にラズルの手を取った。たとえその後、どんなに苦しんでも。泣きながら彼を見送っても。それがどんなに悲しくても。何回でも。何十回でも、何百回でも、ワタシは彼と生きる!」


 これが……

 これが、アイクの人生、彼そのものなのだ。


 そしてここは、彼にとっての聖域。立ち寄るだけで、彼の魂は血を流す。それでも、あえて彼は、俺をここに連れてきた。先には肉体の痛みに、今は精神の痛みに耐えながら、彼は自分の心を差し出そうとしている。

 それが彼の生き方なのだ。恐らくは、心から愛したラズルがそういう男だったから。ラズルに相応しいアイクであり続けたいから。だからこそ、彼は今もこの街にいる。


「あなたが殺した? いいじゃない。それでもあなたには、愛する自由ならある」

「そんな」


 それは正しい意見かもしれない。

 だとしても、それを受け入れてしまっていいのだろうか。


「それと望んだのなら、かなえればいい。そう思ったのなら、それは真実よ。あなたはきっとそれができるのに」


 確かに、アイクはそれをしてきた人間だ。いくら恋慕の情に突き動かされたからといって、それまでの生活も、家族も、身分も、何もかもを捨てていくなんて、普通はできっこない。

 俺はどうだ。いざとなれば、他人になりすましてまったく別の人生を過ごすことだってできるのに、気持ちのほうだけがついていかない。それがなんとも苦々しかった。


「僕が……弱くて愚かだから、乗り越えられないのだと……そういうことですか」


 歯の歯の間から、苦汁が滴り落ちる。


「もし、そんなことを言う人がいたのなら、それは『知らない人』なのよ。愛することも、その苦しみも。耳を貸す値打ちすらないわ」


 彼はあくまで軽やかに、俺を否定もせず、そう答えた。


「たとえ話をしようかしら。あなたが愛する奥さんに、やんちゃな息子、かわいい娘と暮らしていたとする。だけどある日、あなたが街を留守にした隙に、無法者どもがやってきて、奥さんを殺したわ。さぁ、どうする?」


 どうするって……

 よほどのことがない限り、今の俺の力を前提にするなら、敵を皆殺しにできるだろう。でも、これはそういう問いではない。

 あくまで一般人、普通の能力しか有していない立場で考えなければ、意味はない。


「やっぱり仇討ちかしら。でも、戦うとなれば、絶対はないわ。あなたが敵のアジトに乗り込んでる最中に、手下どもがあなたの家を襲うかもしれない。それで息子が死んだら、あなたは『向こう見ず』と言われるわね」

「そうですね」

「じゃあ、泣き寝入り? お金を差し出して、もう襲わないでくださいって頭を下げる。そうすれば、子供達は守れるかもしれない。だけどきっとこう言われるわね。『裏切り者』って」

「ええ」

「いっそ、遠くに逃げる? だけど、住み慣れた街を離れて生きるのは大変よ。ものすごく貧乏になるかもしれない。そんなあなたにぴったりの呼び名は『意気地なし』だわ」


 まさしくそうだ。

 どれを選んでも、不幸の穴埋めなんか、できやしない。


「いっそ、奥さんをなくした悲しみに浸って、自殺でもする? 子供達を残して『無責任』よね。それなら逆に前向きに、奥さんのことは忘れて明るく生きる? それは『薄情』よね」

「何が言いたいんですか」

「全部が全部、間違いでしょ」

「そう聞こえます」

「じゃ、どうすれば正解になるのかしら」


 それは……

 妻が無法者に襲われなければ。その時に居合わせて、守ってやれれば。または、せめて仇討ちにはきれいに成功して、犠牲者を出さずに済めば。


「考えてることはわかるわよ。でもそれって、ただ運がいいとか、頭がいいとか、強いってだけじゃない。要するに、それが正しいってこと?」


 だが、そうでもなければ、たとえ話の中の俺は、どれか一つは不名誉な二つ名をつけられる。


「結局、どれも正解なのよ」


 そうだ。

 当事者にならなければわからない。怒りが先立つのか、恐怖に震えるのか、悲しみがあふれて止まらないのか。その感情のどれかに突き動かされるに過ぎない。


「街を見渡せば、誰も彼も、私はまともな人ですって顔で歩いているわ。馬鹿な連中とは縁もゆかりもございませんってね。だけど、どこまでわかっているのかしら」


 アイクは、それを痛感してきた。突如同性愛に目覚め、そのせいで何もかもをなくした愚か者なのだ。出自を知った人達が、自分を指差しながらヒソヒソ話をする……そんな体験をどれほど重ねてきたことか。

 だが彼は冷静だった。冷静でいられた。彼らこそ愛を知らない哀れな人々なのだと、知っていたから。たまたま運命に振り回されないで済んだだけの人々なのだと、わかっていたから。


「ワタシは恵まれていたもの。ラズルはすべてを与えてくれたし、こんな我儘でも、実家の父は許してくれた。もっとも、そのままで帰国するのは立場上、許せないみたいだけど。この街だって、これでいいところよ? 同性愛者が生きていくにはね」

「故郷と違って、罪に問われないからですか」

「そうね。聖典にあるじゃない。姦淫せしものには懲罰を、でも同性愛者は?」


 ……昔、聞いたことがあるような。なんだったっけ?


「聖典には『同性愛者は、嘲笑すべし』とあるわ。ね? 男女の姦淫には懲罰なのに、同性愛には嘲笑なのよ。罰を与えよとは一言も書いてない。不思議よね。だから、神聖教国のほうが、拡大解釈なんだけど」


 息をついて、彼は改めて俺を見た。


「ワタシはここを新しい故郷にできた。でも、あなたには……きっと、何かもっと大きな『呪い』が降りかかっているのね」

「呪い?」

「ええ。だってそうでしょう? あなたは、ごまかしようもないくらい、人間離れした何かを持っている。それは一見、力を与える祝福か何かのように見えるけれど……言い換えれば、そうでもしなければ生きられないような世界にいたって証拠でもあるわ」


 それには心当たりがある。

 俺はやたらと不運だった。もしかすると、ピアシング・ハンドの副作用ということはないだろうか? しかし、能力を行使した直後に不幸が、といったわかりやすい因果関係はない。むしろ、とんでもない不運を乗り越えるために、この力を使ってきたのだから。


「じゃあ、どうすれば……どうすればいいと思いますか」

「愛しなさい」


 アイクは優しい声でそう言った。


「人は誰しも、愛されようとするわ。なぜって、それがわかりやすいから。けれども、それは手間もかかれば苦労もするし、せっかく愛されても、今度はそれが重荷になったりもする。だけど、本当に幸せな瞬間って、そんなところにはないものよ」


 彼が人生で得た智慧。いや、心の叫びか。

 同じ苦しみを見て取ったからこそ、彼は俺を見過ごせなくなったのだ。


「現に、ワタシも国に残した家族に申し訳なかったし、今でもラズルを手にかけた瞬間を思い出して、正気ではいられなくなる時がある。あなただって、愛してくれた人を傷つけ、殺めたことを、ずっと気に病んでいる。そういうことがなくても、何かが心に圧し掛かる。愛されることの代償というのは、そういうもの」

「それでも、人は愛されようとするものですが」

「そう、みんな間違った努力をして苦しんでいるの。愛されればうまくいくんだって。だけど、愛するだけなら自由よ。いえ、愛するからこそ、自由になれるのよ。ねえ、今までで、あなたが一番楽しかったと感じたのは、どんな時? 何かをもらった時じゃないでしょう? そうじゃなくて、むしろ自分から何かをした時じゃないかしら?」


 アイクは、貝殻をそっとベッドの柱に戻した。


「子供が美しい貝殻に思わず手を伸ばすように。あなたはあなたの心のままに生きればいい。誰も責めたりはしない」


 だからといって。

 俺の気持ちは簡単には整理できるようなものではなかった。


「今でなくていい。後で思い出して、少しでも役立ちそうなら……それでいい。あなたの荷物、一つ増やしちゃったけど……ワタシも、あなたの幸せを祈っているわ」


 そう言うと、彼は俺にウィンクしてみせた。

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