襲撃犯、その後
「そう、火加減に気をつけて……グラグラと煮立たせてはいけない。味も栄養も台無しになる」
「は、はいぃ」
俺はじっと鍋の状態を観察しながら、視線を向けもせずにチャルに言う。彼女はもう、手いっぱいなのだろう。声色にも余裕がない。
なんでもそうだ。芸事というものは、一度に複数の注意を要求する。だから最初は、一つのことをするうちに、他が疎かになる。それを体得する過程で、いくつもの作業を無意識に並行してこなせるようになる。そういう熟練が、仕事の基礎になる。
「塩! 計量! 間違いない?」
「は、はい! 確認しましたっ」
「それで安心しない。味も確認して」
基本は計量だ。目分量でおいしいものを作るには、それこそ慣れが必要なので、最初は勧められない。しかし、そのうち、この段階を越えなければいけない。温度や湿度は日々変わり、ゆえに最適な味わいも微妙に変化する。
最後は自分の舌を頼るしかない。ゆえに料理人ならば、体調管理も仕事のうちなのだが……この点、女性は不利だ。いやでも月経周期があり、そのために微妙な味覚の変化が常に起きてしまう。前世、一流の料理人には女性が少なかったが、その理由の一つがこれだと言われている。
もっとも、他にも理由があったはずだ。なにしろ料理の世界は過酷なものだ。重い調理器具を扱う。世間一般が遊んでいる時に働く。彼らが来店する前に準備して、真夜中まで宴会を楽しみ、帰った後に後片付けをする。激務なのだ。体力面の問題も小さくない。
チャルは、この手の問題を自分の努力で乗り越えていかねばならない。俺自身、女性の立場というのは未経験の部分だから、こればかりはアドバイスもできない。
「んっ、いい、と思います」
「じゃあ、夕飯にしよう。ギル?」
「お、おう」
声をかけられて、ギルはハッと気付いて顔をあげた。なんとなく、心ここにあらず、といった雰囲気だ。いったいどうしたんだろう?
おかしいといえば、あのノーゼンとの決闘の夜からだろうか。あの時は、絶技と妙技のせめぎあいを目の当たりにして、やたらと興奮していた。ところが、翌朝から、むっつりと黙り込むようになったのだ。
日々の勉強を要求されることもなく、気儘な秋休みを満喫しているのかと思いきや、大剣を手に、家の裏手で素振りをしていたり、実家から持ち込んだらしい本を読みふけっていたり、何もせずにウンウン唸りながら考え込んでいたり。
彼は彼で、いろいろ思うところがあるらしい。
今は客席に座って、ギルは食事の支度が整うのを待っていた。配膳くらい手伝わせても罰は当たらないと思うのだが、俺はあえてそうさせてはいない。これもチャルの修行を優先すればこそ。料理は作って終わりではない。客に供するところまで含めてのサービスなのだから。
「今日は鶏肉と野菜のスープですよ」
「ふうん」
「味見を」
チャルの進歩の度合いを見るために、地元の人間代表ということで、彼が判定を下すことになっている。
それで彼は匙をスープの入った椀に突っ込み、一口……
「お邪魔するわよ」
食べようとしたところで、ノックもなしに扉が開けられた。
「あら、ご飯?」
「ああ、アイクさん」
あれから、彼もこちらに立ち寄るようになった。面倒をみろと言った手前、丸投げで済ませるわけにはいかないのだろう。もっとも、いつも忙しそうにしているので、長居はしないのだが。
「分量的には余裕ありますし、召し上がっていかれます?」
「そう? 悪いわね」
そう言いながらも、彼は遠慮も見せずにどっかと腰掛ける。
だいたい、この時間帯にやってくるのだ。初めから織り込み済みなのだろう。夕食をご馳走になりにきたともいえるが、ギルの残飯処理に付き合うという使命を果たしにきているともいえる。
まあ、こちらとしても、味見役が多いに越したことはない。
チャルは、緊張に唇を引き締めた。
秋の大祭まであと二週間。少しでも上達できたのか。気が気でないのだろう。
「どうぞ」
丁寧な手付きでアイクの前にも、お椀とスプーンを置いた。
「いただくわ」
それで、ギルもアイクも、今度こそ一口……
「んっ」
「おっ」
二人の顔色が変わる。
「今日はいいわね」
「ああ……」
しかし、その表情は対照的だ。
アイクは単純に、明るい驚きの感情が出ている。誰でも一目でわかる。なかなか悪くない、上達した。
だが、ギルは、一瞬驚きを浮かべたものの、またさっきまでの、濁った悩みの色を浮かべて、手を止めている。
「あ、あの」
その浮かない顔に、チャルがおどおどし始める。
「やっぱり、何かよくないところが」
「あ? いや」
慌ててギルは取り繕う。
「今日のはうまいと思うよ」
「本当? 本当ですかー?」
「あー、びっくりしただけだ」
そのやり取りを横目に、俺もこっそり一口。
うん、これなら恥はかかない。いつもこの味を出せるなら、だが。
「たった二週間でここまで伸びたのなら、先は明るいわね。さすがはファルスだわ」
「アイクさん、まだ甘やかさないでください。課題はたくさん残っているんですから」
「そう? でも、これはちゃんと食べられる料理よ?」
そう言いながら、次から次へと口に運んでいる。
淡い黄色の、鶏のスープ。目にするだけで、じんわりと広がる旨みを想像できる。
横ではギルが、無言で食べ続けている。相変わらず、心がここにないような顔をしてはいるが、体が勝手に食べているという感じだ。しかし、この反応も悪くない。まずければ、誰だって現実に引き戻されてしまう。ということは、このスープは最低限の水準には達しているのだ。
そんな二人の姿を、チャルは目を見開きながら、息を詰めて見守っていた。
思わず口元が緩む。大切なのは、こういう体験だ。出した皿が受け入れられるという喜び。閉じていた世界が、ふっと開けていくような。もちろん、壁は一つや二つではない。だが、少なくとも一歩は進めた。
「これなら、大祭に出るくれぇはできるかもな? ま、出場制限なんかねぇけどさ」
ギルも、とりあえずは褒めることにしたようだ。
しかし、この一言にアイクは肩を落とした。
「そうなんだけどねぇ」
「どうかしたんですか」
俺の問いに、アイクは首を振った。
「前代未聞なんだけど、今年の祭りが中止になる可能性もあってね」
「ええっ」
それはまずい。
せっかく修行をつけているのに。チャルを出場させるのは、宣伝目的も兼ねている。いい味の料理が出せるようになりました、と自分で言っても説得力などない。ちゃんと審査員の方々に、目立つ場所で食べてもらい、そこそこの点数をつけてもらわねばならないのだ。
「ほら? 例の……チャルの屋台を襲ったツルハシ男」
「はい」
「また出たらしいのよ」
「なんでまた」
初回は夜道を行くサフィ、次はチャル。それでは終わらず、次の犠牲者も出た。
「なんて方です?」
「……名前は伏せるけど、少なくともあなたの知り合いじゃないわ。あと、身分も普通の庶民」
「怪我は?」
「今回もなかったらしいけど、危なかったらしいわ」
「またちょうどよく誰かが見つけてくれたとか?」
「ううん」
長い溜息をつき、椅子に体を預けて。
もう嫌気が差した、と言わんばかりだ。
「今度の子は、物陰に追い詰められて、何分間も助けが来なかったの」
「よく無事でしたね。いや」
怪我はなくとも、他の……
「ああ、お金も取られてないし、その……穢されてもいないわ」
「じゃあ、本当に無事だったんですね」
「そうなんだけど、ね」
しかし、そうなると不可解としか言いようがない。
物盗りでもない。強姦魔でもない。被害者も先の二人は一応俺の顔見知りだが、三人目は、俺も知らない女性という。つまり、人間関係の線……復讐でもなさそうだ。
「けどそれ、んじゃあ、何分も何やってたんだよ、そいつは」
ギルも背凭れに上半身を預けていた。足を載せる場所がないので、落ち着かない感じだったが。
「ツルハシを振ってたそうよ」
「ハァ?」
「被害者の女の子を通路の隅に追い詰めて、すぐ目の前の地面にツルハシを叩きつけたって。それも何度も何度も」
「うわぁ」
それはさぞかし怖かったことだろう。
しかし、それだけの時間があったのなら、目的は殺人でもない? そんなにツルハシを振る時間があったのなら、手っ取り早く一撃を浴びせれば済む。
「本当にね、すぐ目の前……こう、しゃがみこむでしょ? その、もう両足の間。ちょっとでもズレたら、体がズタズタにされるような距離でツルハシを振るわれたらしくって……怖くて声も出なかったって」
「それはそうでしょうね」
暴力というより、いやがらせ?
とすると、恐怖を与えるのが目的だった?
だが、何のために?
「なんか、モゴモゴと口の中で唸りながら、暴れてたっていうわ」
「怖ぇな、おい」
「ね? 本当に、たまったもんじゃないわ」
テーブルの上で指をトントンと鳴らしながら、アイクは毒づいた。
「おかげで、ワタシも駆り出されて市内の見回りよ? それに、神の壁の修行場も封鎖されたから」
「え!?」
「そういうこと。だから、ファルスも修行に来なくていいの。立ち入り禁止になってるからね」
なぜ、と考えて、すぐ答えが出た。地方から来た自称修行者達との衝突が激化しているからだ。いまや都民の目線は、非常に厳しいものに変わりつつある。
「国軍は動かないんですか」
「動いてるわ。ほら、そこのギル君の……本家筋のイリシットの奴が、兵士を率いて見回りをするようになったけど」
「犯人は捕まっていない、と」
「そうなのよ」
危険人物がうろついている状態では、お祭りなんて開催できない、か。
普段より人出も多くなり、飲酒したり騒いだりするのも出てくる。ただでさえ治安の空白が生まれやすいのに、現に今、兇悪な犯罪者が街に出没しているとあっては。
もっとも、チャルの修行は、俺にとって最優先の課題ではない。
既にノーゼンの秘密も聞き出した。あとは、聖女の祠への立ち入り許可……いや。
思考停止していられる状況だろうか?
この状況で、ユミレノスト師が約束を守るか?
というより、彼が俺をこの都にとどめることにした理由はなんだろう? その目的を果たさない限り、彼は俺に協力などしない。
今のタリフ・オリムの状況は、最悪そのものと言っていい。治安は悪化し、人心は荒れ、融和派と独立派が日々、勢力争いを繰り広げている。これを彼がよしとしているならば、アイクの仕事を増やすはずがない。
となると、この二週間を、漫然と過ごすわけにはいかない。
「ギルドのほうも動いてるけど……あのサモザッシュじゃあねぇ」
「期待薄、ですか」
「そうね」
いつの間にか、スープも他の料理も、すっかりなくなっていた。
「まぁ、それはワタシ達大人が片付ける仕事よ。ファルスもギルも、気にしなくていいわ」
そう言いながら、アイクは席を立った。
「あっ」
「うん?」
「そこまで送りますよ、アイクさん」
「そう?」
俺は振り返る。チャルは黙って頭を下げた。言われなくても、後片付けをちゃんとしてくれるだろう。
それに頷いて、俺はアイクと外に出た。
いろいろと話さなければならないことがある。
ノーゼンのこと、ユミレノストのこと……
この街に来て、俺は振り回されっぱなしだ。
だが、それもこれも、この街での第一の目的のため。
どんな手を使おうとも、果たさないわけにはいかないのだ。
二人して、外に出る。辺りは既に真っ暗だった。
この通りにも飲食店がいくつかあるのだが、今はどこも早めに店仕舞いをしているらしく、今、営業中のところは一軒もない。そのせいで、灯りが点されていないのだ。
遠くに繁華街の光が見える。だが、心なしか以前よりひっそりとしているようだ。
そんな中を、俺とアイクは無言で歩く。
勢いで飛び出してきたが、どう切り出したものか。
だが、彼の方が察していた。
「……それで? 何を言いたいの?」
「いろいろありますが」
「チャルを指導させたのは、ワタシの我儘だから」
「それは最後です」
その件については、別に責め立てるようなことではない。
まずは……
「ノーゼンさんの正体、本当に知らないんですか?」
「それから? 知らないわ」
「本当に?」
「ええ」
……知る必要がない、と思っているのだろう。
まあ、これはいい。終わったことだ。
「アイクさん、僕にはこれ以上、余裕がない」
「うん? で?」
「ユミレノスト師が約束を守ってくれるでしょうか」
「ああ、聖女の祠の件ね」
歩きながら、しばらく考えてから、言った。
「わからないわ」
「それでは困るんです」
「と言われても、ワタシは壁の修行場の、ただの作業監督だから」
それも道理だ。だが、だからといって引き下がれるものでもない。
「では、ユミレノスト師が望んでいることが何なのか、見当はつきますか?」
「そうねぇ……」
また彼は考える。
「平和を保つこと、かしら」
考えをまとめながら、アイクはポツポツと語る。
「長老派は、庶民から遠い分、王室とは近しい関係にある集団よ。政治的影響力もあるし……だから、今の状況は、腹立たしく思っているはずよ」
「二つの派閥が目立っていますからね」
「どっちに転んでも、王家の力が削がれて、派閥と貴族の力が強まるお話よね」
独立派が優位になれば、貿易は低調になり、経済も悪化する。ついでに神聖教国との関係も冷え込む。
融和派が優位になれば、神聖教国に対する依存度が高まる。また、王国東部の諸侯とは、利害の対立が生じるだろう。物産に乏しい東方との取引は、制限されつつも利益率の高い西側の貿易に取って代わられるからだ。
どちらの路線を選択するにせよ、そこには利害が付き纏う。必然、パワーバランスも狂ってくる。その利益誘導をする貴族なり、教会なりの影響力が強まり、王家の指導力が低下する。
長い目でみれば、国益にはならない。そう考えるのが長老派らしい。
「まさか、そんな問題を、僕に解決しろと?」
「全部をきれいに、というのは無理でしょうけど。そのための何かの役にたてようとは思ってるんじゃないかしら?」
とすると、現状、聖女役襲撃事件で都民の中での対立が深まっている現状も、彼にとっては好ましくないわけだ。
「少し気分がよくないですね」
何かを得るには、対価が必要だ。それには納得できる。
だが、ユミレノストは、俺にはっきり要求をしなかった。神の壁を叩かせつつ、利用する機会を窺っていたことになる。誠実に頼みごとをするならいざ知らず。下手をすると、知らない間に使い捨てにされていたかもしれない。
「でも、僕はなんとしても、聖女の祠に入りますから」
これだけは譲らない。
もし、降臨祭が終わっても、彼が約束を守らなかったら。
今度こそ、この世から消してやる。
「穏やかじゃない雰囲気ね」
「別にいいでしょう」
「まるで刃物の切っ先みたい。危なっかしいわ」
一瞬、こちらを振り返って足を止めると、アイクはそう言った。
「ねぇ」
「なんですか」
「……ヒマなら、うちに来ない?」
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