一ヶ月で身につけろ
「道具は一通り確認しました」
「使えそうですか」
「問題ありません。さすがは金冠ソークの厨房ですね」
戸棚を閉めながら、俺はサブドに返事をした。
道具を一通り見たが、安物は一つもない。どれもしっかりとした作りの、いいものばかりだ。特にこの大釜。これがなかったら、俺の目論みは成り立たないところだった。それと、この石臼もありがたい。
それにしても……やれやれ。
不本意だろうがなんだろうが、こうなったら仕方ないし、関係ない。やると言ってしまったのだ。
そして、ここは厨房。料理人としての責任は、果たさねばなるまい。
アイクは決闘に先立って、既に使いを走らせていた。勢いに押されてやむなく承諾した直後に、サブドがやってきてしまったのだ。彼は傷だらけのアイクにぎょっとしたものの、我がことのように跳び上がって喜んだ。そして、俺の気が変わらないうちに、さっさと手を引いて、ここチャルの自宅まで連れてきた。
俺の姿を見た彼女は、一瞬、目を見開いて驚きをあらわにした。まさか俺が引き受けるとは思わなかったのだろう。だが、すぐ気を取り直すと、深々と頭を下げた。
それでこれからどうするか、という相談を始めようとしたところで、家の外に高利貸しがやってきた。邪魔だったので、俺はリュックから金貨を百枚ほどを取り出して、彼らに突きつけた。元本込みでの一括返済だ。
まとまった額とはいえ、さほどの大金でもない。だが、この程度の支払いすら、チャルには不可能だった。生活に余裕などなく、少しずつ溜まった小さな借金が、ここまで膨れ上がってしまったのだ。
なぜここまでしたのか。まだ頭に血がのぼっていたのだ。これでチャルとサブドは、地べたにひれ伏した。特にサブドは、俺に金銭的負担をかけるつもりがなかったので、いきなりのことに面食らっていた。
そこで俺は二人に宣言した。
『これからは、修行に関してはどんなことでも僕の言う通りにすること。死んでも守ってもらいます』
彼らは了承した。
「僕が指導するのは、今から一ヶ月ほどになります。つまり、降臨祭まで」
「み、短いですね、師匠ー……」
「それ以上は、なんと言われてもお断りです。僕には目的がある。この街での用事を済ませたら、何が何でも旅立たなくてはいけません」
「ですが、そのぉ」
客席に座るサブドが、恐る恐る尋ねる。
「たった一ヶ月で、この子がまともな料理を出せるようになるんでしょうか」
「かなり難しいですね」
「じゃ、じゃあ」
「もちろん、道筋は考えてあります」
一ヶ月で一人前の料理人に……普通で考えれば、無理に決まっている。
「目指すゴールは……どこかまともな飲食店の下働きになることです。五年、十年頑張れば、一人前になれるでしょう」
「は、はぁ」
「言いたいことはわかります。今までも、そうしたかったけど、できなかった。でも、なぜですか?」
「そ、そりゃあ」
金冠ソークの一人娘だから。この街の料理人達の心のどこかに恨みや妬みが残っているからだ。しかし、それだけではない。
「気持ちの問題を別にしても、チャルを助ける意味がないからです」
俺にじろっと見られて、チャルは首をかしげた。
「はいぃー?」
「いいですか、チャルさん……いや、チャルと呼びます。弟子ですから」
「はいっ」
「で、依頼人はサブドさんですから……説明はこちらにしますが」
その上で、俺は彼に向き直った。
「そういうお店……小さいところには、その余力がそもそもないですが、ではまともな大きいところが、チャルを雇い、育ててやる義理がありますか」
「そりゃあ、ない」
「なら、鍛えてやることで、何か得しますか」
「うん、それもない、のかな」
「そういうことです」
チャルに好意を抱く理由がない。また、チャルに対する責任もない。ついでに、チャルには才能も特技もないらしく、であれば仲間に引き入れる価値もない。
「要するに、身内でもなく、役にも立たない相手だから、無視されるのです」
「お師匠ー、ひどいですー」
「事実です」
サブドはテーブルに肘をついて、溜息を漏らした。
「けど、それじゃあ、どうしようもないんじゃあ」
「だからこその道筋ですよ、サブドさん」
「何をするんですか」
俺は、ここで間を置いた。
息を吸い込み、それからハッキリ言い切った。
「秋の大祭に出場してもらいます」
「はぁっ!?」
「ほへ?」
二人とも、わけがわからないという顔をしている。予想通りだ。
「そんな、お師匠ー、さすがにそれは、恥をかくだけですよー」
「心配無用、既に存在自体が、この上なく生き恥です」
「ひどいー」
「ああ、だけどファルスさん」
サブドが座り直して、こちらに向き直る。
「恥はともかく、それで何が変わるんですか」
「一品でいいんです」
「一品?」
「金の冠は取れなくても構いません。初めから狙っていません。ただ、何か一つはできる。これといった皿を出せるのだということを、大勢の前で見せ付けるのです。そうすれば、チャルには少なくとも利用価値が出てきます」
これが俺の考えた作戦だ。
「けど、お師匠ー」
「なにか」
「それだって、かなり大変なんじゃないですかー」
「もちろん」
俺はゆっくりと振り返ると、殺気さえ込めた視線でチャルの顔を覗き込んだ。
「ひうっ!?」
「覚悟してください。これから昼夜を分かたず、毎日ボロボロになるまでシゴきます」
「え、えー?」
「なんでも言う通りにすること。約束しましたね?」
「う……」
実際には、そんな非効率な真似はしないつもりだが、これくらい覚悟させておいたほうがいい。
黙らせてから、また振り返る。
「既に覚えさせる料理も決めてあります」
「何にするんですかね」
「麺です」
「麺!」
サブドだけでなく、チャルの顔まで、ぱあっと明るくなる。
それはそうだ。金冠ソークを象徴する一品こそ、麺だったのだから。
「そいつはいい! そうだ、この前食べさせてもらったあれ、ありゃあうまかった。ファルスさん、一つ、あれを仕込んでやってくれませんか」
「いえ」
勢い込むサブドを押し留め、俺は静かに言った。
「あの料理は避けるつもりです」
「なんでですか」
「いろいろ理由はありますが、何より利益が出ません」
実は、短期間で仕込める料理となれば、これしかないと思っていた。前世にも、一ヶ月程度の学習期間で蕎麦・うどんの店を出せる研修というものが実在したのだから。
だが、あんなうどんモドキを仕込んだって、インパクトもない。この街には麺料理の店がいくつもあり、それらではもっと繊細な味を楽しめる。もちろん、ちゃんとしたうどんが細麺に劣るわけではないのだが、ここの人達には大雑把な料理に見えてしまうのではないか。
それに、ここタリフ・オリムでは、小麦が微妙に高い。収穫量が少なく、多くを輸入に頼っているためだ。主な消費者は富裕層で、貴族などはむしろ蕎麦をあまり食べない。
そんな原価の高い素材を主力商品にして、チャルが生き残っていけるだろうか?
「だから、もっとありふれた素材を使います」
「け、けど、それって」
「はい、蕎麦です」
蕎麦の麺。
そう聞いて、チャルはキョトンとして立ちすくみ、サブドはがっかりしたように椅子に座り込んだ。
「蕎麦なら、この街でも安く手に入ります」
「そりゃあそうですが、ファルスさん、難しくはないですかね」
「難しいとは」
「私ぁね、食べたことあるんですよ」
「ええっ?」
はて。
俺はこの街であちこち食べ歩いた。ガレットを出す店はたくさんあったが、蕎麦を麺にして出すところは、どこにもなかった。だから、チャルがその第一号になれば、きっと目立つ。しばらくは客を呼べるのではないかと思ったのだが。
「ああ、えっと、昔、ソークのやつが作ってくれたもんで」
「そういうことですか」
「けど、あいつ、言ってましたよ。蕎麦はいろいろやりにくいって。小麦の麺みたいに繋がらないんだって。食ってみた感じじゃ、まったくそうは思わなかったんですがね」
「さすがは……やっぱり挑戦したんですね」
知っている。
蕎麦には、小麦と違ってグルテンが含まれていない。こちらの世界の小麦や蕎麦が、前世と同じ性質を持っていると言い切ることはできないが、これまでの経験から、ほぼ同じものだと思っている。とすれば、こちらの蕎麦も、小麦のようには簡単にまとまってくれない。
ある程度は技量を高めることで対応できるが、それだけでは麺にならない。なるべく新鮮で良質な蕎麦を使うこと、必要に応じて小麦粉をつなぎに使うこと、それによって風味が損なわれた分を、薬味で補うこと……などなど、いろんなことに気を配る必要がある。
「でも、だからこの街に、蕎麦を麺にする人がいなかった。尚更、チャンスじゃないですか」
「できるんですか、ファルスさんは」
「正直、限度はあると思っています」
どう転んでも、来年の夏にはどうしようもなくなる。蕎麦が古くなればなるほど、つなぎに苦労することになる。ましてやこの世界には冷蔵庫もないのだ。俺でも頭を抱えるのに、チャルが乗り越えられるはずもない。
「最初は、蕎麦が新鮮な時期だけ、店を出すのです。それ以外の時期には、やむなく小麦の麺を出すか、他所の店で使ってもらいましょう。そうして腕を磨いて、どこかで独立してやっていけるようになれば、そこがゴールです」
「ううむ」
サブドは腕を組み、椅子の上で体を揺らして考え込んでしまった。
「けどなぁ」
「まだ懸念される点がありますか」
「いやぁ、こりゃあ、あくまで、なんつうか、印象の話なんだが」
「はい」
「ソークの蕎麦麺は、売れんかったんじゃ」
「はい?」
はて?
それはどうしてだろう。話に聞く限りでは、彼は凄腕の料理人だった。ならば、一定水準以下の味の品を客に供するはずはない。俺でさえ、そんな真似はしないのだから。つまり、まずかったから、という線はありえない。
この街の人が蕎麦を嫌った? でも、毎日のように食べているじゃないか。
「ほれ、その、ソークは一流の飯屋で、麺ちゅうたら、そらぁ昔のえらい人の好物ってことで、まぁ、ちょっと高いものって印象があるもんだ」
「アルデン帝の街でしたからね、そういえば」
「そういうことでなぁ。みんなわざわざ、ソークに蕎麦なんかで麺を作らせようとは思わんかったんで」
「なるほど、参考になります」
「しかも、それだけじゃない」
サブドは身を乗り出すと、神妙な顔つきで言った。
「審査員もな、お偉い方々だったりするもんで」
「そうなんですか」
「王様自ら試食するんだから、そりゃあヘタなものは出せないってことで」
とすると、ただ無策に蕎麦を出しても、受け入れてもらえない可能性がある。蕎麦の麺が、小麦の麺の代用品、ダウングレード版と看做されてしまうからだ。なんらかコンセプトがなければ……
しかし、問題はそれだけではない。
蕎麦といえば、俺の中ではあの、日本のざる蕎麦が思い浮かぶ。だが、醤油のないこの街では、あれは作れない。
ならば、どうやって味付けをするか? いっそ、どこかの創作蕎麦屋みたいに、スパイシーなスープでも作って出してやろうか。ただ、やりすぎると、蕎麦本来の風味が損なわれてしまう。むしろ、その路線でいくなら、コシのあるうどんのほうがいいくらいだ。
だが、別に蕎麦を麺にするのは、日本人の専売特許ではない。イタリアの郷土料理にだって、ピッツォッケリというものがある。材料的にも、ゴールはこっちにすべきだろうか。それに、麺の整形の難易度からしても、日本式のような細いものより、やや太めのこちらのほうがやりやすいと思う。
ついでに言うと、蕎麦のつなぎに使う素材も、小麦粉に絞る必要はない。例えば、青森に伝わる津軽蕎麦では、大豆を使う。これは、米を自家消費にまわせなかった人々が、蕎麦を主食にする際に編み出したレシピだが、栄養面では辻褄が合っている。この街でも、蕎麦に卵を落としてガレットにしているが、理屈は似たようなものだ。この辺にヒントがあるのかもしれない。
とにかく、手持ちの引き出しを惜しまず使っていかないと、とてもではないが、間に合わせることなんてできないだろう。
店の経営とか、接客とかについては、後日、サブドに任せるとして……
「それで、お師匠ー」
「なんですか」
「何をすればいいですかー? 麺の作り方ですかー? それともスープー? あっ、あっ、もしかして、試食ですかー? わぁい」
よしよし、と頷きながら、俺は厳かに申し渡した。
「店の清掃と道具の洗浄。徹底的に!」
それじゃあ、とサブドも立ち上がり、腕まくりする。俺はそれを押し留めた。
「チャル一人にやらせてください」
「えっ」
「ええーっ」
「僕も手出しはしません。これも修行です」
「わ、わかった」
安全で清潔なものを召し上がっていただく。お客様に美味と健康と真心を。そのための道具は大切に。これこそ、基本のキだ。
あれこれ物をひっくり返す音が、背後から聞こえてくる。俺は店の軒先に出て、こんがらがった頭を整理整頓しようとする。どうしてこうなった?
いや、いや。状況は好転したのだ。アイクは背中を押してくれた。そう考えることはできるし、また実際そうだ。まぁ、チャルの借金まで肩代わりしてやる必要はなかったが、あれくらいの出費なら、いつでも取り戻せるだろう。
なんというか、落ち着かない。このところずっと、やたらとノイジーだ。
俺は確かに、酔っ払いの冒険者をぶちのめした。元はといえば、これがきっかけだ。だが、たったそれだけで、こんなにも苦労しなければならないのか?
なぜあんなにもサモザッシュが俺を目の敵にするのか?
ユミレノストの本音はどこにある? いや、俺をこの街に留め置くことで、どんな利益を狙っていた?
アイクはいったい、何者なのか?
そしてノーゼンとは?
どうすれば出来損ない料理人のチャルを独り立ちさせられる?
はじめはサフィを、続いてチャルを襲った男の正体と目的は?
すべてを解決する必要なんてない。
俺にとって大事なものだけ……
「よぉ」
はっと顔をあげる。目の前には、荷物と大剣を背負ったギルがいた。
「あれ? 何やってるんですか」
「何って、俺も泊まりにきたんだよ」
「僕は……でも、ほら。ここに宿を見つけましたよ。ギルも帰ってくださいよ」
なんてことだ。
問題が片付いたと思いきや、こっちはまだ終わってなかったか。
「納得してねぇからな。だってよ、ケツ拭いたのは結局、他の誰かじゃねぇか。だったら、しまいまで付き合うぜ」
「いや、いいですから」
「いーや、こいつはもう、俺の問題でもあるんだ」
「そんなこと言ったって、ここはチャルの家で、僕の家ではないですからね」
するとギルは、表の玄関の扉を開きながら「ごめんくださぁい」と声をかけ、中に入っていく。バタバタとチャルの足音が響き、内側からやり取りする声が聞こえ……すぐ、ギルが戻ってきた。
「いいってよ」
「はい?」
「家主の許可が出たんで、俺もここで寝泊りするぜ!」
はぁ、やれやれ。
夕方。
清掃が済んだ店の中で、俺は調理の支度に取り掛かっていた。
まだ、チャルにどんな料理を作らせ、覚えさせるのか、きれいに構想がまとまっているわけではない。進歩の度合いを見ながら決めることにはしている。ただ、それはそれとして、蕎麦がちゃんと麺になるところを見せておこうと思ったのだ。
一度帰宅したサブドも、このために戻ってきている。ギルもテーブルにかじりついて、出来上がるのを待っている。
チャルは俺の近くをウロチョロしながら、工程を観察している。普段ならうざったいと思うところだが、彼女は学ばなければいけない身の上だ。技は教わるより盗むべきもの。時間もないことだし、むしろ好ましいとするべきか。
軽いノックの直後に、入口の扉が開けられる。
「お邪魔するわよ」
今朝、殴りあったばかりのアイクが、悪びれもせずに顔を出した。俺に散々打たれたせいで、端正な顔が腫れ上がっている。あちこち青痣だらけだ。だが、その表情には何の翳りもない。まったくカラッとしている。
「お、ああ、アイクさん」
腰を浮かせかけたサブドに、アイクは身振りでいいから、と制した。
「このたびはまことに」
「いいのよ、それはファルスに言って」
そして、当たり前のように彼も客席に座った。食べるつもりできたらしい。図々しいというか、神経が太いというか。わだかまりなんてものとは、まったく無縁であるらしい。
まぁ、そんなことはどうでもいい。今は調理の途中。他の事はすべて無視だ。
「チャル」
「はい」
「蕎麦は、水を含ませた瞬間から劣化する。いったん作業に取り掛かったら、手を止めずに一気に仕上げないといけない。でないと、きれいな麺にはならない」
そう言いながら、俺は水を加えてかき回し始める。均質に水分が行き渡るよう、粉の塊を崩しながらすり合わせ、馴染ませていく。
粘りが手に感じられるようになってきたら、生地の中の空気を抜くために練る。これもやりすぎてはいけない。
ほどほどのところで、のし棒の出番となる。厚みを均一にして、それを畳む。包丁を取り出し、手早く均等な幅に打ち下ろす。
「どうぞ」
「はっ? これ、本当に蕎麦ですかね?」
「ビックリね……こんな細い麺にできるなんて」
「おい、けどよ。ファルス、これ、味するのか?」
茹で上がった麺を前に、彼らは目を丸くしている。
残念だが、めんつゆなんてものはない。だから、俺の中の一番おいしい蕎麦は出せないことになる。
「蕎麦粉の質がいいので、まずは塩だけで食べてみてください」
「マジかよ」
半信半疑で口に運ぶも、口に入れて、更に目を見開く。
「んっ」
「ツルッツル! へぇ、こういう味になるのね」
「はぁ……けど、地味すぎねぇ?」
チャルは言葉も出ないらしい。その横で、サブドが言った。
「こりゃあ、すごい。ソークの蕎麦の麺にも負けてない」
むしろソークがすごいのだろうが。蕎麦の麺の伝統のないところで、個人の創意工夫だけでこのレベルに達したのだとすれば。いつも痛感するのだが、俺はただ、前世の知識や経験のおかげで、一歩前に立てるだけなのだ。慢心しないように気をつけなくてはいけない。
「猛練習すれば、これは作れるようになります。が、最終的にこれを目指すかというと、まだ決めてはいません」
「なんでよ」
「あわせるスープが……僕の知っている理想のスープが、ここでは手に入らないからです。だから、そこは別の工夫で埋め合わせるか、もう少し違った形の料理にするか。僕もいろいろ検討しないと、なかなか結論が出せないところです」
「なるほどね」
頬杖をついたアイクは、フォークで皿をつつきながら言った。
「これは微妙すぎるわ。麺がこれだけ細いと、絡ませるスープもあんまり大味にはできないし。下手をすると風味が全部飛んじゃうものね」
「そういうことです」
「それにしても、上品な趣味してるわね。ワタシはこういうの、好きだけど」
「ということで、こんなのも用意しました」
一転して、太い麺。これにチーズが絡められている。
「おお? 俺ぁこっちのがいいな」
「という感想になるのも、わかってますけどね」
塩と蕎麦だけでは、さすがに味気なかったのだろう。ギルが新しい皿にがっついた。
「チャル」
「は、はいっ!」
「あなたはどんな皿をお客様にお出ししたいですか」
どんな料理を覚えさせるのか。しかし、それが俺の独りよがりなものであっては、意味がない。教えるのは俺でも、実際に料理を供するのは彼女自身だから。テーマを決められるのは、彼女だけなのだ。
「えっ……」
「ソークはソークなりの考えがあったのでしょう。でも、父や僕の猿真似をお出ししても意味がないんです。チャル自身、料理に対して思うところはないんですか」
そう言われて、彼女は軽く考え込んだ。
「……ひもじいってことですね」
「は?」
「もっと食べるものがあればいいのにっていうのは、ずっと思ってました。特に、冒険者をしてた時には、そりゃあもうつらかったですよ! 森の中で迷子になって、でも食べるものもなくて、ただ彷徨ってて」
「ははは」
サブドが苦笑いしながら首を振った。
「そりゃあ、チャル、お客は腹を空かせてるから飯を食いにくるんだし、そんなの当たり前のことじゃないか」
「でも、でもでもー」
彼女は譲らなかった。
「いっつも思うんですよ。こんなに青々とした森に見下ろされている街なのに、ひどい年なんかだともう、本当に蕎麦しか食べるものがなくなったり。どうしてなんだろうっていつも思ってて。だから、ひもじくなくなる料理を出したいです」
彼女の提出したテーマに、みんな理解が追いつかないという顔をしている。俺も顎に手を当てて考え込んだ。しかし、これはこれで、追求する値打ちのある方向性なのかもしれない。
「これなら大丈夫そうね」
早くもアイクは席を立った。
「ギルのことは、パダールさんに報告しておくわ。じゃあ、ファルス……期待してるわよ」
それだけ言うと、彼は去っていった。
「へっへへ」
アイクがいなくなると、ギルはニヤニヤし始めた。
「毎日うまいもんが食えて、かつ勉強もサボれる……俺って天才?」
「ギル」
「お、なんだよ」
「そういうつもりなら、僕にも考えがある」
まっとうな反抗心なら応援してやらないでもないが、怠けるためというのなら……
「チャル」
「はいーっ」
「これから、チャルの失敗作を平らげるのは、ギルの仕事に決まったから」
「はいぃーっ」
「げぇえ! マジかよ!?」
試食会が済む頃には、外はすっかり暗くなっていた。サブドは家路につき、ギルは与えられた部屋に引っ込んだ。チャルには後片付けを途中まで手伝わせたが、早く寝るよう言いつけた。明日から、猛特訓が始まるのだから。
いきなり蕎麦だけ教えるのでなく、最初は料理のなんたるかを教えるのが先だろう。
なお、ピアシング・ハンドで能力を底上げすれば、話はずっと簡単になるが、それはしない。なぜかというと、やりたくないからだ。苦労せずに技術を身につけると、親が親だけに「なんだ、やっぱり才能あったんだ」と勘違いするかもしれないし。
それに、こんなことで俺の秘密を危険にさらすわけにもいかない。それこそ、ずっと身近にいて監視できるとか、やたらと口が固いとか、使い道がないか、使っていると本人も自覚できないスキルであるとか……何かそういう条件でも整っていればいいが、そうでないと、変な手がかりを残していくことになる。
さて……
気持ちのいい夜だ。
安眠できる場所があるというだけで、やはり気持ちのありようも変わってくる。今夜は布で体を拭き清めただけだが、明日には入浴しに出かけてもいいだろう。安心して荷物を置いておけるのは、大きい。それに俺は外国人で修行者だが、いまや都民の後ろ盾もあるから、その意味では安全度も全然違ってくる。今更という気がしないでもないが、もうドランカードやアイデルミ家、サモザッシュも下手に手出しはできないだろう。
店の軒先に立ち、遠くに繁華街の明かりを眺めながら、俺は夜風を堪能していた。
そろそろ寝よう、と踵を返した時、小さな物音が耳についた。
なんだろう、と足元を見ると、一枚のカードが落ちていた。
「な……んだ、これ」
表側は、黒一色。そこに白い線で、何か虫? ハエみたいな図柄が描かれている。生理的に嫌悪感を催すデザインだった。
裏返す。そこには、こう書きなぐってあった。
『三日後の深夜、鉱山の裏手で待つ。 ……”組織”より』
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