アイク、暴れる
「何やってるんですか?」
不穏な空気。頭上はこんなに澄み切った青空なのに、その場にしゃがみこむ男達の表情には、曇り空のような陰鬱な色が浮かんでいた。
そんな中、アイクだけが不自然に明るい笑顔を浮かべている。
「別になんてことないわ」
そう言いながら、妙に殺気立っているように見える。
「ワタシがこれから、あんたをシメるってだけの話よ」
「はぁっ!?」
いきなり何を。
俺は別に、アイクの悪口なんて、言ってないぞ? オカマ野郎だなんて、どこでも口にしていない。それとも、また何かあったのか? そのための演技? しかし、それにしては。
「ぼ、僕が何したっていうんですか」
「どうでもいいでしょ、そんなことは」
そんな無茶苦茶な。じゃ、理由も何もなしに喧嘩を吹っかけるって?
俺は慌しく左右を見渡した。
「ギル!?」
監督小屋の前に、所在無く立っている姿を見つけた。
「これはどういうことです? どうしてこんな」
「わかんねぇよ!」
ところが、彼にも理由がわからない。嘘ではないのだろう。器用にお芝居できる少年ではない。目が泳いでいる。
「そういうこと。理由なんか関係ないの」
「そんなバカな」
「今、バカって言った? じゃ、それが理由になるわね」
「言いがかりだ」
おかしい。どうなっている?
気持ちを落ち着けて、俺はアイクに集中する。
怒りではない。強制されているようにも見えない。では、なぜ?
欲得で動く男とも思えない。それも今になって。ノーゼンが……いや、それも違う気がする。
駄目だ。どう考えても、論理的に説明できる理由が見当たらない。
「僕には、アイクさんを殴る理由がありません」
「そ。じゃ、今、作ってあげるわ」
そう言うと、彼は大股に一歩を踏み出した。
冗談じゃない。俺は逃げ出そうとする。だが……
アイクが右手を挙げると、男達が背後を塞いだ。
「そんな? いったいどうして」
よってたかって俺をリンチにかけようと?
だが、男達の顔色は冴えない。本当はやりたくないのだ。だから、街に向かう通路の前に陣取るだけで、あちらからは何もしてこない。
「よそ見してる暇なんかないわよ」
振り返ると、そこに大きな影が差していた。
「ブッ」
大柄な彼が、その体格にものを言わせての回し蹴りだ。咄嗟に腕でブロックしたものの、体が軽々宙に浮く。そのまま横に流されて、固い黄土色の地面に転がされる。
「うっ、くっ」
「どう? 痛い?」
「なんで」
「まだそんな余裕があるのね」
どうする?
なぜ豹変した? いったいこの短い時間に何が起きた?
この前の演技とはまったく違う。彼はまともに俺を蹴飛ばした。
近付いてくる。
とにかく。躊躇は避けなくては。戦うということは、人間の部分の無駄を省くことだ。迷い、苦痛、恐怖……すべて忌むべき夾雑物だ。
跳ね起き、後ろに飛び退く。
とにかく、この体では足りない。身長の差が四十から五十センチほどある。体重も倍は違うだろう。鋭利な剣を手にしての戦いならいざ知らず、格闘でとなると、この差は埋まらない。
ならば魔術で身体強化しなければ、勝ち目はない。だが、長い詠唱を許すほど、彼が鈍重なはずもない。となれば……
身構えて待ち受ける。
「ふうん? 妙に素人っぽい構えだけど、やりそうね」
格闘術のスキルは奪ったものの、俺はちゃんと指導を受けたことがない。だから、慣れはあっても技を知らない。
「フッ!」
またアイクが蹴りを繰り出す。その瞬間。
短く『行動阻害』の呪文を唱えつつ、彼の軸足を蹴った。
「うっ!?」
追撃はしない。激痛に加え、更に軸足を蹴られて倒れこみつつも、彼の腕はしっかりと顔面をカバーしている。あの手に捕まえられたら、おしまいなのだ。
その代わり、なおも後ろに下がりつつ、俺は大急ぎで詠唱を重ねる。『怪力』『俊敏』……ここまでだ。アイクが立ち直った。
「……道理でね。面白いこと、できるのね?」
これでこちらが魔術師であることを知られてしまった。もう『行動阻害』が同じだけの効果をあげることはないだろう。意識して痛みに備えている場合、この術の効き目はほとんどなくなる。
その貴重なチャンスを、身体能力の底上げと引き換えにした。できれば『鋭敏感覚』まで済ませておきたかったが……或いは、『足痺れ』をかけたほうがよかったか。持続時間が長いのは利点だが、しかし、効きが充分でないと、かえって危険になる。
咄嗟の判断には、まだまだ無駄がある。反省だ。
「いくわよ!」
その巨体で覆いかぶさるかのような勢いで、一気に迫ってくる。横に飛び退くが、アイクもそれに対応するくらいの技量なら身につけている。
いくら身体能力を底上げしたといっても、体重の差はどうにもならない。掴まるのだけはだめだ。あの太い腕で首をゴキリとやられたら、一瞬で終わる。
かといって、距離を空けたままでも不利。手足は彼のが長い。離れて戦うというのは、本来ならパワーで押し切れる側が選ぶ戦術なのだ。
だが、超接近戦に持ち込むにしても、どうすればいいのか。俺には技術の引き出しがない。
剣なら……
「ハッ!」
鋭くバックステップ。伸びたアイクの手を、外から強く叩き落とす。
踏み込んで、膝頭を狙って短く蹴る。こちらは避けられた。すぐまた後ろに下がる。
剣術と同じ。体幹に攻撃が届かないなら、せめて体の末端を撃つ。
とはいえ、それでは決定打にならない。
「やるじゃない。なかなか痛かったわ」
「……正気ですか」
「正気よ?」
「まさかとは思いますが、誰かに操られてなんてことは……」
俺の目を見ると、アイクはいきなり笑い出した。
「フハハッ、呆れた! 狂ってる子に、狂ってないか、心配されるなんてね!」
「狂ってるのは、アイクさんのほうです」
違うのか。そうだろう。
精神操作魔術でも、ここまで人を支配しきるのは難しい。そんな凄まじい魔力があるのなら、むしろ直接俺を攻撃するだけの力だってありそうなものだ。第一、わざわざこんな決闘じみた真似をする必要性がない。
なぜ?
思い当たる理由は……
「ワタシにできるかどうか、わかんないけど」
こちらに向き直ると、悠々と歩み寄ってきた。
「あんたのその仮面、引っぺがしてやるわ!」
豪腕が唸る。直撃だけは避けねばならない。
技量に大きな違いがないだけに、思い切った動きができない。本当なら、今のタイミングで腕に絡みつき、ぴったり張り付いて接近戦に持ち込むべきだった。
理屈はわかる。だが、実際にはどうやればいいのか。
「まだ余裕があるのね」
「余裕なんか……っ!」
しまった!
「うごっ」
会話なんかに気を取られているから。避けたつもりの拳が鳩尾に突き刺さる。
息ができない。うずくまっている暇なんかない。こういう時は……『苦痛軽減』だ。
「立てるのね。ま、当然か」
「ぐふっ……当然、じゃないです」
手加減もへったくれもない一撃だった。
いいだろう。なら、こちらも遠慮なく攻撃する。
まずは『弱体化』をかけつつ、時間を稼ぐ。
「今度はなぁに? やらせないわよ!」
戦いの経験だけでいえば、俺だってもう素人ではない。ただ、徒手空拳でのやり方を知らないだけだ。そう簡単にはやられない。
一度、二度、三度……短いフレーズを口の中で唱え、身を捻ってその手から逃れる。
「うまく逃げたつもり?」
かすりもしないパンチで何を、と思ってすぐ気付いた。
背後は神の壁。逃げ場を塞がれたのだ。
「覚悟はいいかしら?」
ふと、違和感が通り抜ける。
追い詰めたのなら好機だ。好機に畳み掛けないでどうする? 時間をかければ、敵が対策を思いつくかもしれない。
恨みのある相手なら、いたぶってからトドメを刺すということだってあるだろう。だが、今回に限って、それはない。
なら、アイクは何のために……
「僕が、サブドさんの申し出を断ろうとしているからですか」
「だったら何?」
「殴って解決って、あなたサルですか」
「いーえ。サルじゃないわ」
相変わらず顔には笑みを浮かべたまま。彼は身構えた。
「私はアイク。勇士ラズルのアイクよ」
ラズル? 誰だそれは。
考える暇はなかった。体を横に広げて、アイクが突進してくる。右にも左にも避けられない。
「ぐっ!」
「捕まえたわ。こんなもの? ねぇ、ファルス、こんなんじゃゴブリンだって殺せやしないわよ?」
そのまま、ギリギリと俺を締め上げる。
完全に動きを封じた。魔法で激痛を与えられるのも織り込み済み。これで決着。そう思っているのかもしれない。
だが、他はよかったのに、これだけは悪手だ。せっかくの好機なのに、トドメの刺し方がなっていない。
「さ、どうするの?」
「……こうします」
アイクの右腕が緩む。すり抜けた左手を鋭く引き抜くと、彼の目元に拳を叩き込んだ。
「かっ」
俺は地面に降り立つ。ついでに膝に一撃、と思ったが、その隙はない。構わない。距離を取りつつ、次の詠唱を始める。
もしアイクが俺を本気で倒したいのなら、時間をかけてはいけない。動きこそ封じたものの、首が極まっていたわけではなかった。あれでは締め落とされるまでに二十秒はかかっただろう。だから俺には『腕痺れ』を詠唱する余裕があった。
「くっ、どうなってんのよ、これ」
感覚も何もなくなった右腕がぶら下がる。
その時間もすべて詠唱のために使える。とにかく、ここで取り押さえる。
「その若さで……なるほど、バケモノね」
我を取り戻したアイクが、また突っ込んでくる。とにかく魔法を使わせてはいけない。それがわかったのだろう。逆に体術では分がある。多少荒っぽくても、俺の体では彼の大きさ、重さを受け止められない。
俺が気をつけるべきは、致命的な一発をもらわないことだけ。撥ね飛ばされるのは、この際好都合だ。それでも、魔術と格闘の両方に意識を割くのは難しい。気が散って、防戦一方になる。
「ほうら! 足元がお留守よぉ!」
豪快な足払いを受けて、俺は転倒した。そこへトドメの一発。辛うじて腕で受ける。だが、威力は殺せず、地面の上を一回転した。
「……そちらの足も、どうやらお留守になりましたよ?」
「は? あっ」
俺が立ち上がると同時に、アイクは思わず膝をついた。『足痺れ』だ。
そして、このチャンスを逃すほど、俺は間抜けではない。
「くあっ!」
目元を狙って一撃、もう一撃。もうアイクは立てない。
残った腕こそあるものの、踏ん張れないから、威力のある拳は繰り出せない。もし掴まれたら、その腕も痺れさせればいい。
「アイクさん、あなたはバカだ」
俺は、苛立ちながら拳を叩きつけた。
「こんなことをして、何になる。僕を打ち倒したって、思い通りになるわけがないのに」
「そ、そうね」
残った腕で懸命に抵抗しながらも、なんとか言葉を返す。
「助けたいなら、あなたがやればいいでしょう。どうして僕に」
「ダメよ」
ぐったりしながらも片膝立ちになって、アイクは息を切らしながら、なおも言う。
「あんたがやらなきゃダメなのよ」
「どうして!」
よりによって、それを一番いやがっている俺が、なぜ?
「どうしてもこうしてもない」
よろよろと立ち上がろうとする。足はまだほとんど回復していないのに。だが、思った以上に立ち直りが早い。取り急ぎでかけた魔術に、この強靭な肉体だ。それも無理はない。
「……痛かった?」
「何を今更」
「ワタシは痛いわ」
「自業自得でしょう」
「サブドも、チャルも、痛がってる」
「だから何なんです」
一呼吸おくと、彼は静かに尋ねた。
「……だから、あんたは、何がそんなに痛かったの?」
意味を察して、俺は息が止まった。
アイクの言う痛みというのは、今、彼に殴られたことを指してはいない。
「何がそんなに許せなかったのよ?」
俺の心の奥の……
「当ててあげようか」
奇妙な沈黙が広がったような気がした。
足元の砂利が跳ねる音が、妙に耳に障った。
「あんた自身よ。違う?」
「う、うるさい! お前に何がわかる!」
……誰にも触れさせたくない思い出。剥き出しの痛点に、指先が触れる。
反射的に俺は怒鳴りつけていた。
「よかった。ちゃんと届いたのね」
そういって、彼は微笑んだ。
「ワタシがもらっていい?」
「……何を」
「その痛みを」
「どうやって!」
「知らないわ。でも、痛みなら、いくらでも受け止められる。この体がある限りは」
俺がチャルを拒む理由。詳細までは、知りようもないだろう。だが、彼は察していた。
心の中にあるわだかまり。深いところに突き刺さったその痛みを。
そして、あろうことか、それを引き受けるとまで言い出した。
「何も知らない他人の分際で、何を勝手なことを……!」
「そうね。勝手だわ。でも」
火のような視線をぶつけても、彼は穏やかに微笑むばかりだった。
「一緒に苦しむ以外、ワタシに何ができるの?」
俺は思わずたじろいだ。
その振る舞いの奥に、断固たる意志が垣間見えたからだ。
「あなたには関係ないでしょう?」
「ないわ。まったく」
「だったら」
「関係ないことも関係ない。ワタシは、そうしたいと思ったらそうするの。お生憎様」
端正な顔のあちこちが腫れ上がり、痣になっているのに。彼の目は、いきいきと輝いていた。
「司祭達なら、怒りを抑えろと言うんでしょうね。でも、ワタシは違う。怒るなら怒ればいい。歯止めなんかいらない」
彼は、アイクとは……いったい何者なのか。
今になってその存在感に圧倒される気がした。
「さぁ」
彼が一歩を踏み出す。
俺は、何かを恐れて退いた。
「全部吐き出しなさい」
「冗談じゃない」
付き合っていられるか。
今までおとなしくしていたのに、どうしていきなり、こんな。
「ろくに動けもしないくせに」
「あら? まだまだこれからよ?」
違う。
もうアイクは戦えない。
そういう問題ではない。彼は、なんとしても意志を押し通すと決めている。それだけなのだ。
「助けると言うまで、ワタシはやめないわよ」
「なんだって……」
「そう、チャルだけじゃない。あんたがあんたを」
「黙れ!」
これ以上、触れられたくない。
名状しがたい不安のようなものが胸を満たした。
何より、俺の「やりたくない」は、ただの内心の問題でしかない。道理の通った話ではないのだ。具体的な不利益を列挙できるわけでもなく、社会正義に反するのでもない。道徳や信仰も関係しない。個人としての恩義や怨恨すらもない。
殴りかかってきたのはアイクでも、我儘を言っているのは、こちらなのだ。
俺は肩をすぼめ、内心の熱に照り返されながら、辛うじて言った。
「……やればいいんでしょう」
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