チャルの災難
薄暗い監督小屋の中。
経年劣化によって、屋根の一部を構成する板がひずみ、うっすらと隙間を作っている。そこから燦々と輝く太陽のきれっぱしが、土間に鋭い光の切れ目を刻んでいる。
「あんたら……タダでさえ、面倒事だらけってのに……んもう」
黒髪をバリバリ掻き毟りながら、いつもの椅子に座っているアイクが、俺達に愚痴をこぼす。
ギルと並んで二人立たされて。しかし、俺が何をしたというのだろう。
「気持ちはわかったから、とりあえず帰ってくれないかしら?」
「ファルスも連れてくんだったらいいぜ」
「それは無理だと思うわ」
「じゃあ、イヤだね」
まだストライキを始めて間もないこともあってか、ギルは元気一杯だった。
「……ワタシに逆らうの?」
「あうっ」
声色を変えて、オネエっぽく体をくねらせて、アイクはギルに圧力をかける。しかし、今回に限っては効果がなかった。
「や、やれよ」
「ん?」
「とにかく、納得できなきゃ、俺は家には帰らねぇ」
恐れを感じないわけではないながらも、彼ははっきりと意志を口にした。
「ハァ」
座ったまま、アイクは項垂れてしまう。
「でも、わかってるでしょ。近頃のこの街は、ここ数年でも見たことないくらい、険悪な空気になってるわ。細々した暴力沙汰なんか、あっちこっちで起きてるんだから」
「俺ぁ怖くねぇ」
「怖い怖くないの問題じゃないの。あんたに何かあったら、ワタシがパダールさんに合わせる顔がなくなるのよ?」
直接的な脅迫には立ち向かえる。だが、迷惑がかかる、と言われれば、さすがに心も揺れる。表情を変えまいとしているのだろうが、口元が強張ったのは、俺にもわかった。
「わかった?」
「いや、わからねぇ」
それでもギルは食い下がる。
「そんなに危ないってんなら、ファルスは余計、困るってことじゃねぇか。知ってんのかよ。今じゃこいつ、街中でパンすらなかなか売ってもらえねぇんだぞ」
「あ、あの、ギル。大丈夫。平気だから、それは」
「何が平気なんだよ」
食べ物なしで、どうやって生きろと。もっともなのだが、俺にはシーラのゴブレットがある。だから、最悪の場合でも餓死はしない。また、暴漢に襲われても、大抵の相手なら返り討ちにできる。なので、深刻に困っているわけではない。
「悩ましいわねぇ」
頭を抱えて、アイクは唸り声を漏らしていたが、急にすっくと立ち上がった。
「ま、それはそうと、ファルス」
「は、はい」
「今日も修行はするんでしょ?」
「はい」
「じゃ、そろそろ時間だし、今日はちょっと注意事項があるから、来なさい」
ああ、そうか。俺と二人で話したいからか。
「ギル、あんたはここで待ってなさい。ファルスを送り出したら、すぐ戻るわ」
「逃げんのかよ」
「戻るって言ってるでしょ」
そういって俺を連れ出し、小屋の外に出た。
きれいな秋晴れだった。遠くにうっすらと白い雲がかかる。それが透けて、やさしい青空が見えている。
吹き抜ける朝の風は、一抹の寂しさを含みつつも、爽やかそのものだった。
「ねぇ、ファルス」
「はい」
「なんとかならないかしら」
「なんとか、というのは」
「宿でも何でもいいから、どこかに身を落ち着けてくれないと、ギルが家に帰ってくれないじゃない」
「そうですね」
俺もまだ子供の彼に、変な負担をかけるつもりはない。お帰り願えるなら、そうしたい。
だが、実のところ、彼の内心にあるものは、そんな単純な反抗心ではない。恵まれ、守られ、多少の苦労をやり過ごして生きる将来。それとどう向き合うか。
その結果、妥協と屈服を選んだとしても、それは恥ずべきことではない。とはいえ、それを告げても、ギルが意見を変えることはないだろう。問題としているのは利益や名誉でなく、誇りなのだから。
「でも、アテなんかないですよ」
「いっそ、ジョロスティ師の世話にでもなる?」
「まずくないですか、それ」
「状況が状況だし、それも仕方ないと思うわ。ユミレノスト師がどう思うかはわからないけど、少なくとも、パダールさんには、ワタシからちゃんと説明するから」
付き合いは短いながらも、この街で出会った人々とは険悪にならずに済む、か。
しかし、それはそれとして。俺にも譲れないものがある。ジョロスティは聖女の祠への立ち入りを許してくれるだろうか。いくら表面上、友好的な態度をとってくれても、肝心のそこが失われては、意味がない。
「ただ、僕としては」
「なに?」
「聖女の祠の見学だけは、絶対に譲れないので……もしこれで」
「あー、なるほどね」
ユミレノストがこの件を根に持った場合、ジョロスティの後押しがあっても、俺は聖女の祠に入れないだろう。そうなっては本末転倒なのだ。
「はー、困ったわねぇ」
「やっぱり、ここはギルを説得するしか」
そう言い合っていたところだった。
聖女の右膝の端に、小さな人影が映った。白い上着の、背の低い小太りの中年男だ。あれは……?
こちらを見つけると、猛然と駆け寄ってくる。
「おぅい」
俺もアイクも向き直り、彼を待つ。もう気付いたのだから、急がなくていいと思うのだが、彼は必死だ。息を切らしながら走ってくる。
「どうしたの?」
「ひゃっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
膝に手をついて、苦しそうに息を継ぐ。
「あ、ああ、あの、そっちの」
彼の目当ては俺だった。
はて?
「助けてやってくれんか。もう、他にどうしよう、も」
「いきなり……あっ」
思い出した。
彼は……
「ああ、すまん。そういえば、名前も言っておらんかった。覚えてないかもしれんが」
「いえ、思い出しました。食材の卸の方ですね」
……チャルのところに食材を届けにきていた、あの男性だ。
「そう、サブドというんじゃ。確か、ファルスさんだったかと」
「サブドさん、僕は子供です。そんなにへりくだらなくても」
しかし、どうして彼が?
俺やアイクの疑問を他所に、彼はその場に膝をついた。そして手を組み、背を折って、懇願し始めた。
「ファルスさん、いや、従士ファルス様! どうか助けてやってくださいな」
「あ、あの。お話はお伺いしますから、そういうのは」
周囲の目を気にして、俺はあたふたと手を差し伸べる。アイクが脇によって、無理やりサブドを立たせた。
「何があったのかしら? まず、それを言ってくれないと、わからないわ」
頬を滴る汗も、そろそろ冷えてきた頃か。
彼の頭も冷えたのか、ようやく落ち着きを取り戻したらしい。
「……昨夜、襲われたんじゃ」
順序だてて説明するという習慣がないために、彼の話はわかりにくかったが、要するにこういうことだ。
チャルは、追い詰められていた。
十代前半で冒険者になると決め、そのために多少の訓練も重ねていた。だが、もともと才能もなかったのだろう。例のオーガの群れの出現に伴うトラブルがきっかけで、形だけでも責任を取らなければならなくなった。支部長も辞任したが、チャルも冒険者証を返納した。そこへきて、父が急死したのだ。
既に母はなく、兄弟もいない。タリフ・オリムの地元民とはいえ、共同体から遊離しつつある状態だった。こういう場合、この街の人間はどうなるか?
理想的には、しかるべき後見人のもとで結婚相手を見つけるべきところだ。しかし、これは簡単なようで難しい。この盆地は既に人でいっぱいなので、縁談自体が成立しにくい。ポストの空きがなく、人口も増やせない、行き詰まった社会なのだ。となれば、主婦として迎え入れてもらうにも、それなりのバックグラウンドが必要になる。
そもそもチャルが冒険者になったのも、それがわかっていたためだ。この仕事ならば自立できるし、他所の土地に流れていくのも容易だからだ。だが、それには失敗してしまった。
よってその他の選択肢となると、もうあとはこの街で自立して暮らすしかない。ガイ達のように、自前で稼げるようになればいい。ただ、男には肉体労働がある。技能なんかなくても、若いうちは鉱山でツルハシを振るうだけで食っていける。だが、女の仕事となると。
やはりここは西方大陸。女性の職業のほとんどは、料理か裁縫だ。そしてチャルは、金冠ソークの一人娘だった。
しかし、ここでも現実は甘くなかった。
外食文化が発達したこの街だ。味のよしあしにはみんなシビアで、チャルの店にはすぐ客が来なくなった。それにあの店は、一人で切り盛りするには大きすぎた。維持管理を諦めた彼女は、屋台を借りることにした。もっと小さくスタートすればいい。
だが、スケールダウンしたからといって、根本的な問題が解決したわけではない。料理というのは、それなりの努力があって、はじめて人に出せるものが作れるようになるのだ。見よう見まねでやっているだけの彼女の店には、ろくに客など来なかった。それでもなんとか潰れずに済んだのは、営業時間が長かったからだろう。他の屋台が店仕舞いした後にも灯りをともして、食いっぱぐれた客を呼び集めていた。
彼女の外見のみすぼらしさは、この生活からきていたのだ。髪の毛を整える余裕なんてない。だから短く切った。だが、それでも片っ端から枝毛になる。髪を梳く余裕なんてない。だからいつもボサボサ頭だ。いつも寝不足で、顔はそばかすだらけになった。
他に選択肢はなかったのか? 一応、二つだけあった。
一つは修道院に入ることだ。但し、そうなったらもう、二度と俗世には戻れない。理屈の上では五年後には社会復帰できるが、チャルの場合、そもそも戻る場所がないから修道院に入るのであって、だからそれは不可能だ。
もう一つは……共同体の一員であることをやめ、売春婦になることだ。だが、これを選びたい女性など、普通はいない。前に俺が彼女を娼館に連れて行ったが、すぐ追い返されていた。チャル自身がいやがって出て行ったのかもしれないが、それと同じくらい、娼館の女達がチャルに引き返すよう諭した可能性もある。一度踏み入ったら引き返せない世界だとわかっているからだ。
チャルは、料理人になることにこだわった。
他の二つの選択肢が悲惨すぎるから、というのもある。だがそれだけではなかったはずだ。
生きる意味がない。だからだ。
真剣に女神と聖女を崇めているセリパス教徒であるならば、修道女として生涯を終えるのもいいだろう。とにかく目先の金を稼いで、その場の快楽に身を任せたいのなら、娼婦になるのもいい。だが、チャルはどちらにも価値を見出せなかった。
生きる意味とは、常に関係性から、そして多くの場合、過去から生み出される。彼女と世界との関わりは、父ソークとの繋がりからしか見出せなかった。ならば、金の冠とまではいかなくても、せめて一人前の料理人になり、あの父の娘として恥ずかしくない人生を歩む。それ以外、道などなかったのだ。
それでも現実は過酷だった。才能も経験もない。助けになるのは、父の友人だったサブドだけ。彼が食材を格安で卸してくれなければ、店の維持なんか覚束なかった。いや、それでやっとギリギリだったのだ。
いつも飄々としていた彼女だったが、あれは、半ば空元気だったのだ。自分はできるはず、うまくいかないはずがないと言い聞かせつつ、直面すれば心が折れる現実から目を背ける。ある意味、それが生き抜く智慧だったのだ。
その、か細い生命線が、昨夜、断ち切られた。
「……ツルハシを持った男が、真夜中にやってきて、屋台をぶち壊しよって」
先日、サフィを襲った男だろうか。
それが彼女の屋台にやってきて、大暴れしたという。屋台は半壊、チャルも服を引き裂かれた。例によって、下半身だけだが。通行人が気付いてくれたからよかったものの、そうでなければ、トドメのツルハシの一撃を浴びていたことだろう。
「で、でも、チャルさんにお怪我はないんでしょう?」
サブドは首を振る。
「怪我はなかったが、屋台があれでは……もともと、あれは借り物なんじゃ。借金も返せておらん。わしが助けてやれるなら、そうしたいが、これ以上は」
彼とて、できることならチャルを救ってやりたい。だが、さすがにそれは無理だ。
今までも、採算度外視で彼女の店を支援してきた。それはこの土地ならではの、友人知人の縁からだ。しかし、サブドにも家庭がある。自分の家族よりチャルを優先するわけにはいかない。
「だいたい、腕がないのはわかっていたんでしょう? だったらどうして他の店に弟子入りとか、しなかったんですか」
「受け入れてもらえなかったんじゃ。ソークは何年も連続で金の冠をもらっておった。それでしまいには、自分から秋の大祭に出るのをやめてしまったんじゃが……わかるじゃろ? その後、誰が金の冠をもらっても、ソークには敵わないと言われる」
「妬み、ですか」
優秀すぎる父が残した負の遺産か。俺達に散々恥をかかせたソークの娘なんか、うちで面倒みられるか、と。
「そこで、ファルス様が来たんじゃ」
「様はやめてください」
人目も構わず、サブドはまた地面に膝をついた。
「あの麺料理を食べた時にわかった。まだお若いが、腕前はしっかりしておる。チャルに何か芸を、人に出せる料理を一品でもいいから、教えてやってくださいまし!」
「サブドさん、あの」
しかし……
「お願いです。あのままでは、あの子はもう、本当に身売りするしか」
……俺の中のわだかまりは、まだ残っていた。
触れたくない。近付きたくない。思い出したくもない。
なかったことにしたかったのに。
「僕がお金を出せば、解決するんですか」
「お金なんて、とんでもない。それはこっちでなんとかします。それより、あの子にやっていけるだけの何かを」
俺は唇を引き結んだ。
「……少し考えさせてください」
俺の険しい表情を見て取ったサブドは、立ち上がった。無理に懇願を繰り返しても仕方がない。折を見て、また話をしようと思ったのかもしれない。一礼すると、素直に引き下がった。
俺とアイクは、黙って彼の背中を見送った。
「……あんた」
「考えさせてください」
確かに、これで何もかもが解決する。
チャルに手助けをして、代わりに寝床を用意してもらう。これで俺は宿無しではなくなるし、ギルも引き下がる。地元民の後援者も得られるから、アイデルミ家やサモザッシュを恐れる必要も薄れる。ユミレノストを裏切らずに済ませられるので、一ヶ月後の見学にも支障をきたさない。
もちろん、周囲の人も救われる。チャルもサブドも、抱えている問題から解放される可能性がある。ギルも家に帰れるし、パダールも一安心だ。
だが、だが。
俺がいやなのだ。
「ふうん」
俺の拒絶を、アイクは軽やかに流した。
「済みませんが、今日はちょっと……散歩してきます」
「そう、いってらっしゃい」
ちょっと気持ちの整理がつきそうにない。
俺は後ろも見ずに歩き出した。
秋のやわらかな日差しを浴びて、王都は今日も穏やかな佇まいを見せていた。
神の壁付近の古びた民家。朝露に濡れた緑の葉っぱが、今日も眩しい。年月を経た壁や床も、不思議な温かみに満ちている。
少し先に進むと、途端に道路が広くなる。もっとも、そのあちこちが屋台に占められているので、歩きやすくなるわけではない。二階建て、三階建ての建物は、壁の一面が取り去られて、その内側が赤や青に塗り潰されている。まるで前世の、暴走族のスプレーアートみたいだ。夜間であれば見栄えのするこれらの塗装も、けばけばしくて、朝の光には似つかわしくない。ポツンと取り残されたおかしさが漂う。
朝の繁華街は、微妙に元気がない。寝起きの娼婦のようなだらしなさがある。屋台は開いていても、誰も呼び声なんかあげない。それでも客はいて、彼らはほぼ無言で長椅子に座り、銅貨を放り投げてそそくさと食事を済ませようとしている。
そこも抜けると、今度は繁華街の北側、飲食店が密集している辺りに出る。チャルの店もこの近くだ。
更に北に進むと、住宅街に出る。そろそろ西側は高級住宅地に切り替わる。大きな建物が、石畳の上に四角い影を落とす。まだ気温の低い朝、そこだけひんやりとしている。
人、人、人。
どこに行っても、人がいる。
それが煩わしかった。
俺は一人きりで旅をしていた。顔はあっても、ないのと同じだった。名前はあっても、ただの記号だった。
この街にも、一人きりでやってきた。ただ目的を果たして、通り抜けて、それで終わり。そのはずだった。
なのに、いつの間にか、この街の中に取り込まれつつある。俺はもう、ただのファルスではない。誰かの何かになりつつある。
そうではない。そうであってはならない。
俺は人であっても、人間ではない。人間であるべきではない。
不死を追い求めるとは、そういうことだ。永遠に生きるというのは、永遠に死ぬのと同じ。だから、人と人の間で生きてはならない。
……もう、我慢するのをやめようか?
力ずくで聖女の祠に立ち入ればいい。誰も殺さずにだって、やれなくはないだろう。
チャルの問題は……金ならある。金貨千枚、あれだけあっても嵩張るだけだ。屋台など、そう高いものでもないだろう。いくらか金を置いていけば、それで終わるはずだ。
そうして、俺は一人、この街を去る。それでいいじゃないか。
遠くから、よく響く男性の声が聞こえてくる。いつもの説法だ。内容はいちいち聞かない。どうせ独立派か、融和派の演説だ。落ち着きあるこの街には相応しくない騒音。そうとしか思えない。
俺の問題はシンプルだ。聖女の祠を見る。不死への手がかり以外、すべては余計なものだ。なのに、どうして心にこんなにノイズが混じるのか。
とにかく、煩わしい。そればかりだった。
気付くと、街を一周していた。
足はまた南へ。このまま進むと、神の壁の前に出る。それでもいいか。アイクには適当に返事をして、明日にでもこの街を出られるようにすれば。
左側の土壁が途切れる。聖女の膝から、神の壁の前の広場に出た。
いつもの通り、鉱夫達が修行……していなかった。
なぜかみんな、地上に降りて座っている。その真ん中で、アイクは一人、立っていた。上着を脱いで、その逞しい体を見せ付けている。その肌はうっすら汗ばんでいた。
「待ってたわ、ファルス」
全員の視線が、こちらに向けられた。
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