家出
日が沈む。
神の壁の西側、聖女の右膝に、真っ赤な太陽がかかる。赤みがかった橙色の光線が、そのすぐ下の土壁を黒く染める。
夏が終わると一日が短くなる。修行者達には物足りないだろう。それでも暗くなってからの作業は危険なので、彼らも手を止めて、しぶしぶ地面に降りてくる。夏の過酷な時期を耐え抜いた男達だから、涼しくなってきたこの季節、まだまだ余力がある。
こうなると修行者も人間だ。どうせなら、酒の一杯でも飲みにいこうと思い始める。別に禁じられているわけではないのだが、本当に限界まで頑張り抜いた後だと、食欲その他もろもろが吹っ飛んでしまう。眠ることさえできなくなるのだ。逆に、ほどほどに疲れていると、何を食べてもおいしいし、よく眠れる。
だから、男達の気分も自然と緩む。夏場には近くの屋台でガレットを食べるなり、すぐその辺に転がっていたのが、今は仲間の修行者と和気藹々、連れ立って街に向かう。
その、急に静かになった壁の下で、俺は暮れ行く一日を見送っていた。
今、ここには俺しかいない。
新たに考えるべきことは、そんなにない。
一ヶ月、なんとか耐えた。あと一ヶ月待てば、聖女の祠を見学できる。それが第一の目的。
それともう一つ。偶然発見したノーゼンという異分子。その正体を暴き、彼の知る秘密を聞き出す。それも俺の求める不死に繋がる情報かもしれない。
一ヶ月前にユミレノスト師から神の壁への奉仕を求められた時、俺は迷った。素直に待つべきか、無視して強引に祠を目指すべきか。
だが、ここでもし、下手にトラブルを起こせば、後々に響いてくるかもしれない。この際、俺の情報があちこちに広まるのは仕方がない。だが、悪名がつくような事件を起こしたら、後々もっと苦労することになる。極端な話、目的のものがある街に立ち入ることさえできなくなったりも考えられる。
ならば、今は必要なコストを支払っているのだ。不死を得る方法を見つけるまでは、我慢の一つや二つ、あって当然。
今は、街中が荒れている。快適な生活は遠のくばかりだ。
それでも目的は明確だし、状況もいいとは言えないものの、宗教の派閥同士の喧嘩なんて、俺には関係ない上、どうすることもできない。
だから頭の中には、ノイズが入らなかった。
西の彼方に落ちていく太陽。
あの夕日は、リント平原を隔てた遠いセリパシア神聖教国でも同じように見えているのだろうか。心の中に、何もない固く干からびた大地が広がる。そこにあかあかと燃え上がる夕日だけがある。世界の終わりのような、虚無の風景だ。アルディニアの西には、ただただ空しい荒野が広がるばかりなのだ。
思えば、随分遠くまできてしまった。西の果てではないにせよ、地の果てではある。東は細切れの盆地に、南は急峻な山脈に、西側は不毛の大地に、そして北側は凍土と魔境に隔てられた……西方大陸の中の、陸の孤島。
けれども、俺はもっと遠いところを目指している。それは物理的な場所ではない。時間と空間の彼方、誰の手にも届かない不死という目標がそれだ。
死ななくなったら、俺はこの夕日を何度眺めるのだろう。荒れ果てた大地の片隅で、人目に触れず何百年も過ごす。こんな日没を何度も何度も見送る。世界には自分しかいない。そんな死に等しい永遠の生。
心は強張り、凍てつき、そのうち何も感じなくなるだろう。それでも、こうして太陽を見送る時には、何かを思い出すのかもしれない。自分が人間だった頃の……かけがえのない、何かを。
そんな思いに耽っていると、遠くの影に、小さな揺らめきが見えた。
背中から西日を浴びているおかげで、顔はみえない。それでも体格でわかる。その少年は、力の抜けた足取りで、まっすぐこちらに近付いてくる。
砂利の呟きが途切れた。薄汚れた靴に、小さく砂埃がたつ。
「よぉ」
奇妙に明るい声色で、ギルは俺に話しかけた。こんなに近くにきても、顔がよく見えない。
「悪ぃ。無理だったわ」
「ああ」
それでいい。
パダールに迷惑をかけるつもりなんて、まったくなかったのだし。
「まぁ、そういうわけで」
ギルは、背中に背負った大剣と、背負い袋を下ろした。
「俺もこっちで寝泊りするわ」
「はい?」
「だーかーらー」
荷物を放り出すと、彼は溜息をつきながら、俺の横に腰を下ろした。
「家出、してきちまった」
「なっ」
「気にすんなって」
彼の口調に力みはなかった。むしろスッキリした、と言わんばかりの穏やかさだ。
「へへっ、さすがに言い過ぎたわな」
「何を言ったんですか」
「なんてこたぁねぇさ。ガキ一人庇えもしねぇで、てめぇキンタマついてんのかよ、ってさ」
「そんな」
現代日本人の感覚からすると、それくらい、少年の反抗期と思えば、どうってことはない。だが、こちらの世界には家父長の権威というものがある。パダールが怒り出すのも無理はない。権威と序列をないがしろにする愚か者には、制裁を下さねばならないのだ。
「あと、他にも言ったな。そのサオ、こっそりシゴく以外に何の役に立ってんだよ、とか」
「えっ」
「もう朝勃ちもしねぇ、男を引退した男モドキにはわかんねぇよな、とか」
「ちょ、ちょっと」
「俺はてめぇみたいな腰抜けにはならねぇ、とか」
「あ、あの、さすがに失礼では」
「あー、そうだな」
珍しくも、彼は自分の無作法を認めた。
「僕のために、そこまでして……申し訳が立たないです」
「どうだかなー」
ボリボリと頭を掻きながら、ギルは言いよどんだ。
「……案外、俺のため、俺のわがままってだけなんだろうなって思うし」
「わがまま? ですか?」
「ああ」
だが、それきり、彼は説明しなかった。それで俺も、尋ねるのを差し控えた。
ギルは街の商店で買い物をしてきたらしい。果物やパン、牛乳などを俺の目の前に並べた。一緒に食べるよう勧めると、口数少なく、早めの夕飯を済ませた。
ここまで思い切ったことをしたのだ。いつものやんちゃとは、何かが違う。彼自身、自ら決断した一方で、少なからぬ衝撃を受けているようだった。
夜の帳が降りても、周囲は静かそのものだった。
雲の少ない濃紺色の夜空に、星々がまたたく。
「他には……戻ってこねぇのか?」
ポツリとギルが尋ねる。
「最近は、壁の前で寝る人も減ってますよ」
俺は事情を説明した。
「そろそろ涼しくなってきましたし。増えてきた修行者も、要するに陳情に来た地方の人達ですから……夏の暑い間はここで寝泊りして宿賃を浮かしますけど、最近はたまに雨も降りますから。そうなったらあの監督小屋で寝るしかないですけど、さすがにじめじめしますし」
「ひでぇな」
つまり、そんな場所でファルスが夜を過ごしている。そう思い至って、ギルは顔を顰めた。
「でも、静かになって、過ごしやすくもなりましたよ。最近は虫もそんなに出なくなってきましたし」
ついでに、虫に取り付かれている不潔な修行者もいなくなった。
あのマハブって奴なんか、特にひどかった。体はいいとして、髪の毛。あの数珠みたいな髪の毛がコチコチに凝り固まっていて。解して洗ったらどんなことになるんだろう。考えただけでゾッとする。一番安価な公衆浴場なら他に利用者もいないだろうから、ぜひ行ってきて欲しい。
でも、その彼も、今はここにはいないのか。
「……俺さ」
ポツリとギルが呟いた。
こちらは見ない。頭上の夜空を見上げて寝転がったまま。
「この街が、好きだったんだ」
「はい」
俺が素直に肯定すると、ギルは一瞬、口をつぐんで俺を見つめた。
「お前はそうでもねぇかもだけどな」
「いえ」
「ははっ、まぁ、それはいいか」
また虚空の彼方に視線を向けなおし、彼は語り続けた。
「高台から街を見下ろすとさ、赤茶けた屋根瓦がさ、すげーいいんだ」
「ええ」
「こう、派手さはねぇんだけど、落ち着いてて」
いつか、ホテルの窓から見下ろした景色を思い出す。
「繁華街なんか、あんなに混雑しててうるせぇのによ、滅多に泥棒も出ねぇ。んで、どこの屋台でつまみ食いしたってうめぇんだ」
「そうですね」
「たまにはムカつくクソッタレもいるけど、だいたいはみんな気のいい奴らでさ。なんだかんだいって、面倒見てくれんだ」
「僕もお世話になりましたから」
だが、そこでふっと彼の表情に翳りが見えた。
「でもよ……わかんなくなっちまった」
軽い口調なのに、どこまでも深い溜息のようだった。
「俺さぁ、就職が内定してんだわ」
「前におっしゃっていましたね、祐筆になるのだとか」
「ああ、まぁ、要するにあのクソッタレの一人、イリシットの小間使いなんだけどな」
それで、か。
彼の高圧的な態度に、ギルはひたすら耐えていた。いや、耐えるというより、やりすごしていたというべきか。陶器の人形みたいに無表情だった。
「いい身分だと思うぜ? 騎士の腕輪もくれるっつうし、給料も普通の市民の二倍はもらえるみてぇだし。あいつはムカつくけど、祐筆っつっても、ほら、こっちは事務作業だからさ……顔を合わせんのは、せいぜい何日かに一遍だけ。しかも、あいつが当主になったら将軍だからな、それもなくなる」
つまり、今だけ我慢すればいい。
割のいい取引ではある。
「嫁さんだって、ほら、あのサフィ姉ちゃんみてぇな美人を、親父が見繕ってくれるんだろうし」
「はい」
「何もかもが揃ってる。困ることなんか、なんもねぇ」
平和で美しい街。食べ物もおいしくて、人情もある。余所者には少々やりにくい場所だが、ここが故郷のギルには何の問題にもならない。そこで親族のツテを頼って、官僚の端くれになる。騎士の腕輪まで保証される。
それに……
「なぁ」
「はい」
「お前は、どこで生まれたんだ?」
同じ十歳でも、ギルと俺とでは、大違いだ。
家族に祝福されながら生まれ、頼もしい大人達に見守られながら育ち、友人達に囲まれながら日々を過ごしてきたギル。
だが、俺はというと。
「リンガ村、というところです」
「それってどこにあるんだ?」
「ティンティナブリア伯爵領。アルディニアの南東ですよ」
「ああ」
頭の中で地図を思い浮かべたのだろう。ギルはすぐ飲み込んだ。
「その、リンガ村? って、どんなとこだった?」
「貧しい村、でした」
「ふーん」
いろいろ訊かれる前に、言っておく。
「もう、ありませんけどね」
「あん? ない?」
「当時の領主が焼き討ちしたので。生き残りは僕一人です」
「マジかよ」
さすがのことに、彼も身を起こしかけた。
「終わったことですよ」
「はぁ、とんでもねぇな」
……確かに、きっかけだけ取り出せば、俺とギルとでは大違いだ。
しかし、それ以外はどうか? エスタ=フォレスティアで一番美しい街、それも知り合いがまだ大勢いる場所を後にして。伯爵家や国王が出世を約束してくれるのに、それも無視して。騎士の腕輪だけはもらったが、これもこうなっては身分というより、ただの通行証だ。
俺がギルを羨ましがるのは、筋違いだ。同じようなものなら、俺だって持っていたのではないのか。
「強くなるわけだ」
「そんなでも」
「やめてくれ。この街で守られてヌクヌク生きてきただけの俺じゃあ、そりゃあ負けるよな。納得してるよ」
だから、ギルと俺の違いは、何を持っているかではない。何を「背負っているか」だ。
俺は、普通の人が人生に求めるものを、すべて持っていたのではなかったか。
そうだ。なのに、俺は……一度は故郷とさえ思った街を、飛び出した。
『本当は多すぎる、多すぎる、ってことはないか。余計なものでねぇかって振り返ってみるだよ』
ふと、今と同じように夜空を一緒に眺めた、あのお人よしのことを思い出した。
そう、俺の荷物には、余計なものが多すぎる。だから……
「昔、さ」
ギルはまた、地べたに背中を預けて、続きを口にした。
「小せぇ頃、鉱山に入ったことがあるんだ」
「鉱山? あの、街の中央の?」
「そ。四歳か五歳の頃かな。ガキの遊びで、まぁ、大人の目をごまかして、勝手に中に入って。けど、坑道って暗いし、あっちこっちに枝分かれしてるしで、迷うだろ?」
「そうですね」
彼の顔に、穏やかな微笑が浮かぶ。
「だからよ、さすがに怖くなって、泣いてたんだ。そしたら、すぐ大人が気付いて、俺を助け出してくれた」
心温まる思い出。
その時、その場にいた誰かの心のぬくもりが、今も彼を温めているのだ。
「坑道から出て、高台から街を見下ろした時、ちょうど夕方になってて」
目を閉じる。
暗闇の中に浮かぶのは、いつか見た光景なのだろう。
「そりゃあきれいだったんだ。空が広くて、そこにうっすら白い雲が……ほんのり赤く染まってて。見下ろすと、どの屋根も赤茶けてて。でも、なんだかあったかくてよ。さっきまで泣いてたのに、そんなの忘れて、もう言葉も出なかった」
それはきっと、ギルの中の聖域なのだ。
俺はそこに立ち会うことはできないが、想像するだけならできる。最後の輝きを投げかける太陽。西日を受けて影を落とす王宮。広がる街並みには、夕焼けの色が一番よく似合う。
「あの時、思ったんだ。こんなきれいな街に暮らしていたんだ、俺はこの街の子なんだって。本当に……」
それは素晴らしいことだ。
問題のない人生なんてない。理不尽もあり、苦労もあり、解決できない出来事だって、いくつもある。それでも、愛して、愛されて生きていける場所があるのなら。
なら、ギルは何が不満なのだろう?
「いいじゃないですか」
ここで生きればいい。
今ある幸せを大切にすればいい。
「少しは嫌な事だってあるでしょう。あの親戚の人も、とても親切そうには見えませんし。だけど、この街まで嫌いになることなんて、ないですよ」
「そうじゃねぇんだ」
ギルの表情は、既にして湿った夜の空気のようだった。
「……この街が駄目なんじゃない」
歯と歯の間から、苦しげな息が漏れて出る。
苦しみ喘ぐような声で、彼はやっと言った。
「俺が、駄目なんだ」
「どうして」
「情けねぇから」
その言葉に半身を起こしたのは、俺のほうだった。
「今朝、サフィって姉ちゃん、来てたろ」
「え、ええ」
「美人だよな」
「はい」
「たぶん、俺の初恋だったぜ」
随分、ませた発言をするものだ。けれども十歳という年齢、そして前世より子供の期間の短いこの世界のこと、そろそろ異性を意識し始めてもおかしくない。ことに婚外の性交渉を厳禁するセリパス教徒ならば、十代後半には結婚していてもおかしくないのだ。
「えっと」
「気にすんな。それはいい。あれは兄貴の婚約者っぽいしな」
「は、はい」
「ああ、その通りに、兄貴と結婚するんだったら……俺も納得するんだけどな」
「えっ?」
何を言っているのだろう?
アルティはわざわざパダールの家まで駆けつけて、娘の純潔を主張したばかりではないか。パダールのほうでも、イリシット相手に、明らかに彼らを庇っていた。両者の関係は悪化していない。サフィが婚約者でなくなる可能性なんて、あるのか?
「イリシット……あのムカつく野郎が来てたろ」
「あ、はい」
もしかして、イリシットが横取りを狙っている?
「まさか、でも、イリシット様は貴族ですよね? それが平民の娘を」
「様はいらねぇよ、あんな奴に。んで、ああ見えてあのクソシット、結婚してやがんだぜ」
「ええ?」
じゃあ、サフィの尻を追いかけたって無駄じゃないか。
セリパス教徒は複数の配偶者を持ち得ない。ここはまだアルディニアだから、離婚さえすれば次の結婚もできるが、それもいい目では見られない。戒律を厳しく当てはめていくと、そもそも離婚も難しい。
性的な事柄について制限の厳しいセリパス教徒の世界である以上、いくら貴族であっても、女性に無体な真似はできない。たとえそれが平民の娘であったとしても、道ならぬ関係は容赦なく叩かれる。ましてここは、市民同士が知り合いのネットワークで結ばれた街なのだ。庶民の群れがブッター家の門前に押し寄せて、国王陛下の裁きを受けろと騒ぎ立てることだろう。
「誤解すんなよ? イリシットはサフィと結婚する気なんざねぇんだ」
「それは。でも、愛人なんて」
「娼館送りにでもなりゃ別だが、まぁ、そいつは無理ってもんだな」
「なら、いくら圧力をかけても意味ないのでは」
「それがなぁ」
皮肉な笑みがギルの顔に浮かんだ。
「一つだけ、うまい手があるんだ」
「と言いますと」
溜息とともに、彼は説明を始めた。
「イリシットの野郎が頻繁にスッタマーナんとこに出入りすれば噂になる。部屋を借りても、いっそ娼館送りにして専属の愛人にしても、ま、野郎自身、泥をかぶることになるわな」
「ええ」
「けど、そもそも『会ってるはずがない』ってことなら、傷もつかねぇ」
「会ってる? はずがない?」
……あっ。
「だから修道院?」
「そういうこった」
「でも、入ったらイリシットさんだって会えないでしょうに」
「裏口があるってこった。んでまぁ、それがまた、五年が一生になる理由でもあるんだな」
つまり、こういうことだ。
いつの時代も、富裕層は愛人を欲しがるものだ。しかし、ここではそれが難しい。
これがまだ、身分を伴わない商人などであれば、そこまで悩まなくても済む。国内に持てないのなら、お隣のシモール=フォレスティア王国か、マルカーズ連合国あたりに別邸でも構えて、そこに現地妻を置いておけばいいのだ。
だが、イリシットのような武官、それも有事でもない限り王都を離れられないような身分の場合、それはできない。また、外聞もあるので、なりふり構わず愛人を街中に囲うなんて真似もできない。
そこで、他ならぬ教会が隠れ蓑になるのだ。修道院での奉仕活動を名目にすれば。
「だけど、サフィさん、嫌がってませんでしたか? それに、お父様も」
「ああ、だけど、関係ねぇんだ」
「そんな」
「もちろん、自分から喜んで娘を差し出すカスもいるし、貴族の愛人になりたがるバカ女もいるぜ? けど、イヤだイヤだっつってもよ。いざ、女ばっかの修道院に閉じ込められてみろよ」
いったん入ったら、勝手には出られない。外部からの目も届かない。もう、諦めるしかないのだ。結婚はおろか、恋愛なんてできっこない。
もしサフィが修道院に閉じ込められたら? 最初はイリシットを拒絶するかもしれない。だが……
若く魅力に溢れた季節を浪費する。それは男にとってもそうだが、若い女性にとっては尚更苦痛でしかないだろう。望み得ないがゆえの欲望というものもある。これだけでも、イリシットにとっては好都合なのだ。
しかし、そんな理屈など、そもそも考えるまでもないのかもしれない。男子禁制のはずの女修道院にイリシットがお忍びでやってきて、ただサフィを襲えばいい。一度操を失ったら、もう立ち直れない。否応なく、その身分に落ち着くしかなくなるのだ。
「……なぁ? ひでぇだろ?」
「ええ」
彼の目に浮かぶ暗い光。
それは、愛するものに幻滅した人間のそれだった。
「けど、悪いことばっかでもねぇんだ」
「どこがです」
「この街さ、広いようで狭ぇだろ」
「はい」
「そうすっとさ……俺みてぇなボンボンはいいけどよ。次男三男なんざ、普通は仕事なんかねぇ。あっても、結婚なんかできっこねぇ」
確かにそうだ。東西南北、どこにも出て行ける場所がない。ここはそういう土地なのだ。
そして、セリパス教は一夫一婦制を厳しく命じている。となれば、男も女も余る。
「だから、あっちこっちに教会がある。行くところのねぇ奴は、そこでお世話になるのさ」
「なるほど……」
「アイクっているだろ」
「あっ、はい」
いきなりなぜ彼のことを?
「あいつはこの国の人間じゃねぇけど……なんでここに居着いてるんだと思う?」
「さ、さぁ」
「ここさ……オカマの聖地なんだよ」
「へぇえっ!?」
いや、でも、そうか。
男女とも余る。余った女は修道院に行き、そこで実質的には富裕層の愛人に納まる。そして余った男は……ツルハシストになるわけか。
だが、女は手に入らない。となれば必然、行き着く先は……
「それと、ガイのことも知ってるよな」
「はい」
「あいつら、街中で集まって暮らしてるだろ」
「……そういうことだったんですね」
こちらは同性愛者の話題ではない。
彼らは毎日、肉体労働にいそしんでいる。そして、稼いだ金を惜しむことなく、すべて飲み代に使ってしまう。なぜか? もともと貧しいあぶれ者。ゆえに結婚その他、将来の展望がないからだ。動けなくなったら、そこで終わり。楽しくも刹那的、それが彼らの人生なのだ。
「で、まぁ……」
この閉じた世界ゆえの、隠れた苦しみ。
ミール二世が開拓事業に力を入れるわけだ。
「俺が知らないところで、そういうことがいくつもいくつもあったんだ。この街で、な」
とはいえ。
一人の少年には、重すぎる課題ではないか?
「それは……でも、ギルがやったことじゃない」
「そう、俺はやってない」
はっきりそう言うと、彼は体をこちらに向けた。
「やってないけど、知ってるんだ」
「どうしようもないことだって、あるじゃないですか」
「ああ」
「なら、自分を責めなくても」
だが、それは大人の意見だ。
それに対して、ギルは子供の正論を述べ立てた。
「俺は負けたんじゃない。戦ってすらいねぇんだ」
そして、俺は言葉を返せなかった。
「……汚ねぇ初恋だよな」
吐き捨てるかのような自嘲の言葉が、夜の闇に吸い込まれていく。
「そんな、でも」
彼の憤りはもっともだ。
しかし、彼には彼の、守るべきものが他にあるはずではないか。
「それは違うんじゃないですか。ギルはわかっている。自分がかわいくて動かないんじゃない。騒ぎ立てたら、周りの人の迷惑になる。それがわかっているから、何もしないんじゃないんですか」
「……ああ」
低い声で、ぼそっと呟く。
「知ってるぜ。この狭い狭い盆地の国で、次男にいい仕事を見つけてやれるなんて、そんなにはねぇ。親父がどんだけイリシットのクソに、コモンドンの肥溜め野郎に頭下げたか。横で見てんだ、イヤでもわかる」
だから、だ。
将来の上司があんな男で、嬉しいはずがない。それでも、ギルは黙って耐えた。叩かれようが、罵られようが、おとなしく下を向いた。今だけだから、今さえ耐えれば、そのための父の努力を無にせずに済むから。
パダールがギルを守ろうとするように。ギルもまた、そんな父を庇うために、あえて何もしないのだ。
「んでもって、今度は余所者だからってファルスをいじめんのかよ」
「僕は怒っていませんよ」
「俺がムカついてんだよ」
彼は誰を責めているのでもない。
ただ、自分で自分が許せないのだ。それが彼の言う『わがまま』の正体なのだ。
してみると、さっき口にした、父への痛罵の数々。
男と呼べない男だと言わんばかりの暴言は……実は、ギルが自身に向けたものなのだ。
「俺は……逆らわねぇ」
諦めたように、力ない言葉がこぼれ出る。
「弱っちいからな。剣担いでワイワイ騒いで悪ガキゴッコして。強ぇフリだ。本当は……」
それを弱いというのだろうか。
手が届かないところまで、どうして守らねばならないのか。ギルはちゃんと自分を犠牲にして、家族を守ろうとしている。父の努力を無にすまいとしている。充分だとは思えないのか。
俺には、ギルの快活さが眩しく見えていた。それを支えていたのは、この街の輝き。俺はその世界の外、光の届かない闇から、彼を見つめていたのだ。
だがギルは、まさに光の中にいながら、ただ闇を見つめている。蠢く影に過ぎない俺を見て、羨んでさえいるのだ。
「だからさ」
幾分軽い口調に戻しつつ、彼はまた、仰向けになった。
「これも……まぁ、なんだ。大人になりきれないガキンチョの、反抗してみたゴッコ? せめて一度くらいは……俺の小さな小さな意地ってやつさ」
「ギル……」
「なぁ、ファルス」
一呼吸おいて、彼は言った。
「お前は強いんだからさ。俺みたいになるなよ。自由に……とにかく、自由になってくれ」
そこに浮かんだ苦々しい笑みには、うっすらと不可視の仮面がかぶさっているかのようだった。
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