平和な街の亀裂

「お待ちどう……」


 食べきれないほどの大きさのステーキが、鉄板の上でジュウジュウいっている。この分厚さだけで、味に期待がもてるというものだ。


 思えば、俺はこの世界の人間としては、割といいものばかり食べてきた。リンガ村にいた頃を別とすればだが。

 収容所を出て買い取られた先は貴族の屋敷で、しかもすぐに官邸の外で暮らせるようになった。市場では自分で見繕った食材を買い、それを自分で調理して食べてきたのだ。飢えることなど滅多になく、世の中の平均より、ずっと恵まれた食生活だった。

 しかし、贅沢をしたことはなかったのだ。子爵一家相手に手の込んだ料理は作ったし、時には自分でそれを食べもした。だが、なんというか、俺は節度を捨てられなかった。潤沢な資金でたっぷりと高級食材を使って、それこそどう転んでもうまくなるような料理を出す、ということはなかった。ワンポイントでいいものは使うが、豪華というより上品で、小さな喜びを感じられるような皿を出そうとしていたように思う。


 だから、こういう料理を食べたことはなかった。そうか、そういえばそうだ。こういうものを食べてもよかったし、それをするだけのお金ならばあったのに。

 なかったのは、そうしてもいいのだという発想、もしくは心の持ちようだった。


「遠慮すんなよ」

「ええ、せっかくの料理ですから。出てきた以上、味わって食べるのが礼儀です」


 飢餓を知ればこそだ。前世でも、しばしば食べるものに困った。こちらでも、ゴキブリまで食べて生き延びたのだ。食べ物を無駄にするなんて、あり得ない。


「でも、いいんですか?」


 ナイフとフォークを手に取りつつ、俺は尋ねた。


「本当にバンバンお金、遣ってますけど」

「いーんだよっ」


 最初、ギルは俺をつれて、衣料品店に向かった。俺の体は今、まさに成長期。この旅が始まってからの半年で、かなり背が伸びた。だんだんと服が体に合わなくなってきている。それで普段着の代わりをいくつか買うことにしたのだ。もちろん、パダールのお金で。

 続いて公衆浴場だ。「裸の付き合い」とか、わけのわからない単語を口にしながら、彼は俺と一緒に入浴した。ちなみに、この前ガイと行った潰れかけのところではなく、もう少しきれいな場所だ。入浴料も少し高めだったが、これもギルが出した。

 温かい湯船で少しウトウトし、サッパリしたところで、そろそろお昼ということもあり、ここ『麦の穂』までやってきたというわけだ。ここでギルは、有り金すべてをぶちまけた。この店で一番うまいものを出せ、と言ったのだ。


「遣い切ってやるぜ。あのクソ親父、どんだけ根性ねぇんだよ」

「まぁまぁ、仕方ないですよ。自分の子供と他所の子供じゃ、同じにはできないものです。他人には薄情でも、肉親には優しくするのが人じゃないですか」

「ハッ! 他所の家っつうんなら、スッタマーナんとこはどうなんだよ。足元見やがって、けったくそ悪ぃ」

「僕はパダールさんには感謝していますけどね」


 ギルは溜息をついた。

 客は他にいない。いつになく静かな昼だった。


「なーんか、いやーな感じになってきやがったよなー」


 後頭部に手をやり、背凭れに身を委ね。さすがにテーブルの上に足を載せたりはしないが。


「広場で騒ぎになっていましたよね」

「チッ、結局、広まるんじゃねぇかよ」


 ギルの家の前での話題は、俺達が入浴している間に、既に街の人々の噂になっていた。そればかりか、司教達が出張って、大仰にも広場で演説までしていたのだ。

 自慢の美貌の上に、美声まで響かせて、広場でジョロスティは呼びかけていた。


『この平和な街を乱そうとするものは誰か? 人々の結束を妨げて利益を得るのは誰か? アルディニアの人々の血の絆を踏みにじるものは誰か?』


 要するに、こういうことだ。


 今年の降臨祭の聖女役を任された少女は、ここの生まれであり、よってこの街全体が我が家と変わらない。だから安心して夜道を歩いていた。だが、そこに恐るべき暴漢が現れて、彼女に襲いかかった。

 被害者の証言によると、それはたくましい大男だったという。そいつは修行者に扮して、手にしたツルハシを振り下ろした。幸い、その先端は彼女の体に命中することなく、スカートの裾を引き裂いただけで済んだ。暗がりの中、彼女は必死で逃げ惑ったが、ついには石畳に足を取られて転倒した。

 男の視線は、明らかに性的なものだったという。下半身ばかり狙った結果なのか、スカートは既にズタズタで、街路の上にしゃがみこむばかりのサフィの足は、あらわになっていた。それを見ながら、男は興奮を隠しもせず、彼女の頭上にツルハシを構え直した。

 その時、たまたま冒険者の集団が近くを通りかかったのでなければ、サフィの命はなかっただろう。だが、夜陰に紛れて犯人は逃げおおせた。


『これはただの犯罪ではない! 狙われたのは降臨祭の聖女役である。その意味するところは、この国と、この国に住まう人々、その信仰への挑戦なのである!』


 か弱い少女を狙った犯罪。だが、その意味するところは更に重大だ。

 目的は降臨祭の妨害。これ即ち、神壁派の信仰を異端と看做す者どもの策動に違いない。となれば、まず思いつくのが神聖教国……そしてその走狗たる融和派の連中だ。

 目先の金欲しさに、貴重な鉱石を仮想敵国に売り渡す悪党ども。そいつらがついに本性を現したのだと。ジョロスティは、はっきりと名指しはしなかったものの、鼻息荒くそう主張した。


 一方……


『王都の民よ……神の壁に信仰を捧げる人々よ……我々は国のあり方を見つめ直す必要がある』


 ……そのすぐ隣の広場では、クロウルが聴衆を集めていた。

 烈火のようなジョロスティの演説に対して、彼の説教は、闇夜に降る氷雨のようだった。


『我々は確かに、この国の長兄である。恵みを求める弟妹に、惜しみなく救いの手を差し伸べてきた。それは良い』


 アルディニア王国の経済は、王都一強である。穀倉地帯も王都、鉱産資源も王都、商業の中心地も王都、そして官僚その他仕事のポストも王都に集中しているのだ。

 王国としても、それでよしとせざるを得ない。山間の狭苦しい盆地の数々に、小さな小さな地方貴族の所領が細切れになっている。王都にとっての彼らの存在価値は、ひたすら東方の国々に対する緩衝地帯である点にある。多少の特産物もあるし、いざとなれば西方からの侵略を防ぐために動員をかける余地もあるのだが、それが普段の支出に見合うほどのものかと言われると、なんとも微妙なところなのだ。

 要するに、王都は地方などなくても困らないが、地方は王国の枠組みがなければ、ひどく貧しくなってしまう。王都は田舎の人々を養ってやっているようなものなのだ。


『しかしながら、素行を正さぬ愚かな弟にまで、どうしてへりくだる必要があるのか。此度の事件は、地方からの巡礼者を名乗る何者かが起こしたらしいと聞き及んでいる』


 クロウルの理屈はこうだ。

 確かに、今年の聖女役は襲撃された。しかしそれは、外国の陰謀などではない。聞いた限りでは、犯人は修行者の格好をしていたというではないか。とすれば、この時期なら都民にお馴染みの、陳情者による暴行事件に違いない。

 なぜこんな事件が起きるのか。我々が寛大すぎたからだ。これまでずっと、タリフ・オリムの人々は、地方を援助してきた。だが、その結果がこれだ。恩を仇で返す連中に、どうして恵みを垂れねばならないのか。

 現実をみるべきだ。この都を本当に富ませてくれているのは、王都の人々にとっての本当のパートナーとは、隣国である神聖教国であり、シモール=フォレスティア王国だ。都民の厚意につけこんで、毎年この地を荒らしまわる田舎者どもではない。


 同じ事件でも、解釈の仕方はまったく正反対。そして、互いに敵対する派閥の足元を掬おうと必死になっている。

 こんなことになるのであれば、なるほど、パダールがことを荒立てまいとした理由もわかるというものだ。

 一方、アルティが朝一番にパダールの家に駆け込んだのも、これはこれで理解できる。夜、出歩いていた不注意な娘。男に襲われて、本当に穢されてはいないのか。そう疑われるのを恐れて、つまりは「まだ娘はきれいなままですよ」と伝えたくて、大急ぎでやってきたのだ。


 ……すると、イリシットは?


「そういえば」

「おう」

「あの方」

「あん?」

「イリシットっていいましたっけ。本家の武官の」


 一瞬、肉を切るギルの動きが止まる。だが、すぐ気を取り直したようだ。


「ああ、あれがどうかしたか」

「どうしてギルの家まで」

「知らね」

「えっ」

「都の治安を守るのも武官系の仕事だから、小耳に挟んだんだろ」

「でも、だからって」

「あーあー、わかるけど、やめてくれ。人のいるところでする話じゃねぇ」


 そう、か。

 ここには店主もいるし、お手伝いの娘さんもいる。あまり聞かれたくないことか。


「ま、一つ答えてやるよ」

「はい」

「修道院な。一度入ると、最低五年は出てこれねぇ」

「そうなんですか」

「女神への本格的な奉仕ってことだからな、そりゃあ、中途半端はできねぇよ」


 コップを取り、中に入ったジュースを一気飲み。乱暴にテーブルに叩きつけながら、ギルは吐き捨てるように言った。


「……ま、たいていの修道女は、結局、死ぬまで未婚で終わるんだがな」

「えっ? でも五年って」

「五年が一生になっちまうんだ」

「強制されるとか?」

「いーや」


 椅子の上にふんぞり返って、ギルは忌々しげに答えた。


「あくまで自発的にってことらしいぜ」


 はて……

 では、イリシットは、自分でサフィを守るか、死ぬまで修道院に押し込めるか、どっちかにしようとしていた? そういえば、ジョロスティと知り合いだとも言っていたっけ。どんな目的があってのことなんだろうか。


「ほれ、食えよ。冷めちまうぞ」

「あっ、そうですね」


 せっかくのステーキだ。うっかり忘れるところだった。


 ……そしてこの日の贅沢が、最後のご馳走になってしまったのだ。


 サフィ襲撃事件から二日。街の雰囲気はすっかり変わってしまった。

 もはや街頭で喚きたてるのは、司教だけではない。助祭や、時にはただの一般市民までもが、小さな木箱の上に立って、自説を披露するようになった。

 イメージが悪すぎたのだ。ただでさえ、地方から人が集まって治安の悪化するこの時期だ。そこへもってきて、無垢な少女を襲うという卑劣な犯行。融和派を支持する人々は、地方からやってきた修行者を目の敵にした。逆に独立派を支持する人々は、外国人に冷たい視線を向けるようになった。

 つまり……


「済みません、こちらのパンとチーズを」


 食料品店の軒先で、俺は品物を指差した。だが、自然と声が尻すぼみになる。

 目の前のおかみさんは、どっしりとした腰に手を据えたまま、俺を見下ろすばかり。返事さえしない。


「お金は払います」

「いらないよ」


 嫌悪感でいっぱいの声だ。


「帰っとくれ」

「僕が何をしたというんですか」

「うるさいね。余所者は信用できないんだよ」


 またか。

 この街の悪いところが表に出てきたのだ。

 何か問題があると、結局は信用できる身内で固まろうとする。外部の人間は駄目なのだと。


 見慣れない少年。小汚い格好で、かつ黒髪。外国人で、しかも修行者。

 彼女がどちら側の派閥を支持しているのかはわからないが、どっちにしても、嫌われる理由には事欠かない。


 こんな感じで、今、俺は寝床どころか、食料の調達にすら、不自由するようになってきている。神の壁の前の屋台だけは、今でも笑顔でガレットを出してくれるが、さすがに三食あれだけというのもきつい。野菜や果物も食べたいのだが、売ってもらうのも一苦労だ。

 ならばアイクに頼めば? 彼がお使いをしてくれれば万事解決なのだが、どうも忙しいようだ。このところ、ずっと監督小屋に戻ってきていない。無理もない。街がこの状況なのだ。ユミレノストも黙ってみているはずはないから、その関係であちこち駆けずり回っているのだろう。


 やれやれ。今日も手ぶらか。

 そろそろ入浴もしたい。したいが、これだけ余所者を排斥する空気が強くなってくると、おちおち荷物を置きっ放しにもできない。置き引きにあったところで、誰も助けてはくれないからだ。


 狭苦しい繁華街の入口。その雑踏の中を歩く。賑やかなのはいつもと同じだが、心なしか、どこか物騒な空気が流れているような気がする。

 今、離れたところで男同士がすれ違おうとして、ぶつかった。何か言い争いを始めたようだ。


「あんだぁオラァ」

「つっ……今、今! 暴力振るいましたね? ちょっと、あなた!」

「うるっせぇ!」

「来てくださいよ、番所まで。ね! ね!」


 これも、まただ。

 些細なことで喧嘩。悪意ある空気にあてられた陳情者が、街の人から排除されて苛立ちを募らせる。そうして揉め事を起こすと、また都民の嫌悪感が強まる。悪循環だ。

 などと説得しても、彼らは聞くまい。もう殴り合いを始めている。


「ぐ!」

「このっ」

「てめぇが売った喧嘩だろ、がっ!?」


 都民と思しきひょろい男を蹴倒した男が、人込みから突き出た太い腕に絡めとられる。


「おう、おいたはその辺にしな」

「ぐっ、がっ、離せっ」


 羽交い絞めにされた男を見て、やられたほうの男はすぐさま立ち上がる。そして拳を振り上げるが……


「おっとぉ、やるんならてめぇもぶっとばすぜ?」


 拘束が外れた。

 割って入ったのは……ガイだった。


「俺様の目の届くところで喧嘩なんかやらかすんじゃねぇ。それとも、ヤスモーン一家に逆らうってか? え、おい」


 いつの間にか、彼の近くには、同じく上半身裸の鉱夫達が居並んでいた。


「ちっ、畜生!」

「あっちが手を出したんですよ!」

「うるせぇ!」


 二人とも、ガイが一喝すると、身をすくめた。


「俺がやめろっつってんだ! やめねぇとブッ殺すぞ!」


 体の大きいガイが暴れるふりをすると、二人ともさっと逃げ去った。仲裁は成功、か。


「ガイさん」

「なんだ、ファルスじゃねぇか」


 一瞬、笑顔を浮かべた彼だったが、すぐ表情を曇らせた。


「面目ねぇな」

「何がです」

「こんな街を見せちまってよぉ……何か不自由してねぇか?」


 さっきのお店が果物を売ってくれなかった……いや、だめだ。また揉め事になる。


「はい、ありがとうございます」

「そうか? 何かあったら、俺様に相談しろよ。この街で一番頼れる、この俺様にな」


 ボディビルダーみたいなポーズをとりながら、彼はそう言った。

 その言葉だけでもありがたい。だからといって、彼の家に泊まりたいとは思えないが。


「お、ファルスか」


 後ろから小さな足音が近付いてきた。

 振り返ると、また見知った顔。ギルと二人の子分だ。


「ギル……何やってる、んですか?」

「何っておめぇ」


 ガイと顔を見合わせると、また俺に言った。


「犯人探しに決まってんだろ?」

「は? 犯人?」

「おうよ」

「俺達もだ」


 大きな背中を反らせて、ガイは腕組みした。


「どこのどいつがあんな真似をしやがったのか。ここは俺の街だ! 勝手は許さねぇ」

「ってぇことだ」


 ……これがこの街のいい面、か。

 仲間同士の結束がある。繋がりがある。だからこそ、こうして協力し合える。その長所と短所は、表裏一体なのだ。


 ギルは、その晴れやかな笑顔を引き締め、俺に言った。


「それよりファルス」

「なんですか」

「もう、あまり出歩かないほうがいいぞ」

「なんでまた」

「見りゃわかんだろ」


 外国人排斥。俺も被害にあうかもしれない。少なくとも、犯人が見つかるまでは、この街は荒れたままだろう。


「と言われても」

「うーむ」


 ガイはそのまま考え込んでしまった。


「俺のところに引き取ってやりてぇが……」

「えっ」


 それは怖い。

 あの生活にはついていけない。


「今、こんなだろ。俺達も、仕事を中断して、街の見回りをしてんだよ。お前一人、留守に置いとくのはなぁ」

「そ、そそ、そうですね」


 一安心、なんて言っている場合だろうか。果物一つ、買えないありさまなのに。


「よし」


 ギルは一人頷いて、俺に宣言した。


「やっぱ、俺が親父に掛け合ってやるよ」

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