少年の仮面
暗がりの中、白い仮面が浮かび上がる。遠近感もない。大きさもわからない。他には何も見えない。
これは、神の壁だ。傷一つつかないはずのこの壁に、あのいつもの悪夢に出てくる仮面が刻まれている。どうしたことだろう?
それに気付いて、これが夢だとわかった。
あの鮮明な夢……見たこともない未来都市、石造りの狭い部屋の中で正座して祈る女性、そして壁にかけられた仮面……旅の途中にも、何度も俺の眠りを乱してきた。この街に来てからもだ。しかし、こんな形で夢に出てくるのは、はじめてだった。
なんだかややこしいが、夢の中で夢の夢を見ている。しかも、俺自身の意識がはっきりある。不思議な感じだ。
『おい』
遠くで聞き覚えのある声がする。
これは……
白い仮面が色褪せていく。
暗闇の中に溶けていく。
「どこで寝てるかと思ったら、ここかよ」
「んぐ」
いつの間にかうつ伏せになってしまっていたらしい。
土の床にキスして、やっと正気に返った。
俺が神の壁の前に帰りついたのは、もう日が昇った後だった。夜明けと共にツルハシスト達は起き上がり、修行を始めるから、もう壁の前では寝られない。目に隈のできた俺を、アイクは皮肉の混じった笑顔で迎え、監督小屋に入れてくれた。あまりの眠気と疲労感に我慢ならず、俺はそのまま、土の床に突っ伏した。そのまま眠ってしまっていたのだ。
そんな俺に、ギルは呆れたように声をかける。
「お前、見るたびにどんどん小汚くなってる気がするんだけどよ。気のせいか?」
「気の……せいじゃ、ないです」
地面に手をついて、なんとか起き上がる。
「あー、相当だるそうだな。おい、座れよ」
言われるままに、俺はいつもアイクが使っている、背凭れのある椅子に体を預けた。ギルも俺の向かいに座る。
「やっぱウチくるか?」
「せっかくですけど」
彼はガリガリと髪の毛を掻き毟る。
「お前もよく我慢するなぁ」
「我慢、ですか?」
「だってそうだろ? 二ヶ月も神の壁で修行しろって言われて。ま、そりゃあいいんだけど、その後、宿無しになったろ。そんなひでぇことになったってぇのに、ウチもだし、アレだ、教会? も何もしねぇし……俺だったら、とっくにやめてるぜ」
傍目から見ると、そう感じるものか。
俺の場合、どうあっても聖女の祠に入りたい、情報を得たいという目的がある。ただの興味や好奇心ではない。ましてや向学心、信仰心などではないのだ。それに、ひどい目になら、今までも散々遭ってきたから、変に耐性がついてしまったのかもしれない。
あの略式の謁見の時に、王様の提案……つまりジョロスティに助けを求めるという選択をするのが、普通の神経なのだろうか。
「んー……じゃあよ」
「はい」
「俺の頼みを聞いてくれ」
「なんですか」
「勝負してくれ!」
まさか前の、あの『麦の穂』の件を引き摺っているのか? 一瞬でいなされて終わったから。
まぁ、少年たるもの、負けず嫌いでもおかしくはない。
「あ、そういう意味じゃねぇぞ」
「はい?」
「いや、情けねぇんだけどさ。俺も自分じゃ強いほうだとは思ってるけど、さすがにお前とは比べもんになりゃしねぇよ」
「それほどでも」
「いやいや。だってそうだろ? バケモンの親玉ブッ殺すくれぇ強ぇんだし、俺たぁ違ぇよ」
俺の謙遜を振り払うと、彼は続けた。
「だからさ。俺も強くなりてぇんだ」
なるほど、強いファルスと勝負をしたい。要は練習試合をしたいということか。
「構いませんよ。今日は……いえ、今日も予定はありませんし、そこらへんの空き地で」
「あーあー、そうじゃなくってな」
バタバタと座ったまま手を動かすギル。
それで俺は察した。
「鉄の剣じゃ危ねぇだろ? うちには一応、木剣があるからよぉ」
俺は座ったまま、静かに頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます」
ギルは、口実を作って、このボロボロの俺を引き取ろうとしてくれているのだ。
だから、感謝の気持ちを示した。
「あっ、ああ、くそっ、なんだぁてめぇ、変に気ぃばっか遣いやがって」
「ここに一ヶ月もいれば、だいたい慣れますよ」
「ちっ」
ギルは両手で頭を掻き毟る。
だが、俺は静かに疑問をぶつけ……ようとした。
「でも、ギルさん」
「ああ? お前もウチの家庭教師みてぇな……だから、さんはやめろ」
「じゃあ……ギル君」
「それもやめてくれ。気持ち悪ぃ」
「あー……」
「よし、呼び捨て決定」
「はぁ、では、ギル」
「おう」
やっと質問できる。
「分家のブッター家……ギルの家は、文官の家系ではなかったのですか?」
「あん? ああ、基本はそうだぜ」
「では、ギルもそのまま文官になるのでは? 剣術なんて、鍛えても」
「あー……ま、そうなんだけどな」
溜息をつき、彼はまた腕組みをした。
「ほら、なんだ、俺は長男じゃねぇからさ。本当は仕事なんかねぇんだ」
「そうなんですか?」
「けどまぁ、親戚筋から、一応、武官系の仕事をもらえそうで」
「じゃあ、王国兵になる予定なんですか」
「んー、ちょっと違うけどな。こう、祐筆ってやつ? 軍隊の中の文官みてぇな、アレだ」
高位の武官の横で働く書記官ってところか。
だったら、やっぱり武威なんて求められてないんじゃないか。
「ああ、ま、だから、剣術なんてやっても無駄っつうのはわかってんだけどさ」
「ええ」
「男だったら、強くなりてぇだろ? な?」
「はぁ、まぁ」
一通り喋ってしまうと、ギルは立ち上がった。
「ま、そういうこった。たまにはメシくらい食っていってくれよ。毎日ここのガレットじゃ、便秘になるぜ? うちの口やかましい家庭教師も、お前がいりゃあ、ちったぁやる気にもなるってもんだ」
「それはギルが真面目に授業を受ければ」
「やーなこった」
しょうがない奴だ。
これも厚意だ。俺も立ち上がった。
但し、パダールに迷惑をかけないようにしよう。いざとなったら、すぐ辞去するつもりでいないと。
「なぁなぁ、お前、今までどんなところ行ったんだ?」
道々、ギルはずっと喋り続けていた。俺を質問責めにしていたのだ。
「どこって……フォレスティアを出てからは、アルディニアが最初ですよ」
「あー、あー、そんだけじゃなくってな。だってお前、冒険者でもあるんだろ?」
「ああ、これですね」
先日、しぶしぶといった様子で、サモザッシュは俺の冒険者証をアクアマリンのものに取り替えてくれた。緊急依頼遂行の履歴も、ちゃんと追加されている。倒したのはオーガじゃなくてゴブリンだろう、と難癖つけてくるかと思ったのだが。
そのタグを、俺は指で摘んだ。
「今まで、どんなの倒してきたんだ?」
「ええっと、最初の仕事は、劣化種のトロール」
「はぁ? 最初からかよ?」
「最初だけですよ」
公式記録に残る俺の冒険は、そこからになる。
海賊討伐も、密輸商人の摘発も、表向きには他の人の手柄になっている。子爵令嬢救出に至っては、そもそも事件自体、認知されていない。王子の近侍との試合はただの噂、疫病の流行する村には、ただのお手伝いとしてついていっただけ。コラプトでの死闘については、いまや全貌を知っているのは俺とノーラのみ。
従士ファルスの人生は、こうだ。シュガ村で生を享け、チョコス・ティックと名付けられた。奴隷として売られてトヴィーティ子爵に買い取られ、のち解放されて平民ファルスと名乗る。若年ながら冒険者としての初仕事で劣化種トロールを討伐した。そしてエスタ=フォレスティア王国の内乱で逆賊の首魁に一太刀叩き込み、腕輪を授かった。そして修行の旅の途上、アルディニア王国にて、魔物の襲撃を受けた砦に駆けつけ、人命救助に活躍した。今のところ、これだけだ。
「それも先輩と一緒でしたし。で、その次は、ほら……手紙の配達、その次は荷物の運搬です」
「一気に地味になったな」
「冒険者って言ったって、普通はそんなものですよ」
「で、またいきなりデカいマークか。普通、ゴブリンのボスなんかだと、最低でもアメジストだろ?」
危険度だけで言えば、それどころではなかった。明らかにトパーズ以上の上級冒険者の仕事だったといえる。それも、一部の規格外の強者以外では、どう考えてもチームで挑むべき相手だった。
「いいよなぁ」
「そうですか?」
「いいじゃねぇか。剣一本で……男のロマンだろ」
「この薄っぺらい革の鎧だけで戦うんですよ? 相手がオーガだったら、パンチ一発でぺちゃんこです」
現実の戦いは、そんなきれいなものではない。
剣にはドロドロした血がまとわりつく。悲鳴や呻き声、臓物の臭い。恐怖と混乱。汚物を垂れ流して逃げ惑う人だっている。そして、あっさり死ぬ。
だが、ギルはそれを知らないのだ。だから強さに憧れる。
知らなくていい。アルディニアは平和だ。多少なりとも危険なのは、開拓地だけ。ここ百年、外国との戦争はない。そんな国で、軍隊の祐筆として生きていけるのだ。暇で暇で眠くて仕方ないだろうが、結構な人生ではないか。
繁華街を通り抜け、そろそろ左手に高級住宅地が見えてくる。
「心配すんなって。今日は親父も兄貴もいねぇんだ。俺だってな、ちゃーんと考えてらぁ」
「あ、はい、ですが」
「なんだよ」
「その、お母様は」
一瞬の間。
それで察した。
「一昨年、死んじまったよ」
「済みません」
「お前のせいじゃねぇだろ」
まだ十歳のギルだが、気持ちの整理はちゃんとつけているらしい。子供だが、子供のようで、子供というだけでもない。
これでも彼には少なからぬ意外性があるのだ。粗暴で口が悪く、不真面目な少年に見えるかもしれないが、実は歴史には明るいし、気遣いもできる。過去の不幸についても、こうして感情を乱さずにいられる。ちょっと顔を見ただけではわからない面が、だんだんと浮かび上がってくる。
それはとりもなおさず、俺とこの街の人達との間に、か細いながらも人間関係が生まれてきたことを示している。そのことに思い至った時、なんだか底知れない不安が胸をかすめた。
「つうことで、ウチにゃあ、お前のことをチクる奴なんざ、いねぇってわけよ」
「使用人の方とか」
「あー、へーきへーき、そんなもんなぁ」
そこの角を曲がれば、ギルの家の門前だ。
「ほいっ、一名様、ご案なー……ぁあっ!?」
突然、彼は立ち止まった。俺もつられて足を止める。
そこには、いるはずのない人達がいた。
石造りの門の前には、パダールが。そのすぐ隣に、アルティが。彼の横には、娘のサフィがいるのだが、美しい顔を隠そうとするかのように、目深くフードを被って、身を縮めている。護衛のつもりなのか、その後ろには、二人の大柄な男が控えていた。
二人に向かい合う形で、白いマントの男が立っていた。腰には剣を佩き、銀色の胸当てが垣間見える。あれは、イリシットだ。確か本家の長男だったか。なぜこんなところに?
「閣下、私は話を大事にはしたくないのです」
顔をくしゃくしゃにして、アルティは訴えていた。
「そうであろう。であれば猶のこと、安全を選ぶべきではないか」
イリシットは冷淡な声で言い放つ。
「イリシット様」
そこへパダールが割り込んだ。いつかのような猫なで声ではない。遠慮がちながらも、意志を感じさせるはっきりとした口調だ。
「スッタマーナさんは、私の友人です。だからこうして頼ってきてくれた。ですが、このような件で貴族たるブッター家までが声をあげるとなると」
「評判が気になるか? ならばもう一つの選択肢があるではないか」
「しかし、それはあまりに」
「あまりに? 信仰を示し、人としての義務を果たすのに、何の不都合がある?」
「そうではなく」
「はっきり言ったらどうだ。アルティ」
相手を追い詰めるような言い方に、俺はイリシット自身の焦りのような感情も見て取った。
恐らく、彼は表面上、正しい主張をしているのだ。だが、その奥には、彼自身の欲望がある。年長者二人はそれに気付いており、さりとて身分が上の彼には面と向かって逆らえず。なんとか言い逃れようとしているのだ。
「で、では」
泣き出しそうな顔から一転。アルティは覚悟を決め、背筋を伸ばした。娘を守る父親の顔だ。声こそ震えていたが、その覚悟に曇りはない。
「娘はパダール様のご長男、ピェルヴィニッツ様に嫁がせるつもり……いえ、嫁がせます」
「ほう?」
イリシットは、余裕を繕って、皮肉な笑みを浮かべてみせた。
「それは……サフィ、君が自分でそう望んだのか」
話しかけられて、彼女はビクッと身を震わせた。
「答えたまえ」
「おやめください」
「どけ」
立ち塞がるアルティを、イリシットはこともなげに押しのける。
「難しいことは何もない……私が君の身を守ってあげようというのだ」
「結構です」
「そんなことを言っている場合か? よく考えたまえ」
視界の隅で、イリシットは俺達に気付いた。他の大人達もだ。だが、今はそれどころではない。
「イリシット様、サフィさんは年頃の娘です。親族でもない若い男性を側においておくなど、できるはずもありません」
「そうとも! だから言っているのだ」
大袈裟に身振りまで交えて、イリシットは溜息と共に言った。
「修道院に身柄を預かってもらえと。幸い、私はジョロスティ師とも面識がある。その気があれば、今日にでも」
「ですが、今からでは」
「今からではなんだ」
「五年は長すぎます」
「二十歳そこそこなら、まだ嫁の貰い手くらい、あろう」
「ですが」
「ふん」
今はどれだけ言い争っても無駄か。悟って彼は、踵を返した。
「だが、忘れるな、パダール」
そう言うと、彼はこちらに近付いてきた。
「私が何を握っているかを」
こちらに向き直ると、彼はギルを見下ろした。
ギルは……
……いつかのように、無表情だった。
その仮面のような無表情が、突然、横にぶれた。乾いた音が響く。もう一発。前触れもない平手打ち。
だが、ギルは痛がるでもなく、恐れるでもなく。怒りすらなく。淡々としていた。
「少しは賢くなったようだな」
イリシットは鼻で笑い、俺を一瞥すると、マントを翻し、早足に去っていった。
いったい何があった?
この居心地の悪さは、どういうことだろう。
「パダール様、今日のところは」
「ああ、気をつけてください」
それだけで、アルティ達も背を向けた。俺とギルに会釈だけして、無言で立ち去っていく。
「親父」
ギルと俺を見比べながら、パダールは何かの感情を押し殺していた。
だが、溜息をついた。
「謝らねばならんな」
「あんなの、どうってことねぇ。それより、どうしたんだ、サフィの姉ちゃんは」
「大声で言ってくれるな」
首を振りながら、また溜息。
「襲われたのだ」
「はぁっ!?」
「騒ぐな、バカ息子。穢されてはおらん。ただ、夜道で暴漢に襲われた」
「怪我は? 無事だったのかっ!」
「そうでなければ、ここまで歩いてやってこられるはずがなかろう」
夜道? では、真夜中にサフィは散歩していた?
確かに、顔見知りだらけのこの街だ。女の一人歩きも、そこまで危険ではないのかもしれない。但し、それは普段ならだ。今は、降臨祭を目前に控えて、王国の各地からいろんな人間が流れ込んできている。治安も悪化しているのだろうに。
……いったいどうして、彼女は一人で出歩いていたのだろう?
「あの」
関係ない立場ながら、俺は口を挟んだ。
「さっきの……イリシット様は、どのようなご用件でおいでだったのでしょうか」
この質問に、パダールは何度か目を瞬かせて、言葉にするのを躊躇した。だが、やっと口を開いた。
「修道院に」
「修道院?」
「女子修道院に入っては、と勧めにきたのだ」
「は、はい?」
「済まないが」
パダールは俺に背を向けながら言った。
「説明はしない。それと今、君を我が家に入れるわけにはいかん」
「親父!」
「ギル」
彼は懐から数枚の金貨を取り出した。
「せめてご馳走してやってくれ。ただ、目立たんようにな」
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