未開拓の原野を行く

 頭上に薄く雲がかかる。湿り気のある冷えた空気が、そっと吹き寄せた。

 足元には、まちまちな大きさの石が埋め込まれた道路がある。男達の無数のブーツがそこを踏みにじると、砂粒が短く抗議の声をあげた。


 円形の砦……タリフ・オリムのかつての防衛施設の一部だったあの建物を離れて、北へ。

 まだ王都の内側ではあるものの、風景は既にして、荒涼としていた。人家はほとんどなく、草木もほぼ生えていない。あるのは無愛想な岩と、濁った茶色の土くればかり。足元の、この舗装された道路も、相当に古めかしい。


 千三百年の歴史、か。


 初めてサモザッシュと会った時、彼は「ギルド一千年の歴史」を鼻で笑った。ここアルディニアでは千三百年なのだと。

 この地にルイン人が立ち入ったのは、かなり昔のことだろう。シーラが人々と共に「オロンキア」に降り立った後、南方からはフォレス人の祖先が、北方からはルイン人の一派がやってきて、共存していたのだから。ただ、その頃にはまだ、さほどの人数がいたのでもないはずだ。

 今の住民の直接の祖先は、やはりアルデン帝の征服に伴って移住した人々だ。征服、というくらいだから、軍事行動があった。先住民がいたのだ。それを駆逐して、帝国は支配を広げた。

 だが、その先に広がるのは細切れの盆地。あちこちに先住民が生き残っていて、抵抗を繰り広げる。土地鑑もあったに違いない。山間の隘路を抜けて、たびたびタリフ・オリムを脅かしたのではないか。

 もちろん、帝国の正規軍は、この街を防衛した。だが、それだけでは足りなかった。そもそも帝国はその頃から一枚岩ではなく、せっかくタリフ・オリムに駐屯させた軍隊も、東方遠征に送り込まれたり、本国の政争に巻き込まれて呼び戻されたりといった具合で、あまりあてにならなかったに違いない。

 だから、住民は自発的に手を取り合った。自警団の誕生だ。


 この、各地域ごとに存在した自警団。アルディニアもそうだが、セリパシア本国でも、フォレスティアでも、サハリアでも。どこにでも、自然発生的に存在したようだ。その由来は、それぞれの社会状況に応じて異なってはいただろう。

 たとえば、最初は単に、開拓者の寄り合い所帯が、時折発生する野生動物や魔物、盗賊に対処するだけだった。それがそのうち、豪族の支配下に置かれるなどして、各地域を掌握しきれない中央の貴族相手に、条件をつけて派兵するようになったりもした。

 つまり、今のギルド支部は、もともとは独立した「本部」だった。それぞれが王国や貴族の要請に応じて、私兵を掻き集める仕事をしていたのだ。


 そうした私兵集団を解体せず……もとい、解体できずに、統合することで済ませたのが、ギシアン・チーレムだった、ということか。


 サモザッシュは、この田舎の住民としての自意識とプライドゆえに、殊更、歴史を強調せずにはいられなかった。帝都がなんだ、皇帝がなんだ。俺達はこの、伝統あるセリパシア帝国の正統な後継者なのだ。このギルドは、その帝国を支えた由緒ある組織なのだ、と。

 もちろんそこには、彼自身の権限を何者かに縛られたくない、という心理もあるのだろう。だが、たぶんそれはダブルスタンダードだ。他所からやってきたギルドのメンバーには、この地における伝統を語る。一方、地元の住民に対しては、ギルドの中立性、独立性を訴えて、権益を守るのだろうから。


 あの円形の砦は、そうした自警団時代から受け継がれ、繰り返し修繕されてきたものなのだろう。

 彼にとっては、自分の城なのだ。


 そして、あの砦の北側は、もはや安全地帯ではなかった。

 今でこそ、王都の内側に取り込まれているとはいえ、いまだに住居が少ない。だが、それだけではなく……なんといったらいいか。

 最初、トンネルを抜けてタリフ・オリムに辿り着いた時には、緑の豊かさと日差しの優しさにびっくりしたものだ。なのにここは、まるで、ここに来る途中に見た、あの荒涼としたアルディニアの大地そのままだ。土にも空気にも、妙に生気がない。


 そろそろ、本当に王都の外側だ。

 左右に断崖絶壁が聳える。馬車がなんとかすれ違うだけの幅しかない。足元は、相変わらず不揃いな石で舗装されている。その崖の狭間に、不恰好な城壁がある。あれがこの王都の、北の守りだ。外国の軍隊がここから侵入することは想定されていない。対処を要するのは、魔物の襲来だけ。少数のオーガどもが攻め寄せてくるだけなら、これで足りる。


 先頭を歩いていた冒険者、アメジストのリーデルが、片手をあげて声を発する。

 それで城門のほうでもそれと気付いて、後ろに掛け声を飛ばす。やり取りは短かった。すぐに鎖の擦れる音がして、目の前の格子戸が引き上げられる。


 短い峡谷の通路を抜けると、すっかり色褪せた世界が広がっていた。

 丈の短い草が伸び、遠くには濃緑色の針葉樹がひっそりと身を寄せ合う。そして更にその向こうには、うっすらと霞んで見える山々が、まるで眠っているかのように横たわっていた。


「これから、二号要塞の付近まで進む。今夜はそこで野営だ」


 足を止め、リーデルは振り返ってそう告げた。

 縦長の顔に、ぺったりと撫で付けられた七三分け。掘りの深い眼窩に影が差す。


 彼の装備は、この地域の冒険者に特有のものだ。

 まず、特徴的なのは、大きな盾。上のほうは幅広だが、下のほうに向かって尖っていく形状になっている。それでも片手で扱うのは難しく、基本は両手で使うようにできている。高身長で筋肉質のルイン人にとっても、それは大きかった。まっすぐ立てれば、彼自身の身長を超えるくらいの高さがある。いつもは背中に背負っているが、斜めに傾けておかないと、盾の下端が地面を擦ってしまうほどだ。

 もう一つ、これまた両手で扱うほどのサイズの剣。幅広で肉厚だ。無理をすれば片手でも振るえるのだろうが、長時間は戦えまい。だから、それとは別に、短い剣を腰に差している。刃渡り五十センチにも満たないほどの、短いものだ。これまた肉厚で、およそ斬ることには向いていない。

 金属製の鎧を着用しているが、覆われているのは主に上半身だけ。あとの部分は革や布で覆うにとどめている。


 これらの装備は、何れもオーガなど、巨大なモンスターに対応するためのものだ。

 体格が大きく、力の強い魔物は、一方で敏捷性に欠ける面がある。身体能力をあてにできるなら回避に徹して戦ってもいいが、それでは一度のミスで即死することになる。

 だから、彼のような装備で挑む。状況に応じて、誰かが盾を担当し、別の誰かが大剣を用いる。それができないほど押されている場合には、盾による防御を優先しつつ、各自の判断で腰の短剣を使う。的確にオーガの膝を突き通すのだ。

 また、大型のモンスターを意識しているので、下から攻撃を受ける可能性は高くない。だから防具も、上半身ばかりを守るようになっている。


「ラズヴィチク、先行しろ」

「おう」


 とはいえ、全員が全員、そういう装備を用いるわけではない。

 今、声をかけられた男のように、軽装で参加する者もいる。偵察の仕事は、どこでも重要だ。革の鎧に投擲用のナイフ、腰に鉈。戦闘力は期待されていない。

 花火みたいな形の長い金髪が揺れる。バンダナが高い位置に巻かれていて、まるでススキみたいな髪型になってしまっている。彼は早足で前に出て、周囲を見張る。特に、木々の間などに危険が潜んでいたりしないかを確認するのだ。オーガにも、一応の知性はある。そして、リーデルのように大きく重い装備を用いる冒険者には、構えを取る時間が必要だ。奇襲されては、せっかくの準備も生かせない。


 そんな中で、俺とノーゼンは浮いていた。


 長いマントの下には革の鎧だけ。腰には短めの剣。俺の装備はこれだけだ。一応、小さめのバックパックには、少しだけ携帯食料も詰め込んである。

 だが、俺なんかはまだマシだ。ノーゼンときたら。


 黒ずんだ金属の棒きれを持っただけ。

 防具なんか身につけてない。薄汚れたタンクトップに、工事現場の男が穿くような長ズボン、それに革靴。これだけだ。食料も水も、何も用意していない。


 なくても困らないから、余計な荷物を持たないだけなのだとは、知っている。彼には『断食』の神通力があるのだ。

 しかし、それを知らない周囲の冒険者達は、彼を見てはひそひそと言葉を交わし、プッと噴き出す。現地調達でもするつもりか、と。


 開拓地は、いまだ定住者を迎え入れることができていない。

 見渡す限り、寂しい山林が続く土地だ。食べられる野草も、探せばなくもないのだろうが、そんな時間はないし、充分なだけの分量を見つけるのは難しい。何より、ここにいるのは依頼を受けた冒険者達と、拠点を維持する兵士達と、彼らに守られた開拓民だけなのだ。余剰の食料など、どこにもない。

 そもそも、農産物を作り出せるほど、土壌の改良も進んでいない。今は水路の建設や整地作業の途中なのだ。何より、この先にある防衛施設が完成しないと、一般人を住まわせるのが難しい。


 アルディニア王国が成立して、およそ六百年。それだけ時間があればと思わなくもないが、常に政治的な安定が保証されているわけでもないから、開拓が遅々として進まないのも、無理はない。何より、独立当初には、他にいくらでも課題があった。

 まず、西方からの教会勢力を排除すること。そのために、西部国境の防壁を強化するのが最優先だった。続いて、東方の諸勢力との関係だ。支配が確立されるまで、これら小規模な貴族達は、従属と反逆を繰り返した。猫の額のような独立国家が乱立しているも同然で、もともと物流も乏しく、関係は希薄。ゆえに彼らは自由な立場を選択しやすかった。さすがに現代では「今から神聖教国側に寝返る」といったことはないのだが、それも王国の長年にわたる努力の結果なのだ。代わりにといってはなんだが、王家の側だって報いている。彼らに大幅な自由を認め、都には実入りのいいポストを用意し、そして西方国境をガッチリ守る。

 そうした課題が落ち着いたからといって、じゃあ開発、という話でもなかったのだろう。人間は、目先の利益のために、大きな問題を忘れる生き物だ。詳細など知らないが、アルディニアにも内紛と政争の時代が幾度となくあったはずだ。そうした混乱のたびに、社会を発展させるためのエネルギーが無駄に消費されてきたに違いない。ちょうど今、王都が融和派と独立派とで割れているように、利害関係に基づく対立なら常にある。


 要するに、王都の北東部を開拓するまでに至ったこと、それ自体が偉業なのだ。まだ手付かずの原野と寒々しい山林が広がるばかりの土地ではあるが、あちこちに砦が築かれているというだけでも立派といえる。街の飲食店で聞きまわった限りでは、ミール二世は十年かけて、やっとここまで成し遂げたのだとか。そしてこの開発事業は、きっと彼の存命中には完成しない。


 雲間から差す光。そのすぐ下、ずっと遠くで草が靡く。それがだんだんと迫ってきて、すぐ横を駆け抜けていく。

 風が一吹きしたのだ。

 剣の切っ先のような、水気の足りない色褪せた草葉がこすれあう。人の心から落ち着きを奪う、あの冷ややかな囁きだ。


 生存の保障された、あの温かな王都の中とは違う。ここを歩く俺達は、ただの点だ。充満する死の中を漂う、小さな小さな生命の粒でしかない。

 頼りになるのは、周囲の人間だけ。それ以外の命は、だいたい敵だ。群れをなす狼、物陰に潜むゴブリン、そして怪力を誇るオーガ。身を守るには、仲間に頼るしかない。

 だが、俺に限っては……


 リーデルが、ちらと振り返る。

 その視線を追うように、他の冒険者達も、俺を一瞥する。中には、先日俺にぶちのめされた、あのドランカードという男もいる。


 悪意は明らかだ。

 本来なら、彼らの襲撃を待ち構えればよかった。俺が気をつけるべきはただ一つ。全員消すということだけ。

 しかし、その前提は、もう成り立たない。どうしたものか。


 今回の依頼に備えて、俺は二度ほど、サモザッシュと「デート」した。もっとも、彼にその自覚はなかっただろうが。


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 (自分自身) (11)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル プルシャ・フォーム

 (ランク9+、男性、10歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 6レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 隠密     5レベル


 空き(0)

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 奪い取ったのは軽業に隠密。どちらも非常時には役立ちそうだ。但し、軽業のほうはバクシアの種に収納した。ついでに薬調合のスキルもだ。身を潜めたり、隠れている相手を見つける能力の方が、使いどころが多いはずだ。

 ただ、充分に活用するには知識が必要かもしれない。この点、短期間でもいいから、教師がいてくれれば助かるのだが。


 なお、料理は、迷ったが、やはり外さずに持っておくことにした。この状況では重要度が低いのではないか、とは思ったのだが。

 一つには、俺の料理の腕についての噂が、もう彼らに知られてしまっている可能性があると思ったからだ。アイク達に麺料理を振舞った、あの件だ。それに今回の遠征でも、野営の準備で料理などの雑用を押し付けられる可能性がある。


 もう一つには……漠然とした不安があった。

 他のスキルと違って、料理は奇妙な形で発生したスキルだ。フォレス語は自分で学んだ他、奪った分も含まれている。その他のスキルも、だいたい似たり寄ったりで、どれもこれもこの世界で相応の経験を積んでいる。ところが料理だけは、本格的に調理をした直後、いつの間にか身についていた代物だ。これを取り外してしまって、何か問題は起きないだろうか?

 もちろん、前世では料理人だったこの俺だ。知識も経験もある。だから今、昔のように調理できることに違和感はない。ないのだが……


 横を歩くノーゼンは無表情だった。

 片手に棒切れを持ったまま、それこそ街中を歩くのと変わらないような雰囲気だ。この状況でお喋りなのも問題だが、まるっきり無口なのもあって、なんとなく落ち着かない。彼は何を考えているのだろう?


 そんな風に思いながら、顔色を窺った。

 その時だった。


 ピィー……と口笛の音。前方から。

 ハッとする。


 俺よりノーゼンのほうが、反応は早かった。


 さすがにみんな素早い。前方を歩いていたススキみたいな髪型の……ラズヴィチクは、すぐに身を翻してこちらに駆け戻ってくる。ハンドサインを送りながらだ。大声で叫んでも、状況によっては聞こえないこともあるし、そのせいで余計な敵からの関心を招く危険もある。視界が利くなら、このほうがいい。


 狼、大きい、二十から三十……


「円陣を組め!」


 リーデルの号令が下る。

 彼はまず、足場を確認する。比較的、草の少ない場所を指差し、そこに陣取って二、三度踏みつける。下半身の防具は心許ないので、下から攻撃してくる狼は、強敵ではないにせよ、やりにくい相手だ。視界が届かないところから不意討ちされるのがまずい。それに彼らは重い盾を地面に突き立てて戦うのだ。不安定な足場は、大きな不利を招く。

 そんな彼に従って、彼らは二手に分かれる。前から手筈が決まっているのだろう。今回のチームは、総数十四名の大所帯だ。だから、七人ずつ、と思いきや。


「新入りども! お前らはこっちだ!」


 リーデルの指令で、俺とノーゼンは彼の組に加わることになった。

 全員が互いに背を向けて、前方に武器を向ける。


 嫌な状況だ。

 自分で自分の背中を守れないのか。居心地が悪い。


 と思っていたら、ノーゼンが俺の近くに擦り寄ってきた。


「そこ! 何をしている! 偏るな! 等分に持ち場を守れ!」


 俺を庇おうとするノーゼンに対し、リーデルは露骨な態度をとった。ここまで出てきた以上、一人前の仕事はしてもらう。たとえそれが子供であっても。

 建前は、まぁ、そういうことになる。俺があっさり狼に喉笛を食い破られてくれれば、余計な仕事をしないで済むからだ。


 ややあって、草のこすれる音。但し、そこに小気味よいリズミカルな足音がくっついている。

 早朝から、我が物顔で原野を駆ける狼どもだ。なるほど、アルディニアにはゴブリンも少しいるし、オーガも少なくはない。そして生態系の頂点は恐らくオーガだが、彼らは絶対数が少ないし、足もそんなには速くない。ゴブリンも侮れない競争相手だが、魔術を使いこなすようなリーダー格でもなければ、狼にとって、さほどの脅威にはならない。

 だから、その手の連中が現れる前に、持ち前の嗅覚と聴覚を生かして、最初の一口を狙うのだ。


 俺達が足を止めたのを見て取り、狼達は足を緩めた。そして、理性すら感じさせる視線を、じっとこちらに向ける。


 かなり大きい。

 タリフ・オリムの北側は、寒冷な盆地、そして山岳地帯が広がる。そんな厳しい環境を生き抜いてきた野生動物だ。目測でしかないが、体高はおよそ七十から八十センチほど。つまり、俺の身長の半分くらいにもなる。体重は、推定になるが、だいたい四十キロほどか。俺より少し多いくらいだ。

 毛皮の色は、濁った白で、ところどころに薄い灰色の筋が混じっている。


 彼らはゆっくりと俺達を取り囲んだ。ただ、少しやりにくそうだ。

 こちらの人数が多いのと、二手に分かれているために表面積が大きく、完全に包囲するには頭数が足りないのだ。

 では、朝食は諦める? いいや。


 彼らだって、人間を全滅させられるとは思っていない。だいたい、この二本足の生き物はギラギラ光る武器を持っている。経験的に、それが危険なものだということは、わかっているはずだ。

 だから、一人か二人、しとめるのに成功すればいい。さっと喉笛に喰らいつき、ぱっと離れる。倒れた人間を引きずり出し、そこに群がる。追ってきた人間は数に物を言わせて追い払い、仲間が時間稼ぎしているうちに森の奥へと引っ張り込む。そうなれば人間は諦めるから、あとはみんなで急いでかぶりつく。時間をかければゴブリンやオーガがやってくるのだ。


 そんな狩りなのだ。

 無理はしない。だが、なんとかなりそうなら……


 ……狼の一頭と、目が合った。


 これは、くる。


 野生動物は、相手の大きさで強さを測ることがある。前世でも、アフリカのサバンナを生きる人の智慧に「木の板を掲げる」というものがあった。ライオンなどの肉食獣に出会ったら、なんでもいいから高く掲げるのだ。そうすると、体が大きく見える。大きいということは成熟している、強いということだから、襲われにくくなる。少なくとも、時間稼ぎにはなる。

 反対に、小さいということは、未成熟、即ち力も弱く、しとめやすい。


 厄介だ。

 狼どもは、声も出さずにアイコンタクトだけでやり取りしているかのようだった。何度も何度もぐるぐると目の前を行き交い、だが、次第に目の前に集まり出す。密集しているといってもいいかもしれない。いっそ火の玉をぶつけてやろうかとさえ思うくらいには。

 無論、それはできない。俺の隠し玉なのだ。実力をすべて曝け出すなんて、背中の敵に対策を立ててくれと言っているようなものだ。


 となると、あとは剣しかない。

 ミスリルの刀身は、切れ味にも優れている。だが、相手も分厚い毛皮を備えているし、筋肉も骨も、そうそう断ち切れるものではない。何より怖いのは、一頭をしとめた時に、剣が中途半端なところで止まってしまうことだ。引き抜こうとする間に、別の狼が飛びかかってくるかもしれない。

 というリスクを考えると、やはり使うしかない。


 聞かれませんように、と思いながら、俺は静かに詠唱する。『俊敏』と『怪力』の身体操作魔術だ。技量も高く、触媒を体内に備えるとはいえ、これらの術は難易度も高く、詠唱を省きながら行使するのは、まず不可能だ。

 今の俺の体では、こうして筋力を引き上げる必要がある。鋭利な切れ味も、充分な圧力をかけた上でなければ効果を発揮しない。


 ……本当は、剣術さえ見せたくなかったのだが。


 風が吹いた。

 少し離れたところに立ち、俺を凝視する彼らが、目を細める。耳が、体毛が風に揺らめく。


 風が止みかけたところで、最初の一頭が身を伏せ、上目遣いでこちらに忍び寄ってくる。

 俺は、力みそうになるのを抑えて、すっと身を立てる。前方だけではない。左右上下、そして真後ろ。どこから何がきても打ち払う。


 ガフ、と一際興奮した鼻息が聞こえたかと思うと、顔を斜めに傾けた白い影が伸び上がってきていた。これは簡単。

 ハフッ、と耳元に生温かい息がかかる。だが、それが最後の吐息だ。充分な腕力によって振り抜かれた剣は、狼の喉元から胸骨を断ち割り、腹を抜けていた。灰色の空からの淡い光に、鮮血を身に纏った刀身がぎらつく。

 すり足でもう一振り。小刻みに鋭く振り抜いて、すぐ構え直す。びちゃっ、と音がして、首が半分ちぎれた状態の狼が、その場に突っ伏す。


 大丈夫。この程度なら、目で見て、動いてからでもやれる。

 それより、後ろ……


 ヒュッ、と気配を感じた。咄嗟に振り向こうとして、その必要がないとわかった。

 横合いから俺を狙った狼を、ノーゼンが手にした棒で撲殺していたのだ。ただの一撃で、そいつの目から光が消えていた。


 立て続けに仲間がやられるのを見て、理解したのだろう。

 一際体の大きな個体が後退り、上を向いて短く吠える。それで、さあっと足音が遠のいて、一気に森のほうへと駆け出していく。


 終わってみれば、あっという間だった。

 三頭もの仲間を失い、これ以上のリスクは背負えないと判断したのだろう。彼らは意外なほど、あっさりと引き下がった。


「……ふん」


 俺とノーゼンに視線が突き刺さる。明らかに好意的ではない目の色だ。


「毛皮でも剥いでいくか?」


 リーデルが眉を引き攣らせつつ、そう尋ねてくる。

 一応、倒した俺とノーゼンに権利があるからだ。


「先を急ぐのでしたら、結構です」

「わしもいらん」


 リーデルは、横を向いた。そこにはさっき、先頭を歩いていたラズヴィチクがいた。彼は無言で首を振った。


「なら、早足だ」


 いやがらせ、ではない。

 流された血に群がる猛獣や魔物がいる。手早く戦利品を処理できるならいいが、それをしないなら、無用な争いを避けるためにも、さっさとこの場を離れなければならない。


 剣の血を拭うと、俺は男達の背を追って駆け出した。

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