眼鏡をかけた陽気な女だから

 頭上に茜色の空が広がる。雲のきれっぱしが遠くに一つ、二つ。橙色と藍色、それに灰色が交じり合う様が実に美しい。

 天上の不協和音のような色彩とは打って変わって、地上は見事に調和していた。赤茶けた屋根瓦が、どれも橙色に染まる。白い壁までも、うっすらと色づいていた。

 丈の高い建物が長い影を落とす。その下を、人々が通り過ぎる。先頭はいつだって子供達。何が楽しいのか、いつでもどこでも大騒ぎだ。続いて籠を片手に提げた主婦。三人に二人は頭にフードをかぶって髪を隠している。たまに薄汚れた鉱夫達が、大声で笑いながら道路を横切っていく。

 いつもと変わりない、心安らぐ街の風景だ。


 但し、俺だけは違う。

 みすぼらしい格好をしているわけではない。ボロボロの旅装ではあるものの、きっちり洗濯は済ませてある。入浴した後、歩き回ったせいで汗ばんではいるが、特に不潔というのでもない。

 だが、俺は彼らではない。この社会の一員ではない。


 あれから、あちこちの宿屋をあたってみた。なんでもいいから、泊めてくれればいい。もちろん、適正価格なんて、求めたりはしない。こちらから金貨をちらつかせて、なんならいつもの倍でもお支払いします、と頭を下げた。それで手に入ったのは、謝罪の言葉だけだった。

 なんとも手回しのいいこと。しかし、酔っ払いを片付けただけで。それも殺しもせず、ほぼ無傷で取り押さえたというのに、なんと陰湿な。


 ……というより、どうも極端な反応だ。


 俺の運の悪さはいつものこと。海に出れば暴風雨に巻き込まれ、海賊に狙われる。虐待されていた奴隷を助け出したら、密輸商人の手下に袋叩きにされ、魔王の信者に襲われる。だから旅先でイジメられるのも、ごく普通の出来事だ。


 しかし、サモザッシュの悪意はどこに起因するのか?

 例えば、チェギャラ村でジノヤッチに睨まれたのは、一つには俺が騎士の腕輪を着けていたからだ。彼の動機は「嫉妬」「劣等感」だ。

 一見、理解不能な悪意にも、根拠はある。フォレスティアの内乱で大暴れしたルースレスはどうだったか。貴族の嫡男として生まれ育った結果、地位に見合う尊大さを身につけた。と同時に、その精神に見合わないほどの没落と喪失、屈辱を経験してもいる。彼は、かつての立場という高みから見下ろして、現在の不遇を不当なものとみなし、ゆえに属する社会を無価値と判断して、踏みにじることを選んだ。

 ならばサモザッシュにも理由があるのだ。単にアイデルミ家から頼まれたから、というだけではない何かが。第一、ギルドの支部長は本来、中立であるべき存在なのだ。


 更に突き詰めると、もう一つの矛盾にぶち当たる。

 仮に、あのドランカードとかいう冒険者の陳情をアイデルミ家がすげなく断ったのだとすれば。なぜ今になって、その報復には手を貸すのか。整合性が取れていない気がする。


 だが、いずれにせよ、遠慮はいるまい。いい考えがある。その、アイデルミとかいう貴族を抹殺してやろうか。いっそ、この都自体、メチャクチャにしてやれば、聖女の祠までの道も開けるかもしれない。


 却下だ。

 今のところ、あくまで今のところでしかないが、まだ直接的に命の危険があるわけではない。そこまでやるのは、正当防衛の範疇を超えている。感情的には、そんなのどうでもいいと思わなくもないが、仮にも俺は、女神シーラの加護を授かった人間なのだ。

 確かにこの街の人々……宿屋の主人達は、俺の宿泊を拒否した。とはいえそれは、より大きな権力を恐れたがゆえ。彼らもまた、被害者でしかない。


 そう自分に言い聞かせても、不快感は募っていく。そういえば、神の壁の時だってそうだった。壁をパンティーに見立ててツルハシを振り上げる連中を変態と呼んで、何が悪い? だが、アイクが庇ってくれなければ、今頃どんな目に遭っていたか。

 ベタベタ、ネチネチしている。こういう土地柄なのだ。


 とにかく、寝泊りする場所がない。

 では、どうするか。


 代替案、その一。

 ギルに泣きついて、ブッター家に保護してもらう。


 却下。

 それは、ある程度の成功を収めはする。パダールは俺を見て、空き部屋を宛がってくれるだろう。夕食もご馳走してもらえる。だが、翌朝か、そうでなくても近いうち、この街を離れなければならなくなる。

 貴族の血筋とはいえ分家で、先祖代々の椅子にしがみついている彼が、流れ者の俺のために、リスクを背負い込めるはずもない。また、手助けできることに限度があるというのは、事前に宣言されていた。


 代替案、その二。

 教会に泊めてもらう。


 却下。

 ユミレノストの真意はわからない。だが、今のところ、俺という手駒がいなくなっても、これといった損害を負うことはない。彼は油断ならない人物だ。取引できる材料がない限り、こちらの思い通りには動いてくれないのだ。

 なので、これ以上貸しを作ると、代わりにとんでもない難問を押し付けられる可能性もある。


 というわけで。


 代替案、その三。

 とりあえず、神の壁の下で横になる。


 ここに至って野宿か。

 いや、旅の途中には散々やったし、それは構わない。だが、まさか人の住む街中でも野宿とは。


 はー、と溜息が出る。

 ここ、タリフ・オリムに至るまでの旅の途中、俺を悩ませたものは何か。いろいろあるが、そのうちの一つが、虫だ。特に、蚊。シーラの側にいる間こそ考えずに済んでいたが、再び旅路についてからは、真夏の高温多湿もあって、虫に刺されることが割とあった。

 昨夜まで寝泊りしていた高級ホテルは、客室が三階以上の高さにあったおかげで、その手の虫も、ほとんど入ってこなかった。まさに極楽だったのだ。それが……


 俺は立ち上がり、とぼとぼと歩き出す。街の外れ、南の端にある、神の壁に向かって。


「お? あ、あーっ!」


 そこへすっかり聞きなれた女の声が響いた。


「お師匠! 何やってるんですかー!」


 パタパタと足音が迫ってきて、後ろから俺の肩を鷲掴みにした。


「もう! 探しましたよ! なんでそんな格好してるんですか! 街から出て行っちゃうんですかー!」

「チャルさんこそ、なんでこんなところにいるんですか? そろそろ『お仕事』の時間ですよ?」

「わーっ! 不潔! 不潔ぅ! 淫らですー!」


 何もない空中を掻き毟りながら、彼女は喚きたてた。


「それに、あのお姉さんも言いましたよー。ここでお仕事するには向いてないってー」


 哀れチャル、娼婦にすらなれないか。


「やっぱり私には料理しかないんですー。だからお師匠ー」

「そうですか、じゃあ、頑張ってくださいね」

「え、えー?」


 俺は彼女の手をそっと振り払うと、そのまま歩き出した。


「お師匠ー」


 その場に立ち止まったまま、彼女は後ろから声をかけてくる。


「どこへ行くんですかー」


 どこでもいいだろう。

 口の中でそう呟いた。


「そんなことがあったのね」


 薄暗い小屋の中。

 いつかのように、アイクは背凭れを前にして、跨るようにして椅子に座っていた。


「なんとかならないでしょうか」

「難しいわね。ワタシもここでは余所者だから」

「でも、その……図々しくて済みませんが、その、アイクさん、家は?」


 一縷の希望に縋ってみた。

 だが、彼は首を横に振るばかりだった。


「あるけど、狭い部屋が一つだけ。それに、ワタシもそこは使ってないもの」

「へ? 使ってない?」

「なんとか詰めれば二人が寝られる程度のベッドが一つだけ。そのベッドだけで、部屋の半分以上になるわ。まっすぐ立つのがやっとなくらい天井も低くて、トイレも共用で、キッチンもないのよ」

「うわぁ」


 前世日本並みのカプセルホテルじゃないか。

 確かにそれでは、誰かを泊めてあげるなんて、できようもない。


「じゃあ、いつもは寝に帰るだけですか」

「ううん、そこでは寝てないわ」

「じゃあ、どこで夜を過ごしてるんですか」

「ここよ?」

「はぁっ!?」


 ここって。ここはただの作業監督所だ。机と椅子しかない。床も土間。ベッドなんかない。


「どうやって寝てるんですか」

「だから、この椅子にこうやって、跨って寝てるわ。いつも」

「そんな、きつくないんですか?」

「慣れればどうってことないわ」

「いや、だけど、一応部屋があるなら、そこで寝ればいいのに」

「……先客がいるのよ」


 首を傾げる俺に、彼は軽く微笑んでみせた。


「ワタシのことはいいでしょ。それより、今はあんたのことよ」

「そ、そうですね」


 といって、対策があるわけでもない。


「ワタシとしては、やっぱりこの街を去るのをお勧めしたいけど……」

「さすがにそれは」

「ユミレノスト師に頼るのは、やめたほうがいいわ。あの人、頭もいいし、力もあるけど、使えない人はあっさり切り捨てるから」

「はい、そこは僕もそんな気がしています」

「うーん、そうなると、難しいわねぇ……」


 背凭れに乗せた肘の上で、彼は唸った。


「さっきも言ってたけど、ワタシも同意見よ。ブッター家にも頼らないほうがいいわ。確かに本家筋はアイデルミ家とは対立してるけど、だからといって、あんたのために痛みを引き受けてくれるようなところじゃないから」

「とすると、もっと有力な誰か、ですか」

「そうだけど、それだともう、王様くらいしかいないしねぇ」


 なお、既に聖女の祠の件でユミレノストに頼った以上、他の派閥の宗教指導者に助けを求めるという選択肢は、とっくに消えている。融和派のクロウルはもちろんのこと、独立派のジョロスティも、俺を相手にはしてくれまい。第一、現時点で面識すらないのに。

 だが、それを言うなら、ミール二世についても、その辺の事情は変わらない。


「なら、いっそ、庶民に助けを求めるっていうのもありね」

「は? 庶民?」

「但し、根っからの王都の住民に限るわ」


 いきなり何を言い出すかと思えば。


「そんなの、貴族相手に敵うわけないじゃないですか」

「確かに貴族には勝てないけど、貴族も王様には勝てないのよ」


 なるほど。ここの住民は、王が直接支配している。みんな大事な領民だ。無闇にいじめるなんて、できるはずもない。

 もちろん、最初は嫌がらせじみたことをするかもしれない。だが、本気でその庶民が俺を守ると決めていたら、どうなるか。目と鼻の先にある王宮に出かけていって、王の保護を求めるだろう。そうなったら、貴族にとっては失点となる。

 要するに、傷つくことを覚悟すれば、庶民でも貴族に立ち向かう余地があるのだ。


「いや、でも、ダメですよ。宿屋という宿屋みんなから断られたんですから」

「それはそうよ。あなたを助ける理由がないもの」

「そんなの、誰にだってないじゃないですか」

「だから、出て行くのが一番、ってことになるんだけどね」


 そして議論は堂々巡りだ。


「だったら、とりあえずは壁の下で寝るしかないわね。だけど、問題はそれだけじゃないわ」

「ギルド、ですね」

「ええ……だからなおのこと、さっさと出て行ったほうがいいんだけど」


 だが、俺はそこは恐れていない。


「オーガの群れを相手取るのに、まだガーネットの、それも少年冒険者を送り込むなんて、いくらなんでもひどすぎるわ」

「でも、支部長は言ってましたよ。一人で行かせるわけじゃない、ちゃんと先輩の冒険者と一緒だって」

「馬鹿ね、あんた、それ、どういう意味か、わかってるの?」


 当然、理解している。

 言葉通りサモザッシュは、俺に数人の冒険者をつけてくれるだろう。彼らは同じ任務を引き受けた連中だ。但し、全員が地元の人間で、つまりは彼の息がかかっている。

 オーガの討伐は危険な任務だ。無謀な少年冒険者が「事故」に巻き込まれるのは、やむを得ない……


「でも、断れば冒険者証は没収されちゃいますからね」

「あの野郎、調子に乗ってるわね。支部長になってからは、特にひどいわ」


 嫌悪の情を吐き出すと、アイクは身を起こして言った。


「いいわ、そっちはワタシがなんとかする」

「どうするんですか」

「あんたは安心してついていきなさい。ワタシに心当たりがあるから、腕利きをつけてあげるわ。但し、なるべく自分の身は自分で守りなさい。いいわね」

「は、はい」


 なんか彼には世話になりっぱなしだ。失言の後始末もしてもらったし、今回は護衛まで用立ててくれるという。どこかでお礼をしたいものだ。


「では、そろそろ僕は」

「壁の真下を確保したほうがいいわ。そろそろ秋口に差し掛かってるし、風が吹き込まないほうがいいもの」


 俺が身を起こすと、アイクも一緒に立ち上がった。そこまで面倒を見てくれるらしい。


「ああ、あんたはただ寝るところが欲しいだけなんだろうけど、他の連中は、本気で神の壁の下で寝たがってるからね。言わないと、場所を空けてくれないのよ」

「なんか申し訳ないですね」

「気にしないでいいわ。ホント、こんな、仮にも子供相手に、何やってんだかね」


 小屋を出て、斜め前に神の壁を仰ぎ見る。月の光を浴びて、それは七色に輝いて見えた。


「……きれい、ですね」

「でしょ?」


 確かに、この壁一面だけとれば、王宮の壁にだって負けはしないだろう。それがどれだけの慰めになるかはわからないが。

 そのすぐ下に、毛布というか、布切れに包まって転がる数人の修行者の姿があった。彼らの中に混ぜてもらわねばならない。眠れるだろうか。なんか、ノミとかダニとかシラミとか、たくさんいそうだ。


 中に一人、まだ起きているのがいた。寝そべってはいるのだが、這いずるようにして神の壁に触れている。あ、今、首を伸ばして頬擦りした。そのままペロリ……ああ、あいつか。初日に見た、あのマハブって男だ。そんなにこの壁が好きなのか?


「ん?」


 パタパタと小さな足音が響いてきた。北の方、街からだ。一人? それも大人の男のものではない。

 振り返ると、暗がりから出てきたその姿が、月光に照らされ、露になった。


 紫色の肩掛けを左手で押さえながら、小走りになって、キョロキョロしながら壁を目指している。だが、途中で俺とアイクに気付いた。


「あ、あーっ」


 チャルだ。

 何しに来たのだろう?


「お師匠、聞きましたよ!」


 寝ている人もいるのに、彼女は遠慮なく大声を出しながら、駆け寄ってきた。すぐ目の前までやってきて、そこで膝に手をついて荒く息をついた。


「なんでも、宿屋から追い出されたって」

「まぁ、そうですけど、だったら壁の下で寝るだけですから」

「そんなの、ひどいじゃないですかー」


 呼吸をなんとか整えると、やっと彼女は身を起こした。


「お師匠、うちに空き部屋ありますよ」

「はい?」

「ちょっと埃っぽいけど、今夜は我慢してください! 明日掃除すればいいんです!」

「あら、よかったじゃない」


 後ろでアイクが肩をすくめる。


「でも、お嬢ちゃん、いい? この子、貴族に睨まれてるのよ。アイデルミ家にね。そこんとこ、わかってる?」

「聞いてますけどー、なんでまた」

「くっだんない揉め事なんだけど、まぁ、面子ってやつのせいかしらね」

「デルミア出身の冒険者が、酔っ払って暴れていたから、取り押さえただけです」

「さすがはお師匠!」


 パン、と手を打ち合わせると、チャルは満面の笑みで言った。


「そういうことなら、尚更問題なしですー。もし何かあったら、王様にチクっちゃえばいいんですー」

「でも、あなたのお店、商売の邪魔をされるかもしれないわよ?」

「そんなの、どうせ店を空けてても、お客なんてきませんしー」


 自慢できることじゃないと思うが。

 ぐっと握り拳を作ると、彼女は言い切った。


「前にもどっかのお店がいじめられてましたけどね。最後はちゃーんと王様が裁いてくれましたよ! だいたい、出入口の前に犬のフンくらいばら撒かれたって、掃除すればいいんです!」


 ……一瞬、何かの記憶が俺の頭の中をかすめていった。


 毎朝、俺が寝ているうちに起きだして、玄関の前を掃除する彼女の記憶。

 気付くと窓の下で、ちりとりが石の床にこすれる音がしていた、あの日々。


 そんな思い出を押し殺そうとして。

 俺はかすれる声を絞り出すばかりだった。


「あ、あの」

「はいはい」

「僕、男ですよ?」

「ああー、問題ないです。だって、子供枠じゃないですかー」


 ……子供。


「チャルさん、あなたの家には、他に誰か」

「いませんねー。だから、お師匠と二人きりの水入らずですよー」


 ……二人暮らし。


「まー、いざとなったら家族ですって言い張りますかー。子供っていうには厳しいんで、弟枠ですかねー、父がどっかで作ってきたってことでー」


 ……家族。


「そうすれば、お師匠のおいしい手料理を毎日食べられますしー」


 ……手料理。


 月明かりの下、眼鏡をかけた陽気な女が、俺の気も知らずに言いたい放題だ。満面の笑み。無垢にさえ見えるほどの。

 それが余計に目障りだった。どうにも我慢できないくらいに。


「……帰ってください」


 自分でも驚くほど、低い声が漏れて出た。


「はいはい、すぐお部屋を……って、ええ!? 帰る? どうして?」

「いいから。僕は壁の下で寝ます」

「ちょ、ちょっと、あんた」

「早く!」


 俺は思わず、彼女を突き飛ばした。


「え……」


 俺は顔を背け、目を閉じる。

 だが、閉じた瞼から、心の中に残る彼女の姿が浮かび上がってくる。


 思えば、俺は最初からチャルには冷たかった。食べ物を粗末に扱うからだと思っていたが、どうもそれだけではなかったようだ。

 髪の毛の色こそ違うものの。眼鏡をかけているところも、料理が下手なことも、間の抜けた口調も、明るい笑顔も。どれもこれも、なんとなく似通っていた。

 だが、努めて考えないようにしていた。目を背けてきたのだ。


「あ、あの、お、お師匠?」

「……やめてください」


 いつの間にか、声が震えていた。それを抑えることすらできなかった。


「あ、あー、そ、そうですよね、ごめんなさい」


 珍しく取り乱した様子で、チャルは言った。


「勝手に私の都合で、そんな師匠だなんだって……いいんですよ、あの、別に、何もしてくれなくても」

「いいから」


 もう、そんなことは関係なかった。

 目の前にいられるだけで、連想してしまう。それが耐えられない。


「……済みません、ちょっと……どうしても……」


 肩を震わせながら、俺はやっと言った。


「帰ってください」


 空ろな表情で、彼女は俺を見つめていた。だが、ややあって、すっと一歩後ろに下がった。

 一礼して、言った。


「わかりました」


 チャルは背を向け、音もなく歩き去っていく。俺はその背中を見つめていた。暗がりに消えるまで。


「……あんた」


 隣にいたアイクが、低い声で尋ねる。


「バカね、何やってんのよ」

「済みません」

「ワタシに謝ったって意味ないでしょ? ちょっと乱暴すぎたわよ?」


 その通りだ。

 俺の振る舞いは、理不尽そのものだった。だが、どうしても冷静ではいられなかった。


「なんであんな風に追っ払ったのよ。助けてくれるかもしれなかったのに」

「そう……ですね」

「言っとくけど、余所者のワタシじゃ、どうにもできないのよ? どうして頼らなかったのよ」


 間違ったことをした。

 チャルにも下心はあった。あわよくば、俺の助けを得ようと思っていた。だが、それのどこが悪い? 彼女もまた、俺を助けようと思っていたのだから。

 何より……チャルはチャルだ。どんなに似たところがあっても、あの人ではない。それなのに。


「……眼鏡」

「は?」

「眼鏡をかけた料理の下手糞な、陽気な女なんかと二人きりで暮らすなんて、耐えられなかったから、です」


 そういうと、俺は力なく歩き出した。

 もう一度、夜空を見上げる。


 かすかな光に包まれた白い壁の向こうに、底なしの暗がりが広がっている。そこに何者かが潜んでいるような気がした。力を持ち、智恵を備え、しかし一切の心を解さない無情の存在が。それは渦巻く風の向こう、凍てつく虚空の彼方から、俺を見下ろしている。


 壁の前に膝をつき、そのまま横倒しになった。

 夜の闇に希うしかない。一時も早い忘却を。深い眠りを。

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