真実についての考察

 自室に戻ると、俺はそのまま、ベッドに飛び込み、突っ伏した。といっても、まだ朝。さっき下の食堂で朝食を済ませてきたばかりなのだが。

 久しぶりの二度寝だ。これ以上の贅沢が、この世のどこにあるというのか。


 神の壁と宿屋を往復する生活。その合間に、ギルの家に行ってサドカット師の歴史の授業を聴く。そんな毎日になってから、十日ほど。

 ただ、今日はどちらの予定も入っていない。


 ゴロンと仰向けになる。

 落ち着きあるクリーム色の天井が目に映る。まるで白紙だ。これから書き込まれるのを待っている、ノートの一ページ。


 そろそろ状況を整理しなければならない。

 今日は体を休める日。そして、頭を使う日。様々な出来事を見て、聞いた。だから、それを書き留めるべき日なのだ。


 まず、俺は何のために旅をしているのか?

 無論、不死を得るため。不死に至る手がかりを掴むため。

 そのために、不死を得た可能性のある人物や物事を追いかけている。英雄ギシアン・チーレムや、南方大陸の長寿の果実。サハリア中央部の人形の迷宮。東方大陸の神仙の山。ワノノマの姫巫女。キーワードならたくさんある。

 だが、北方に向かった以上、最初の目標は聖女リントだ。彼女は本当に不死を得たのか。それとも、まがい物なのか。見極めなくてはならない。


 考えてみれば、かなり大雑把な目標設定だ。彼女が不死に至ったとして、では俺は、彼女の何を探せばいい?


 ぶっちゃけてしまうと、それは「わからない」のだ。というのも「聖女は不死である」との説を真面目に展開して、その証拠を並べ立てている学者などは、意外なことに存在しない。

 神壁派は聖女が降臨したとだけ信じているから、彼女が一度死んだらしいことには興味がないし、降臨した後にどうなったかについても関心がない。聖典派以下、その他のセリパス教徒は、そもそも彼女の降臨を信じていないか、その権威を認めていない。例外は、ピュリスにやってきたリンくらいなものだ。その彼女にしても、聖都の廟堂に納められた遺品……靴や着衣と、アルディニアの工事現場に残された聖女の遺物……セメントの上の足跡から推測される体型との間に、矛盾がないことを示してくれただけ。

 そもそも聖女が不死で、今も世界のどこかにいると真剣に考えている人がいないのだ。この件について最もポジティブな意見を持つ人々でさえ、漠然と「そうらしい」と思うだけで満足してしまっている。


 しかし、聖女が本当に不死ならば、この世界のどこかにいる。

 だから、見つけ出して話を聞く。これが一番確実で、簡単だ。あなたはどうやって不死を得たのですか? 俺には実現不可能な方法によるものかもしれないが、無意味な情報ではあるまい。

 但し、イフロースに指摘されたように、彼女はアルディニアに降臨したきり、まったく誰にも目撃されていない。或いはその辺を歩いているのかもしれないが、正体を明かしてはいない。もし彼女が生きていて、行動可能な状態であるならば、それは即ち、人目を避けたいと考えているからに違いない。

 しかもそれは、セリパス教の衰退よりも大きな問題なのだ。ギシアン・チーレムによる帝国への侵攻を目にしながら、彼女は立ち塞がったりなんかしなかった。帝国が腐敗していたから? だが、逆に英雄の横にいたという記録もない。身分を隠して近くにいた可能性も否定はできないが、少し苦しいだろう。武力による解決より、彼女自身による権威の否定と再構築……要するに名乗り出たほうが、遥かに犠牲が小さいはずだからだ。


 つまり、聖女は、生きているならば……「眠っている」か、「閉じ込められている」か、「隠れている」かのいずれかなのだ。


 とはいえ……


 俺は、ベッドから起き上がり、机の上に置きっぱなしになっているゴブレットを手に取った。蓋を外すと、純白の神の飲料で満たされていた。俺はそれを一口で飲み干し、また蓋をした。

 コトン、と机の上に置きながら、俺は溜息をつく。


 ……聖女が得たのは不死でなく、ただの長寿だったということはないか?


 旅を始める前には、そんな可能性など、あまり考えなくてよかった。だが、俺はシーラに出会ってしまった。

 彼女は俺に、長寿をもたらす神の飲料を与えた。この肉体は、成長こそすれ、老衰などしないらしい。もちろん、傷つけば死ぬこともあるだろうが。

 ならば、やはり何者かが聖女に同じ恩恵を与えたと考えても、不思議ではあるまい。


 更に問題なのは、聖女が隠れているとか、目立たない場所に監禁されている場合だ。

 シーラは俺に言った。彼女の『招神異境』にいる限り、魔王や龍神といえども、俺達を見つけることなどできないと。であれば、何者かが聖女を保護ないし幽閉している場合、同じことをしている可能性がある。

 とすると俺は、恐らく女神モーン・ナーが隠した聖女を見つけるという難題を乗り越えなければいけない。


 無理、だ。

 正義の女神の権能がどれほどのものかは、まだわからない。だが、少なくともシーラよりはずっと強大な存在に違いない。


『いとし子、その恐ろしい名を口にしてはいけません』


 そう、恐ろしいと言ったのだ。

 これはどういう意味だろう? ただ力が強いという意味なのか。それとも、強いだけでなく、危険な存在なのか。少なくとも、シーラにとって友好的な相手ではない。だが、敵対しているとも言い切れない。単に万人に対して公平で、容赦がないだけかもしれないからだ。

 とはいえ、推測でしかないものの、たぶん、その詳細をシーラは説明できない。仮にモーン・ナーが邪悪な存在だったとして。その事実を俺に告げたらどうなる? 悪口は誰かに対する「攻撃」に相当しないか? 羽衣の権能が失われる危険を冒すわけにはいかない。だから、単に恐怖を述べるに留めたのだ。


 では、手詰まりなのか? まだ気が早い。

 こちらから聖女を見つけることはできないとしても、聖女から俺に近付いてきてくれればいい。そのためには、彼女が何者だったのか、何を求めていたのかをよく知る必要がある。となれば、彼女の事跡を追い、その真意を探るのは、やはり正攻法といえる。

 だから、今のくだらない壁叩きも、やめたりはしない。聖女の祠には、なんとしても立ち入るべきだ。少しでも多くの情報を得なければ。


 椅子に腰掛け、テーブルに肘をつく。

 窓の外は明るい。東からの光に、街が照らされている。光を照り返す街路、その上を飾る赤茶けた屋根瓦が、くっきりと浮かび上がる。大勢の人が出歩いているが、喧騒は遠い。


 これからどうするべきか。聖女の祠に入って、何か手がかりを掴んだなら、そちらに向かう。思ったほどの成果がなくても、次の目的地に向かう。つまり、神聖教国だ。廟堂に立ち入り、更なる聖女の秘密を追いかける。

 しかし、それでもなお、彼女の不死を確認できなければ?


 他の方法を探すべきだ。

 不死を得た人物として、もう一人の候補がいる。ギシアン・チーレムだ。


 だが、彼の不死性についても、疑問符がついている。

 不死らしいとは言われているが、証拠はない。記録にあるのは、世界統一と魔王討伐の後、チーレム島にて、『天幻仙境』に招かれたというだけだ。


 そして、ギシアン・チーレムに関しては、どうしても無視できないだけの疑問が積みあがってしまっている。


 彼は何者だったのか?

 いいや、はっきり言おう。彼は転生者だったのか? それも、俺と同じ日本人なのか。


 はじめにその名前をジュサの授業で聞いた時には、とにかく恥ずかしい名前だとしか思わなかった。何しろ、ギシアンでチーレムなのだから。


 カップルが安っぽいパイプベッドの上でことに及ぶと、ギシギシと軋む音がして、アンアンと嬌声が響く。その様子を示す言葉がギシアン。

 チート、つまりイカサマ……俺が身に備えているピアシング・ハンドのような能力を意味する……と、ハーレム、これはそのまんま、たくさんの女性を囲っていることを意味する言葉。この二つを合成したのが、チーレム。

 どちらも日本の、割と新しいスラングだ。しかし、とすると彼は、借り物の力で暴れまわって美少女を囲い込む男、と自ら名乗っているに等しい。


 それでも、この世界の言葉であるなら、そういうものと受け入れるしかなかった。

 ところが、後から後から、違和感がついてまわった。


 最初にうっすら引っかかりを覚えたのは、あのキースとウィーの対決の時だ。

 キースが手にしていた霊剣。その名前が「タルヒ」だったからだ。

 垂氷……つまり「つらら」を意味する日本の古語だ。そして彼の霊剣は、呼びかけに応じて大きな氷の塊を生み出した。


 キースは、あの剣をワノノマで手に入れたらしい。

 ならば、ワノノマの言葉は、日本語なのか? いや、違う。現に俺は、あのガッシュ達の仲間になったユミの言葉を、まるっきり理解できなかった。だが、そういえば彼女は、変な単語をいくつか口にしていた。例えば、ワノノマの王のことを「オオキミ」と呼んでいた。また、彼女が一時期、武術を習っていたという姫巫女候補の名前も「ヒジリ」だった。

 どういうことだろう? ワノノマ語は、日本語ではない。まったく違う。なのに、そこに日本語の語彙らしきものが混じっている。


 そして、つい先日。俺はサドカットに、あの英雄が世界中に命じた奇妙な「改名」について教わった。


 ウル・タルク・ルカオルジアが、ターク・ブッターになったのは、偶然なのか? まさか。

 タークのほうはまだ、地元の言語に由来しているし、理解もできるが、ブッターのほうには、何の由来も根拠もない。意味すら不明なのだ。だが、ターク将軍は、巨大な戦槌を手にした豪傑だった。苗字と名前をひっくり返せば、そのまんま「ブッ叩く」になる。


 こういう変な名前が、歴史上、数多く見られる。アルデン帝やチャル・メーラもあんまりだが……例えば、マルカーズ連合国だ。あそこはもともと、戦勝国になったフォレスティア王国の西方司令部で、そこにはやはりギシアン・チーレムの部将だったアルティが腰を据えた。彼はマイトという家名を授かった。つまり、「アルティマイト」だ。彼が本拠とした街はシャハーマイトと改名され、今でもマルカーズ連合国の中心地となっている。

 余談だが、その三百年後、彼の子孫がまたもアルティと名付けられた。その男こそ、あの諸国戦争の引き金を引いた偽皇帝だ。相当な腕前の戦士だったと伝えられていて、歴史上の英雄の一人とされている。そういえば、グルービーの屋敷でカードゲームを楽しんだ時には、見事に女性化されたのが描かれていたっけ。


 どういうわけかわからないが……なので、ギシアン・チーレムは、世界中に日本語話者にのみ通じるダジャレをバラまいたとしか考えられない。本当に偶然の一致だったのだろうが、ムスタムからの帰り道で遭遇した海賊の名前なんか、まさにそのまんまだった。しかし、同じ氏名の人物は、過去にいくらでもいたことだろう。カイなんて名前は、まったく珍しくない。


 これは、どういう目的によってなされたのだろうか。


 俺は、なんとかポジティブな理由をこじつけようとする。例えば、彼は自分の存在を、後から来る誰かに見つけて欲しかった、とか。現に俺は、彼の名前や、彼が名付けたものによって、その正体を推測しようとしている。同じ日本から転生者がやってくる、という確信があったのなら、日本語を思わせる命名をする理由ならある。

 だが、少々苦しい説明だ。なぜなら、彼の名前、つまり「ギシアン」「チーレム」というのは、スラングだからだ。俺は理解できたが、今すぐ日本に戻って、無作為に誰かを捕まえて意味を尋ねたなら、どう答えるだろう? 女性、特に年配であればまず知らないだろうし、幼い子供、真面目な大人……首を傾げるだけではなかろうか。それにこういう言葉は、死語になるのも早い。

 もし俺が彼で、後から日本人の転生者がやってくるという予想をたてていたのなら、もう少しわかりやすい名前を使う。ノブナガとか、イエヤスとか。それであれば、大抵の元日本人が注意を向けてくれる。本当の信長だったのか? とか。もちろん、そんなことはないのだが、後追いの転生者が正体を探る過程に、それとなく手がかりを置いておけば、本当に気付いてほしいことに目を向けてもらえるだろう。


 だから、彼がギシアン・チーレムなんて名乗る意味や必要性は、なかったことになる。

 そうなると……


 胸が悪くなるような想像が浮かび上がってくる。

 ギシアン・チーレムの正体が、俺の考える通りであるとすれば。彼は、この世界をバカにしていた。


 だいたい、ティンティナブリア地方の村の名前にしてもそうだ。本来の名前をいじくって、間抜けな言葉に変えてしまった。人の名前もそう。挙句の果てに、自分自身の名前まで。完全に悪ふざけだ。

 彼にとっては、まるでゲーム感覚だったのだろう。世界最強の存在で、何でもできる英雄。だから、気に入らない相手は叩き潰して、我儘を通しまくった。

 ゲームの中のキャラクター名であれば、真面目にやるのでなければ、ギシアンでも構わないだろう。つまるところ、そんな程度の理由で、そう名乗ったのではないか。


 とすると、また別の想像が浮かび上がってくる。この世界は、もしかして、ゲームの世界とか?

 その場合、俺が彼を追いかけることで不死に至るなんて、絶対に不可能だ。ラスボスを倒して彼は女神の楽園に招かれた。ゲームクリア、ハッピーエンド。どんなに探しても、彼はこの世界にはいない。


 もしそうだとすると、俺自身もその中の電子データに……だが、この空想には意味がない。そのまま事実だとして、何になる?

 これが俺にとって既知のコンテンツであれば、その知識を活用するのもいいかもしれないが、心当たりがない。ましてや、この理屈でいくと、この世界にはもう「主人公」もいないのだ。

 つまり、空想がそのまま現実だったとしても、ここはただの異世界でしかない。俺の目的も、この状況も、何も変わらない。


 ただ、こうした考えにも、また少し引っ掛かりがある。

 理由は、大きく二つ。


 一つは、彼の呼び名だ。ファルス、ルイン語でファルク、古いフォレス語でファーク、その東方方言……つまり、彼の出身地とされるチーレム島では、ファクだった。ということは、彼の最初の名前は、ファク・ギシアン・チーレムということになる。

 ファックでギシアンかつチーレム。もしそんな名前で生きろと言われたら、俺なら首吊り用の縄を買ってくる。それをいちいちファルスなんて不自然な響きに変更したのは、なぜだ? 自分だけは変すぎる名前が嫌だった? でも、ギシアンな時点で、今更過ぎる。


 もう一つは、ターク将軍の取り扱いだ。

 ギルは言っていた。どちらも無傷だった、と。


 実は、ギシアン・チーレムの敵対者のうち、多くはこれといった傷を負うこともなく、無事に帰順している。ターク将軍もそうだったし、南方大陸の「炎の槍」ことナーム将軍もそうだった。というか、ほとんど相手は死んでいない。はっきり彼が討ち取ったとされているのは、魔王を別とすれば、ごく初期の冒険だけ。パドマ近辺の海賊退治とか、そんなくらいだ。

 つまり、彼はなるべく敵を殺さなかった。少なくとも、人間は。しかし、なぜ? そうする意味がどこにあった?


 もちろん、現代においては、それは彼の英雄性……万人に対する愛情と寛大さゆえだといわれている。だが、今となっては、俺はそんなもの、信じられない。そうではない。きっとそうではない。

 恐らく……彼もまた、俺と同じく、何らかの能力を身に備えていた。そして、その能力の制約の中に、殺人を禁忌とする要素が含まれていたのだ。そうであれば、最初は人を殺し、後には殺さなくなったことの説明ができる。つまり、生まれてしばらくの間は、その特殊能力に目覚めていなかったか、本人が気付いていなかったのだ。


 では、ギシアンという変な名前も、その制約ゆえか? 恥ずかしい呼び名をつけないと、超能力を発揮できないとか?

 しかし……やっぱり、ここは考えてもわからない。


 とにかく、彼はあまり追跡するのに向いているとは思えない。もし本当に女神の近くに侍っているのなら、地上をどれだけ探し回っても、出会えるはずもないからだ。


 いつの間にか、頬杖をついて考え込んでしまっていた。構わない。今日は考える日だ。

 いっそ、温泉気分で、のんびり風呂場で疲れを取ろうか。俺は立ち上がると、左右を見回した。タオルと下着はどこだったっけ?

 荷物の中からそれらを取り出し、そこでまた、俺は足を止め、ベッドの上に腰を下ろした。静かに息をつく。


 だが、先日、新たな手がかりを得た。解体屋のノーゼンだ。

 あの異様な長寿。そして、魂の年齢と一致しない肉体。龍神の祝福。彼が不死であるとは考えにくいものの、見過ごしていい存在ではなさそうだ。

 恐らく、彼は世界の真実の一端を垣間見ているはずだ。この街を離れる前に、なんとしてもそれを……しかし、もしかすると、危険を伴うかもしれないが。

 シーラは女神教の神官戦士団に追われた。ならば、そのシーラの加護を受け、謎の力を身に備えた俺は、龍神の目にどう映るだろうか?


 それと、この世界の様々な常識を、あまり真に受けないほうがいい。

 例えば、ギシアン・チーレムが昇天した後、空から石版が降り注ぎ、人々がそこから魔術を知ったとされている。その石版自体は今も存在するから、まるっきり嘘ということでもないのだろう。だが、それ以前から、魔法は存在した。その証拠が、今もピュリスの自宅の地下二階に収められている。

 魔王と女神の関係もそうだ。シーラのような無害な存在が、どうして神官戦士団に追い回されなくてはならないのか。いったい、この世界の女神とはどういう存在なのか? 人々が語るような、立派な代物ではないのかもしれない。いや、下手をすると……


 シーラは、それらを語らなかった。少なくとも、ある程度は知っていたはずなのに。もちろん、言えなかったからだ。だが、俺が不死を追い求めれば、必然、そこには世界の真実が横たわっている。その秘密に近付くことは、とりもなおさず、恐るべき者達の関心を惹くことにもなる。そして彼女は、それがこの世界の破滅にまで至るほどのものだと認識していた。


 皮肉なことに、それこそが俺をこうして不死への旅に駆り立てる原動力となったのだが。グルービーが貴族どもの依頼を引き受け、ピュリスを襲撃したのは、俺を誘き出し、殺害するためだった。

 彼は俺に対して、憎しみも恐れも抱いていなかった。それどころか、非常に好意的だった。にもかかわらず、俺のすべてを奪い、破壊しつくそうとした。

 それは非常に重大な問題だったはずだ。あの事件の結果、無辜の市民にも多数の犠牲者が出た。彼にとっては「仲間」だったはずのアイビィも、身を裂かれるような苦痛を味わった。彼自身、俺という怪物相手に戦いを挑み、その身を滅ぼした。そうしたリスクをすべて承知の上で、行動に踏み切ったのだ。

 なぜそうまでして? 理由はわからない。だが、彼は何かを知っていたのだ。恐るべき世界の秘密、その一端を。

 だが、それを俺に伝えることはできなかった。『使徒』の呪いは、グルービーの記憶を盗み見ただけのジョイスまで蝕んだ。


 今は、一時の休みがあるだけだ。

 気を引き締めていかねば……


 そう思った時、ドアをノックする音が聞こえた。

 開けると、そこには老支配人がいた。


「はい」

「お休み中のところ、申し訳ございません」

「なんでしょう?」

「あの、お客様が」


 彼の後ろ、薄暗い廊下には、見覚えのある女が立っていた。


「お師匠さまー」


 ボサボサの金髪に、丸い眼鏡。紫色の肩掛け。

 俺は、くるりと振り返ると、きっぱりと言い切った。


「こいつは客じゃありません」


 バタンと扉を閉じて、俺はそれきり、ベッドの上で寝転ぶばかりだった。

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