それもこれも俺もお客様

「ギル……んっ?」


 ノックもなしに扉を開けたのは、恰幅のいい中年男性だった。頭髪の量の多い重たげな七三分けに、これまた質量たっぷりの口髭。丸みのある頬に、グリグリした目。落ち着きのある茶色のベストが、ずんぐりした体を締め上げていた。


「おおっと、お客様だったかね、これは失礼」


 ピアシング・ハンドのおかげで、自己紹介の前に相手の名前がわかる。よって俺は、とるべき態度を誤らずに済む。

 椅子から降りてまっすぐ向き合い、しっかりと頭を下げた。


「ファルス・リンガと申します。エスタ=フォレスティア王国より参りました」

「おや、これはご丁寧に」


 男性は、背筋を伸ばし、威儀を正して俺の挨拶を受け、歓迎の言葉を返した。


「私がここの主、パダール・ブッターだ。ようこそ我が家へ」


 それから、俺の後ろに立つサドカットに視線を向ける。


「こちらが先に伺っていたお客様かね、サドカットさん」

「その通りです」

「今、いらっしゃるとは思わなかった……ええと、ファルス君、と呼んで差し支えないかな?」

「はい」

「どうかな。少しはお役に立てているかね。いや、分家筋とはいえ、我が家も歴史だけは長いし、この通り、書物も山のようにある」

「大変勉強になっています」

「そうか。何よりだ」


 礼儀正しく頭を垂れる俺に、彼は満足げに微笑んだ。しかし、その表情は長続きしない。溜息混じりの説教が始まる。


「それで……ギル、どうしてお前は私に恥をかかせるのだ」

「なんだよ」

「その格好を見るだけでも、お前がまるで真面目に勉強していないのはわかる」


 椅子の上にふんぞり返り、机の上に踵を置いたままの姿勢。およそ授業を受ける者の態度ではない。


「まったく、お前ときたら……」

「けっ」


 だが、パダールは途中で言葉を止めた。子供とはいえ、客人。その前で長々と説教をするのは、体裁が悪い。

 サドカットもそれに気付いて、割って入る。


「それよりパダール様、こちらへはどのような」

「あ、ああ。お客様がおいでだ。今年の聖女役の」

「おっ!? 行く! 行く行く!」


 椅子から降りるというより、滑り落ちる勢いで、ギルはその場に足を下ろした。


「聖女役? ですか?」

「ああ、ファルス君はご存知ないか。秋の大祭は、聖女の降臨を記念してのものでね。フォレスティアとは違って、こちらでは藍玉の市より、このお祭りの方が盛大に祝われる。で、まぁ、その聖女に扮してお祭りを盛り上げる女性が、毎年選ばれるのだよ。それがたまたま今年はうちの縁者でね」

「すっげぇ美人なんだぜ!」

「これ、ギル」

「ギル君」


 大人二人の説教など、聞こえもしない。


「行こうぜ!」


 そして、構わず父親を押しのけて先に行こうとする。が、さすがにそれを許すパダールではない。その太い腕で、ぎっちりと息子の腕をロックする。

 一瞬、残った手を顎にやり、少し考える仕草をしたが、すぐ笑顔を向けて、俺に言った。


「せっかくでもあるし、お会いしておいては」

「はい」


 陽の当たる広間。そこのソファに、白いワンピースを纏った可憐な美少女が腰掛けていた。華やかというよりは、やはり純粋さ、あどけなさというものが前面に出ている印象だ。大輪の花ではなく、野に咲く小さな花、か。官能的な美女なら珍しくないルイン人なだけに、その好みは、むしろどちらかというと、こういうピュアで清らかなイメージに偏るのだろう。

 そういう雰囲気というのは、肉体だけで作り出せるものではない。何より仕草や表情こそが重要だ。今も背凭れに体を預けるような真似はせず、か細い上半身をまっすぐに立てている。

 すぐ隣には、父親らしき人物がいる。鼠色のスーツを身につけた、細身の男だ。それなりに裕福そうに見える。


「お待たせしましたな、スッタマーナさん」

「いえ、突然の訪問にもかかわらず、お招きいただき」


 挨拶しながら、父と娘は立ち上がる。


「何をおっしゃいますか、私とあなたの仲だ」


 愛想笑いを振りまいておいてから、パダールは俺に振り返った。


「我が家が賑やかになる、こんな嬉しいことはない……ああ、こちらはエスタ=フォレスティア王国からお越しのファルス・リンガ君だ。わざわざうちの蔵書と……学識優れた家庭教師を求めて、ブッター家を選んでくれた。なんでも騎士の腕輪を授かっているとか」

「これはこれは」


 スッタマーナと呼ばれた男は、最初、若干訝しむような視線を向けてきた。思うに、気心知れたパダールに対しては信用する気持ちもあるのだろうが、そこにいきなり見覚えのない少年が混じっている。地縁血縁でベタベタのこの土地柄だ。なんだこいつは、と身構えてしまったのだろう。

 だが、俺の身分を聞くと、こちらも愛想笑いを浮かべた。


「この街の商会の参事を務めております、アルティ・スッタマーナと申します。私個人としましては、主に薬品と毛皮を商っております。どうぞよろしく」


 子供に対するには丁寧すぎる挨拶だ。

 果たして彼の視線の向こうには誰がいるのだろう? 俺か? いるわけもない俺の親族か?


「畏れ多いことです。腕輪を授かったとはいえ、いまだに未熟なこの身です。ご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します」

「ははは、ファルス君、それにスッタマーナさん、我が家に堅苦しい挨拶は似合いませんよ」


 フランクな態度は望むところなのだが、その教育方針が今のギルを作り上げたのだろうか。そんなはずもないのだが、ふとそう思った。

 コの字型に並べられたソファの上に、俺達は腰を下ろす。真ん中のテーブルに、メイドがティーカップを静かに置く。


「しかし、まさか娘さんが聖女役に選ばれるとは」

「これもパダール様の後押しあってのことですよ。今日はそのお礼のご挨拶にと」

「ははは、私なんぞは大してお役に立ってなんかおりませんが。まぁ、最終候補に残ったと聞いた時点で、もうこれは決まりだなと思っておりましたよ。品もあり、美貌にも恵まれ……いや、私にも一人くらい、こんな娘が欲しかった」

「いやいや、これがまた、不出来な娘で……これ、サフィ」


 作り笑いのまま、アルティは横に腰掛ける娘を促す。


「これまでもお世話になってきたが、これからもお世話になるのだ。お前も十四になったのだから、そろそろ大人の礼儀も覚えなさい」

「はい、お父様」

「私にじゃなく、パダール様にご挨拶せよ」

「おや、これは手厳しい」


 やり取りを横目で見ながら、俺は関係性を読み取ろうとする。

 パダールは騎士だ。名門貴族の分家筋。貴族の称号が名前にないので、貴族ではない。だが、名家であることに変わりはない。

 これに対し、アルティとその娘、サフィは、恐らくは平民だ。商会の参事、要するに幹部ではあるが、トップではない。それなりの地位の商人というだけだ。


「ときにパダール様、今日はピェルヴィニッツ様はおいでではないのですか?」

「ああ、息子は今、王府のほうで書類仕事です。どうしても、収穫と大祭の時期が重なるので……秋は忙しい季節ですからなぁ」

「パダール様こそ手厳しい……ご長男にお役目を譲って、ご自分は悠々自適ですか」

「はっはは、まぁ、年寄りには年寄りの仕事というものがあるのですよ、ご存知でしょうに」


 そう言って、彼らは笑いあう。


 ピェルヴィニッツというのは、パダールの長男、ギルの兄なのだろう。そして、どうもこの文脈から判断するに、長男の就職と同時に、パダール自身は退職している。なぜ?

 深く考えるまでもなく、理由ならすぐに思い浮かぶ。限られた狭苦しい盆地の中だけの世界。ポストの空きがないのだ。だから彼は、影響力があるうちに息子を公務員にして、自分は引退する。隠居しても、別に遊んで暮らしているわけではない。こうして商会の人間と親しく付き合いを持ち、元公務員のコネを生かして、互いに便宜を図り合いながら、日々の糧を得ようとする。

 彼らは、持ちつ持たれつなのだ。


「しかし、残念です。娘がピェルヴィニッツ様にご挨拶させていただいたのも、確か去年の末が最後だったような」

「そうだったかな」

「また、お仕事が落ち着く冬場にでも、お伺いしましょうか」


 父の言葉に、サフィはそっと白いワンピースを握り締める。表情に注目していなければ気付かないくらいの変化だが、微妙に口元を引き締めていた。


 王都全体の注目を浴びる大祭の聖女役。こう考えると、なんだか物凄く立派に聞こえるが、案外そうでもないのかもしれない。

 なぜなら、貴族の娘であれば、それも身分が高ければ高いほど、そんな「見世物」なんかになったりはしないだろうからだ。つまり、目立ちもするし、名声も得られるとは言え、所詮は庶民、せいぜい騎士階級までにしか通用しないものだ。

 目の前の彼女……サフィは、女としての完成を間近に控えている。年齢の割には背も高く、ほとんど成人女性と差がない。体格はまだほっそりとしていて、そこに子供らしさが残るとはいえ、表情は清楚にして落ち着きがあり、パダールの言う通り、品もある。もちろん、顔立ちも整っている。

 要するに、商品としての価値も、もうすぐ最大になる。そしてアルティは、その売り時を逃さない判断をしたいのだ。娘の美貌に浮かれて、条件を引き上げるような真似をしても、結局はためにならない。それより、ありがたがってもらってくれる場所を見つける。


 横暴だろうか? 恋愛さえ知らないうちに結婚が決まってしまう。だが、ここはフォレスティアではない。

 自由恋愛に対する世間の風当たりは比較にならないほど強いし、再婚市場なんかほぼない。また、一夫多妻制が許されていないので、美女に生まれついても、庶民の出では、貴族の側妾になるなんて選択肢もない。

 変に欲張れば、すぐさま機会を失う。それにブッター家は由緒正しい家柄だ。貴族の分家で、騎士階級で、しかも代々官吏の椅子を守ってきた家に嫁入りできるのであれば。


 そして、サフィはそれがわからない娘ではない。だが、突然に今の暮らしがなくなって、人妻として生きていかねばならなくなる。その予感に半ば怯えているのだ。


「やぁ、申し訳ない。息子も忙しくて……夜にならないと、家に戻ってこんのですよ」

「それはそれは」

「ですので、確かに日を改めたほうがいいですな」

「おっしゃる通りで」


 微妙にアルティの声が上擦る。

 司教とやりあった時も思ったのだが、この土地の人間は、どうも微妙な駆け引きというものが日常らしい。


 夜にならないと戻らない。では夜に来ればいい? そんな理屈にはならない。年頃の娘が、夜間に男の家に行く? そんなふしだらな。つまり、この言葉だけであれば、パダールはアルティの提案を拒否したことになる。

 しかしすぐ後に、日を改めては、と提案している。要するに、少し考えさせてくれ、という返事だ。見込みはある。なら、悪くない。手応えを感じて、思わず声にも力が入ってしまったのだ。

 そもそも、こんな日中に、王府で仕事をする役人が自宅にいるはずもない。いないと知って、なお立ち寄ったのだ。つまり、最初から狙いはパダールだった。しかも、わざと前触れのない訪問という形を取った。正式な訪問というのは、相手にとっても自分にとっても重過ぎる。喩えるなら、いきなり初対面の異性に「私と結婚するか、それとも一生会わないかを選べ」などと突きつけるようなもの。プロポーズは、先立つお付き合いを重ねた上でやるべきものなのだ。


 あれこれ忖度するうちに、肩が凝ってきた。

 いつもいつも思うのだが、なんとも息が詰まる土地柄だ。


 これじゃあ、ギルもさぞ……


 横を見て、俺は脱力した。


 ギルの視線は、見事に固定されていた。

 今は夏の終わり、よって誰もが薄着。それは美しいサフィも例外ではない。涼しげなワンピースも、本人が椅子に落ち着けば、布は重力に逆らわず、自然と体のラインをなぞる形に落ち着く。それを彼は、決して見逃すまいと目を凝らしている。

 つまり、具体的には、胸、尻、足。その三箇所を規則正しく順番に観察している。


 エロガキめ。でも、彼女はお前のものにはならない。兄貴への貢物なんだから。


「……と、長居してしまいました。今日のところはこの辺で」

「ええ、いつでもまたいらしてください。歓迎しますよ、ははは」


 長居というほど長居したわけでもないのに、父娘はさっさと屋敷を辞去していった。


「と、ファルス君」


 彼らを見送るが早いか、パダールは俺に声をかけてきた。


「いきなりの来客に付き合わせて申し訳なかったね」

「いいえ、とんでもございません」

「ま、座ってくれたまえ。だいたいの事情はサドカットさんから聞いているよ」


 今一度、ソファに座り直して、パダールは俺に話しかけてきた。


「それで……」


 彼は眉を寄せて、少し言いづらそうにしながらも、質問を口にした。


「君はいつまでこの街に留まるつもりかね」

「聖女の祠を見学させていただけるまでです」

「それも聞いている。となると、秋の祭りが終わるくらいまでは待たねばならないな」

「残念ですが、そうなる見通しです」

「ふむ……」


 俺の返答に、彼は難しい顔をして、考え込んでしまう。


「あ、あの」

「何か?」

「ご迷惑はおかけしません。僕のことは、僕で責任を取ります」

「なるほど、話に聞いた通り、年齢の割にはずっと物事をわかっているようだ」


 責任を取ると言ったが、実際、俺にはそれができるだけの力が備わっている。

 もっとも、その力に頼るのは、最後の手段だが。


「しかし……いい心掛けだが、その前に一つ尋ねたい」

「なんでしょうか?」

「君の後ろ盾には、誰かいるのか?」


 有力な後援者。貴族や大商人などの後押しはあるのか。


「いいえ」

「その腕輪は誰から授かった?」

「エスタ=フォレスティアの新王、タンディラールからです」

「では、君に何かあれば、王国が動く?」

「さすがにそれはないかと」


 この返事に、彼は溜息をついて首を振った。


「失礼ながら……どちらにせよ、それは最低最悪の腕輪だな。あまり見せないほうがいい」

「と言いますと?」

「大人に話すような説明でもかまわないかね?」

「もちろんです」

「では……君が普通の貴族の下僕とか、そういう地位であれば、まだましだった。だが、よりによって国王の腕輪とは。つまり、まず、君を通してエスタ=フォレスティア王国との関係を改善したり、逆に悪化させたりできるのだとすれば、きっとそれは利用される」


 なんて面倒な。

 思い当たるところならある。融和派と独立派の対立だ。神聖教国との関係をどう保つかで意見が分かれているのだから、独立派からすれば、東方の友好国への架け橋になってくれる少年騎士は得がたい存在であるし、ゆえに融和派にとっては邪魔臭いことこの上ない。

 下手をすると、俺の意志なんか関係なく、敵味方が決まってしまうのだ。


「だが、一介の騎士なんかのために王国が動かないとなると……要するに、見捨てられるわけだ。後ろ盾がない人間。いいかな、ファルス君。あまりこういうことは言いたくないのだが、この国、特にこの街は……もう気付いているかもしれないが、何より関係性が重要視される」

「……はい」

「君に強い味方がいると思われているうちは、誰もが君に礼を尽くすだろう。だが、そうでないとわかったら。みんながみんな、そうするわけではないが……ある意味、今の君の身分は、ただの庶民より弱い。というのも、普通の市民でさえ、なんらかの繋がりなら持っているものだからな」


 俺は黙って頭を下げた。

 ありがたい。パダールは、この街の誰もがはっきり言わない常識を、わざわざ俺に告げてくれたのだ。これは親切な振る舞いだ。

 と同時にこれは、彼なりの保身宣言でもある。ブッター家は後援者にはなれない。但し、後援者のふりまでならできる。さっき、アルティ達との歓談に俺を同席させたのも、そういうことだ。目に見えるメリットがあるわけでもないのに、彼は一瞬、躊躇しながらも、ちょっとした支援をしてくれた。ハッタリの効き目がある時間を延ばしてくれたのだ。

 遠まわしな表現に慣れないと、この辺のメッセージを取りこぼしてしまう。


 しかし、そうなると、ユミレノストはどういうつもりで俺を足止めしたのだろう?

 或いは、王の腕輪が効力を発揮するとでも? 馬鹿な。彼は独立派ではない。中庸派、長老派と呼ばれる集団の長で、知る限り、現状維持をよしとする王家に近い立場を守っていたはずだ。

 どうにも読めていない部分がある。辻褄が合わない。


「まあ、そんな顔をしないで欲しい。この街のそういうところにも、またいい部分だってある……」


 彼がそう言いかけた時だった。


「旦那様! お客様です!」


 バタバタとメイドが駆け込んできた。


「どなただ?」

「コモンドン様のご嫡男、イリシット様が」


 彼女が説明しているうちにも、廊下の向こうから大きな足音が迫ってくる。来客を引き止め、案内する別のメイドの声が聞こえてきた。


「あの、ただいま主人にお伝えしますので」

「どけ」


 乱れる足音に、迫る足音。

 手順を踏もうとする使用人を突き飛ばしたに違いない。


 バン! と扉が開く。

 そこに立っていたのは、まだ二十歳そこそこの若僧だった。

 背が高く、体もそこそこ鍛えられているようだ。全体として細身だが、大柄で、ちょっとした逆三角形といっていい体つきをしていた。

 軽やかな金髪に、酷薄そうな細い目が印象的だ。能力を覗き見れば一目瞭然だが、そうしなくても彼が武官であるのはすぐわかる。腰に値の張りそうな拵えの剣を佩いているからだ。それに、上等そうな白いマントを羽織っている。


「これはこれはイリシット様」


 パダールは即座に席を立ち、身を屈めた。さっきまでとは打って変わって、一オクターブ高い声色で話しかける。


「本日はどのような」


 年齢が半分くらいしかない相手に、彼は平身低頭のありさまだ。しかし、それも無理はない。

 礼儀を弁えずに乗り込んできた若者の名前は……イリシット・ブッター・セオラン。貴族の称号がついているということは、本家筋の人間なのだ。


 イリシットは、左右をゆっくりと見回しながら、部屋の中の様子を確認していた。だが、舌打ちすると、蛇を思わせるねちっこい声で吐き捨てた。


「なんでもない」


 そう言いながら、彼は立ち去ろうともせず、何かを探そうとするかのように視線を彷徨わせた。それがたまたま、ギルの顔に向けられる。


「パダール」

「はい」

「しっかり躾けておけ。わかっているな」

「はい」


 そう言いながらも、イリシットの視線は、ずっとギルに固定されている。

 この攻撃的な態度に、ギルは……じっと目を見返していたが、ふと顔を伏せ、その場に膝をついた。それを見て、イリシットは小さく頷いた。


「身の程を弁えろ」


 それだけ言うと、踵を返してマントをはためかせつつ、またさっさと歩き去ってしまった。


 俺は、すぐ足元で跪くギルに目を向けた。彼はそのままの姿勢だった。

 活発な性質の彼だ。あんな無礼な態度によく突っかからなかったものだ、と思いながら横顔を盗み見た。


 そこに怒りはなかった。

 暗い色合いの粘土のような、重く沈んだ虚ろな仮面があるだけだったのだ。

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