教育的指導は鉄拳でなく、実物で
床の冷たさに、はっと身を起こす。
周囲は真っ暗だった。空気も床も、微妙にじめじめしている。湿気の多い夏場でもあり、屋内だからでもある。
そして……久々の筋肉痛に俺は顔を顰めた。
初日だからという理由で、アイクは重労働を課した。普通の修行者は夕方には帰るのだが、俺に限っては夜まで神の壁に張り付くことになった。さすがに夜間は目の届くところに置いておくべきと考えたのか、近くの小屋に入れてくれたが、寝床なんかなかった。
だから固い土の床の上にそのまま横になった。寝る時にはさほど気にならなかったが、目を覚ますと、体の節々が軋んでいる感じがする。きっと疲れきってしまって、変な姿勢のまま、眠ってしまったのだ。汗と汚れ、床の湿気で、肌がベトベトする。それに、意外と体が冷えている。こんな不快な状態は、神の飲料を口にして以来、絶えてなかった。
「起きた?」
背凭れのある木の椅子の上。そこにアイクが逆さまに腕を乗せて跨っていた。その格好のまま、仮眠をとっていたらしい。
「はい」
「そ。じゃあ、今日はもう帰っていいわよ。次からは、少しは楽できるから、安心なさい」
「は、はい」
一瞬、恨めしい気持ちになったが、すぐにそんな感情は打ち消した。ここではこれが普通なのだ。修行だし、しかも宗教活動でもある。苦しくて当然、でなければ意味がない。彼も必要な仕事を課しているに過ぎない。それにアイクは、横暴な態度をとることはなかった。淡々と命令するばかりだ。
「う……」
「どうしたの?」
「いえ、少しお腹すいたなぁ、と」
「まぁ、元気ね」
「元気?」
ただ、彼のオネエ言葉が少し気になる。
これはどういう背景からきているのだろう。そういう話し方をするよう教育されたのか、それとも「心は女性」なのか。或いは単に同性愛者なのか。
俺に実害があるのでなし、どうでもいいのだが。
「一日しごかれた修行者はね、普通、食欲なんかなくなるわ。ただ疲れて眠るだけ。なのにあんたは、夜明け前に目を覚ますし、空腹を訴えるし、よっぽど頑丈にできてるのね」
「そ、そんなものですか」
少し焦る。
実は手を抜いていたんじゃないか、なんて風に思われたら。
「いいわ。遠目に見ても、それなりに頑張ってたみたいだし、そこは問題なかったから。じゃ、帰りましょ」
「はい?」
「一応、司教から頼まれてるから、宿までは送るわ。無事に帰さないとね」
忘れがちだが、俺の外見は十歳児だ。確かに治安がいいとはいえ、猥雑な王都の繁華街、それも夜明けの時間帯を一人で歩かせるのは、危険だと思ったのだろう。
何者だかわからないところがあるものの、アイクは真面目な人物らしい。
しばらく歩くうち、空が白んできた。繁華街を通り抜ける頃には、頭上に青空が広がった。
基本的には夜こそ活発なこの街だが、朝早い今も、忙しく働く人がいる。荷車にいろいろ山積みして、必死で引っ張る人もいた。馬車が軽やかな轡の音を響かせつつ、通り過ぎていく。荷台に積まれた山菜の青さが目に付いた。
バシャッ、と水音がした。
石の路面に水を撒いているのだ。まだ夏の終わり、そして気温はこれから上がっていく。日差しも出てきたし、灼熱の日中に備えて、といったところか。
軒を連ねる飲食店が、それぞれに門前の清掃をしたり、窓を開け放して仕込みの作業をしている中、俺とアイクは狭い通りを抜けていく。
そこで見知った顔にぶつかった。
「ああ! お客様ー! いとしのお客様ー!」
短めのくせにボサボサの金髪。そして眼鏡。紫色の肩掛けは皺だらけだった。
ちょうど店先に立っていたのだ。
「あら、お知り合い?」
アイクが俺を見下ろしながら尋ねる。
「いいえ、まったく知らない方ですね。行きましょう」
「何言ってるんですかー、お得意様じゃないですかー」
「ああ言ってるけど?」
「気のせいです」
この馬鹿め。まだ廃業してなかったのか。
料理と食材を冒涜するクズは、さっさと店を畳むべきなのだ。
「うちの特製料理に金貨四枚も払ってくれたのにー」
「えっ?」
一度の食事に払う金額としては破格。ゆえに、アイクは驚いて足を止める。
「そんなに? そんなにすごい味なの?」
「アイクさん、関わらないほうがいいです」
「でも、あんた、お腹空いてるって言ってなかった?」
「あー、ちょうどよかったですー」
うえっ。いやな流れだ。
「もうすぐ最高の食材が届くので、素敵な一品をお出しできますよー」
「アイクさん、僕が他所でいくらでもおごるので、ここは走り抜けましょう」
「あら、どうして? 何か理由でもあるの?」
「ここの料理は」
そこへ、カポカポとロバに曳かれた小さな荷車が、脇の小道から姿を見せた。
「お待たせぇ、嬢ちゃん」
「わー、おじさまー、いつもありがとうございますー」
やってきたのは、頭のはげた小太りの、タレ目の中年男だった。なんとなく気弱そうで、その分優しげでもある。白い上着にダボダボのズボンを履いて、足元はサンダルだ。
援軍に勢いを得て、チャルは元気よく振り向いた。
「さぁ! こうなったらもう、うちの味を堪能してもらいますよー」
「嫌です」
「いいえー、今度こそ、私の実力を見せてやりますー」
「もう見たので」
「きいい、いいからうちに来るのですー」
「いいじゃない」
どうやらアイクは、チャルの恐ろしさを知らないらしい。
「ワタシもちょうどお腹空いてたし? ここで朝食にしてもいいけど」
「アイクさん、実はですね、ここは」
「あのう」
さっきから様子を見ていた中年男が、遠慮がちに声をあげる。
「よろしければ、食べていってもらえんかね。わしがお代をもちますで」
「わぁー、おじさま、優しいから好きー」
「タダなら断ることないわね。入りましょ」
俺は肩を落として後に続く。
どうせすぐ結果は出る。俺は食べなければいいだけのこと。
……十分後。
「ごめん」
アイクは大きな背中を丸めて椅子に座ったまま、俺に頭を下げた。
「だから言ったのに」
「これならムーアスパイダーの脚の丸焼きでもかじってたほうがマシだわ」
ボソボソと暗い表情で文句を漏らすアイクに、中年男は首を振り、溜息をついて下を向いた。
「どうですかー、お味はー」
「あんた」
「はぁいー、チャルって呼んでくださいー」
「じゃ、チャル。あんた、才能ないわよ」
「ええー!」
衝撃を受けたように、彼女はのけぞってみせた。
「そんなはずはないですー! あの金の冠のソークの一人娘ですよー!」
「金の冠? ああ、秋の大祭の……じゃ、お父様はさぞかし腕利きの料理人だったのね」
「そうですよー、えっへん」
「血は継いでても、才能は継げなかったのね。他の仕事をしたほうがいいわ」
「そんなー!」
俺はそんな二人のやり取りを、腕組みしながらウンウンと頷きつつ、聞いていた。
食材を運んできた中年男は、俺とアイクに、濁った水を思わせる弱々しい笑顔を向けている。こんなものを食べさせて申し訳ない、結果はわかっていた。そういう表情だ。
「そんなはずはないですー、きっとこれは食材が」
「ははは、悪いなぁ、嬢ちゃん」
曖昧な笑顔を浮かべたまま、彼は肩を落としてそう応える。
だが、今度こそ俺は黙っていられなかった。
「なんで叱らないんですか」
「あ、え?」
「食材に問題はないです。むしろ、どれもこれもなかなかの品質ですよ。全部、調理の仕方が悪いから、こんな風になってるんです」
席を立ち、きっと睨みつける俺に、彼は戸惑っていた。
「甘やかしたって、彼女は絶対に成長しません。どうして厳しく言ってやらないんですか」
「それはぁ……そのう」
彼は口の中でモゴモゴ言って、俯いてしまった。
俺は、チャルに向き直る。
「前に言ったはず。こんな料理しかできないのなら、店を畳めと」
「そんなの、私の勝手じゃないですかー」
「うるさい。食材を無駄にしておいて、偉そうなことを言うな」
「無駄になんかしてないですよー、おかしいなー、ちゃんとやってるのに」
「どけ」
疲労もあったが、苛立ちもあったのだろう。
俺は彼女にみなまで言わせず、押しのけて厨房に踏み込んだ。
「あ、あーっ、何するんですかー」
「今、見せてやる」
俺は袖をまくって、いまだ客席に座ったままのアイクに告げる。
「済みません。あと三十分ほど、お待ちいただけますか」
「なによ、いきなり」
「麺料理を振舞いますので」
「へぇ、あんた料理できるの?」
だが、城を横取りされたチャルが黙っていない。
「何勝手なこと言ってるんですかー、うちの店、うちの道具、うちの材料ですよー」
「お代ならくれてやる」
俺は懐から硬貨を掴み取ると、適当に床にぶちまけた。
さて、まずは手を洗って……と。
材料を見渡す。
残念ながら、俺の中のレパートリーを存分に生かせる状況にはない。多少、変な料理になってしまうが、仕方あるまい。限られた時間でやるとなると、もう妥協する以外にない。
手早く塩と水を軽量して、混ぜ合わせる。しっかり丁寧に溶かし込んで、それをボウルの中の小麦粉と混ぜ合わせる。この小麦粉、麺料理に使うことを想定しているためか、粒の細かさはやや粗めだ。これならできる。
しっかり混ぜ合わせたら、まとめて捏ねる。ここで腕力の不足を感じたが、足で踏むにもビニールがあるわけでもなし……俺はそっと詠唱する。『怪力』の魔術で腕力を嵩上げしてから、生地を押しつぶしては折り畳む。何度も何度も繰り返す。
本当ならこの後、常温でじっくり寝かせたいのだが、時間がない。仕方がないから、清潔な布に包んで、服の上から俺の体に触れさせる。せめてビニールがあれば。
その間に、急いでスープを作る。
醤油でもあれば、と思うのだが、ここはもう、諦めるしかない。フライパンで鶏肉を炒め、鍋に移す。そのフライパンを使って、タマネギ、ニンニク、生姜を炒め、水を加えてスープの素にする。
丸めた生地を、また棒で延ばす。それを畳んで、厚みが揃っているのを確認したら、均等に包丁を入れていく。それを熱湯でほぐして、更に冷水で締める。
あとはスープと合わせて出すだけだ。
ここでふと顔をあげる。
気付くと、場の三人全員が、目を見開いていた。
「お待たせしました」
まずは客であるアイクへ。それから材料の卸であろう中年男。最後にチャルに配膳した。
「召し上がってください」
要するにこれは「うどん」なのだが、スープに醤油が入っていない。俺の中では違和感がかなりある。それでも、塩加減もおかしくないはずだし、食べられなくはないはずだ。
アイクは無言でフォークを手に取り、一口すすった。
「んん!? これは」
その反応だけで、味の程度がわかったのだろう。中年男も、急いでフォークをとって、麺を口に入れる。
「ほう!」
よかった。
それなりの味にはなってくれた。
「なんですかー」
不満げな表情で、チャルは食べる二人と俺とを見比べている。
「こんなのおいしいわけ……んっ!」
食べたが最後、悟らざるを得ない。
少なくとも、彼女が客に出してきた生ゴミとは比較にならないのだと。
「つるりとコシがあって……これはちょっとした芸よね」
食べながら、アイクは俺を褒めてくれた。
「やるじゃない」
「ありがとうございます」
「変わった子ね。騎士だっていうのに、どうしてこんなに料理ができるのよ?」
「ええ、騎士? ですか?」
中年男が訝しげに俺を見る。
「はい。まだ従士ですが。エスタ=フォレスティア王国より、学問のためにこちらに参りました」
「へへぇ」
社会的地位の高い人物が、料理を積極的に学ぶというのは、珍しいことだ。もっとも、俺が元奴隷という情報があれば、また反応が違ったかもしれない。
一方、チャルは器を両手で掴んだまま、小刻みに震えていた。
「わかりましたか」
俺は厳しい声を作って言った。
「材料が悪いんじゃない。あなたの仕事の仕方が悪いだけ。わかったらもう、店は畳んでください」
言い切った。
打ちのめしてやった。食材を粗末にする馬鹿者に鉄槌を下してやったのだ。
ここにある素材で、これだけの味を実現した。さすがに思い知っただろう。
だが……それならもう少し、俺はスッキリしていていいはずなのに。妙に俺はイラついていた。
なぜだろう、と理由を考える。
もしかして、どこかが「似ている」からでは。
眼鏡をかけていて、陽気な口調で喋る。そして料理が下手な、あの彼女に……
急いでその連想を打ち消した。
俺は厨房から出ると、食べ終わったアイクを無言で促した。察した彼は、席を立つ。
「それじゃあ」
これで思い知っただろう。いわゆる教育的指導というやつだ。
確かに前回は、頭をぶん殴ってやったが、あれで悟れというほうが無理だった。俺も前世で、職場の親方に殴られたものだが、あの時には「なんて非合理、非効率な」と憤ったものだ。痛みで料理の何がわかるのか。しかし、逆の立場になってみると、気持ちもわからなくはない。食材を粗末にするほど重い罪などないのだから。とはいえ、今回でちゃんと現実を見せてやったのだし、これで彼女も気付いたはずだ。
何か軽いものを食べて、寝なおそう。
そんな風に思いながら、俺はアイクと朝の街路に出て行った。
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