そうだ、ガレットでも食べよう
昼下がりの街中は、うだるような暑さだった。太陽は高度こそ下げつつあるものの、いまだに強い存在感を放ち続けている。今が一番、過酷な時間帯に違いない。出歩く人もほとんどいないし、時折見かけるどこかの飼い犬も、今は道路をうろついたりはしない。みんな日陰に身を伏せて、おとなしくしている。物音もあまり聞こえない。そのせいで、まるで太陽が空間を圧迫しているような気さえしてくる。
悪いこともあれば、いいこともある。
サドカットは、明後日であればユミレノスト師と面談できる見通しがある、と言ってくれた。今夜、教会に戻ったら、早速伝えてくれるそうだ。少し迷ったが、紹介状も預けた。身分や立場もあるのだし、まさか俺を欺いたりはしないだろう。ならば、つても何もなしに一人で押しかけるよりはずっと有利なはずだ。これで少しでも司教との交渉をスムーズにできればいいが。
さて、どうしようか。
実際に面会できるかどうかの報告は、明日の昼以降にもらえることになっている。それまでは暇だ。ならば、ついでにちょっとした用事を片付けにいってもいいだろう。この暑さだ。何度も外出したくないのもある。
あちこちの商店の軒先で道を尋ね、俺はそこに辿り着いた。市街地の北の外れに、その施設はあった。
古びた石造りの建物。いや、ちょっとした砦といってもいいかもしれない。円筒状の建物の足元には、入口さえない。脇の階段を登って、上のほうの扉から入るしかない。だいたい地上三階か四階くらい。玄関が最上階にあるのだ。
これがタリフ・オリムの冒険者ギルドなのだ。王都やピュリスのそれが普通の建物だったのに比べると、随分とまた特徴的だ。本当にここだろうかとさえ思う。
何のために、ここまで来たのか?
冒険者証の更新のためだ。
俺は八歳の冬に、ピュリスで冒険者登録をした。その時点で、既に信用面の問題はクリアされていたので、最初からジャスパーの冒険者になれた。その直後、俺は劣化種のトロールを三匹、ほぼ一人で片付けた。手続きに時間はかかったが、この実績であっさりガーネットに昇格した。本来なら、これを一人でとなれば、最低でもアクアマリン、下手をすると一発でジェード並みという判断なのだが、俺には他に記録された成果がなかったので、この程度になったのだ。
そして、ここまでの旅でも、小さな依頼であれば請け負い、果たしてきた。荷物の運搬や、ちょっとした見張りなどの仕事だ。資金に困っていなかった以上、基本的に時間のかかる案件は請けなかったし、西に向かう隊商などと同行することで少しでも旅程を稼ごうとしてのものなので、たいした実績はあげていない。
俺は、首元にぶら下がるタグを摘んだ。
冒険者証は、その階級によってデザインが変わる。ペリドットからガーネットまでは、丸い青銅製の板に、階級を示すマークと名前だけが刻まれる。また、それとは別に、直近の実績をスタンプするための小さな銅板も添えられる。この二枚の金属板を紐で首からぶら提げるのだ。
アクアマリンからジェードになると、名前入りのプレートの方が、それぞれ固有のデザインのものになる。だが、上級冒険者、つまりトパーズから先となると、実績の銅板がなくなる。既に信用があるためだ。数が少ない一流の冒険者については、各支部が情報共有しており、単純なマークでスタンプするだけの記録板など、不要となる。
俺はここまでの旅を通して、あちこちの街にある出張所で、小さな依頼をいくつか受けて、果たしてきた。その実績を、正式なギルド支部に報告しなければならない。
なぜ? 騎士の腕輪があれば、冒険者証なんか見せなくてもなんとかなるのでは?
理屈の上ではそうだ。しかし、場合によっては、腕輪を利用しないほうがいい場合もある。何しろこの腕輪には、エスタ=フォレスティアの王、タンディラールの名前が刻まれている。なら、事実上、敵対関係にあるシモール=フォレスティア王国では白い目で見られるだろうし、他の国でも、関係次第で却って不利益を蒙る可能性もある。その場合は、素直に税金を支払って、一般人として入出国したほうがいいのだ。
だからこれは、その場合の身分証として役立つ。こまめに更新して、利用可能な状態にしておかなくてはいけない。
砦をぐるりと囲む螺旋階段を登りきり、俺は入口に踏み込んだ。
「すみません、こちらがギルド支部ですか?」
俺がそう声をかけると、中にいた人々が一斉にこちらを向いた。
円形の部屋。真ん中を受付のテーブルが遮っており、その奥に荷物や書類が積まれている。その手前、こちら側には、簡素な長椅子がいくつも並べられており、そこに大勢の男達が腰を下ろしていた。その彼らが、じろりと俺を見る。
「はい」
テーブルの向こう側にいた女性職員が、笑顔も見せずに応えた。金色の長い髪の毛を、乱雑に後ろに束ねている。昼時の『麦の穂』もそうだったが、どうもこの国、女性がオシャレに気を使っている様子が見えない。
「手続きをお願いしたいのですが」
「……はい」
カウンターまで来い、と彼女は手振りで示した。
なんとなくだが、周囲の注目が更に集まった気がした。
「今日はどのようなご依頼ですか」
「いえ、依頼ではありません。こちらの受付票をご確認いただいて、タグにスタンプを押していただくために」
この言葉に、彼女は怪訝そうな顔をした。無理もない。俺みたいな、まだ子供といえる年齢の人間が、冒険者証の更新を求めているのだ。
「では、タグを」
「はい、どうぞ」
彼女は、俺のタグと銅版を手元で見比べた。そして、差し出された数枚の依頼受付票も。これは、俺が確かに依頼を請け負って、完了させましたという証拠の書類だ。手紙などの配達であれば、受取人が署名してくれるから、それで一応、体裁が整う。先方が文字を書けない場合は、単に丸をつけたり、代筆させたりするが、有効性に違いはない。そしてどの依頼も、ちゃんと達成されている。大したことはやっていないので昇格はないだろうが、一応、記録はつけておかなくては。
「す、少しお待ちください」
彼女は、タグと書類を持ったまま、席を立った。
パーティションの向こうに消えてしばらく、入れ替わるように大柄な男が姿を現した。
場慣れした冒険者。そんな印象だった。レザーのブーツにレザーのパンツ、それと着崩したシャツの上に、レザーのジャケットを羽織っている。開いた服の隙間からは、見事に六つに割れた腹筋が見えている。
それなりの年齢なのに、だ。頭頂部がきれいに禿げている。申し訳程度に、耳の近くに金色の毛が生えているが、残しておく値打ちがあるか疑問だ。
そして、印象的なのがその目付きだった。一見して、油断ならない奴だとすぐわかる。歩きながらも、俺を値踏みするかのように、上から下までジロジロねめつけてくるのだ。そして、口元にはいやらしい笑みが浮かんでいた。
「おう」
俺がカウンターの前で立っていると、男は顎をしゃくって声をかけてきた。
「お前か? 冒険者証の更新をしたいってガキは」
「はい」
「見せろ」
タグと実績、それに受付票を、彼は真剣な表情で見比べる。
だが、すぐに彼はそれをカウンターの上に放り出した。後ろで所在無さげにしている受付の女性を無言で追い払うと、彼は代わりに椅子に座り、足を組んだ。
「帰れ」
「はっ?」
「こいつは没収する」
「えっ!」
いきなり何を言い出す?
「没収って、何をですか?」
「あん? タグと……記録板、両方ともだ」
「なっ、どうしてですか」
ふんぞり返ったまま、男は言い放った。
「お前、ナメてんのか」
「なめてなんか、いません。真面目です」
「ブッ殺されてぇのか、おい、ガキンチョ、俺の責任になんだろが。ああ?」
目を白黒させていると、彼は怒りを露にした。
「それとも、この記録板が間違ってるのか? おい、説明しろ」
理由なく喧嘩を吹っかけられているのかと思ったが、書類やタグに不備があるというのなら。俺は身を乗り出した。
彼は、俺のタグをまず指差した。太いごつごつした指だ。
「まず、これ。星が三つ、打たれてるってこたぁ、お前、ガーネットでいいんだな?」
「その通りです」
「んじゃ、これ……こっちの受付票、最近の依頼だが」
「はい」
「全部、ちゃんとこなしてるみてぇじゃねぇか」
もちろん。
何一つ問題は起こさなかった。ただ、難しいものは一つもなかったが。
「こいつは手紙の配達、こっちは荷物の運搬、んでこっちは隊商の警備員……んで、盗賊や魔物の襲撃はなし、と」
「あ、はい。異状はありませんでした」
「ああ、そう書いてある。ところが、だ」
大きすぎる体で前のめりになってカウンターに寄りかかり、肘をついた状態で、彼は俺をじっと見た。
「こいつはなんだ?」
記録板を俺に突きつけた。
「仕事の記録です」
「俺が訊いてんのは、最初のこのマークだ。なんだよ、このでっかい三角は」
それは、初回の仕事だ。
劣化種のトロール三匹を、一人で始末した……
「なんかの間違いじゃねぇのか? けど、これがねぇと、お前が今、ガーネットってのが釣り合わねぇ」
「間違いではありません」
「じゃあ、お前、これぁ何始末したんだよ」
数がたくさんいる下級冒険者の職歴など、当然ながら、あちこちのギルドで共有されていたりなどはしない。インターネットがあるでもなし、これは当然だ。そうであるがゆえのこの記録板なのだから。
しかし、魔物の種類ごとに細かく表現するのは難しい。記号の種類が多くなりすぎるし、それが摩滅するなどして、判読できなくなっては困る。だから、討伐の記録は三角、そのサイズで仕事内容が大雑把にわかるという仕組みになっている。
「劣化種のトロールです」
「あぁ? てめぇが?」
「はい」
「ざっけんなよ、オラァ」
彼は立ち上がり、手に持っていた俺のタグと記録板を、床に放り出した。
「じゃ、どうやって殺ったんだよ」
「剣で」
「あり得ねぇだろが。てめぇのタッパでどう届くってんだ」
彼の主張もおかしくはない。
だが、そんなことを言われても。本当にやったから、マオ・フーもそう刻ませたのだし、ガッシュ達も、三匹のトロールを虐殺する俺を目撃している。ゆえに証拠はある。あるのだが、提出はできない。
ついでにいうと、当時使った手段で討伐するのは、もう無理だ。精神操作魔術を手放したからだ。今なら、火魔術で吹っ飛ばしたほうが早い。なので倒すのは簡単になったが、索敵は少し難しくなった。とはいえ、やろうと思えばできるのだが。
「嘘ではありませんし、この通り、正式なギルドの記録です」
「じゃあなんで、てめぇ、最近の依頼がこんなもんばっかなんだよ」
「こんなもの、というと」
「配達、運搬、見張り……こんなの、誰だってできるだろがよ」
「それは……旅を優先したからであって、討伐依頼をこなせないからではありません」
「ほおーん」
男はまた、足元の椅子にどっかと腰をおろして、俺を見下ろした。
「ま、なら、やる気があるんなら、仕事は紹介してやるぜ」
「どうもありがとうございます」
少し気分が悪い。
俺を信用できないから、記録を拒否するというのはまだわかる。だが、こんな風に粗暴な態度をとる必要があるか? 自然、俺の語調もきつくなる。
「なんか文句でもあんのか」
「いいえ、ただ」
足元に散らばった受付票を拾いつつ、俺は答えた。
「冒険者ギルド一千年の歴史は、所属員相互の信頼と協力で成り立っていたはずです。それがこんな」
「そいつは違ぇな」
少し凄みの混じった口調に、俺は顔をあげた。
男は笑みを消していた。
「ここに限っちゃあ、千三百年の歴史だ……いや、どこだって本当はそうさ……何がギルドだ」
「でも、あなたはギルドの」
「ああ、ここの支部長のサモザッシュだ」
「それがどうして」
「とにかく」
俺の問いを高圧的な声色で遮ると、彼は立ち上がり、ゆっくりと歩きながら言った。
「そんなこともわかんねぇなら、俺達はお前のことなんざ知らねぇよ」
「そうですか」
もういい。
別に、神聖教国で手続きをしてもいいのだし。そもそも、敵性地域といえるシモール=フォレスティア王国を経由する予定もない。セリパシアに聖女がいなければ、次は陸伝いに『人形の迷宮』に向かう。マルカーズ連合国のシャハーマイトあたりでなら、船便だって見つかるはずだ。
俺は、散らばったものすべてを拾い上げると、背を向けた。
「待てよ」
「なんですか」
「一応訊いとくが、ドランカードをやったのは、てめぇか?」
「は?」
「なんでもねぇよ。行け」
……くそっ。
俺はそれきり、まっすぐ出口に向かい、足早に階段を降りた。
なんなんだ、この街は。ここはあれか、日本の片田舎か何かか?
何かあると、すぐ地縁、血縁。ベタベタしやがって、いつも誰かが誰かと繋がっている。
はっきり覚えていないが、確かドランカードというのは、昼前に『麦の穂』を襲った酔っ払いだ。冒険者だったのか。そして、恐らくサモザッシュはあいつと顔見知りで、アイデルミなんちゃらとかいう貴族とも関係がある。だから、ギルドでは冷たい扱いをされ、ギルやサドカットは俺によくしてくれる。
予想以上に面倒臭い土地柄だ。確かに司祭の言う通り、長居は避けたほうがいいのかもしれない。
だがまぁ、こんなものか。人の暮らす世界なんて。風景はきれい、街も立派、食べ物もおいしい……観光地としては一級でも、生活するのに向いているとは限るまい。
ギルドを出て、俺は南に向かった。ホテルのある左側の斜面を通り越して、西日の差す商店街へと降りていく。
実はもう、今夜の予定は決めてある。
もしいきなりユミレノスト師に会うことができて、かつ彼から夕食にでも招待されたなら、それを断る選択肢はなかった。そんな幸運に恵まれたなら、それこそひたすらにご機嫌を取り、祠への立ち入り許可をねだっていたに違いない。
だが、そんなに簡単にはいかないだろうと思っていた。教会に行って、紹介状を誰か下働きの人に渡して、それでおしまいだったはずだ。何しろ、街中で聞き込みした限りでは、既に陳情の季節は始まっている。俺のような他所者の相手をする時間を、即座に作ってくれるなんて、まずあり得ない。
だからもともと、俺はギルドに寄り道してから、帰るつもりだったのだ。ただ、ホテルでは夕食を出してくれない。頼めば別だが、できれば外で新しい味に出会いたい。
そんな俺の要望を、老齢の支配人は頷きながら聞いてくれた。
『外国人向けの高級店はいくつもありますが、地元の人に愛された名店となると、あそこしかないでしょう』
アルディニアに古来より伝わる麺料理。それを出してくれるところがあるという。もちろん、それだけの店ではなく、普通にガレットも食べられるらしいが、こちらも美味とか。小麦をたくさん使った麺などは、どうしても割高になるらしいが、それでも全体的に良心的な価格で、かつ味は一流。
ただ、支配人自身は、この一年ほど通っていないという。今の立場になって仕事が忙しくなり、余裕がないそうだ。
「えーっと、こっちか……ん? あれか?」
目指す先に、古びた瓦が目立つ一軒の店が見えてきた。左は金物屋で、右は理髪店らしい。そしてこれが『峠の花』亭か。
見る限り、何の変哲もない、それどころかやや埃っぽい感じの店にしか見えない。よく見ると、窓枠などに昔の油汚れの跡なんかが見えたりするが、そこにもうっすら砂埃がかかっている。どことなく寒々しい雰囲気が漂っているのは、なぜだろう?
少し躊躇したが、時間がまだ早いのが理由だろうと思い至った。地元の人の名店というのだから、見かけの華やかさはないのかもしれない。味さえよければいいのだし。なら、と俺は横開きの扉に手をかけ、中に踏み込んだ。
「らっしゃーい」
「んっ?」
あれっ?
何かおかしい。やっぱりおかしい。
左側にはカウンター席が広がる。右側は通路で、少し行くと、四人掛けの椅子とテーブルがある。ただ、奥の方がやけに薄暗い。
まあ、まだそれはいい。開店時間には少し早いし、照明もまだ灯していなかっただけなのかもしれないのだから。しかし、この熱気のなさはどうだろう? 客がいないことを問題にしているのではない。仕込みの時間でも、それなりの慌しさとか活気のようなものが漲っていて然るべきなのに。
一番の違和感は、空気だ。こう、しん、と静まり返っている。ここの空気は、死んでいる。壁にも床にも、かつての料理の香りが染み付いている。だが、どれも古い。家というより、これから廃屋になる建物の匂いだ。
そして……
俺はギギギと首をまわして、左を向いた。
「あっ、お客さーん、また来てくれたんですねー」
「は……あ?」
なんでこの女が。
そばかすだらけの顔。だらしなく適当に刈られた金髪。眼鏡。
「うちは麺だけですよー」
「ちょっ」
「ささ、座ってくださーい」
「ちょ、ちょっと待って」
なんでここに? こいつが? 名店じゃなかったのか?
場所を間違えたとか?
「あの、ここは」
「はいー?」
「僕、地元の名店だって、ホテルで聞いてきたんですけど」
「そうですよー」
「えっ、えええ」
いや、変だ。だが、嘘をついているようにも見えないが。
タリフ・オリムの住民の味覚が、俺とは違うというのは、受け入れても構わない。ただそれなら、もっと客がここにいなきゃいけないはずだ。
「父は、金の冠をもらうほどの料理人でしたからー」
「……ち、ち? お父様?」
「はいー。半年……七ヶ月くらい前に、亡くなったんですけどー」
それでか。
確かにここは、名店だった。きっと彼女の父は、優れた料理人だったのだろう。ところが娘ときたら。
「じゃあ、今は」
「私が店長ですー」
……終わった。
「あ、ちょ、ちょっと、どこ行くんですかー」
「帰ります」
「困りますよー、もう、調理始めてるんですからー」
「僕がいつ注文しました?」
「うちは麺料理だけですからー」
一品しか出さないから……いや、それしか作れないのか?
「はぁ」
いいだろう。じゃあ、見極めてやる。味を、ではない。どうしてあんなにまずくなったのかを、だ。
俺は荷物を下ろして、椅子に腰掛けた。
「おっ、いいですねー、じゃ、伝説の料理人・ソーク直伝の一品を、見せてやるですよー」
台詞だけ抜き出すと、なんかすごく期待できそうに思えるが、実際にはそんなことない。
「うんしょっ、うんしょっ……」
明らかに打ち方の不足した麺を、モッサリモッサリした仕草で、バラバラの太さに切っている。見ていてイライラする。
横の鍋は、火勢が強すぎるせいか、スープがボコボコ沸騰している。あれでは旨みもへったくれもない。オマケに、アクと思しき泡があちこちに浮かんできているのに、掬い取る様子も見えない。
「じゃあ、サービスでお肉も入れちゃいますよー」
その肉の塊を、水洗いし始めた。思わず席を立った。
「あー、さすがにこの大きさはすごいですよねー」
大人の女の両手に収まらないくらいの肉塊だ。しかし、俺の見立てでは、少し古くなり始めている。大丈夫か? これ。
というか、まず、肉は水洗いするものじゃないぞ?
目を丸くする俺をよそに、チャルは調理……いや、調理ゴッコを続ける。迷いさえせずに。
「野菜も切りますっ……」
おい、馬鹿、やめろ。
肉を切った包丁と俎板で、そのまま野菜を切るな。
「そしてぇ、炒めます」
傷めるの間違いじゃないのか? そんな超強火でやったら……
いや、待て。フライパンに油は敷いたのか?
「あははー、多少の焦げ目は風味? なんつってー」
まともそうな野菜に、どんどん焦げ目がついていく。一部はフライパンにひっついてしまう。
「よーし、じゃあ、鍋をっ、と」
火から鍋をあげた……のはいいとして。それをそのまま、俎板の上に置きやがった。
作業のしやすさが優先なのか、そのまま、あれこれとっ散らかったままの状態で、ゴチャゴチャと丼の中に麺やスープ、具材をバラバラの順番で投入する。
あ、スープを注ごうとしてお玉が床に落ちた。それを拾って、そのままスープにつけた。
「最後に調味料、お塩を一掴み」
そこは一掴み、じゃなくて、一つまみ、だろうに。
今、白い砂がズシャッとスープに落ちた。
「はいー、おまたせー」
ゴトッ、と音を立てて、目の前のカウンターに丼が置かれた。
時間が、止まった。
どうすればいいんだ、これ。
目の前のチャルは、さっさと食え、と身構えている。しかし、こんなのどう考えても、料理以前の代物だ。うまい、まずいではなく、衛生面に問題がありすぎる。
しかし、それでもこれは、俺の責任だ。無理やりでも店から脱出していれば。
諦めて座り、一口……
「おえげふがはげぇえあがぁ」
「そんなにおいしかったですかー」
塩分が多すぎて、噎せた。
「そんなにおいしかったですかー」
食材でこんなテロができるなんて。前世の料理人人生も短くはなかったが、今、初めて知った。
涙が滲んでくる。
「銅貨四枚ですー、負けに負けてですよー?」
俺は懐から、金貨を四枚出した。
「おおー、金貨じゃないですかー、うちにお釣りはありませんよー」
「……いりません」
「じゃあ! じゃあー、これはお料理の代金ですかー」
まともに評価された! と喜んでいるらしい。
俺はそんな彼女に、そっと言った。
「その代わり、お願いが」
「なんですかー」
「これを一口、食べてみてください」
すると、彼女はズズッとのけぞった。
「そ、そんなこと、できるわけないじゃないですかー」
「なぜですか」
「あなたがスプーンをつけた料理を食べるなんてー」
「不潔だと」
「淫らですー」
あ、そうか。
他人、それも異性が食べた、つまり唾液が混じったものを口にするのも、性的接触の一種と言えなくもない。
「そこは見逃してください。ほら、僕は子供なので、別枠ですよ」
「そうですかー?」
「そうです」
「んー、そうですかー、じゃあ」
拒否した割に、彼女はあっさり俺の主張を受け入れ、一口。
「う」
う?
「うげがばうえぇぼえっぺっ」
そりゃ、そうなる。
でも、これでこいつの味覚が普通でない、という仮説は崩れ去った。あれをうまいと思って出しているなら、罪も少しは軽くなると思う。あくまで少しだけだが。
「な、なんで」
「うん?」
「なんでこんな味になったんですかー」
「あなたが作ったんでしょう?」
「お客さんが何か混ぜたんじゃないですかー」
瞬間的に、血流に乗って、何かが頭の天辺に届いた。
寒くもないのに、自分の肩が、腕が、小刻みに揺れている。そして、この土地がどれほど厄介な人間関係から成り立っているかを知っていても、もうこの衝動は抑えられそうになかった。
「……チャルさん」
「はいー?」
「こう、頭を下げてください。そう、お辞儀」
「なんです……きゃいん!」
俺は髪の毛を引っ掴み、そこに拳骨を浴びせてやった。
「このタワケ! 味見くらいしろ! 食材を粗末にするな!」
「ひっ、ひいい!」
「まずいのはまだいい! だが、なんだあの不潔なやり方は! 肉を切る包丁と野菜を切るのと、別にしろ! 鍋を俎板の上に置くな! あと、床に落とした調理器具をそのまま料理の中に突っ込むな! 大馬鹿野郎!」
「きゃああ!」
「いっそ、店も畳め! これ以上、父親の名前に泥を塗るな! わかったか!」
昼間の騒ぎと違って、こちらは感情的に我慢そのものができなかった。
だって、ひどすぎる。
ひとしきり怒鳴りつけてから、俺は後ろ手で扉を閉じ、夕暮れ時の街に出た。
やれやれ。
おとなしくガレットの屋台にでも寄って帰るか。
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