第二十章 歴史の都
神壁の都、タリフ・オリム
暗がりの中、等間隔にランタンの淡い光が浮かび上がる。左右に照明があるおかげで、御者も馬も、道を踏み外すことがない。路面はさすがにきれいに整備されていて、今も傷一つなく機能している。馬車の揺れも最小限で、まったく快適そのものだ。
それにしても、長いトンネルだ。しかも、一千年前からまったく崩落せずに保たれているなんて、信じられない。女神が手を貸したから、という伝説も、あながち嘘ではないのかもしれない。
遠くに白い光が見えた。他には何も見えない。思わず目を細める。
出口だ。
トンネルを抜けたら、段々畑だった。
馬車が止まる。
前世のバス停にあるような標識が立っており、そこで俺達乗客は下ろされた。
荷物を背負って飛び降り、俺は改めて周囲を見回す。
それは、どこか懐かしい風景に見えた。
アルディニアは、どこも荒涼とした岩山ばかりだ。その合間に、時折人里がある。森もあるが、何れも暗緑色の針葉樹がひっそりと立ち並ぶばかりで、どこかよそよそしい雰囲気が漂う。もちろん、それはそれで風情もあるし、嫌いではないのだが。
しかし、ここは他とは一線を画す土地だった。立ち並ぶ木々は明るい緑の葉をつけている。人を拒むような様子はまるでなく、なんなら今からでも、木陰に腰掛けて一休みしてもいいような、そんな印象があった。
だが、ここに見られるのは、ただの自然ではない。人の手の入った自然なのだ。
目の前に広がる段々畑。大体、一段が二メートル程度の高さで、それが数メートルの奥行きをもっている。それが階段のように、順に下に向かっているのだ。
大規模な段々畑というのは、実は高度な知識と技術を要するものだ。
まず、こうした整地作業の有効性を知っていなければならない。通常、山地には細かな起伏があり、それが微気候を生み出す。数十メートル離れただけで、気温や降水量に差が生じるのだ。段々畑は、そうした差異を吸収し、しかも平均気温を押し上げることさえある。ただでさえ標高の高い、しかも緯度も高く、真夏を除けば気温の低くなりがちなこの地域においては、農産物の収穫量に直結する問題だ。
そして、この段々畑が雨などに崩されず、しかも保水力をもって農作物を養っていくには、それなりの内部構造が求められる。必要なだけの水は内部に留め置き、しかも不要な分は流し去る。仮にこの足元を掘りぬいて構造を調べたら、その複雑さに驚かされることだろう。
じわりと汗が滲む。
今は紫水晶月の半ば。つまり、夏の終わりだ。トンネルの中を通っていた時は、周囲がひんやりしていたのもあって気にならなかったが、こうして外に出てみると、徐々に蒸し暑さを感じる。
この巨大な盆地は、仮に上から見下ろしたとすると、凹型の輪郭線に囲まれている。ただ、東側に大きくたわんではいるが。
周囲を囲う山々には木々が立ち並ぶ。そして俺は今、そのすぐ下、東側の山の中を抜けて、ここに立っている。更にここから下のほうには、段々畑が広がっている。今はトウモロコシの収穫時期だ。すぐ目の前にも、丈の高いのが並んでいる。
王都タリフ・オリムの東側は、いわばアルディニア王国の米櫃だ。だからこんなにも緑が豊かなのだ。
横を見渡すと、細い通路がずっと続いている。この停留所を除くと、なんとか馬車が通れる程度の幅しかない。それがいちいち煉瓦で舗装されていた。この盆地を丸く包む環状線だ。それがこの下にも、一定の間隔で設けられている。
それにしても、この景色。何に似ていると思ったのか。
日本、だ。
段々畑がある山の中。子供が夏休みの合宿に出かけた先で見かけるような風景。ちょうどこんな感じではなかったか。
ただ、段々畑の規模と形状は、日本のそれとは似ても似つかない。どちらかというと、その周囲の森がそうなのだ。日差しの通る心地よい空間。深入りしなければ、散策するにもちょうどいいくらいだ。
だが、のんびりと感慨に耽っている余裕はない。もう日が高いのだ。
ここを下り、街の南側にある神の壁を迂回して西側に出ると、商業地区に行き着ける。確かにここはもう、王都の内側ではあるが、この高低差だ。市街地までは徒歩で行くしかない。今夜の寝床を確保したければ、今から動かなければ間に合わないのだ。
段々畑を降り切って、街の南側に辿り着いた頃には、もう昼下がりだった。空腹ゆえに、胃袋が悲鳴をあげる。
だが、この辺りにまともな飲食店などない。それもそのはず、ここは「修行の場」だからだ。
陽光を浴びて輝く神の壁。
俺はその威容を目にしていた。
ざっと目測で二十メートルはある。幅はそれより狭く、左右はいまだに土砂に埋まっている。伝え聞いた通りに真っ白な壁だ。継ぎ目も傷もない。ただ、想像していたのと違って、まっすぐ建っているというより、微妙に湾曲していた。地面に近い辺りはほぼまっすぐなのだが、上に行くにつれて丸みを帯びていく。
そして壁の前には、いくつもの足場が組まれていた。まるで前世のマンション工事の足場みたいな作りだ。但しこちらは木製で、見るからに危なっかしい。一応、ロープを横に渡して、落下を防ごうとはしている。高さも結構あって、これでは事故も少なくはないだろうと、息を飲んだ。
その足場に、無数の人々が立っていた。みんな一様に壁のほうを向き、上半身は裸で、力の限り、ツルハシを振るっている。神壁派の修行者達だ。
再臨した聖女が、神の壁の存在を予言して、人々に土を掘らせた。結果、出現したこの真っ白な壁を、人々は奇跡として拝むようになった。
この壁は、誰にも破壊できなかった。ツルハシでも傷一つ、つけられない。投石器で岩をぶつけてみても無駄だった。後の時代には、魔術で攻撃を浴びせた不届き者もいたそうだが、やはりそれでも無傷だったという。
つまり、この壁を掘るべしという聖女の命令は、実現不可能なものだ。にもかかわらず、信者達はそれに従い続けている。いや、不可能だからこそか。決して手の届かない目標に、尚も挑み続けよと。彼らはそう解釈している。
この壁の頑丈さ、そして汚れ一つない白さ。心無い人は、それゆえにこの壁を「聖女の貞操帯」なんて呼んだりもする。生涯未婚を貫いた聖女リントを皮肉ってのことだ。
俺が以前、コラプトで出会ったツルハシスト達も、ここで修行したのに違いない。
タリフ・オリムは、良質な鉱山を抱えている。良質というより、デタラメというべきか。金、銀、鉄、銅。なんでも採れる。しかも、これらに加えて、ごく少量ではあるものの、ミスリルやアダマンタイト、オリハルコンといった、魔法金属の鉱石が見つかったりもする。
アルディニアは世界一の鉱夫達を抱える地域でもある。なにしろ、どういうわけか一千年以上掘り続けても、まるで涸れる気配のない鉱脈があり、そして聖女への信仰も根付いている。神の壁を叩くのは聖職者だけではない。一般人が自分を高める手段としても、採掘という重労働がよく選ばれる。ゆえに、鉱夫になってしまえば、生活と鍛錬が一致してしまう。
今も多くの男達が、汗の雫を浮かべつつ、一心不乱にツルハシを振るい続けている。
壁こそ立派だが、神聖な場所という感じはあまりない。辺りは草一本生えておらず、埃っぽい。教会関係者が使用しているであろう小屋も、どこか工事現場のプレハブみたいな雰囲気だ。
だが、修行者達の真剣さならば伝わってくる。彼らは、壁以外の何物にも目をくれない。昼食を摂る時間さえ惜しんでのこの荒行なのだ。
とはいえ。
そこまで頑張れる人ばかりでもないらしいのは、すぐにわかった。
目立たないが、脇のほうに、小さな屋台があった。ということは、ここで食事を済ませる人もいるのだ。
俺はさっと駆け寄った。
「こんにちは」
「へい、らっしゃい」
剥げ頭の太った男が、俺に応えた。
「何か食べるものはありますか?」
「うちはこいつだけだ」
俺はさっと横に目を走らせる。薄汚れた屋台のテーブルの向こう側。卵にハム、チーズ、そして……
「ガレット?」
「おう。お前、なんだ、外国人か?」
「はい、エスタ=フォレスティアから来ました」
「へぇ……珍しいこともあるもんだ」
そう言いながら、彼は生地をフライパンの上に流し込んだ。
ガレットは、主に蕎麦粉を材料にしたパンケーキのことだ。そこにハムやチーズ、卵など、好みの具をトッピングする。
「ここでは、蕎麦をこんな風にして食べるんですね」
「そうだ。割とこの辺じゃ、よくある食いもんだ。小麦粉のパンより、よく食うんじゃねぇかな。もうじき、秋の蕎麦が取れるぜ。そしたらもうちょい、うまいのが出せるんだが」
ハムとチーズ、そこに生卵を割って落とし、熱を加えておしまいだ。
彼はすっと紙の上にガレットを載せて、差し出してきた。
「熱いから気をつけろ」
「は、はい……あつっ」
手の皮が分厚くなるまで壁を叩く修行者達ならいざ知らず。俺には熱すぎた。慌てて袖を引っ張りあげて、布越しに紙を掴む。
駄目だ、これじゃ食べられない。俺は慌ててその場に腰を下ろし、そっとガレットを置くと、リュックを地面に転がして、中から皿とフォーク、スプーンを取り出した。
「お? お上品だな! ガブリといけよ、ガブリと! ハハッ!」
いちいち手間をかける俺に、店主は笑いながらそう言った。
街の西側に辿り着く頃には、もう夕方近くになっていた。
東側の外れが入口で、そこからぐるりと南側に回りこみ、そしてまた、北に出ないといけない。丸い王都の中心には、そそり立つ鉱山がある。
そして、住民のほとんどがこの西側に住んでいる。鉱山の入口も、職人や商人の店も、宿屋や酒場も、みんなこちら側に集中しているのだ。特に、庶民の家は、この西側区域の東側に集中している。
俺は周囲を見回して、溜息をついた。
これは宿屋には期待できそうにない。どの建物も西向き斜面に建てられている。季節は夏、さぞかし西日が暑苦しいに違いない。冬は寒く、夏は暑い。最低最悪じゃないか。
それなら、もっと西側に家を建てればいいじゃないかと思うのだが、そうはいかない。なぜなら、そこには立派な王城が聳え立っているからだ。
つまり、こういうことだ。西側地区は、ちょっとした谷間になっている。その東側は鉱山に通じる急な斜面で、そこに庶民の住居が密集している。西側も少し高さがあるが、そこには王城や貴族の邸宅が居並んでいる。一等地は偉い人のもの、というわけだ。
しかし、理由はそれだけではない。
城の向こう側、建物の合間にちらりと見える構造物。城壁だ。アルデン帝が基礎を整え、それを英雄と女神達が補強した。その後の諸国戦争で更に増築されて、今では二重の防壁がそそり立つ。
そもそも王城も、この防御網の一部なのだ。元は皇帝の離宮があった場所だが、そのうちに帝国の東方司令部として整備し直された。ギシアン・チーレムの征西軍を迎え撃ったターク将軍も、ここに本拠を置いた。諸国戦争中に、王城は東西で別々の機能を持つように改築された。東側は王宮のファサードとして、西側は要塞の一部として。
王都は、アルディニア王国の西端にある。その向こうには、荒涼たる無人のリント平原が広がっており、そこから先はもう、神聖教国の支配地域だ。要するにここタリフ・オリムは、アルディニア最大の都市であり、穀倉地帯であり、そして軍事面でも最前線なのだ。その一番前に身を置くのが王族であり、貴族達なのだと思えば、彼らが日当たりのいい場所に腰を据えるのもやむなしといえる。
そしてここが、あのロージス街道の終着点でもある。
やたらと高低差のあるタリフ・オリムを通り抜ければ、あとは遮るもののない平地をまっすぐ進むだけでセリパシア帝国の中心にまで至れる。道路敷設の必要がなかったのだ。
ついにここまできた。
俺の目的地の一つだった。聖女の不死の秘密が、この地に隠されている。
慌てることはない。
まずは今夜の宿をとろう。それから外に出て、早めに夕食を済ませたら、ゆっくり休むことにしよう。
今までは金があっても、泊まる場所がなかった。所持金にはまだまだ余裕もある。せっかくだし、なるべく落ち着ける場所を見つけて、リラックスして過ごそう。
そう心の中で算段をつけると、俺は雑然と建物が身を寄せ合う西側の斜面を見上げて、一歩を踏み出した。
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