ここにはない何かを求めて

 もう何度も練習はできない。これが最後というつもりで、俺は包丁を当てた。


 この楽園にある果物は、外界のそれとはまったく異なっている。恐らくはシーラの故郷にあったものなのだろう。説明を聞いた限りでは、ウルンカの民がこの地に降り立った時、動植物も一緒にやってきたはずだ。だが、ここ数百年、シーラの祝福がリンガ村の沢の外に出ることはなかった。それゆえ、祝福から取り残され、適した環境を失ったこれらの植物も、自然環境の中では、種として残らなかったのだ。

 だが、シーラは彼らを保護していた。だからこうして、仮住まいの楽園の中では生き延びている。


 俺からすれば、初めて見る食材ばかりだ。今まで調理なしで食べていたので、特徴がよくわからない。火にかけたらどうなるのか。油で炒めたら、塩漬けにしたら……いろいろ思いつくが、結果が想像できない。

 それなら実験するしかない。しかし、手元にある燃料や食用油、食塩の分量には限りがある。節約しながら研究を繰り返した。


 自信はない。だが、もうやるしかない。

 僅かな知識で食材を切り分け、携帯した鍋に油を敷き、炒める。神の飲料から作られたバターもどきを混ぜ、小麦粉を投入。馴染んできたら、また神の飲料を足す。バチ当たりなことに、ほとんど牛乳代わりだが、普通の食材が手に入らないのだから、仕方ない。

 手持ちの干し肉も、具として放り込む。彼女は殺戮を嫌うが、既に絶たれた命については、遡って咎めたりしない。だいたい、これは直前の街で買ったものだ。


 芋が柔らかくなるまで、じっくり煮る。最後に塩と胡椒を加えて、完成だ。

 一口分、スプーンですくって味を確認。

 まぁ、神の飲料を使っている時点で、お察しではあるが。


「シーラ、できたよ」


 俺にできること。俺がやらなければいけないこと。

 どれだけ考えても、これしか思いつかなかった。


 楽園に降り注ぐ西日も、そろそろ弱まってきている。もうすぐ夜だ。見えるのは、橙色と、黒い輪郭ばかり。

 家の外に立っていた彼女を呼び戻す。


「まぁ」

「いつも同じものじゃ、飽きるだろうから」


 神であるシーラに、食事の必要があるとは思えない。ましてや材料に、彼女自身から得られた神の飲料まで使っている。どれだけ意味があるものか。

 それでも、俺はこの一品を作った。


「ううん、ありがとう」

「おいしくできていればいいけど」


 向かい合って小さなテーブルを囲む。


「いただきます」


 人間みたいにそう言って、彼女はスプーンをつけた。

 一口食べて、驚きの表情を浮かべる。


「どうしたの?」

「ううん、こんなの初めて」

「そっか、でも料理はしたことあるんでしょ?」

「あるけど、こんな味は食べたことないから」

「材料、ほとんどここのものなんだけど」

「だから、余計にびっくりしてるよ」


 実のところ、そんなに変わった料理ではない。丁寧にシチューにしただけだ。だが、もしかしたら、本当に未経験の味だったのかもしれない。盆地から逃げ出すまでは、ただただウルンカの民とその子孫を支えてきた日々だった。庶民の間に顔を出すこともあったが、彼女は守護者であって、恵みを受ける側ではなかった。おいしいものはみんな、人々に分かち与えておしまいだったのだ。


「これくらいしか、できることがないから」

「ううん、きっと……これが大切なの。他のどんなことより、これが」


 限られた中で料理を作る。それにどれだけの値打ちがあるのだろう。

 だが、少しでも彼女に喜んでもらえたのなら、よかった。


「ごちそうさまでした」


 人間がするように、彼女はそう言った。

 出した料理は、すべて食べてもらえた。


 俺は食器や調理器具を洗った。食べ終わって、片付けも済んだら、あとは腹が落ち着くのを待って、眠るだけだ。その合間の時間で、夜の散歩をする。


 今夜も見事な夜空だった。山の端には、黄金色の月に、霞がかった雲がかぶさっているのが見える。頭上を見上げれば、砕いたダイヤモンドのような星々が散りばめられていた。

 そんな中、楽園の花々もひっそりと佇んでいる。澄み切った泉には、今も波一つなく、完全に調和したこの世界を静かに映し出していた。


 きれいだ。美しい。そんなの当たり前だ。

 この場所は、何もかもを与えてくれる。ここにいる限り、俺は苦しまない。


 いつかは死ぬだろう。だが、それだって何らの苦痛も伴わない。肉体が老いることはないし、寿命も長い。病気にもならないのだから、ある日突然、魂が肉体を離れる。きっと、何も考えずにここで過ごすうち、俺は安らかに旅立てる。そして、二度と前世を思い出すこともない。

 そういう意味で、ここは一つのゴールであり、正解でもある。不死は得られないが、生を忘却することならできるからだ。


 俺の横を、シーラは無言で歩いている。いつものように。


 だが、変化は不意に起こった。


「あら、見て」


 こんな時間なのに。

 パタパタと羽音がしたかと思うと、鳥達がやってきた。色とりどりの翼を、月明かりに照らされながら。そのまま、ざあっと周囲に降り立つ。いつかのように、馴れ馴れしく俺の肩に止まるのもいる。


「また来たね」


 目の前の草花を掻き分けて、鹿が、兎が、鼠が顔を出した。俺はそっと手を差し伸べ、その頭を撫でる。その横を、可憐な蝶が音もなく舞った。


 この上なく優しい世界。まず現実にはあり得ない、完璧な理想郷。

 前世では、誰にも愛されない人生を送った。こちらの世界でも、生まれた場所は悲惨だった。街で暮らすようになってから、少しは人並みになれたかと思ったが、そのすべてがひっくり返された。

 その俺の飢えを、ここはすべて満たしてくれる。俺が我儘をいって泣き叫んでも、ちゃんと寄り添ってくれる。決して孤独になったりなんかしない。


 ……ここにいさえすれば。


 俺は、この静かな夜を見逃すまいと、目を凝らした。この素晴らしい景色を、もう一度目にすることはあるのだろうか。


「ねぇ、ファルス」


 あばら家に帰り着いてから、シーラは言った。


「なに?」

「今夜は一緒に寝てもいい?」


 俺は一瞬、迷ったが、笑顔を作って頷いた。


「うん」


 それで俺は、奥の部屋に引っ張り込まれた。女神に睡眠が必要なものかどうかはわからないが、とにかく彼女にも個室があり、そこにはやはり、樹木で設えたベッドがある。

 横たわる俺を、彼女は後ろからふんわりと抱きしめる。何度も何度も頭を撫で、髪に触れる。優しい吐息を感じて、俺は安らぎを覚えた。

 俺が望めば、彼女のすべてを得ることができる。いや、今だって与えられている。彼女は何一つ物惜しみしない。


 だが、俺は自問自答せずにはいられなかった。

 俺は、彼女の「いい子」でいられただろうか?


 夜が更け、耳が痛くなるほどの静寂が周囲を包む。

 俺はそっと身を起こした。真っ白な彼女の手を静かに寝台の上に置き、足音を殺して部屋を出る。


 自室には、ずっと置き去りにされてきたリュックがある。中身の確認と整理なら、日中に済ませておいた。背負って外に出る。

 時間が遅いためか、今夜は虫達の鳴き声も聞こえなかった。風も吹かない。天の高みから、銀色の月が見下ろすばかりだ。俺は静かに服を脱ぎ、泉の中に身を浸す。さほどの深さはない。すぐ、湖底に眠る青白い光を見つける。

 小さな水音が響く。水面に顔を出し、息を継ぐ。そのまま、岸へと泳ぎつく。手早くタオルで体を拭き、服を身につける。腰のベルトに剣を手挟み、改めてリュックを背負う。


 覚悟はしていた。心に決めていた。

 立ち去りがたいのは、何かを失うからではない。こんなにも与えられて、こんなにも愛されて、なお留まることのできない自分を責めるがゆえだ。考え得る限り、最悪の我儘を選んだ俺を、シーラはなお許してくれるだろうか。許すだろう。だからこそ、心が痛む。


 ここにいれば、俺は安らかな死を手にできる。だが、俺が求めるものは、そんな結末ではない。

 俺はあくまで不死を手にしなければならない。そう思っている……「はず」だ。


 だが、俺に限らず、「人」であるなら、ここに留まってはならない。

 この楽園には、ほとんどあらゆるものがある。それゆえに、何より大事な、たった一つのものがない。

 だからこそ、人は、己を全うするために、そこを去らねばならない。


 ここを出て、俺はやっていけるだろうか。

 歪なことに、人外の世界たるこの場所であればこそ、俺は人でいられた。また、雑音だらけの世界に引き返したら、すぐさま悪魔に戻ってしまうのではないか。

 それでも。どれほどの犠牲を払おうとも、行かなくては。


 俺は最後に、未練がましくこの楽園を見渡した。

 それから、背を向けた。


 どちらに向かっているのか、そんなのは考えていなかった。とにかく歩けばいい。そうすれば、いつか領域の外に出られる。

 森の中に立ち入り、ただただ進む。最初は、落ち葉を踏みしめる音がやけに耳についた。だが、次第に別のことに気を取られるようになった。凸凹のある地面、夜行性の鳥の虚ろな鳴き声、不意の水溜りが、俺の注意を引いた。


 東の空がうっすらと白んでくる頃、俺は人が踏み固めた道に出た。

 森の木々を左右に押し分けたその先に、俺は進んでいく。


 木々の密度が薄くなり、森が途切れて草原が見えた。離れた場所には、人里らしきものも見える。

 そんな道の端に、一本の低木が立っていた。そしてその枝に、一枚の大きな布が引っかかっていた。奇妙な存在感があり、周囲から浮かび上がって見えた。俺は手に取った。

 そこには文字が書かれていた。


『私のただ一人のいとし子

 あなたがこの道を選ぶのは、わかっていました。

 私は、あなたの旅立ちを喜び、心から祝福したいと思います。


 あなたも、おぼろげながら気付いていたはずです。

 私の楽園は、あなたのためにありました。

 それでいながら、ただ一つ、どうしても満たせないものがあったのです。

 それは、人が人であるために、決して欠かせないものでした。

 だから、あなたは正しいものを選び取ったのです。

 誇ってください。


 ただ、これで運命は定まってしまいました。

 ほどなく忌まわしい悪意があなたを見つけるでしょう。

 それは恐るべき戦いを惹き起こし、或いはこの世界を破滅の淵に追いやることになるかもしれません。


 気をつけてお行きなさい。

 この世界には、私の力の及ばない場所がいくつもあります。

 そこでは、加護も限られたものになります。


 けれども、彼方を目指すあなたのために、私は一つの援けとなるものを与えたいと思います。

 荷物を検めなさい。

 小さな銀色のゴブレットが見つかるはずです。

 これがあなたから病を遠ざけ、飢えを和らげますように。

 蓋を失わない限り、授けられた権能が損なわれることはありません。


 私の祝福は、既にあなたにあります。

 願わくは、あなたの祝福が、この世界に与えられますように』


 読み終えると同時に、布は白い光を放って、バラバラになった。細かな羽毛が飛び散り、それも光の粒になって、消えていった。


 俺は、来た道を振り返った。

 それは何の変哲もない、ただのアルディニアの森だった。くすんだ暗い緑色の針葉樹。黄土色の地面。そして薄曇の空。


 幻のような、あの楽園への道は、きっともう、見つけ出すことはできないだろう。あれは女神の招きを受けた者だけが行き着ける場所なのだ。


 心の中に愛着は残る。

 それでも俺は前を向く。


 勢いよく振り返り、俺はあらためて道の先へと踏み出した。

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