至上の幸福という空虚
毎日が夏休み。それは理想の生活だ。
しかも、俺の場合、宿題もない。
だが……
俺は少し、困っていた。
明るい空の下、花園を歩く。今日も目覚めんばかりの美しさだ。夏の強い日差しは、か細い茎を突き抜ける。重い蕾を支えかねて、その茎はたわんでいる。その花々を掻き分けた先に、澄み切った泉が横たわる。
極上のリゾート地に違いない。だが、ここには普通のリゾートにあるものがない。
例えば、それは娯楽だ。舞踏会もなければ、ナイトクラブもない。競馬もなければカード賭博もない。
だが、俺はそもそも、そんな遊びなどしたがらない人間だったはずだ。ピュリスではやむを得ず風俗店の元締めをしていたが、いかがわしい遊びが好きだったわけではない。
ただ、こうして静かな環境に身を置くと、あれらの娯楽は時間を潰すのに、それなりに役立つものだとわかる。前世では忙しくて、気晴らしも暇潰しもしていられなかったが、今、こうして圧倒的な暇の中に立たされると、その値打ちを思い知らされる。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
根本的な部分なのだ。
俺はここでは自由だ。何をしてもいい。武器を振り回すのはシーラが嫌がるが、それくらいしか制限はない。大声で歌うもよし、いっそ作曲に挑んだり、楽器を手作りしたっていい。そうなると木材が必要になるが、樹木を完全に殺すのでなければ、シーラの手を借りればなんとかなるだろうし。
詩や小説を書くのもいいか。これまた、ここには紙がないが、シーラに用意してもらえば。或いは読むのもありだ。俺はここに留まるとしても、彼女にはキュラの羽衣があるのだから、こっそり出かけていって、本を何冊か買い取るくらい、できなくはないだろう。
要するに、暇潰しをしたければ、行動すればいい。だが……
どういうわけか、何か思いつくたび、手が止まる。
作曲したり、楽器を作ったり、演奏したり。やってもいいが、どうにも空しい。練習して上達したって、俺がどこかのステージに立つことはない。
文章も同じだ。素晴らしい詩を書いたところで、それを読ませる相手はいない。出版もされないだろう。よしんばシーラに持ち出させて、うまいこと流通させたとしても、俺は作品の評価を耳にすることはない。当然、名声もついてこない。
同じ理由で、読書もあまり意味がない。これは多少の娯楽にはなり得るものの、そうして得た知識を用いる場所がない。
すべてが満たされているのなら、自分から何かをする必要がない。
それが理由らしい。
だから俺は、少し悩みながら湖の横を歩き回っていた。これでいいのだろうか、と。
「ファルス、どうしたのです?」
木陰から姿を見せたシーラが、そう尋ねる。
「えっ……うーん、どれくらいこうしていればいいのかなって」
「どれ、くらい?」
「その……外には出られないのかな」
思わずそうこぼしてしまった。
すると彼女は真剣な表情になって、言った。
「絶対に出てはいけない、というわけではありませんが……出ないほうがいいでしょう」
「そんなに危ない?」
「すぐにどうということはないですが、できれば、完全に浄化が済むまでは」
「浄化って、何か僕、汚染されてるの?」
とはいえ、心当たりがないでもない。
「前に、呪われているというお話をしましたね」
「もちろん、覚えてるけど」
「そのうち、小さなほうの呪いを解くのに、だいたい三百年」
「さっ!?」
「大きなほうは……見当もつきません。どうすればいいのか」
そんなに!?
「落ち着いてください。今のあなたは、三百年くらいでは死にません。ここにいる以上、尚更です」
「長っ!」
「こればかりは……私の力が小さすぎるのです。恐るべきものの目を欺き、その権能に抗うには、それくらいの時間が必要なのです」
「で、でも、そんなにかかるなんて」
ヒマでヒマで死にそうになったりはしないのか?
その辺、神様ともなると、時間の感覚が違うのかもしれないが。
「心配しなくても、体はちゃんと育ちます。肉体の老化は起きないので、その後も不安はありません」
「そうかもしれないけど、長い……」
と、言いかけて、ふと気付いた。
「うん? ええと、まず、体は育つって?」
「はい、成長は普通の人と同じように進みます。あと何年かすれば、立派な青年の体に育ちますよ」
「で、それはいいんだけど、肉体の老化はしないって……」
「ええ、その、若者の体のままでいられます」
それはいい。大変素晴らしい。
だが、気になったのは、その前の発言だ。
「あと、さっき、今の僕は三百年くらいでは死なないと……」
「それも言いました」
「じゃあ、三千年なら?」
「なんとかなるかもしれません」
「ちょ、ちょっと待って」
どういうことだ。
いや、彼女は別に、俺に不死を与えたとは言っていない。だが……
「じゃ、じゃあ。もしかして、僕は……いつか、死ぬ、の?」
俺の問いに、彼女は顔を伏せた。
「……魂の流れを留めることはできません。生命あるものは、やがて肉体を手放します」
「そんな!」
じゃあ、俺は不死を得てなんかいなかった。
もちろん、それで彼女を責めるなんて、筋違いだ。寿命をここまで延ばしてくれたというだけでも、充分に感謝すべきことなのだから。
「な、なにか」
俺は必死で考える。
「何か、死なずに済む方法は? 不死……いや、怪我や病気で死ぬのは仕方ないとして、せめて寿命で死ぬのを避ける方法は? あるの?」
俺の目的は、それだ。
その答えが、たとえコールドスリープのような味気ないものだったとしても。苦しみに満ちた人生をやり直すくらいなら。
「死が恐ろしいですか」
「誰でもそうでしょう! だけど、それだけじゃない。僕はもう、生まれたくない」
「おお……」
彼女は、顔を覆って嘆いた。
「だからこそ、そこに呪いがつけこむのですよ」
「方法は? なんとかできるのなら」
「私の知る限りでいえば……人ならぬ神になれば」
「なれるの!?」
それなら、神になる。なればいい。
そうだ、聖女リントも、英雄ギシアン・チーレムも。彼らは不死を得たという。では、神になったのか。
俺は彼らが不死を得たと仮定して、その事跡を追うことで、秘密に迫ろうと考えていた。だが、具体的にどうやって不死となったのかについては、実はまったくの謎だった。俺は行き当たりばったりで探すしかなかったのだ。しかし彼女は今、その道筋を示したことになる。
「人やその他の魂を持つものが神と等しくなるには、その世界の支配権を持つ者の承認が必要です」
「そ、そうすれば!?」
俺は目を瞠った。
求めていた不死への手がかりを、やはり彼女は持っていたのだ。こんなに貴重な情報が、他にあるだろうか?
「どうすればそれを? 何でもします」
「いとし子、それはできません」
「どうして!?」
彼女は、悲しげに首を振った。
「いいですか、神になるということは、魂の自由を失うということです」
「それがなんだっていうんですか」
「もはやあなたは受け取る側ではなくなり、定めに従う側になるのですよ」
「人だって、そうじゃないですか!」
思わず声が大きくなってしまった。
だが、入口がすぐそこに見えているのに、どうして先に進ませてくれない? 俺は苛立っていた。
「人に自由があると思っているんですか。生まれてすぐ虐待されて、殺されかけて。奴隷になった。自由民になってからも、あれこれ束縛され続けた。しかも、人間に生まれたからまだいいものの……こんなの、生まれないほうが、ずっとマシじゃないですか!」
「おお……かわいそうに」
胸に手を置き、彼女は苦しげに呻いた。
「ですが、神の不自由とは、人のそれとは比較にならないのですよ。現に、あなたにできて、私にできないことが、いくつもあります」
「どういうことですか」
「あなたは、誰かを傷つけることもできれば、罪を悔い改め、善行に励むこともできます。ですが、私にはできません。それは『神格を揺るがす』行為だからです」
「神格?」
「そうです。私は育むもの。ゆえに、奪い、傷つける権能を持ちません。その使命と権能こそが私の器で、そこから外れる振る舞いは、直ちに運命を喪失する結果を招きます」
一切の誤謬が許されない。そう言っているのか?
だが、俺には大した問題ではない。
「なら、僕は神になった後、永遠に眠り続ける。そうすれば大丈夫でしょう?」
「ファルス、あなたはわかっていないのです」
けれども彼女は、どうしても俺の要求を受け入れようとはしない。
「それに、あなたが望み、私が認めても、結局、ここであなたが神になることはないのです」
「どうして」
「世界の支配権が足りていません。私とキュラの分はあっても、フーニヤの分が。だから、あなたを新たな神にすること自体、今の私には、かなわないのです」
「そんな」
俺は絶望して、その場に膝をつく。
その頭上に、容赦ない言葉が降り注ぐ。
「ですが、もし可能だったとしても、私達はその望みを拒絶しないわけにはいかなかったでしょう」
「なぜ!」
きっと上を向き、立ち上がった俺に、彼女は淡々と言った。
「いとし子」
彼女はもう、ほとんど泣きそうな顔をしていた。
「私には、そんなひどいことはできない」
目元を覆い、声を震わせていた。
だが俺はまず、戸惑った。
ひどい?
「ひどいって、どっちがひどいんですか」
立ち上がりながら、俺は周りを見回した。
「このきれいな花園。おいしい果物。確かにここは素晴らしい場所だと思う。だけど、死ねばおしまいだ」
心の奥底から、ドス黒い何かがせり上がってくる。
「大抵の人生なんて、それはもう、ひどいものだ。朝から晩まで働いて、ほんの少しの給料で、僅かな食事を摂るのが精一杯。なかなか結婚もできず、いざ家庭を持っても、今度は今度で、怒鳴りつける妻や、腹をすかせた子供のために働き続けなきゃいけない。歳をとれば体が言うことをきかなくなって、最後は死ぬ。どんなに頑張っても、山ほど財産を積み上げても、死ぬ!」
そして、人が生まれ、死ぬのはなぜだ?
こんな「世界」があるからだ。
「それだけじゃない! 生きるためには、殺さなきゃいけない。ここを一歩でも外に出たら、そこはもう、殺し合いの世界だ! 鹿が草を食い殺し、その鹿を狼が食い殺し、それを人が狩る。その人間同士も殺し合う!」
世界はこんなにも残酷にできているのに。
……人はなぜ……
「僕だって……今まで、何人殺した? 数え切れない! 殺されそうになって、殺して、また……もう、引き返せない。やり直せない。どうして、どうして僕は、あんなところに生まれてしまったんだ!」
俺の、怒りに満ちた叫びを、彼女はじっと聞いていた。
「こんなひどいことになるまで、どうしてほっといたんだ! 今になって僕だけ拾って助けて、それで済むと思ってるんだ? だけど、僕に巻き込まれた人は」
心の中に、いくつもの顔が思い浮かぶ。
俺の「呪い」に巻き込まれたであろう人々だ。
「ノーラは……ノーラは! 今もピュリスで、僕の帰りを待ってくれている。だけど僕には目的があるから、絶対に譲れない目的があるから、振り切って出てきた。僕は……何一つ、ノーラの期待に応えることなんて、できないのに」
俺に出会い、俺に夢を見て、今も未来を……忘れてくれ、忘れてくれと願うしかできないのに。
「伯爵家の人達だってそうだ。あれだけ目をかけてもらったのに、だけど出てきた。これで終わらせることができるからと。でも、どうなんですか! 僕に、僕に出会わなければ、あんなひどい目には……」
胸の奥で、小さく硬く。心臓がその存在を主張する。
「たくさん殺した! 動物も、人も。能力の実験だといって、虫けらの肉体をいくつも奪った。この手でも、大勢の人に血を流させた」
もう、後戻りなんてできない。
人間のふりなんて、したくない。俺は、俺は。
「どうして僕だけ助けたんだ! リンガ村の人達は? 今でも覚えてる。あの夜に、三人殺した! 三人も! 僕だって、死んで当たり前だったんじゃないか」
足から力が抜けていく。
喉から、命そのものを絞って出したような声が漏れる。
「……今からでも助けることはできないんですか。あの銀の杯で……た、たとえば……アイビィ、とか」
心の中に希望が浮かんだのと、それがしぼんでいくのと、同時だった。声が自然と途切れていく。
尋ねるまでもない。シーラには救えない。
「運命を捻じ曲げられた魂を救うには、私だけでは足りません」
確認しなければよかった。
俺は手を握り締める。
「そうやって、僕が……たくさん傷つけて、たくさん殺して、それからこんな場所に」
シーラは悪くない。どうしようもなかっただけだ。
それはわかっているのに、どうにも我慢ならなかった。
「こんな世界を作って。人の生き死にを司っておいて。必ず死ぬ運命をくっつけておいて。それがひどくないって言うんですか!」
「おお、ファルス、違うのです」
違う? そうかもしれない。
推測の範囲だが、彼女は、いわば難民だ。或いは彼女の到来と同時にこの世界が形成されたにせよ、すべてを直接作ったわけではないらしい。だから、この世界で起きる出来事や、その仕組みに責任を持てといわれても、困ってしまうだろう。この世界のルールが人の死を定めているのなら、それを彼女に覆せというのは、筋違いだ。
だが、彼女は元いた場所でも、死の存在を許容していた。蛇神フーニヤは、人の死を管理していたのだから。
「違わないじゃないですか。人は必ず死ぬ。死の呪いを受けて生まれる。それは毎日毎日、一歩ずつ近付いてくる」
「いいえ、いとし子」
彼女は力なく、その場に膝をついた。
「気付いてください、我がいとし子。それは本来、呪いではなく、祝福なのだと」
「はっ!?」
死ぬことが祝福だと?
「そんなこと、あるわけがない!」
或いは、神の視点ではそうなのかもしれないが。人にとっては、絶望の終着点でしかない。
「お願いです、いとし子」
彼女はか細い声で懇願した。
「よく周りを見てください。ここは、考え得る限りもっとも美しい楽園です。泉の水は澄み切ってはいませんか。流れ行く風は、雲は、清らかではありませんか。咲き乱れる花々は愛らしくはありませんか。このすべてがあなたのものなのですよ」
「それでも死ねば、すべて失う」
「この私も、ファルス、この私自身も、そのすべてがあなたのものです。決して寂しい思いなどさせません。私があなたの母となり、姉妹となり、何れは妻となり、最後は娘となりましょう」
シーラは切々と訴え続ける。
「ここに宝石はありません。ですが、宝石より美しい花々があります。ここに宮殿はありません。ですが、どんな宮殿より美しい庭があります。ここに王侯貴族の食べるご馳走はありません。ですが、最上の豊穣があなたの飢えを満たします。そして地上の富める者達は、どんなに裕福でも、日々煩わされて、身も心もすり減らして過ごします。それなのにあなたには、生涯の安楽が約束されているのです。これ以上、何を求めることがあるのでしょう」
彼女の主張には、一定の道理がある。
富者は、その財産でもって、いろいろな欲求を解決する。
まず、広くて立派な家だ。それを様々な宝物で飾り立てる。ここには豪邸こそないものの、どこの貴族でも羨むほどの最高の庭園がある。
富は、美食を与えてくれる。ここには肉も魚もないが、最高の果物と神の飲料がある。
素晴らしい衣服は? 確かにこれは、俺には得られないものだ。しかし、そもそも立派な服など必要ない。ここは暑くもなく、寒くもない。何より、外見を飾って富を誇示する必要もない。
また富者は、美女達を侍らせる。だが、俺に必要だろうか? よく考えてみればわかる。金銭で掻き集められた女達の目には、黄金の輝きしか見えていない。主人と口付けする間にも、彼女らの頭の中には別のことが浮かんでいる。そんな醜い女どもが、年月を重ねるともっと醜くなる。心の形を体が真似るのだ。
一方、俺にはシーラしかいない。だが、彼女は俺に金貨など求めない。愛情がどこかに逸れていくこともない。俺のために、常に俺一人のために、すべてを差し出してくれる。もちろん、外見だけ切り取ってみても、人間の女達など背伸びしても追いつけない。豚同然の娼婦どもを並べるより、ずっといいではないか。
時に富者は、大勢の従者を連れ歩く。だがこれだって、要は彼らの隣にできてしまった、余計な空白を埋めるだけの存在だ。俺には必要ない。空を舞う鳥達、地を這う鹿や兎、虫達まで、みんな俺に懐いてくれる。下僕はいなくても、友には困らない。
富はまた、安心を生み出す。もし病気になっても、彼らは薬を買えるし、医者も呼べる。これまた俺には必要ない。ここで病気になるなんてあり得ないし、何かあってもシーラが助けてくれる。人間の医者が見放した病でも、彼女は神の権能によって追い払うことができる。
更に財産は、彼らに余暇を与える。働いて、働いて、溜まった金で、彼らは時間を買う。だが、これこそ無意味というものだ。今の俺にとっては、あらゆる時間が自由なのだ。しかも、俺の寿命は彼らよりずっと長い。若々しいままに、長い時を生きられる。
これだけの恩恵なのだ。
文句をつけるほうが間違っている。
「……いつか、あなたを見送る日まで、私は決してあなたを見放しません。あなたの胸に一片の悲しみも残らないように。私のすべてであなたを購いましょう。それでも足りないのでしょうか」
足りない、と誰が言える?
人一人が、自分のすべてで誰かを購う時、それは釣り合いが取れているといえる。そこには、年齢も性別も身分も、能力すら関係ない。
たとえば、忠臣の命懸けの献身を知った王が、彼に敬意を払わないなんて、あり得るだろうか? そんな恥知らずは暗君でしかない。まともな人物であれば、同じく己のすべてをもってして報いたいと願うものだ。
ましてや彼女は女神だ。人がどれほど望んでも、本来なら決して手の届かない存在。
過分だ。
わかっている。
わかっているのに。
「あなたが正しい、です」
俺は力なく、そう言うしかなかった。
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