忘れ去られたウルンカの物語

 駆ける、駆ける。足元の緑がどんどん流れていく。

 両手で角に掴まる。銀色の毛並みに覆われた温かな背中に、またがるというより、むしろうつ伏せになって、俺は運ばれていく。


 少し遠くにお出かけだ。といっても、大した名所があるのでもない。きれいな水の流れる小川があるというから、見に行くことにしたのだ。この楽園は美しいし、居心地もいいのだが、娯楽や話題に事欠く点が泣き所だ。

 で、せっかく遠くに行くのだし、ただ歩いていっても時間もかかるし、ということで、シーラは獣の姿をとった。大きな銀色の、鹿とも山羊とも牛ともつかない外見だ。それらを全部足して割ったような感じと言えばいいのか。鹿というには大きいし、角は山羊に一番近いが、牛というには少し身軽で、一回り小さい感じもする。

 女神を自分の乗り物にする人間。そんなの俺くらいではないか、と思ったのだが、案外いたらしい。というか、シーラは基本的に「近所のお姉さん」だったので、子供達にせがまれて、よく背中に乗せてあげていたのだとか。


 しかし、ちょっとだけ彼女が羨ましい。なぜなら、変身を繰り返しても服が脱げたりしないからだ。

 いったいどんな能力で、それが実現できているのだろう? 女神に対して不遜だとは思ったが、少しだけ、覗き見させてもらった。

 だが……


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 シウ・イーァラ  (--)


・ディバインコア

・ディバインパーシャルコア

・ディーティ:グレイル

・ディーティ:レイメント

・トゥルーアストラル

・インカーネーション


 空き(--)

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 ピアシング・ハンドは、これまで見たことのない、異様な結果を表示した。

 なるほど、女神に年齢なんてないのだろう。だから魂の加齢も計算されないし、能力の空き枠も関係ない。そこはいい。

 だが、並べられた能力の数々が、どれもこれも意味不明だ。ランクもレベルもない。習得した技術を示すスキルや、特殊能力を示すであろうアビリティもない。肉体となるマテリアルやフォームまで見当たらないときた。

 まぁ、別に、彼女から何かを奪う必要なんてないし、そのつもりもないから、これ以上追究する必要もないだろう。第一、ピアシング・ハンドではこう見えています、とシーラに言ったところで、彼女自身、それが自分のどの部分を示すか、わからない可能性すらある。


 そんな俺の頭の中などお構いなく、彼女は力強く地面を蹴って、大地を駆け抜けていく。


 今日も青空にうっすら白い雲がかかる快晴だ。しかし、季節としてはもう真夏のはずなのに、暑すぎるということがない。本当に、ここの楽園はどうなっているんだろうか?


 シーラが足を止める。丈の低い、ほとんど芝同然の草地の上で、俺はそっと地面に降り立った。

 何もかもが柔らかな花園とは違い、ここの地面は固い。この辺りは、シーラの加護の内側といっても、ほとんど普通の土地と見分けがつかない。気候だけは同じように快適だったが、あの場所特有の生命感というか、ふんわりした花びらにくるまれているような感じがない。多分、ちょっと歩いて先に進めば、もう外側に出てしまう。


 目の前には、黒々とした小川が流れていた。本当に、これだけ。水は清く澄み渡っており、その向こう側には自然のままの原野が広がっている。楽園の真ん中みたいに、不自然なくらいにお花でいっぱい、なんてことはない。草叢の中にポツポツと小さな花が咲いている。それはそれで可憐だし、悪くはないのだが。


「どう?」

「うん」


 どう、と言われても。

 いつの間にか人の姿に戻っていたシーラが、感想を求めてきた。


「少しは似てるかなと思ったのよ」


 似ている、何に……あっ。


「僕は、あの沢しか見てなくて、その……」


 あの沢の下流にあったであろう川から、俺は外に出た。

 そもそもシーラは人間ではない。しかも、どうやら善意ばかりしか見えていないところがある。恐ろしく、忌まわしいものについての想像力が欠如している。

 リンガ村という単語から、俺がまず思い出すのは、あの夜の惨劇なのだが、彼女からすれば、ファルスの故郷という認識だったのだろう。


「そうだったのね」


 いらない記憶を呼び覚ますだけだったのでは、と彼女は少し眉を寄せる。


「僕の中では、整理できていることだし、もう、それは」

「そう」


 彼女は、川べりに腰を下ろした。俺もそうする。

 そんなに深い川ではない。本当に小さな川だ。


 そのまま、しばらく何もせず、のんびりと川と野原を眺める。無駄でも無意味でもない。景色の中には感情がある。それをじっくりと心に刻み込む。

 どんな観光旅行だって、それが目的なのだ。ただ現地に行って、せかせかとお土産を買い漁り、名所で写真だけ撮って移動し、名物といわれるものを水と一緒に流し込む。そんなの、何の意味もない。足を止め、じっと感じ取る。

 突き詰めれば、生きるということそのものだって、普通はそれが目的ではないか。


 だから、こんな風に過ごすのも、今の俺にとってはまったく苦痛ではない。だが、シーラは少し、俺に気を遣った。


「ごめんね……私には懐かしい感じがしたから。あの子達は、こうやってきれいに跳ねる小川の水が大好きだったの」

「あの子達?」

「ずっと昔の……あなたの村にいた人達のこと」


 ぽつりと語りだしたのは、昔話だった。但し、彼女が語るというところに意味がある。人が創作した物語ではない。変な脚色も混じらない。すべてを見てきたであろう女神の実録なのだ。


「リンガ村のこと?」

「そうだけど、その呼び方は、本当は変なのよ」

「変? どこが?」


 すると彼女は、視線を目の前の小川に移した。


「私達がもといた場所ではね、ただの『水』という言葉がなかったの」

「えっ?」

「ああ、水はあったけど、ただ水を水とは呼ばなくて。池や湖の中に溜まっている水、空から降り注ぐ雨水、温かい水、冷たい水……」


 少し意味が飲み込めてきた。

 大昔のリンガ村の人々は、フォレス語とは違う言語を話していたらしい。そして、その言語においては、ただ水を『水』と呼ぶ単語がなかった。その代わり、いろいろな水の状態を示す語彙が多数あったのだ。

 言語は、その対象についての関心の度合いに応じて、単語を創出する。例えば、日本語で馬は『馬』だけだが、英語では一般的な呼び名としてのホースもあれば、特に雌馬を意味するメアもある。一方、日本語では『水』と『お湯』は別の言葉として区別されているが、クメール語には、そもそも湯を意味する単語がない。

 かつての彼らには『水』など存在しなかった。『雨水』『洪水』『泥水』ならあったのだろう。


「こうやって楽しげに跳ねる水のことを『ルン』というのよ」

「へぇ」

「それでね、足を止めることを『グェ』というの。その、こう、歩くじゃない? それで、景色のきれいなところを見ると、気持ちが動くでしょ? そういう気に入った場所で足を止めるから、人が住む場所のことも『グェ』というの」


 清らかに流れ、小石に当たって楽しげに跳ねる水のことを『ルン』、止めること、止まることの概念を意味するのが『グェ』。二つあわせて、ルン・グェ。清い水ゆえに人が留まるところ、といった意味か。日本語風に『清水村』と言い換えてもいいかもしれない。

 なるほど、リンガ村では、清水村村ってことになるから、おかしいわけだ。


「ほら」


 彼女は真っ白な足を、黒い川の中に浸して、バシャバシャやりだした。


「これが『ルン』ってこと」


 子供みたいな顔をして、彼女はそう説明してくれた。


「じゃあ、リンガ村っていうのは、ルン・グェが訛ったものってこと?」

「もともとはそうだったけど、本当はそれも少し違うの」

「えっ、どうして?」

「……元の名前をもじって、女神の使徒が名前を変えたから、こうなったのよ」


 女神の使徒。この世界では、変な表現だ。

 あのこっ恥ずかしい名前の英雄のことだ。そいつが、ルン・グェをリンガ村に変えた?


「じゃあ、みんな違う名前だった? あの辺の……キガ村とか、シュガ村とか、ヌガ村とか、フガ村とか」


 言われてみれば、どれもダジャレみたいな名前だ。飢餓、シュガー……つまり砂糖。ヌガ村なんて、名産品のお菓子が、まるでヌガーじゃないか。


「もちろんそうよ。ちゃんと意味のある名前だったの」


 彼女は、川べりに落ちている小石を拾って、それを並べる。


「ここがルン・グェで、ここから南にいくと、キウ・グェ」

「キガ村?」

「そう。もともとは『キウ』……芽生えること、つまり『新芽』とか、『卵から雛鳥が孵ること』とか、そういう意味」


 気付けば俺は、興味でいっぱいになっていた。

 こんな事実、他の誰が知っているというのだろう。


「じゃあ、シュガ村は?」


 すると彼女は柔らかく微笑んで、また小石を置いた。地図に見立てた地面の上で、村のあるだろう場所に。


「これはシウ・グェ。『シウ』は、『キウ』の次、育つことをいうの。芽生えたばかりじゃなくて、そこから水と光をたっぷり浴びて、勢いよく育つこと」

「じゃあ、もともと豊かな草原だった?」

「そうよ」


 今は、鄙びた寒村といった風情なのに。何がどう違ってああなってしまったんだろう。


「もともと、それは私の名前でもあるの」

「えっ? シーラが?」

「育つことを意味する『シウ』、女神を意味する『イーァラ』、これをあわせて呼ぶうちにシーラってね」

「……神様の名前をそんな風に省略するってなんか」

「ふふっ、そんなの、誰も気にしないから」


 ピアシング・ハンドの表示は、彼女の本名を示していたわけだ。これで一つ、疑問が消えた。

 ということは。


「じゃあ、前に言ってたキュラってのも」

「そう。キウ・イーァラがキュラになったの。キュラは芽生えるものを守る女神、魂を呼ばうものだから」


 なんてことだ。ちゃんと意味の繋がりがある。

 しかも、これはこの世界のどこにもないであろう知識だ。だが、そのキュラとは何者だ?


「お会いすることはできるの、かな」


 シーラはフレンドリーだが、他の神様がそうとは限らないので、おずおずと尋ねてみた。


「できないわ」

「そう、ですか」

「もう、いないの」


 てっきり神様だからと拒否されるのかと思いきや、存在しないと言われた。


「な、なぜ?」

「滅んだから」


 神が、滅んだ?

 驚く俺に、彼女は当たり前というように言った。


「神々といっても、決して不滅ではないのよ。というより、神は……『初めから死んでいる』ようなものだから」

「えっ?」


 戸惑う俺に、彼女はそっと首を横に振った。


 認識が追いつかない。神が不滅ではない? そして、初めから死んでいるって、何事だ?

 しかし、彼女は知識の取得に制限をかけた。物惜しみもせず、悪意もない彼女の判断だから、つまりはそれを知ることが不利益を招くということなのだ。


「えっと、あの」

「うん」

「じゃあ、他の村にも、ちゃんと意味が? ヌガ村は?」

「ああ」


 俺の質問に、彼女は笑みを漏らした。


「ふふっ、ヌガ村はね……もともと、疲れること、くたびれることを『ヌー』と言ったのよ」

「疲れた?」

「そう。どこかいいところを見つけるぞ! ってね。出かけていったけど、なかなか気に入った場所がなくって。それで歩き疲れて足を止めたから、ヌー・グェなの。疲れた! もう歩きたくない! 何にもなかったよ! って言われたわ」


 往時の人々の顔を思い浮かべてか、彼女の笑みは殊更に楽しげだった。


「じゃあ、フガ村は?」

「それはね」


 声のトーンが一段下がった。


「この地に『ウルンカ』として降り立った後、最初に私の子供達が亡くなった場所。『フーン』というのは、人生の最後に吐き出す長い息のこと。世を去り、魂が離れていくことを、そういうの」


 不吉な意味の言葉だった。人の死に立ち止まったのだ。亡き人の思い出をとどめるために、そこに居着いたのか。


「三柱の最後の女神が、フーニヤなの。つまり、フーン・イーァラね。死を司る蛇神。人が生まれて、育って、そうしたら精一杯生きて。年老いたら、またフーニヤの導きで……蛇が皮を脱ぎ捨てるように、人も肉体を脱ぎ捨てて、あるべきところに還るの」

「こちらは……」

「もちろん、会えないわ。滅ぼされたから」


 死神が死ぬのか。皮肉にしても、利き過ぎている。

 しかし、滅ぼされた? では、誰かに殺された?


「昔々、ずっと昔……私達は遠い遠いどこかにいたの」


 遥か彼方を眺めつつ、彼女は言った。


「そこは静かで、穏やかで、平和な場所で。みんな、望まれて生まれ、愛されて育ち、力の限り生きて、安らかに眠る……そういう世界だった」

「それは……ここではない?」

「ええ、遠い遠い、こことは違う場所」


 異世界、なのか?

 俺が前世の地球からやってきたように。彼女もまた、人々を引き連れてここに降り立ったのか?


「でも、願いが強くなりすぎた。もっともっと手を伸ばしたい。彷徨える魂を抱きしめたい。それが『扉』を開いてしまった」

「扉?」

「恐るべきものがやってきたの。それはまず、フーニヤを手にかけた」

「神を、そんなに簡単に?」


 すると、シーラは首を振った。


「その『世界』の中で、支配権を持つ神を滅ぼすことは、誰にもできない。どれほど力があっても、神の主権を脅かすことはできないの。だけどフーニヤは、世を去った魂と、現世に留まる魂とを結びつけるものだったから、その権能ゆえに、『世界の外』で、悪意に出会ってしまった」


 よくわからない。だが、要するに縄張りの外で怖い奴に出会ってしまったから、なす術もなくやられてしまったということか。


「一度開いた傷口は、もう塞げなくなったわ。次から次へと悪意が雪崩れ込んできて……破滅を悟ったキュラが、私に羽衣の権能と生き残った魂を託して、新たに現れた恐るべきものの毒牙にかかった」

「世界が、滅んだ?」

「そうよ」


 では、シーラはいわば、滅んだ世界からの難民なのだ。


「私は、羽衣に守られた中で、人々や動物、草花の魂を抱えもって彷徨った。それがある時、新たな『扉』が開いたのを知って、雨のように降り立ったの。だから『ウルンカ』というのよ」

「その『ウルンカ』というのは」

「雨、優しく降り注ぐ雨のことを『ウルン』、だから、雨のように降り注いだ者達、ということ。私の子供達は、そう名乗ったし、土地にもそう名付けたの」


 それがリンガ村、そしてあの近辺の過去なのか。しかし、当然ながらそんな歴史は、どこにも記録されてはいない。


「新たに拓かれた大地を見渡して、流れる大きな川に、私は祝福をおいたの。だから、そこは豊穣に満たされた」


 この辺は、少しわかる。リンガ村の古い伝承だ。白銀の女神の祝福があるうちは、その地は常に豊作で、食べるものに困ることはなかった。ティンティナブリア全土がそうだったのだ。

 それにしても「新たに拓かれた大地」か。では、彼らウルンカの到来以前には、ティンティナブリア盆地自体が存在しなかったのか? いや、もしかすると、彼らの降臨が、天地開闢、世界創造と同じタイミングだったという可能性もある。


「そのうち、南の方からはレハヤンナ達が、北からは少しだけロゥワン達がやってきた。それは私の子供達ではなかったけれど、すぐ仲良く一緒に暮らすようになった」

「レハ……?」

「彼らは自分ではそう名乗ったけど、後から来たレハヤンナには、フィオレッチャと呼ばれていたわ」


 なんだ、それ。

 やっぱりわからない。その人々は、どこの誰なんだろうか。


「あとはもう簡単。共に生きるうちに、結婚もして、子供も残して。私の子供達は彼らと交じり合っていった。だから、私の子供として生まれてくる人は、ぐっと少なくなった」


 よくわからないけど、わかった。

 現在のフォレス人との混血が進んだのだ。そして、元の世界の言葉も忘れ、ひたすら同化していった。


「じゃあ、その」

「うん、なぁに?」

「みんな、シーラを忘れて……?」

「ううん」


 少し寂しげだが、それでも彼女は微笑んでいた。


「ファルス、世界はね、『願い』なの」

「願い?」

「そう。神は神だけで神なのではなく、そのすべてが血肉なの。そこに転がる石も、砂も、流れていく風や空気も、何もかも。そして、魂の願いを包むものが人の肉体なのよ」


 目を見開く俺に、彼女は語った。


「だから私は願いを支えて、見送るだけ。器がなくなり、求めるものもいなくなれば、私もいなくなる。それでいいのよ。そしてファルス、あなたはウルンカの子らの体を借りて生まれてきたけど、それだけではないの。あなたの願いがこの世界を選ばなければ、この世界のこの場所を選ばなければ、私の、ウルンカの子としては、生まれてこなかった」


 では、俺がもし、あの村の裏手の沢に立ち寄らなくても。

 やはり俺は、彼女とどこかで結ばれていたのだろうか。


 彼女は立ち上がり、後ろにまわって、そっと俺を抱きしめた。


「私はあなたのためにある。あなたの魂が、つつがなく旅を続けられるように」


 旅、といっても。

 俺はこの楽園に缶詰状態だ。ここで俺の旅は終わるのではないか?


「ファルス」


 彼女は、どこか懇願するような声で呟いた。


「どうか、あなたの願いを見失わないで」

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