女神の警告

 東の峰々が黒く染まる。その輪郭が、まるで熱された鉄のように燃えている。頭上に広がる藍色の空、そこに浮かぶ鱗雲が、下っ腹に橙色の光を纏わせる。夜の名残を連れ去る微風の冷たく、心地よいこと。花々はその顔を優しく揺らす。

 そんな中、俺は澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込み、手にした剣で空を切り裂いた。緊張感を持たねばならない。意識するべきは、常に実戦。


 ……二ヶ月前に手にした身体操作魔術の秘伝書は、俺の力を増す上で、大いに役立った。こちらも精神操作魔術に負けず劣らず、多くの実用的な技術を含んでいた。


 瞬間的に敵の行動を妨害する『行動阻害』も便利だったが、じわじわと相手の能力を削る『弱体化』も効果的だ。劇的な効果こそないものの、相手に気付かれにくいという長所もある。いつの間にか普段通りの動きができなくなるのだから、敵は知らず知らずのうちに隙をさらけ出すだろう。

 既に『活力』の術は知っていたが、『苦痛軽減』の術もまた、戦いでは大いに役立つ。人は苦痛や疲労感によって、あっさり思考力を奪われる。それを予防する上で、非常に有用だ。


 俺は、あの魔法薬で身体能力を急激に高めていたが、実はあれは、一度に複数の魔法を強引に行使する代物だった。『活力』『苦痛軽減』『鋭敏感覚』『怪力』『俊敏』『柔軟』……一度にこれだけの効果を引き出すのだから、確かに反動も大きくなるわけだ。特に目立った効果が出ていたのが『怪力』『俊敏』だったが、よくよく思い出すと、視界はやたらとクリアだったし、痛みや疲れもあまり感じなかった。

 さすがに、こんな乱暴な術の行使は、あまり健康的とはいえない。特に『怪力』の効果を最大限高めるために、あの魔法薬には相当無茶な術式が組み込まれていたらしい。もともと身体強化の魔術は、もう少し地味な代物なのだ。


 だから今は、これらの魔術を、自分の肉体と呪文だけで行使している。それでも、自分の体内に高ランクの触媒があるおかげで、ある程度の効果なら発揮できる。それをいかに剣術と組み合わせて戦うか。相手が格下であれば力押しで倒せるが、本当の強敵を前にした場合に同じことをすると、あっという間に足元をすくわれる。

 俺は、頭の中でイメージを作り上げる。そこには誰もいないが、想像する。白い陣羽織を着た、一流の剣士。水魔術で俺の体内の触媒を洗い流してくる。薬を用いない今の俺の身体強化に、以前の対策が有効かどうかは、まだわからない。なら、有効かもしれないと思っておくことだ。

 現状で彼に勝てるかどうか。最後の切り札を使わず、手にした能力だけで立ち向かう場合だ。


 なお、秘伝書には、更にもう一段階上、つまり上級魔術とされるものまでのすべてが記載されていた。

 部分的な麻痺をもたらす魔術だ。『目潰し』『耳塞ぎ』『口封じ』『四肢麻痺』といった具合だ。対象は、いきなり視界を奪われたり、片腕が動かなくなったりする。部位ごとに異なる術になっているのが面倒だ。全部まとめて痺れさせることができればいいのだが、きっとそれは、もっと上位の魔術になるのだろう。

 これの便利なところは、比較的近くにいる相手に直接用いる以外に、離れた対象に向けて、投げつけることもできる点だ。その場合、呪いの力の篭った矢玉が出現し、それが一直線に飛んでいく。といっても物理的なものではないので、盾で防いだりといったことはできないし、通常は目にも見えない。奇襲には最適だ。もっとも、『火球』みたいに周囲を巻き込む威力はないし、何か一定以上のサイズの生命体に命中すると、それがたとえ樹木や昆虫であっても、そちらに効果が発揮されてしまうので、使いどころを考えなくてはいけない。

 使い方ばかり考えてしまうが、相手が同じことをできる場合、その脅威がどれほどかも認識しておく必要がある。もしこの魔法の使い手が敵にいた場合、いきなり致命的な結果に繋がる。何しろ、目では見えないし、音も、呪文の詠唱以外にはない。俺自身は精神操作魔術に対して耐性を示したから、或いはこうした魔法にも強いのかもしれないが、仮に仲間がいたりした場合にはどうなるか。

 あらゆる状況を考慮に入れる。戦いに備えるとは、そういうことだ。


 そしてもちろん、剣術の修練を怠ってもいけない。

 これは魔術ほど手間がかからず、制約なしに行使でき、秘密にする必要も薄い、ありふれた技術。それでありながら、確かな決定力を持つ戦力だ。


 半身になり、踏み込むと同時に強打を繰り出す。瞬時に身を翻し、反対方向から鋭く突き上げる。

 型をなぞるだけでは意味がない。最初の剣を受け止める敵の姿をよく思い浮かべる。倒しきれるなら、一度目の攻撃でしとめるつもりで。この一撃にどれだけの重さが乗っているのか、敵はどういう姿勢で、どんな風に力を込めるのか。俺は敵より素早く動けているか。


 汗の滴が、足元の草の上に落ちる。

 見なくてもわかるくらい、神経を張り巡らせる。いつもこうでなくては。一流の戦士は、みんなそうしている。


 鍛錬と試行錯誤を繰り返す。

 そんな俺の後ろに、近付いてくる影があった。


「あ、おはよう」


 だが、シーラの顔色は優れなかった。


「……どうした、の?」

「いとし子」


 俺を名前でなく、こう呼ぶ時は、何か真面目な話をする場合だ。俺は手を止めて、向き直った。


「それは、何をしているのですか」

「何って、鍛錬を。体を鍛えて、技を磨いて……」

「体を育むことが目的であれば、野山を走るのでも、湖を泳ぐのでもいいでしょう。剣を手にする必要がありますか」


 そうだった。

 彼女は殺戮を嫌う。剣はそのための道具だ。


「敵意のない誰かを、一方的に殺すつもりはないですが」


 俺も自然と言葉遣いが丁寧になる。


「ここに敵はいないのですよ?」

「もし、やってきたら」

「ここにいる限り、それはあり得ません」


 そうだろうか? だが、シーラには、なるほど、神としての力があるからいいが、俺はただの人間でしかないのだ。万が一があったらと思うと、そんな風に片付けていいものかと思うのだが。


「誰かが迷い込んできたりとか」

「その心配もありません」

「森ごと火事になったりすれば」

「その火がここを焼くことはありません。あなたが自分でここに火をつけなければ。もしそうしても、あなたがここを焼き尽くそうと願っているのでない限り、すぐ雨が降り注ぎ、火を消してしまいます」

「でも、本当に何か、物凄く怖い何かが来るってことは」

「たとえ龍神や魔王が私達を見つけようとしても、ここに近寄ること自体、叶わないでしょう」


 それはすごい。そんなに大きな力がある?

 だが、ではどうしてあの時……


「言いたいことはわかります。どうして、もともと人間でしかない『使徒』を恐れたのかですね」

「はい」

「キュラの羽衣は、内なる敵意によって力を失うからです」

「はい?」


 すると、彼女は頭上を見上げた。


「この空は、そのままのものではありません。この地上も、空も、すべて『ある権能』によって覆われ、守られています」

「それが、羽衣?」

「ええ。三柱のうちの……『生じさせるもの』、鳥神キュラの羽衣です」


 鳥神? 初めて聞く。

 この世界には、女神と龍神しかいないはず。あとは、多種多様な魔王がいたが……キュラなんて、まったく記憶にない。


「親鳥が愛する雛鳥を、その翼で庇うように……この羽衣は、内にいる魂を守ります。敵意を持つものは、その内側に気付くことさえできません。ですが」

「なんでも防げるわけではない?」

「この力は、あくまで守るため、救うためにあるのです。もし、内にいる者が誰かを害そうと欲すれば、たちどころにすべての力が失われます」


 敵に見つからない能力なんて最強じゃないか、と思ったが、そう都合よくはないらしい。

 この説明からすると、羽衣の力を用いる者は、攻撃しようと思ってはいけないらしい。例えば狩人がこの力を使うとして。ただ野山を歩き回っている限り、決して狼に狙われることはない。だが、そこでおいしそうな鹿を見つけたとする。弓を構え、矢を番えた瞬間、羽衣の力は失われ、鹿は驚いて逃げ出してしまう。


「……あの時、傷ついたあなたを救うために私自身が駆けつければどうなったか。あなたは敵を意識しています。ゆえに即座に羽衣の力は失われ、私自身も見つけられてしまいます。そうなったら、『使徒』は私を滅ぼしていたことでしょう」

「だからノーラを? でも、ただの人間が『使徒』に狙われたら」

「それはしないとわかっていました。なぜなら、彼らにはあなたを殺すつもりがなかったからです」

「えっ?」


 どういうことだ?

 では、グルービーだけでなく、その背後にいたであろう何者かも、俺に対する殺意を持っていなかった?


 いや。

 むしろグルービーこそ、俺を殺そうとしていた。だが、彼と俺との対決を後押ししたであろう『使徒』は、俺の殺害など望んでいなかった。

 それはそうだ。本気で殺すつもりなら、自分でやればいい。女神さえ殺せるほどの強者なら、俺だって殺せるだろう。ましてや俺は、追い詰められていたのだから。だが、それをしようとはしなかった。


 なぜ?


「疑問なのは理解できます。ですが、それは脇に置いて下さい」

「あ、いや。だって、そんな大事なことを」

「彼らは悪意を増幅しようとしているのです。限りなく話を簡単にすれば、そこに行き着きます」

「は、はい」


 彼女にしては珍しく、断固たる口調だった。


「あなたが生まれもっている、不思議な力のことも知っています」

「えっ、ええ」

「それも、用いるのはおやめなさい」

「もちろん、ここでは使いませんが」

「いけません」


 思わず身をすくめてしまった。

 口調は穏やかだが、その声には珍しく真剣なものが込められている。


「確認したいのですが、その力を初めて用いた時、何か感じませんでしたか」

「初めて? ええと」

「初めてでなくても。使い始めて間もない時期を思い出してみてください」


 初回となると、リンガ村で殺されそうになった時のことだ。だが、あの時は無我夢中で、あまり何も考えていなかった。

 その次となると、今度は収容所だ。能力の枠が空くのを待って、俺は虫けらを消し飛ばした。何度も何度も繰り返した気がする。そうだ、その頃には感じていた。


「何か、こう」

「ええ」

「足元がなくなるような? 本当にどこかに落ちるわけではないけど、何か物凄く胸が締め付けられるというか、気持ち悪いというか、怖いというか……」

「やはりそうでしたか」


 表情を曇らせ、彼女は俯いた。


「今はどうですか」

「あまり……慣れたのかも」

「そう、慣れただけです。ですが、それ自体が恐ろしいことなのですよ」

「なぜですか」

「これも説明が必要でしょうか。時と運命を歪める……人の身を遥かに超えた力を使い続けて、何の危険も代償もないと信じられるのですか」


 言われてみれば。

 だいたい、他人の肉体や経験をごっそり奪い取るような力だ。こんなものが、健全な何かであるはずがない。


「で、では。どうなるんですか、これは」

「……はっきりとは、わかりません」

「えっ?」

「ですが、いずれ恐ろしい結果に繋がるのは間違いありません。だから、控えなさい」


 そう言われてしまうと、不安にもなるし、反発したくもなる。これがなければ、俺は死んでいたのだ。

 とはいえ、ここでシーラに保護されている限り、使う必要がないのも事実だ。


 俺が難しい顔をしていると、彼女は静かに歩み寄ってきた。そして、俺を抱きしめる。


「怖がらせてしまいましたね。でも、大丈夫。ここにいる限り、あなたが脅かされることはありません」


 これは、どう考えたらいいのだろうか。

 彼女は、何かを知っている。それは、俺に対して何らかの悪意を抱く存在だ。しかし、彼女には詳しく語るつもりがない。知れば俺が敵意を抱く。そうなれば、この羽衣の加護も失われる。結果、俺はもちろん、シーラ自身も危険に直面する。だから説明を避けているのだ。

 ここ『招神異境』にいる限り、俺は困らない。老化しないらしいし、敵に遭遇することもない。食べ物にも事欠かないし、気候は常に快適だ。少々狭苦しい気がしないでもないが、この周囲の野原はすべて彼女の加護の内側だ。

 であれば、問題ないのかもしれない。


「いとし子、一つお願いがあります」

「なんですか」

「その剣を貸してください」


 俺が黙って剣を差し出すと、彼女はそれを鞘に納め、湖に近付いていく。そして、不意に抛ると、鏡のような水面が弾け、剣は湖底へと沈んでいった。


「あっ」

「心配はいりません。この湖が、剣を損ねることはありません。錆一つ、つかないでしょう」

「で、でも」

「ここにいる限り、あれは必要のないものです」


 やがて湖面は元通り、波一つなく、朝の光を照り返す。

 そこには、いつも通りの楽園の姿が映し出されていた。

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