楽園の日々
自然と目が覚めた。
疲れも気だるさもまるでない。今すぐ雪山に挑めと言われても、余裕でやれそうなくらいだ。さっきまできれいに熟睡していたのに、目が覚めるやいなや、元気いっぱいだ。こんな心地よさは、いつぶりだろう?
さすがに長い時間、横になっていたのもあり、体のあちこちが強張ってはいる。だが、それを伸ばすのもまた、気持ちいいものだ。
周囲を見回す。
古びた木々を材料に、この小屋はできている。はっきりいって廃材同然、散々風雨に曝された後のものだ。それを何とか形にしました、といった程度の代物なのだ。当然、ガラスの窓なんて気の利いたものはない。
ただ、ここは気候がやけに快適で、窓を開けっぱなしにして寝ても、暑くも寒くもない。涼しいか温かいかしかないのだ。それに、これだけ森や原っぱ、水場が近いのに、虫一匹入ってこない。いや、正確には、害虫がいない。蚊やハエ、ダニやノミ、シラミはいないが、蝶ならよく遊びにくる。今も窓辺で翼をゆっくり広げたり、畳んだりしている。
俺はベッドから起き上がる。というか、これをベッドと呼んでいいのだろうか?
地面から生えた木が斜めに捻じくれて、ちょうど人が横になるのにちょうどいい長さだけ、余計な枝も葉っぱもつけずに真横に伸びて、それがまた、家の外で幹をまっすぐにして、枝葉を伸ばしている。つまり、これは死んだ木材で作られたベッドではなく、生きている樹木が、わざわざ揺り籠の役目を引き受けてくれているのだ。
パタパタ、と軽い音がしたかと思うと、窓辺に小鳥が降り立った。そして、耳に心地よい声で鳴く。
そこにいた蝶達は、既に窓枠の近くに退避して、風圧を避けている。それだけだ。鳥と蝶の間には、何らの暴力も発生し得ない。
「おはよう」
話しかけると、鳥も蝶も返事をする。鳥は短く鳴いて翼を震わせ、蝶もその羽を広げ、お辞儀でもするかのように身を伏せる。
樹木のベッドから降り、靴を突っかけて、目の前の扉を押し開ける。
右の扉を開ければ、すぐ外だ。
みずみずしい空気が満ちていた。早朝にしか味わえない、あのしっとりした夜の名残のような。
花が一斉にこちらを向いて、挨拶してくれたような気がした。今朝はどんな香りがするんだろう? けれども、わざわざ近寄って花の匂いを確かめるまでもなかった。望むと同時に優しい微風が、湖の表面に小さな漣を立たせる。ああ、そうだ、これが花の香り。風に揺れる花々が、話に興じてはしゃぐ少女達のようだった。
「おはよう」
後ろから、この上なく気持ちを落ち着かせる声が届く。
人の言葉で話すのは、俺以外には、ここでは彼女しかいない。
「もう起きたのね」
「……うん」
この楽園に来て、一週間。
すっかり馴染んでしまった。そして二年前に使っていた子供らしい言葉遣いをまたも要求されている。
……要するに、こういうことだ。
聖杯を満たす白い液体を飲み干した瞬間、俺はこれまで感じたことがないほどの快感と充実感に満たされた。
自分の肉体が、何か別物になったような。途方もない力を得たような気がしたのだ。
シーラは「老いを知ることはない」と言ったのだから、俺は不老を得たのかもしれない。不死ではないが、もし老衰死が起こり得ないのであれば、あとは危険さえ冒さなければ万事解決ということになる。
事実、俺の肉体は大きく変容していた。
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(自分自身) (11)
・アルティメットアビリティ
ピアシング・ハンド
・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力
(ランク6)
・アビリティ マナ・コア・火の魔力
(ランク4)
・マテリアル プルシャ・フォーム
(ランク9+、男性、10歳)
・スキル フォレス語 6レベル
・スキル ルイン語 4レベル
・スキル 身体操作魔術 6レベル
・スキル 火魔術 7レベル
・スキル 料理 6レベル
・スキル 剣術 8レベル
・スキル 格闘術 5レベル
・スキル 薬調合 8レベル
空き(0)
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この肉体。既にヒューマン・フォームでなくなっている。だが、プルシャとは?
ピアシング・ハンドは説明しない。しないが、恐らく俺の知識で理解できる範囲での表示をしてくれている。そして俺は、この単語をなんとか思い出すことができた。インドの神話に出てくる言葉だ。その意味は「原人」、つまり純粋な原初の人類を意味するものと思われる。
肉体が変容したといっても、手足の本数が増えたり、眼球が増えたりはしていない。何か特別に機能が変わったりもしていない。ただ、ランクが異様に高いのもあってか、やたらとエネルギッシュで無理が利く。それに、自分でいうのもなんだが、肌が驚くほど美しい。シミ一つない、もし女性であれば誰もが憧れるだろう美肌なのだ。
変化に戸惑いも恐れもあったが、大きなものを与えられたらしいのだけは、はっきりしていた。衝撃と感動が収まると、俺は自然と背後に立っていたシーラに対して、膝をついた。
『……これほどの恩寵を受けた人間が、かつておりましたでしょうか。深くお礼申し上げます』
人知を超えた存在。本来なら、それだけでも崇拝に値する。
しかも、俺がその加護を受けたのは、これが初めてではない。リンガ村から脱出できたのも。夢魔病を癒してもらったのも。そしてグルービーに敗れた俺を、ノーラに救出させたのも。すべてがシーラのおかげとは言わないが、彼女なしでは、俺は死んでいた。
だからこれは、今更ながらとはいえ、当然の態度だったと思う。
ところが当の彼女は、アテが外れでもしたのか、腕組みをして唸っていた。
『あ、あの? 何かご無礼がありましたでしょうか』
もし彼女が、百八の女神のいずれでもないとしても。モーン・ナーでも誰でもなく、下手をすれば魔王だったとしても。
この世界で俺を救ってくれた神は、彼女だけだ。前世のいろいろな神様みたいに、いる、いると言われながら実際には何もしてくれなかったのとは違う。現に存在して、助けてくれたのだ。であれば、信仰を捧げるのは当然のこと。
何が「何かご無礼」だ。よくよく考えれば、何度も救われているのに、感謝を伝えるのが遅すぎた。卑小な人間の分際で、何たる厚顔無恥。
俺がひたすら平身低頭、驚懼して女神の御言葉を待っているというのに、彼女はブツブツと口の中で何か呟きながら、片手で頭を抑えている。
これは、俺の感謝と崇拝が足りないのだ。自覚するのが遅すぎたが、相手は神。神様なのだ。神でなくても、少なくとも力ある何者かで、大恩人だ。俺は床に額を擦り付けた。
『あーっ』
這いつくばる俺の傍まで駆け寄ると、彼女は俺を引き起こした。
『はっ?』
『そこ、床なのよ? 汚いからおよしなさい』
『は、はっ?』
『あと! 言葉遣い。それもお願いだから、やめてちょうだい』
『ははっ、これまでの礼を失した物言いには何卒ご容赦いただきたく、今後は』
『そ、そうじゃなくって』
目を白黒させる俺に、片手を頭に添えて溜息をつく。
『も、もっと楽にしていい……んですよ?』
『ですが、シーラ様の御前に』
『だ、だから! あの、その……私、そういう神様じゃないの!』
少し乱暴に言い放ってから、慌てるように手足をバタバタさせて、それから肩を落として、ハァと溜息をついた。
首を傾げる俺に、彼女は説明した。
確かにシーラは、女神らしい。あのリンガ村の伝承に残る白銀の女神とは、間違いなく彼女のことだ。
しかし、あの記述にもあった通り、シーラは庶民の間に気安く顔を出していた。子供達からは「ただの近所のお姉さん」と認識されているのが普通だったらしい。村人同士で炊き出しなんかやる時などには、あろうことか、オバさん達に顎で使われたりもしていたのだとか。
『なんという……神たるシーラ様に、信じられない無礼を』
『だから、その「様」っていうの、禁止! ね? お願い、落ち着かないの』
『は、はぁ……』
『あと、大人みたいな言葉遣いも禁止! 子供は子供らしくするものですよ』
訝しげな俺に、なおも説得と説明が続けられた。
結局、俺は彼女を「シーラ」と呼び捨てにすることが決まった。俺も「ファルス」と名前で呼ばれる。敬語はなし。奉仕もなし。祈ったり、跪いたりするのもなし。差しあたっては、子供らしく毎日元気に遊んで、楽しく過ごすこと。
そんな命令をされても、少し困ってしまう。中身の年齢もあるし、それでなくても、ここで言葉を話せるのはシーラだけだ。とはいえ、彼女がそう言ったのだから、俺もそうすべきだと思う。
……で、その結果が、あの受け答えなのだ。「はい」では、しっかりしすぎている。敬意と配慮がこもっているかもしれないので、よくない。「うん」のほうが望ましい。
容赦のない殺人者になったこの俺が、今更、子供のふりか。自分としては違和感が拭えない。
「お腹がすいたでしょ? 朝ごはんを用意するから」
「うん、そう、だね」
俺に敬語を禁止したついでに、シーラ自身も丁寧な言葉遣いを放棄した。もしかすると、こちらがいつもの彼女なのかもしれない。
奥の部屋にキッチンダイニングみたいな空間がある。但し、ごく簡素で、火を使うこともできない。というより、彼女は火を使わない。燃やすとなれば、薪が必要になる。それは生き物を殺す行為なので、避けるのだ。
食べ物だけは、どうしたって食べずには済まないので、最低限の犠牲は許容する。それだってほとんどは、近くの樹木の果物が材料だ。どれも見たことがない種類で、やけに大きい。そして味もいろいろで、食べ飽きない。これらが主食となる。ただ、中の種は噛み砕かずに、森の中に返される。なお、当然ながら、肉や魚は決して出されない。
では、果物や野菜だけ? さすがにそれでは物足りないし、栄養も不足する。だが、この食卓には、代わりに神の飲料が並べられる。まるで普通の牛乳とか、そんなノリでポンと置いてあるのだ。また、この神の飲料を材料にしたらしいチーズのようなものも添えられる。これだけでもう、満たされてしまうのだ。
「あまり変わった物がないから、すぐに飽きてしまうかもしれないけど」
「ううん、おいしいよ」
「なら、よかった」
「ただ、料理の余地がないのは残念だけど」
果物は、ほぼ自然のままのものを食べている。ただ、これを生かした料理となると、難しい。これまで見たこともない種類ばかりだし、ここから加工するとなると、火は使うし、動物性の材料も必要になるだろう。だが、シーラがそんな殺戮を許すはずもない。生きるためにやむなくならともかく、ただちょっとおいしいものを食べたいから、なんて。
神の飲料に至っては、これはもう、反則だ。多分、何に混ぜても最高の味になってしまう。料理という行為そのものが否定されかねない。
「今日は何しよっか」
「うーん……」
「丘の向こうはもう、散歩したし、じゃあ……」
「いっそ山を越えてみようかな」
「それはちょっと……そこは『外』だから」
「そうなんだ」
彼女のいう『招神異境』なるものは、案外、狭いものらしい。
数十キロも移動したら、範囲外になってしまうのだ。
「いいよ、今日ものんびりしよう」
「うん、そうね」
きれいな湖の畔でのんびり過ごす。それもいいだろう。別に仕事があるでもない。慌てなくてもいいのだから。
「今日もいい天気……だけど」
ここに来てから、天気が悪かった日がない。いつも過ごしやすくて、気持ちいい。でも、それで困ったりはしないのだろうか?
「だけど? 何かしら」
「雨も降らないのに、植物が枯れないのかなって」
見渡す限りの花畑。あの、真ん中の湖がある辺りはいい。水辺だから、草花も枯れないだろう。それと、地中深く根を張る樹木も、多少の乾燥には耐えられる。しかし、こう毎日晴天だと、その他の植物は干からびてしまうのではないか。
「私がいれば、枯れたりはしないのよ。それに、降らせようと思えば、いつでも雨くらい、降るから」
「へぇ」
花畑の一角にある大きな岩の上に座って、おしゃべりだ。別に、草花をベッドにしたって平気ではある。初めてここに来た時には、どこを足の踏み場にするか迷ったものだが、余程乱暴に傷つけるなどしない限り、ここの花々はみんなシーラに守られているので、すぐ元気になる。
「天気も自由にできるんだ?」
「ここの中だけは、そうね」
女神の居場所だから、その思い通りになる空間、ということか。
「せっかくだから、午後から雨にしようか」
「うん? どうして?」
「風景が違って見えるわ。ねぇ、ファルス、雨は好き? 嫌い?」
その問いに、俺は少し考える。
「煩わしい、かな」
「うんうん、どうして?」
「靴の中にも水が入るし、あちこちベタベタするし」
「うん」
「街で仕事をしてた時には、客足も鈍ったりしたし、いいことなかった」
それに、前世では。雨の日の満員電車。うわぁ、思い出すだけでも最悪だ。他人の傘からポタポタと水滴が落ちてきて、革靴の中に入る。他の人のカバンも濡れていて、それが膝を濡らす。吐息で窓も曇って、そんな状態で他人の肌に触れたりする。直接でなくても、体温を感じる。気持ち悪いこと、この上なかった。会社に着く頃にはもう、肌着からしてベトベトする状態だったっけ。
「そうね。でも、雨も悪いことばかりじゃなかったはずよ」
「うーん……」
また少し考えて、答える。
「暑い日に少し涼しくなったり」
「うん」
「農作物を育てる人からすれば、雨がないと不安だし」
「そうね」
「貯水池にも雨が……」
「全部その通りだと思うけど、他にはない?」
「えっ?」
彼女は微笑むばかりだ。
すっと立ち上がり、水辺に近付く。空の光を照り返して輝く水面は、波一つなく澄み切っていた。
「こういう水もきれいだけど」
「えっ? は……うん」
「違った水の美しさにも出会えるかもしれないでしょ?」
なるほど、俺が挙げた理由は、どれも実用的なものばかりだった。
そうではなく、雨そのものを観賞するのはどう? と言っているのだ。
俺が頷いていると、彼女は水際で、所在なさげに体を揺らした。
うん? 何か要求でもあるのか?
「どうしたんで……どうしたの?」
「うーんうーん」
少しわざとらしさが混じっている。
シーラは、これでなかなか複雑な性格をしている。基本、真面目で、神らしく清らかな雰囲気がある。大声で騒いだり、取り乱したりということが、ほとんどない。それでいて時折、無邪気な子供みたいになることもある。そして普段は、親しみやすいお姉さんだ。
今のこれは、お姉さんと子供の複合したパターンっぽい。
「何か問題でも?」
「ファルスはいい子だけど、いい子すぎるから」
「は?」
いい子で何がいけない?
「……悪戯の一つもしないんだから」
「へ? 悪戯?」
「ふふっ、昔は、たくさんの子供達と一緒にいたから。こうやって水辺に立ってるとね。だいたい、後ろからドーン! って突き飛ばしてくる子がいたのよ」
ああ、そうか。
で、シーラはそうなるとわかっていて、あえてこういう場所に立つ。悪戯が成功して、子供達は大笑い。彼女も一緒に笑っていたに違いない。
「……寂しい?」
「ううん」
そう言いながらも、彼女の横顔には、儚い微笑が浮かんでいた。
「みんな、ちゃんと生きて、育って、巣立っていったのよ。この世界の祝福になったの」
シーラの予告通り、昼過ぎから、徐々に空が曇り始めた。俺は木のベッドの上に横になりながら、窓の外をのんびりと眺めた。
青一色の空は、確かに美しい。ある種の壮大さ、厳粛な印象も与える。そこに白い雲がかかると、今度はどこかふんわりと優しい感じになる。
雲が徐々に増え、それが白から灰色に、少しずつ変わっていく。それは澄み切った空が濁っていく様子ではあったが、不思議と見応えがあった。やがて空が灰色一色に染まると、小さな音が、どこかから聞こえた。
恐る恐る草葉を打つそれが、すぐ遠慮のないドラムロールになる。時折、音色の高いのも、低いのも混じる。どこから聞こえてくるかもわからない。
雨と風に揺れる葉っぱの裏に、小さな黄色い蝶が身を寄せていた。緑色の丸い葉っぱの裏で逆さまになって、巧みにバランスを取りながら、まるでサーフィンでもしているかのように、しっかりと足を離さない。
窓の下の、ナイフの切っ先みたいな形をした草の上に、大きな水滴が浮かぶ。それが少しずつ、少しずつ、雨の衝撃で揺れて、葉の上を滑って、ある瞬間、ツルッ! と転がり落ちていく。葉っぱの上には、まだまだいくつも水滴がある。その一つ一つが、ガラス玉のようだった。
薄っぺらい葉っぱの中には、表も裏も、ぐっしょりと濡れてしまうのもある。勢いよく叩いたら、枝から落ちてしまいそうな、そんなヨレヨレの葉っぱが、水の重みにぐったりとして、うっすら光を透かしているのは、どことなくいぎたなかった。だが、その不調和ゆえに、むしろ目を引いた。これはこれで、雨の顔なのだ。
部屋の中には、湿った空気が流れ込んでくる。それは柔らかくて、新鮮で。いつもの花の香りの混じった空気もいいけれど、土や根を感じさせてくれるこの匂いも、嫌いではなかった。
夕方には、雨は止んだ。
橙色の光が、水溜りに映える。雨の名残が、その上に滴り落ちる。その都度、水面が揺れる。
そんな中を蝶が飛び回る。澄み切った空気の中を、うっすら雲のかかった夕焼け空を背景に、黒いシルエットが舞い踊るのだ。
雨が美しくないなんて、嘘だ。
晴れた日と同じように美しい。なのに、人はそれを忘れてしまう。
……世界のあるがままを見れば、そこにあるものは……
暮れ行く一日に誘い出されて、俺も所在無く外に佇んだ。
不思議と、何をしているのでもないのに、それが心地よくて。いつまでもそうしていられた。
雨も、風も、太陽も、星々も……花々や虫でさえも。
そのすべてが、俺の中の何かを洗い流そうとしてくれているかのように思われたのだ。
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