白銀の聖杯
見渡す限りの花、花、花。
初夏の眩い陽光にきらめいている。どぎつい色のはない。落ち着いた水色、やんちゃな黄色、優等生のような桃色、お澄ましした紫色。それらが空の輝きに照らされて、どれも透き通って見える。
周囲を暗い緑色の木々に囲われた盆地。形だけでいうなら、花々を描いたお皿のように見えなくもない。ただ、絵の中の花々はどれほど美しくとも、彼らのように生き生きとはしていない。生命の輝き、その歓喜が、この空間には満ち満ちている。
ふっと風が一吹き。
色とりどりの花々に相応しく、様々な香りが交じり合って漂ってくる。そのどこにも不快なものは含まれていない。清らかで、優しげで、それでいて華やかで……まるで今のが、花々からの挨拶でもあるかのようだった。けれども、鈍重な人間でしかないこの俺には、それへの返礼すらままならない。そよ風に身を揺する花々は、戸惑うばかりの俺を冷やかすような、艶やかな笑みを浮かべて囁く。
周囲を囲む木々も、やたらと親しげだった。その枝ぶりも、まるで腕を振って声をかけているような、そんな雰囲気なのだ。
空を見上げる。強すぎる日差しから俺を守ろうとするかのように、白い雲が体を伸ばす。清々しい青空と、余裕たっぷりに笑顔を浮かべる白雲の競演だ。その下には、白い峰の山々が見える。この澄み切った空気は、あの山々からやってきたのだ。風が一吹きするごとに、この空間に何か光の粒子が散りばめられるのを見るような気さえする。
ここは、どこだ?
こんな美しい場所があるなんて、聞いたこともない。荒涼としたアルディニアには似つかわしくない華やかさだ。
周囲を見回しても、誰もいない。さっきの動物達ですら、姿を隠してしまった。どうしたらいいんだろう?
そっと一歩を踏み出そうとする。だが、どこを踏んだらいいのか。どの花も最高の芸術品のように見える。踏み分けていくなんて、できそうにない。
そう思って足元を改めて見下ろすと、わずかに花々が道をあけてくれたのか、なんとか盆地の底に降りられそうな道が見つかる。といっても、途切れ途切れに足を置く場所があるというだけだ。
数歩進んで、やっと気付く。
この盆地の一番下には、透き通った水を湛える泉があった。湧き水だろうか。
そして、その水際から、はっきり草の生えていない、踏み固められた道らしきものが見える。それを辿っていくと、木々の合間に、小さな小屋があるのがわかった。
誰かが住んでいる?
そう思ったのと同時に、背後に気配を感じた。
鋭く振り返る。
だが、不思議と危険は感じていなかった。
彼女は、いつの間にかそこにいた。
ゆったりとした、白いワンピースが風にはためく。銀色の髪も、風に流れる。少女のような眼差しに、慈母のような笑みが浮かんでいる。待ちきれない楽しみを前にした子供のようでもあり、労苦を重ねてやっと辿り着いた老人のようでもあった。
俺は、言葉を発することができなかった。
声をかけようにも、喉に何かが詰まってしまった気がした。彼女……白銀の女神は、それほどまでに美しく、また神々しかった。手を伸ばそうにも、どこか憚られた。日々、汚泥の中を這いずってきた俺なんかが、彼女の真っ白な手に触れていいものか?
だが、その問いの答えなら、わかっているのだ。彼女の胸は、腕は、開かれていた。目の前の少年を掻き抱くために。
そう、わかっている。もちろん、わかっているのだ。
彼女はすべてを与えてくれる。何もかもを許してくれる。眉一つ動かさずに人を殺せるようになった悪魔にさえ、愛情を惜しまない。
ただ、手を伸ばせないでいるのは、俺、俺自身のせいなのだ。祝福は常にそこにある。ただ、人は受け取る資格を自らなげうってしまう。与える側は、いつでもすべてを差し出したいと願っているのにもかかわらず。
けれども、そんな逡巡に気付いたのか、彼女は柔らかく微笑んだ。それから、少女がするように小首を傾げ、恥じらいのようなものを滲ませた笑みを浮かべて。それがまた、ずっと歳を重ねた何者かに相応しい、落ち着きのある表情に戻った。
そして、静かに言った。
「ようこそ、私の住処へ」
今度こそ、返事をしようとする。だが、かすれた声が出るばかりだ。
「ようこそ、我がいとし子。あなたのための楽園へ」
俺のための、楽園?
このすべてが?
「ああ」
待ちきれなくなったのだろう。彼女は静かに歩を進める。その足元が小さく光り、そこから草花が芽を出す。ありえないほどの早さで背を伸ばし、蕾を膨らませ、そのもたげた首をまっすぐ立てて、花を開かせる。
気付くと、白い袖が俺を包み込んでいた。優しい匂いがした。
「どうしてこんなになるまで」
俺は、まだ信じられなかった。
彼女と出会うのは、これが三度目だ。三度目ではあるが、そのうち二回は、何れも夢とも現ともつかない状況だった。
初めての出会いは、リンガ村の沢でのことだ。岩の上で横になったら、白くて大きな鹿が現れ、それがいつの間にか、女神の姿をとっていた。だが、目を覚ますとそれも消えていて、夜の闇の中には、無数の蛍が飛び交っていた。
二度目は、ピュリスの私室だ。ただ、あの時は夢魔病で死に掛けていて、意識も朦朧としていた。言葉を発する体力もなかったのだ。そして、激しい疲労感もあって、すぐにまた眠ってしまった。
要するに、ここまではっきり意識のある状態で、実体を持つ彼女と出会ったのは、これが初めてなのだ。
今までは、ただの夢だったのではないかと思っていた部分もあったのに。
「けれども、もう心配はいりません」
少し体を離して、彼女は言った。
「ここには悲しみはありません。喜びだけがあります。憎しみはありません。愛だけがあります。孤独はありません。草花も、鳥達も、みんなお友達なのですから」
言われて、顔をあげた。そして、周囲を改めて見回した。
花々の上を、黄色い蝶が飛び回っている。俺はそっと手を伸ばしてみた。すると蝶は、逃げるどころか、こちらを向いて羽ばたき、そっと俺の指先に止まってくれた。
「……ね? そうでしょう?」
恐怖も敵意もなく。そうするのが当たり前と言わんばかりに蝶は俺の指先に留まった。昆虫の顔から表情を汲み取るなど、できるわけもない。けれども、なぜか今なら、話しかければ通じるような気さえする。
どうしたらいいかわからなくなって、俺は指先をそっと花に近付ける。意図を悟って、蝶はまた、花の上に戻った。ただ、挨拶するように、その羽を二、三度ばたばたさせた。
「……ここは?」
やっと、声が出た。
ここはどこだろう?
「もしかして、『天幻仙境』?」
「いいえ」
花が身を揺するように、彼女もまた、穏やかな表情で、ゆったりと首を振った。
「ここは私の『招神異境』です」
「……招神異境?」
「とはいえ、祝福のほとんどが、ここにはありません。残念ながら、仮住まいではありますが」
そんな言葉など、聞いたことがない。
この世界を生み出した女神、そしてそこから枝分かれして生まれたとされる様々な女神達が居を構える場所、それが『天幻仙境』だ。大変に美しい場所で、最高に澄み切った美酒が流れる滝があり、何度殺して食べてもいなくならない天上の猪がいるという。但し、どこにあるかは知られていない。一説にはチーレム島のどこかにあるというのだが、実際に確かめた人はいない。
これに対して、魔王がその根拠地とした場所、それが『幽冥魔境』だ。こちらは、その跡地が、世界に何箇所か知られている。大抵は地面をドリル状に削った空間になっている。魔王が滅ぼされたのもあって、今はそれ以外には、何も残っていない。
しかし、招神異境とは? そんな言葉は、女神教はもちろん、セリパス教の聖典にも、一切記されていない。
「あなたは……もしかして、祝福の女神ですか?」
「いいえ」
あっさり彼女は否定した。
それもそうか。リンガ村の人々は、祝福の女神を奉じて、彼女……白銀の女神を追放したのだから。しかし、ではこの地の祝福は、どう説明すればいいのだろう?
「では、モーン・ナーですか?」
「いとし子、その恐ろしい名を口にしてはいけません」
恐ろしい?
「では、なんと呼べば……」
「それなら……私をシーラと呼んでください」
そんな女神は、やっぱり記憶にない。百八の女神達の中にも、そう名乗っていたのはいなかったはず。誰なんだ、いったい。
「他に、誰かいないのですか」
「鳥達も、鹿も、兎も、みんないますよ」
「人は? 人はいないんですか」
「ここはあなた一人のための場所」
そう言うと、彼女は胸に手をおき、少し悲しげに溜息をついてみせた。
「……そして、私もまた、あなた一人のためにあるのです」
「えっ?」
何のことだろう?
よくわからない。いや、だが、しかし……
記憶を遡る。
『もう、今となっては、あなた一人だけとなりました』
俺以外に、信徒のいない神?
そういうことなのか?
「何のために、ここへ」
「その魂を守り、留めておくため」
そうだ。
彼女はわざと俺をここに誘導した。
元はといえば、街道の崖崩れのせいで、俺は道を変えざるを得なくなった。脇道から先に行くしかなくなったのだ。そして、そこで動物達に導かれた。
ではあの時、馬車に乗せてもらって街に引き返していたら? 街道が通行可能になった時点で、また落石が起きただろう。それはそうだ。あれは彼女が惹き起こしていたに違いないのだから。俺が業を煮やして脇道に入るまで、何度でも同じことが繰り返されたはずだ。
白銀の女神……いや、シーラは、俺をここに呼び寄せたかったのだ。
その目的は、「魂を守る」ことだという。
何から?
『けれども、あなたが望むのなら、それらの呪いは、覆い隠すことができます。仮住まいではありますが、ここより北の地、私が身を置く、山間の静かな棲家に連れていくことなら。そこは一年中花が咲き乱れ、空気は澄み、水は清らかで、数々の果物がたわわに実り……安らぎと喜びがあります』
呪い。
俺は呪われているのか?
そうかもしれない。
この十年間、俺にはいつも、苦難がついてまわった。これがただの偶然といえるだろうか?
いいや、そんなわけがない。だいたい、おかしいと思うべきだった。
確かに、仕えている貴族の家の令嬢が誘拐されたりとか、街に巣食う密輸商人どもと対決したりというのは、運のよしあしだけでは語れない事件だった。ちゃんと原因があったからだ。
だが、例えば……一週間かそこらで辿り着ける内海の向こうの街に行った時、「たまたま」その帰り道で暴風雨に巻き込まれ、これまた「たまたま」流れ着いた先が海賊どものねぐらだった、なんて。あの季節、暴風雨なんて滅多にないはずなのに。海賊だって、厳しい取り締まりのせいで、ほとんど見かけないくらいだったはず。
そんな不運の中を生きていた。それでも俺には、特別な力があったから、辛うじて死なずに済んだ。
だが、呪いというものがあって、それがまだ消えていないのだとしたら。
心当たりなら、あるのだ。
あの仮面の夢。セリパシアに入ってから、だんだん見る頻度が高まってきている。イメージもどんどん鮮明になってきている。あれが呪いの一部なのか?
「ここでなら、飢えることも苦しむこともありません。いつまでも幸せでいられます」
いや、だとしても。
だから、どうした? 俺の目的はなんだ? 惑わされるな。
「……それでも、いつかは老いる」
人生を空費して、そして死ぬ。死ねば、また……
「老いを遠ざけたいのですか?」
「僕は、そのために旅をしてきたのです」
「では、できる限りのことを。こちらへ」
彼女は、先に立って歩き始めた。水辺の、踏み固められた道を辿って、木々の間に隠された小屋へと。
キィ、と小さな声をあげて、扉が俺を差し招く。
「これを」
扉の向こう側は薄暗かった。だが、俺はそこにあったものに目を奪われた。
素朴な造りの、小さな木製のテーブル。その上に置かれた、銀色の聖杯。
これも、いつか見たものだ。夢魔病に苦しめられた、あの一夜。両手で持たなければ支えられないくらいの大きさで、その表面には動物達の姿が生き生きと刻まれている。それが暗い室内で、自らかすかに輝いているのだ。
「お飲みなさい」
言葉のままに、俺は一歩一歩、近付いていく。
そして、そっと聖杯を取り上げ、中の真っ白な液体に口をつけた。
ああ、この味だ。
この上なく純粋で、透き通った……それでいて、途方もない密度を感じさせる、この味。火のようでもあり、氷のようでもある。沈黙のようでもあり、空間を貫くトランペットの音色のようでもある。
これが、これこそが、神の飲料なのだ。
俺は、そっと聖杯をテーブルに戻した。
「いとし子よ、もはやあなたが老いを知ることはないでしょう」
その宣言に、俺は軽い驚きと高揚を感じた。
では、俺の望みはもう、叶ってしまったのだろうか?
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