第十九章 招神異境
獣道
一際大きな揺れに、俺は目を覚ました。
明るい陽光が、馬車の荷台にくっきりと影を落とす。頭上の幌がなければ、客席は照り焼き状態だろう。空気はカラッと乾いていて、風も吹き込んでくるので、日差しさえ防げば、それなりに過ごしやすい。
開けっ放しの座席後部から、外を眺める。どこまでも山がちなアルディニアの大地。黄土色の岩山が遠くに見える。そのあちこちが、暗い色合いのいじけた草に汚されている。
入国より、およそ二ヶ月。この国の道路事情の劣悪さに、ほとほと嫌気が差していた。
一千年前の世界統一後、人々は国々を結ぶ道路を建設した。だがアルディニアについては、セリパシアに至るための兵站線、つまりロージス街道が既に存在したから、それを補修するだけでよかった。
そのせっかくの道路も、諸国戦争であちこち寸断されたのは知っていた。それにしても、これはないんじゃないか。
チェギャラ村の関所の前の石橋がなかったのは、ほんの序の口だった。
橋がない。標識がない。あっても間違っている。崖崩れが放置されている。現地で買い求めた地図も大雑把な記述ばかりで、あまり信用できない。
元は立派な街道だったはずが、まるで修繕されずに放置されている箇所がいくつもあった。それどころか、街道の敷石を剥がして、自分達の家の材料に使っている集落さえあった。
それでも、だんだん西に向かうにつれて、そういうひどい道路は減っていった。ところが、今度は今度で、別の問題にぶつかった。地方領主同士の諍いのせいで、道路の通行自体が許可されない。
これはたまたま運が悪かったのもある。魔物の群れが出るような大きな森が、険悪な関係にある二つの貴族の領地を隔てていたのだが、とある新人冒険者のミスがきっかけで、魔物の討伐のための兵士達を、もう一方の領主が侵略者と誤認した。幸い死者は出なかったものの、勘違いからの遭遇戦で、無数の怪我人が出たらしい。オマケに魔物の群れが双方の領地を荒らしまくったせいで、これも実は相手方の兵士の仕業では、と邪推する人も出てきて、収拾がつかなくなってしまったのだ。
騎士の腕輪を見せはしたが、安全は保証できないと言われてしまった。それも当然だ。武力衝突の可能性から緊張が高まっているというのに、のんびり腕まくりさせる余裕があるだろうか。また、騎士だったところで、通行を許可していい無害な相手かどうかまではわからない。敵対する領主の支配地からノコノコ歩いてくる人物だ。確認の前にまず攻撃される可能性があった。
となると、どうしたって遠回りしなくてはいけない。だが、そこは旧街道のルート外。道はあるが、幅は足りていない。馬車などの交通手段が限られた範囲でしか機能せず、ここまでのほとんどは、自分の足に頼るほかなかった。
しかも、道が寸断されているということは、情報もまた、同じということだ。せっかく遠回りしたのに、その別の道でも、何らかの不具合に出くわす。
こんなざまで、よく王国を名乗れるものだと、逆に感心するが、それでもアルディニア王家は困っていないらしい。
経済のほとんどが、王都タリフ・オリムに集中しているためだ。
確かに、古くは帝国が東進するための通路として、その後はロージス街道が作られて、多少は地域も活性化した。しかしどちらにせよ、王国の東側には、猫の額のような細切れの土地がポツポツとあるばかりなのだ。この国が中央集権に力を入れないのも当然で、そんな土地をいちいち統治したり、管理したりするくらいなら、いっそ与えたままにしておいたほうがいい。支配するにもコストがかかる。最初から期待していないのだ。
そして、山を越えて道路を築き、また新たな土地を見つけたとしても、基本的にそこは魔物か野生動物の領域だ。なだらかな地形の広がるエスタ=フォレスティア王国でさえ、いまだ多くの未開拓地を抱えている事情を鑑みると、この国が未開なままで、古臭い封建制度をそのまま保っているのも、ごく自然なことだと理解できる。
そんなこんなで、ようやく俺は、アルディニア王国の西側に足を踏み入れた。王家の支配力が徐々に影響するのか、それなりの規模の街もあり、ちゃんとした宿屋にも泊まることができた。壊されていないロージス街道のきれっぱしを伝って、ここからは馬車で移動できる。
やっと一息。それで馬車の荷台に据え付けられた椅子に座って、船を漕いでいたわけだ。
しかし、この揺れ。
どうもおかしい。また衝撃が……
街を出発した時には、こんなのなかった。街道もきれいに整備されていると聞いたのに。
そうこうするうち、だんだんと馬車が速度を落としていく。何があった?
完全に馬車が前進をやめた。俺は眉を寄せて、荷台から飛び降りる。
「どうしたんですか」
既に下車していた御者が、黙って前方を指差す。
崖崩れだった。
南側は例によって急峻な断崖絶壁が聳え立っている。北側には緩やかな斜面。但し、木々が密集して生えているし、たまに突き出た岩山がある。そんな中の、緩やかな登り坂。
どこから降ってきたのか、大きな岩が転がり落ちて、街道を塞いでいた。これでは先に進めない。
「これ、なんとかならないんですか」
「いったん引き返す」
「えっ」
髭面の御者は、荒っぽい声で呼びかけた。
「おい! いったん降りろ! この先には進めねぇ! 馬車は街に戻る!」
バラバラと足音がして、中からいろんな人が出てくる。行商人らしき男。農作物を運ぶ、フードを被った女。彼らも苦々しげに前方の障害物を見つめる。
御者は、軽くなった馬車を、狭い街道の上でうまいこと反転させて、街に引き返す準備を済ませた。
「よぉし、帰る奴ぁ、乗れ。運賃は取らねぇ」
口調こそ乱暴だが、不親切とは言えない。金を払っても、こんなところで放り出されるよりは、ずっといい。
それで乗客達は、黙ってまた、荷台に乗り込んでいく。しかし、ここにいる乗客全員で岩を道路の脇に捨てるという選択はないのか?
「あの」
「なんだ、ボウズ」
「僕らで片付けたほうが」
「ここだけだって言い切れるんなら、そうするけどよ。たいてい、あっちこっち崩れてるもんだ。調べもしねぇでやるこっちゃねぇ」
「では……この岩、いつ頃、取り除かれそうでしょうか」
「わかんねぇよ。ただ、前にもこういうことはあった。無理して通っても、ろくなこたぁねぇ。これから戻って報告して、人を派遣してもらわねぇとな」
だとすると、少しかかりそうだ。二、三日といったところか?
「んで、どこが崩れたかを冒険者ども使って調べるだろ? どっかで雨でも降ったせいってなら、他にも崩れそうな場所があるかもしんねぇ」
「それは、そうですね」
「それにたまに人型の魔物がこういうことしやがんだ。この辺じゃ、滅多にねぇがな。とにかく、安全確認も取れねぇのに、いきなり馬車を出すわけにはいかねぇ」
訂正。一週間はかかる。なるほど、ここにいる人員だけで目前の岩の処理ができたとしても、他にも崩れている箇所があるかもしれないし、そうなりそうな場所もあるだろう。
安全を考えると、ここを歩いて進むのも、あまりいい考えではない。人間や魔物相手ならどうとでもなるが、落下する巨岩を避けるのは難しい。火魔術で粉砕しても、勢いよく落下する岩の欠片に巻き込まれないとも限らないのだから。
「悪いこたぁ言わねぇ。ここを進むのはやめとけ」
「はい、ですが」
「あん?」
「では、他の道はありますか?」
このじれったい旅がいつまで続くのか。せっかくスイスイ先に進めると思ったのに。
もう、待ちたくなかった。
すると彼は、自分の御者席に戻り、丸められた地図を引っ張り出して、眺め始めた。
「一応、あるぞ」
「本当ですか?」
「ちょうどそこの脇道だ」
見れば確かに、街道の脇、右側の森の隙間に、獣道のようなものが見えた。
「一本道だ。まっすぐ行けば、一日くらい野宿するが、一応、別の村に着ける。そこからなら、一日でまた、この街道に戻ってこられるな……ええと、要するに、次の街まで、だから三日ってとこか」
この馬車でなら、今日中についていたはずだったのだが。
しかし、引き返せば一週間待ちだ。
「どうする? 俺は戻ったほうがいいと思うが、行くって言うんなら、止めねぇ」
「行きます」
「そうか」
即答した。
さっき居眠りはしたが、体調自体は良好だ。歩けないわけではない。それに、こんな脇道を通るのも、一度や二度ではない。慣れたものだ。
「じゃあ、気をつけろよ。本当にいいんだな?」
「はい」
「よぉし、じゃ、好きにしろ」
それだけで、御者は俺に背を向けて、馬車に戻ってしまった。そして程なく、鞭を入れる音がして、カポカポともと来た道を引き返していった。
さて、では森の道に踏み入るとしよう。
御者はさっき、ああ言ったが、この辺は集落と集落の間隔も狭く、魔物は滅多に出ない。野生動物はいるが、なにしろ土地が狭いので、獰猛な肉食獣が多数いる、なんてことはない。広大な土地と潤沢な資源がなければ、人も動物もそんなにたくさんは暮らせないのだ。
一歩、森の中に入ると、すっと涼しくなった。今は柘榴石の月、まだ初夏だ。日差しこそ強いものの、地面はそこまで温められていない。むせ返るような湿気ではなく、爽やかな森の空気が、さっと通り過ぎていった。
仮にも道というだけあって、ちゃんと踏み固められている。思っていたほど歩きにくくもない。馬車は無理だが、馬なら通れるくらいの幅がある。
太陽が中天にかかる頃、俺は道端に、ベンチ代わりの丸太を見つけた。誰かがこの道のために用意したものなのだろう。俺は腰掛けて、弁当のつもりで用意したパンを食べ始めた。ベーコンと野菜を挟んだだけの、シンプルなものだ。それを水筒の水で流し込む。ちょっとしたハイキング気分だ。
この道の様子からすると、なかなか悪くないパターンだ。誰か、どこかの村人が使い続けているからこそ、こういうちょっとした休憩スペースが残されているのだ。ということは、村に着くまでに一回は野宿する距離らしいから、どこかに野営できそうな場所もあるはずだ。加えて言えば、使い続けられているという現実が、この道の安全性を示している。猛獣や魔物が出没する道ならば、自然と放棄されるものだからだ。
歩くうち、こういう寄り道も、そこまで悪いものではない、と思えてくる。上機嫌で、鼻歌交じりになっていた。
その楽しい気分が、一気に困惑と苛立ちに取って代わられた。
「なんだ、これ……」
俺は足を止めていた。
道が分岐している。
こんなの聞いてない。さっきの御者は、一本道だと言った。じゃあ、これはなんだ?
見る限り、どちらも同じような道に見える。つまり、舗装はされておらず、せいぜい馬一匹が通り抜けられる程度の幅で、それなりに人の足で踏み固められている。その左右は、何れも背の高い針葉樹に囲まれており、先は見通せない。
どうしよう? 選択肢は三つ。右か、左か、引き返すか。
引き返した場合、さっきの街まで、一日かけて歩くことになる。夕方までに着けないと、城門が閉じられてしまう。かなり惨めな結果になりそうだ。それに、どうせそこからまた、岩が取り除かれるまでの一週間を待たなければいけなくなる。
とすると、右か左か、どちらかを選ばねばならない。しかし、奇妙だ。御者は地図を見て確認したが、この辺の道くらい、それなりに頭に入っているはずだ。だから、見間違えたというのも考えにくい。村のある場所だって、そうそう増えたり減ったりはしない。この二つの道のどちらかにあるであろう集落の人が、たとえば薬草採集とか、狩猟などの目的で拠点を設けたとすれば、こうしてまた、新たな道ができることもあるのだろうが……
それにしても。わざわざ街道に出る側に丸太のベンチを用意するくらい親切なこの道なのに、この分岐については、標識一つ用意されていないのか? それも奇妙だ。
どっちにしようか。
腕組みして、低い声で唸りながら悩んでいると、頭上に甲高い鳥の鳴き声が聞こえてきた。頭が真っ白で、翼が青い小鳥達だ。
それが俺の頭の上で、二度、三度旋回する。そして、右のほうへと飛んでいった。
右?
いやいや。
あの鳥達の巣が、あっちにあるというだけだ。とすると、人の住むところはその反対。野生動物は人を恐れるだろうから、きっと左に行くのが正解だ。
考えをまとめて、足をそちらに向ける。
ピーッ! と鋭い鳴き声が間近に聞こえた。
なんだ!? と思って振り返ると、さっきの鳥達が戻ってきていた。今度は、俺のすぐ近くだ。手掴みできそうな高さでバタバタ飛びながら、俺の周りで鳴き続けている。
見たことのない種類の魔物かと、一瞬、腰の剣に手がいきかけるが、そんな必要はないとわかった。彼らは普通の動物だ。奇妙なスキルやアビリティを抱えていたりはしない。俺を嘴で突っつくくらいはできそうだが、それだけだ。
気にせず進もう、とまた一歩。
するとまた鳥達は、俺の行く手を遮るかのように飛び回る。邪魔だし、斬るか?
そう思ったところで、一羽、また一羽と地面に降り立ち、道路の上に翼を広げて仰向けに寝転びだした。これでは足の踏み場もない。
……変だ。
絶対に変だ。
気持ちを切り替える。さっきまで、俺の周りを飛び回っていた時点では、何か通常の理由があるだけだと思っていた。たとえば、彼らの巣が近くて、俺が危険な侵入者に見えたとか。雛鳥や卵を守るためであれば、自分よりずっと体の大きな動物に立ち向かうことだってあるだろう。
だが、さすがにこれは、やりすぎだ。無防備に寝転ぶなんて、何を考えているんだ。何が何でも、こちらに行かせたくないみたいじゃないか。
どうしよう。
何かの罠かもしれないし、あえて突っ切ってこのまま行くか。
それとも、右に行こうか。
また頭上で羽音がした。
今度は白一色の小鳥達だ。俺の頭上をざあっと埋め尽くすと、またもやすぐ傍に降り立つ。一部は遠慮なく俺の肩に止まった。そしてピーチクパーチク話しかけてくる。
なんなんだ、いったいこれは。
さすがに目を丸くしていると、近くの茂みに、ガサッと音がした。
剣に手をかけながら振り返る。出てきたのは、灰色の兎と茶色の鼠、そして立派な角の鹿だった。
彼らの動きは静かで、およそ敵意も警戒心も感じさせなかった。ゆっくり近づいてくると、鹿はそっと俺の服の先を咥え、優しく引っ張った。右の道へと。
見下ろすと、兎も鼠も同様だった。兎は頭で俺の足を押し、鼠は前足で俺の靴を掴もうとしていた。
「や、やめろ! 離せ!」
あまりのことに、俺は大声を出した。
それでびっくりしたのか、彼らは一瞬、さっと身を引いた。だが未練がましくまた近付いてきて、そっと引っ張ろうとする。
理解できない。ピアシング・ハンドが示す限り、彼らは普通の動物だ。
いったい何を考えているのだろう? 今度こそ、本気で精神操作魔術を使いたい。人の顔色くらいは自力で察するべきだと思うが、相手が動物とは、まったく想定外だ。
……じゃあ、試しに右に向かったら、どうなるんだろう?
俺は踵を返して、一歩を踏み出した。
すると鹿は小躍りして駆け出し、兎と鼠は後ろを見ながら小走りになって、俺を先導した。
さっきまで地面に横たわっていた小鳥達は、ざあっと飛び上がって、俺が進もうとする右の道の左右にある木々に止まった。
あからさまだ。
どうあっても、こっちに行けと。
いいだろう。
これだけの不思議があったのだ。何もないなんてことはない。確認しないほうが損かもしれない。それに、いざとなれば戦うだけのこと。勝ち目がなければ、ここにいる動物達の肉体を奪って、彼らに紛れて逃げ切ればいい。即死さえしなければ、どうとでもなる。
俺はおとなしく後について歩き続けた。
案の定、道幅はどんどん狭くなる。やはり、こちらにあるのは村ではないのだろう。だがもう、そんなことは大きな問題ではない。
少し進むと、鳥達も羽ばたいて追いついてくる。そして、先のほうの木々に止まって、こちらを見ている。鹿達も、俺がちゃんとついてきているかを、時折振り返って確認しながら先に進んでいる。
ついに行き止まりになった。道は途切れ、目の前には木々が鬱蒼と茂っている。
だが、動物達はなおも進もうとした。森の中に入れ、と。
溜息をつきつつ、俺は足元を確認しながら、落ち葉の積もる中に踏み込んだ。
しばらく歩くと、木々の密度がかなりあるせいで、方向がよくわからなくなってきた。日差しがあまり入らないのだ。
普通であれば、これは遭難したも同然なのだが、俺には鳥の肉体がある。いざとなれば飛び上がって現在位置を確認できる。でなければ、こんな怪しげな動物達の後についていこうなどとは思えない。
鹿が短く一鳴きした。
「……えっ?」
ここだ、と言われたような気がしたのだ。
何があるのか、と思って先に進むと、一気に視界が開けた。と同時に、俺の周囲に鳥達が降り注ぐかのような勢いで飛びつき、取り巻いて、それからまた、飛び上がっていった。
いきなりのことに、俺は身を縮めていたが、目を開くと、もう周囲に動物達はいなかった。
そして俺は顔をあげる。
そこは一面、見たこともないくらいの、花々の楽園だった。
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