悪魔と聖者
生物の歴史というのは、膨大な数のやり直しから、成り立っている。
例えば、前世のカメや鳥類、そして人類だ。今、列挙した種類は、何れも色覚に優れている。例えばヒトは青、赤、緑の三原色を見分けられる。これは認識できる光の波長のピークが複数あるからだ。しかし、実はカメはもっと色覚が多様で、五種類の色を区別できるのだそうだ。
これは昼行性の動物に見られる特徴だ。よって、基本的に夜行性の動物……例えば猫などは、二色しか認識しない。犬もだ。哺乳類の祖先はみんな、そこまで多様な色覚を身に備えていない。つまり、人類は一度喪失した色覚能力を、進化のやり直しで再獲得したのだ。そしてまだ、犬や猫は、それができていない。
だが、色覚の貧しさは、別の長所によって補われている。青一色しか見分けられないダイオウイカなどが顕著な例だが、彼らは僅かな光量でも視界を保てるのだ。
この理屈からすると、長らく地上で繁栄を謳歌した恐竜達、そしてその子孫たる鳥類は……
……予定通りに肉体を取り替えたのはいいが、本当に慣れない。
人間の目で見るより、更に視界が暗くなった気がする。鳥目とはよく言ったものだ。しかし、こうなると疑問がわいてくる。食材と言い、鳥目といい、前世にあれもこれも似すぎている。では、この世界にもかつて恐竜が存在したのだろうか?
今、すべきことからするとどうでもいいことばかりが、頭の中にやってきては去っていく。
かすかな月明かりを頼りに、なんとか着地した。周囲に野生動物や魔物がいないことを祈るばかりだ。
そして、人間に戻る。
左右を見回した。
関所の反対側だ。目の前には、木と縄で組まれた吊り橋がある。これでは馬車なんか通れない。もともとはここにも石造りの橋があったはずだが、何かのきっかけで壊されたのだろう。そして、修復されなかった。なぜか?
権益だ。ここまで馬車で通り抜けることができると、チェギャラ村に荷運び人夫の需要が発生しない。あえて不便なままにしておいて、ここで商人がお金を落とすようにしてあるのだ。なんともせせこましい。これがもたらすものは、局地的な利益と、全体的な非効率だ。
とにかく、間違ってこれを落としてしまうわけにはいかない。後日、俺はここを歩いて渡らなければいけないのだから。
まだ春先。全裸のままでは肌寒い。しかし、鳥の状態で持ち運んだ剣と最低限の衣服は、まだ身につけるわけにはいかない。一仕事済んだら、すぐにまた飛ぶからだ。
とりあえず、見つけられては台無しなので、街道の先に進み、森の中に身を潜める。
そこでじっくりと目を闇に慣らす。
先日、城館の中に入り込んだおかげで、だいたいの位置関係ならわかっている。三階の北側はエルとヤシリクの居室だから避けるとして。大きく開いた二階の窓の向こうには、武具を置いておくための木製の棚がある。あれは狙おう。
四階には、きっとジノヤッチがいる。ここから狙えば、一発で片付くだろう。やるか? しかし、もしエルが彼を訪ねていたら。或いは、テンタクや子供達が引っ張り出されていたら、彼らまで巻き添えにすることになる。それは望ましくない。
では、人がいないであろう場所にだけ、撃ちこんでやろう。
俺は静かに詠唱する。指先にほのかな、赤い光が纏わりつく。もっと手早い発動も可能だが、それでは威力が稼げない。もっと、もっとだ。
両手の間に、五十センチほどの巨大な火の球が浮かぶ。添えていた左手を下ろし、右手の人差し指を立てて、頭上に掲げる。火球もそれに従って、重さもなく、すっと居場所を変える。
精神を集中し、俺はまず、二階の渡り廊下を指差した。そして……最後のキーワードを唱える。
火球の温かみが手から消えた。
ふっ、と放たれた火の玉が、まっすぐ夜の帳を突き破り、引き裂いていく。いつしかそれは、鋭い炎の槍に姿を変えていた。
次の瞬間、耳を聾する轟音が谷間に響いた。空気だけでなく、大地まで揺るがすほどの威力。目の前の吊り橋が軽く揺れている。
二階の渡り廊下から、橙色の光が左右に撒き散らされる。近くの可燃物がなくなっても、魔力を糧に、なお火は広がり続ける。
もう一発。
今度は、三階の南側。客間とキッチンのある辺りだ。これでも食らえ。
分厚い石の壁が、薄っぺらいタイルのように剥がれ、弾け飛んだ。窓ガラスが派手に割れ、制御できない熱量が、付近を一気に燃やし尽くす。
だが、まだだ。まだ足りない。
三階と四階を結ぶ階段のあるあたり。あそこも吹っ飛ばそう。
これでジノヤッチも、簡単には降りてこられないはずだ。ただ、もしテンタクが上の階に連れ込まれていたら……問題ない。乗り込んでいって、彼と子供達だけ連れ出せばいい。
さて。
では、そろそろ行こうか。
今一度、鳥の肉体を借りて、今度はあかあかと燃える二階の渡り廊下に降り立った。
そこで素早く人間に戻り、折り畳んでおいた衣服を身につける。剣を拾い上げると、俺は南側の下り階段を駆け降りた。
見張りはいなかった。好都合だ。或いはみんな、四階のジノヤッチの居室にでもいるのかもしれない。
螺旋階段を降りきって、薄暗い中を見つめる。いつもランタンが壁にかけてあるおかげで、なんとか視界は確保できる。
「……テンタクさん!」
「んお?」
よかった。無事だった。
子供達も、四人ともいる。傷一つないようだ。
「助けにきました」
「なっ……危ねぇべよ」
「そんなこと言ってる場合ですか」
鍵束も壁にかけてあった。それを使って、なんとか鉄格子を引き開ける。
「さ、早く。外に出て、逃げてください」
「ファルスはどうするだ」
「エル様とヤシリク様を連れ出します」
「はぁ? なんでだべ?」
さすがに地下の牢獄までは、爆発音もろくに届かなかったらしい。
「砦が今、火事で燃えているからです」
「そんなら、おらが行くべぇ」
「いいえ、僕が。ほら、テンタクさん、子供達を守らないと」
押し問答している場合ではない。
あんまり時間をかけると、本当にエル達が蒸し焼きにされてしまう。特にヤシリクは、自力で歩けない。
なお言い募ろうとするテンタクを、ネチュノが押し留めた。
「まず、出ようぜ。じゃねぇと、火事に巻き込まれちまう」
「う、お、おう」
「僕なら大丈夫ですから。先に行きますね!」
悪いが、これ以上テンタク達に時間をかけられない。
俺ならまったく平気なのだ。なぜなら『防熱』と『消火』の魔術があるからだ。これで一定範囲の熱を防ぎ、邪魔な火を消すこともできる。そして、俺が消さなければ、この火災はそのうち砦を丸呑みにしてしまう。最悪、それも仕方がないのだが、それでも罪のない人だけは救い出さなければならない。
階段を駆け上がり、三階に立ち入る。思った以上に火と煙が充満している。これは弱った。計算外だ。熱は防げても、火は消せても。煙を散らす術はない。風魔術でもあれば、また話が違ったのだろうか。
バタン、と目の前の扉が蹴飛ばされる。
そこから、よろめきながら出てきたのは、エルだ。もはや力も入らない腕で、片足立ちのヤシリクを引っ張ろうとしている。
まだ二人とは距離が開いている。今のうちに『消火』の呪文を唱えて、四階への階段に繋がるところで燃えている炎を鎮めなくては。
「む……ゴホッ、ゴホッ」
「エル様、助けにきました!」
俺が火を放っておいて、助けにきたも何もないが。最初の一発が、彼らの部屋のほぼ真下だったのがよくなかったか。熱はともかく、煙がひどい。
周囲の火は、実はもう、ほとんど消えている。ついさっき、客間のほうの火も消しておいた。二階だけまだ火勢が衰えていないが、北東側の下り階段に向かう際には、さほど障害にならない位置なので、後回しにしてある。これも後で消すつもりだ。
「早く!」
「う、うむ」
「ヤシリクさん、引っ張りますよ」
「済まない」
ここを離れさえすれば、あとはどうとでもなる。
下り階段の前で、俺はいったん、立ち止まった。さすがにヤシリクの体は重すぎる。どうしようかと思ったのだが……
「ファルス君、少し待ってくれんか」
エルはそう言うと、首元に手をやった。
「父さん! それは」
「今、使わず、いつ使うのだ」
それは見覚えのある錠剤だった。イリクが用いていたのと同じ。身体強化薬だ。
「父さんの体じゃ、そんなの五分も持たない!」
「それで充分じゃないかね」
息子の抗議にもかかわらず、彼はそれを飲み込んだ。
曲がりかけていた背がすっと伸び、表情にも生気が戻ってくる。そして、彼は軽々と息子を抱き上げた。
「さ、行こう」
「は、はい」
彼が身体操作魔術を使えるのは知っていた。そもそも、ジノヤッチやイリクに教えたのがエル自身なのだろうから。ただ、肉体を酷使するこの魔術に耐えられる健康状態ではなかったと判断していた。なぜなら、充分に能力が発揮できるなら、それで不良息子を押さえ込んでいたはずだからだ。
事実、さっきヤシリクが言った通り、その持続時間はごく短いのだろう。それくらい、この魔法薬は負担が大きいのだ。
「急ぎましょう」
先に立って走る。二階に降り立ち、南西から北東へ、一気に進む。ヤシリクの体を脇に抱えたまま、エルはあっさりついてきた。
あとちょっとだ。折り返しの階段を下り、曲がりくねった通路を通って……だが、砦の脇の出口に辿り着く前に、エルは膝をついた。
「父さん!」
「う、ぐ、む……」
もう!?
こんな短時間で、もう力尽きたのか。
これは……
「待っててください! 今、助けを呼びます!」
大して距離は残っていない。外から誰か、村人でも誰でもいいから、呼んでくれば済む。
それより、彼らと別行動する口実の方が必要だ。二人の近くにいると『消火』の呪文を詠唱できない。そうなると、二階の火災がもっとひどいことになる。今、二人がいる場所であれば、煙も届かない。火を消しさえすれば、あとは……
俺は、砦の脇の扉を押し開けた。
「そんな馬鹿な……」
その場で俺は、呆然と立ち尽くした。
完全にあてが外れてしまっていたからだ。
……テンタクを牢屋から引っ張り出すだけなら、こんな派手な作戦は必要なかった。忍び込むなりして、砦の脇の出口から逃げ出せば済んだ。
俺は、ドサクサに紛れてジノヤッチを殺すつもりだったのだ。火災に巻き込まれたのなら、事故死だ。不審火ではあるものの、これ以上ないくらい、無難な死に方にできる。だからこれから、上の階に取り残された彼を片付けるつもりだった。
どうしてそこまでしなければいけなかったのか?
この場でテンタクや子供達を逃がしたところで、根本解決にならないからだ。城砦から出ても、彼らには行く場所がない。まさかテンタクや子供達に、あの過酷な山脈越えができるとも思えない。かといって、西側に抜けるには、関所の門を開けなければならない。それ以外のどこに逃げても、いずれジノヤッチに追いつかれる。
だったら、徹底的にやるしかないのだ。テンタク達を救うのか、見捨てるのか。救うなら、ジノヤッチを殺すしかない。彼は決して妥協なんかしないだろうから。
なぜ、ジノヤッチが妥協しないと言い切れるのか?
それはテンタクの子供達が、領主になるための鍵となってしまったからだ。
先日のフクマットとアンダラの訪問。そしてニュミを巡るあの騒動。あれらはジノヤッチの部下に目撃されていた。
それでジノヤッチには想像がついたのだ。確かに一時期、アンダラは病と称して引き篭もっていた時期がある。それはニュミが生まれたであろう頃と一致する。
つまり、アンダラには、絶対に知られてはまずい秘密がある。明らかになれば、フクマットは激怒して彼女に離婚を申し渡すだろう。そうなれば、後妻の座をヤラマが手にする機会がまわってくる。あとはうまく言いくるめて、彼と一心同体になればいい。
ただ、フクマット自身は生真面目な男だ。アンダラと離婚し、ヤラマとの結婚を承諾したとしても、すぐさまジノヤッチの味方になってくれる保証はない。言いなりにするには、時間がかかるのだ。それより、もっとうまいやり方がある。
アンダラに、それとなく知らせるのだ……お前の秘密は、俺が知っている。お前の隠し子の運命も、俺が握っている。だから協力しろ。フクマットに、ジノヤッチこそチェギャラ村の領主の後継者であると信じ込ませろ。いっそ、ヤラマとの不義密通の後押しもしろ。それで俺は、奴の弱みを握ることができる。
既にアンダラは、数年間にわたる夫婦生活を通じて、夫の信頼を勝ち得ている。それだけの貯金をヤラマに稼がせるには、少し時間が足りない。何しろエルは高齢なのだ。
二人の訪問から拉致まで、二日も要したのは、事実確認のためだろう。手下をウゾク村に送り込み、アンダラ以外の情報源に接触した。ヒズメッチェ? 彼女は、命の危険を感じない限り、口を割らないだろう。だが、もっと簡単に秘密を漏らす相手がいる。アンダラの元恋人だ。金貨が何枚もあれば、きっと事足りた。
確信を得て、彼は子供達全員を攫った。ニュミだけでは駄目だ。なぜか? 秘密が秘密でなくなってしまっては、アンダラを脅迫できないからだ。これはジノヤッチの気まぐれ、表向きには理解不能な暴力でなくてはならない。
彼はここまで考えた上で、子供達を誘拐したのだ。待っていても諦めてはくれないし、説得の余地だってない。
もちろん、この計画がうまくいった場合には、ヤシリク以外にも犠牲者が出る。アンダラは使い捨てられるだろう。でなければ、ヤラマは騎士の妻になれない。恨みを抱かれても面倒だから、テンタクの子供達も始末する。他にも、反抗的な領民は一掃される。恐怖政治の始まりだ。
だから、やるしかなかったのだ。
それが。
……ジノヤッチは、砦の内側から出てきた俺を、驚きの目で見つめていた。
城門の前に立つ彼。そこから少し離れた場所に、手下どもが槍を手に並んでいた。
ジノヤッチのすぐ横には、二人の守衛とヤラマが立っている。その足元には、サルスとネチュノ、ニュミ、それにテンタクが転がされていた。縛られてはいないが、子供達の首元には、鉈が添えられている。
そして、その反対側には、鍬や鋤、棒切れを持った村人達。
薄情な村の仲間達に代わって、俺がテンタクを救い出そうと考え、こっそり砦の裏手に回りこんだ頃。彼らは決心を固めてしまっていた。俺に村を出て行けと言ったのは、こういうことだったのだ。村外れの一軒家から、朝一番に少年が出て行っても、誰も追いかけない。だから、余所者をこの村の争いに巻き込まずに済むはずだと。
積み重なった悪事、度を越えた暴挙の数々。ついに彼らは立ち上がった。或いは、テンタク達に対する非道を見て、明日は我が身と悟ったがゆえかもしれないが。とにかく、それに気付いたジノヤッチは、鎮圧する必要に迫られた。だから手下どもを掻き集め、城門の前に立たせておいた。そして、さぁ、激突というところで、予期しない爆発が起きたのだ。彼らの頭上で。
これには、どちらの側も動揺した。ジノヤッチは、村人が挟み撃ちを考えて、内側に誰かを送り込んだのかと想像しただろう。だが、村人の側からすると、まったくの予想外だ。彼らはジノヤッチは憎んでいても、エルのことを支持している。この火災のせいで、優しい領主が死んでしまったら。
だから、彼らの衝突は、中途半端なところで止まってしまった。そこにテンタク達が転がり出てきたのだ。彼らはあっさり捕らえられ、ジノヤッチは人質を手にした。まさに膠着状態だ。
そこに俺が顔を出したのだ。
全員の視線が俺に集中した。
……たった一人を除いて。
「ぶっ、ぶおあああ!」
「きゃっ!?」
彼らが見せた隙。今しかなかった。
テンタクは体を突っ張らせて、子供達に向けられた鉈と守衛に体当たりした。それが勢い余って、ヤラマにぶつかったのだ。
「こっ、この野郎!」
数で言えば、手下どもより村人の方がずっと多い。なのに彼らが突っ込んでいかないのは、一つにはジノヤッチを恐れているからだが、もっと大きな理由としては、子供達が人質になっているからなのだ。だから、彼らを守れさえすれば。
「逃がすと思うか! このっ」
ニュミ以外は殺しても構わない。
ジノヤッチは剣を腰から引き抜いた。
「死……うおっ!?」
「ぎひいい!」
今にも斬りつけようと一歩を踏み出したジノヤッチ。その腰を、後ろからテンタクが抱きすくめていた。
それに気付いて、サルスの、ネチュノの足が一瞬止まる。これでは、彼らは助かっても、テンタクが。
「テンタク! なにやってん」
「い、行げぇ! 逃げっ……走れ! 走れぇぇえ!」
いち早く立ち直ったネチュノが、強引にニュミの手を引いて走り出す。それを見て、サルスも後に続いた。
「逃がすな! 捕まえろ!」
ジノヤッチの号令に、村人達と向き合っていた手下どもは後ろを振り返る。逃げ道を塞がれたらおしまいだ。
だが、そうはならなかった。
「てめぇらはこっちだぁ!」
今、とばかり、村人達は道具を振り下ろした。鈍重な動きだ。だが、それが全力だった。迎え撃つ男達とて、さほどの力量があるのでもない。あっという間に槍の柄と鍬の柄で、押し合いになった。
「バ、バカにしやがって! 貴様ら、ただで済むと思っているのか!」
激昂したジノヤッチが怒りの声をあげる。だが、それで怯む者など、どこにもいない。
確かに、この場を逃れたところで、村人にも子供達にも、隠れる場所などない。そしてジノヤッチは、この地における最強の存在だった。彼が自身の記憶にある通りの能力を自在に発揮できるなら、抵抗する愚か者どもは、そのうちに全員打ち倒されるはずなのだ。
だが、もう彼らは立ち上がった。こうなったらもう、勝つか負けるか。今更、怖がってみせたって、何の意味もない。
「くっそっ……! なら、もういい! 皆殺しだ! だがまずは」
剣を鞘に戻すと、両手でテンタクの頭を掴んで、強引に体から引き剥がそうとした。
ブチッ、と音がして、髪の毛がごっそり抜ける。
「ええい!」
二度、三度殴りつけられると、テンタクはその場に倒れ伏した。
それで今度こそニュミを捕まえようと、一歩を踏み出す。その足が、また止まった。
「ぐううぉう!」
ジノヤッチの足にしがみつき、ブーツに噛み付いて。
なおも行かせまいと、テンタクは足掻いた。
「ゴミクズ野郎のくせに! それなら貴様から死ね!」
腰から剣を引き抜き、それを逆手に持つ。
そして、あくまで離そうとしないテンタクの首に突き立てようと振り上げ……それが不自然な方向に投げ捨てられた。
「ぐあ!?」
この痛み。彼は知っているはずだ。『行動阻害』の術は、身体操作魔術の基本だ。
「これは……誰が……まさか」
俺がやったとは思っていないらしい。どこから? と周囲を見回す。エルかヤシリクがやったと思うほうが自然なのだから。好都合だ。
一度、深呼吸。そして手に持っていた剣を引き抜き、鞘をそこに捨てる。消えかけている頭上の火の光を浴びて、刀身がぎらついた。
俺もここまで、ただ様子を見ていたのではない。この混乱に乗じて、二階の火災に向けて『消火』の術を行使していたのだ。ついでに、ジノヤッチから剣術のスキルをいただいた。それが済んだ以上、あとはもう、こいつを片付けるだけだ。
「ジノヤッチ」
後ろからの声に、彼はそろそろと振り向いた。
「祈れ」
せめてモーン・ナーに許しを乞うといい。
だが、俺の一言に、彼は嘲笑を浮かべた。子供の分際で、どういうつもりだと。
俺は顎をしゃくって、取り落とした剣を拾えと促した。
「ファル……ス?」
テンタクは、またも俺を庇おうとして、ふと違和感に気付いたらしい。
いつの間にか、村人と守衛の間の争いも、ほぼ中断されていた。ジノヤッチが武器を取り落とし、俺が剣を引き抜いて勝負を挑もうとした、その時点から。
チェギャラ村は、長らく平和だった。アルディニア王国自体、ここ百年以上もの間、対外戦争を経験していない。隣の領地からの流民、それに集落の外に時折現れる鈍重な魔物が、彼らにとっての最大の脅威だったのだ。
だから彼らは戦いを知らない。人が人を殺すということを、知らない。
本当の殺意に、この場の誰もが息を飲んだ。
彼らが目にしたことのない何かが、この場に降り立ったのだと。説明されるまでもなく、うっすらと気付いたのだ。
ジノヤッチは無言で俺に背を向け、遠くに抛ってしまった剣を拾い、握り締めた。
俺は進み出て、静かに構える。
向かい合う。誰も動かない。城門の横の篝火だけが、パチパチと爆ぜていた。俺とジノヤッチ、互いの息遣いが聞こえるばかりだ。
次第に静かになる呼吸。気持ちを落ち着けているのか。それとも、動き出そうとする兆しを隠そうとしているのか。
不意にジノヤッチは、剣を口元に引き寄せ、小声で何かを囁きだした。
どうやら気持ちを落ち着けて、適切な対処を思いついたらしい。さっきの激痛がエルによる『行動阻害』の結果だというのであれば。魔術には魔術で対抗すればいい。恐らくは、この呪文が『苦痛軽減』なのだろう。
知らないとは、哀れなものだ。
だが、準備万端整ってからも、彼が動き出すのに数秒を要した。
「ぅらぁっ!」
気合と共に、剣が振り下ろされる。俺はそれを軽くいなした。
ジノヤッチは察している。
目の前の少年は、奇妙だ。たかが子供のはずなのに、構えには不思議と隙がない。じっと止まっているはずなのに、どこから動き出すか、見当もつかない。
だから、思わず攻撃を躊躇したのだ。しかし、動かずにいるわけにもいかなかった。
「がっ!?」
弾き飛ばされた剣が、城門の下の石畳の上に転がり、短く金属音をたてる。
彼の攻撃を軽く横に流し、手元を強打しつつ『行動阻害』……そして後は、掬い取るようにして、剣を絡めて切っ先を振り上げる。それだけで、ジノヤッチの剣は手から離れた。
殺してもいい。だが、ただ殺すのでは駄目だ。運悪く死んだというだけでは、彼の部下達は恐れない。自分達の親分がいなくなった以上、領主の手駒として生きる未来はなくなる。となると根無し草の彼らは、そのまま略奪者になってしまう。
だから屈辱を演出する。力量差を見せ付ける。ジノヤッチはここで死ぬ。運が悪かったのではなく、力がなかったから。そして、逆らえば自身も同じ運命を辿るのだと。
顎でしゃくって、もう一度剣を拾えと促す。
彼の目には、既にして負の光が宿っていた。いったいどこから? 目の前の少年剣士が手強いのはわかった。だが、それだけではない。いまいましい。エルが、仮にも実の息子を差し置いて、こんなガキに手を貸しているのかと。
鼻で笑ってしまう。これだけの悪事を働いておいて、今だけ家族の権利を訴えるのか。
剣を拾った。だが、その後、どうすればいいかわからない。
いや、どうしなければいけないかなら、わかっている。俺を斬る。それしかない。だが……
「おぅらっ!」
その手段が思いつかない。
同じだ。斜め上から振り下ろされた剣は、またあらぬ方向に飛んでいく。
突如、全身を襲った激痛に、ジノヤッチは膝をつく。
俺はそっと切っ先を彼の肩に置き、二、三度、軽く叩いた。
どういうつもりだと視線を向けた彼の首に、そっと添えて、力を込める。慌てて尻餅をついて、彼は身を離す。
今、身を引かなければ、本当に頚動脈を断ち切るつもりだった。そうわかったからだ。
この世界に生まれて十年。俺の手は既に、無数の人の血に染まっている。
そこにもう一人くらい、なんてことはない。
俺はもう一度、剣を指し示した。
次が最後だ。生き延びたければ、全力で挑め。
迫り来る死の予感。小さな悪魔の無言の宣告に、ジノヤッチは汗だくになっていた。悔しげに歯噛みするも、その顔からはまったく血の気が失せていた。
だが、やるしかない。拾うしかない。他に選択肢がない。
いや、本当ならある。今すぐこの場に跪き、土下座して、前非を悔いるのだ。そうすれば死なずに済む。しかし、思いつかない。思いついても、きっとできないだろう。
よろめきながら、彼はもう一度、剣を拾い上げた。
そして、どうやら最後の手段を使うことにしたらしい。
彼の手が、自身の首元に伸びる。そこには見覚えのある緑色の錠剤が。噛まずに飲み込む。だが……
だめだ、我慢しろ。
口元が勝手に引き攣って。笑いがこみ上げてくる。なんて間抜けな。なんて滑稽な。何も知らずに。
ああ、笑っているのは俺じゃない。俺じゃなくて、この顔に貼り付いた仮面なんだ。
……いくら魔法の薬を使おうとも、本人の技量が皆無であれば、効果は発揮されない。だが、一時間後には、きっと虚脱症状が彼を襲うだろう。その時まで生きていられれば、だが。
本人も気付いたらしい。なぜか薬の効果がない。なぜだ? 考えても仕方がない。このままでは、殺される。
彼は俺に向けて、まっすぐ斜め下に切っ先を向けた。腕を伸ばして、防御的な構えを取りながら、じりじりと円を描くようににじり寄る。
だが、途中で考えを変えたらしい。すっと二、三歩下がると、左右に怒鳴った。
「やれ! こいつを袋叩きにしろ!」
ジノヤッチの中では、卑怯でもなんでもないのだろう。なぜなら、最初からこの少年はアンフェアだったからだ。見えないところから、エルかヤシリクに魔法で援護してもらっている。ならば自分も、人の手を借りて何が悪い?
もちろん、悪くない。殺し合いとは、そういうものだ。いいか悪いか、きれいか汚いかなど、些事だ。勝たなければ意味がない。
だが、情けない命令に、一瞬、部下達は顔を見合わせた。それは村人達にしても同様だ。そしてジノヤッチは、その戸惑いに苛立つ。
充分な隙だ。
「あがっ!」
遅い。
三度、剣は手を離れ、ジノヤッチはその場に膝をついていた。そして、俺の剣は彼の首元に添えられている。彼は小刻みに震えながら、何か信じられないものを見るかのように、青白い刃に目を向けていた。
これで終わり……
「……くそっ」
「ぎあっ!?」
横に引くつもりの刃を、俺は乱暴に振り上げた。首に食い込むはずの剣が、ジノヤッチの左耳を撥ね飛ばす。一秒ほど経ってから、ぺたんと間抜けな音がして、それが石畳の上に落ちた。
殺すつもりだったのに。
視界の隅に、見えてしまったのだ。手を胸の前で組んで、祈るテンタクの姿が。
死なないでくれ。殺さないでくれ。そう願っているのが、わかってしまったから。
無残そのものの格好だった。
何度も殴りつけられ、踏みにじられたその顔は、既に痣だらけだった。鼻血が流れている。それに、口元からも血が滴っていた。髪の毛も引き千切られて、前歯も折れている。
立ち上がることさえできない。激痛と恐怖ゆえに、とっくに失禁しており、周囲に特有の悪臭が漂っている。
なのに、その目には、怒りなどなかった。ただ悲しそうにジノヤッチを見つめるばかりだったのだ。
ここまでされたのに。
まだこいつの無事を祈るのか。
だが、俺にはわかる。こういう人間が改心することなどない。今は恐怖から謝罪するとしても、後日、絶対にまた仕返しを考える。だから殺すしかない。
その時、砦の横の扉が、軋みながら開いた。
最初の一歩で、その体はよろめき、ふらつき、上半身を扉に叩きつけた。
「エル様!」
「ご無事で」
村人達から、口々にそんな声が飛んでくる。
ただでさえ老衰した体。それに魔術の後遺症もあって、まともに立つことができない。ヤシリクの体を支えるのに使っていた杖を借りたのだろう。棒に寄りかかりながら、足を引き摺って、前に進み出た。
「……皆に、詫びたい」
力の入らない声で、彼はそう告げた。
「私が決断できずにいたせいで、大きな迷惑をかけた。最後の仕事の後で、皆の裁きを受け入れたい……」
誰もが声をあげず、黙って彼の言葉に耳を傾けている。
エルは、石畳の上の砂を引き摺りながら、なんとか愚かな息子の前に立った。
「ジノヤッチ」
返事はない。
彼の表情にあるのは、怒り、屈辱、恐れ……そして、一瞬父を見上げるも、すぐにまた、顔を伏せた。
「私はお前を許すわけにはいかん」
「父上」
「黙れ」
エルは俺に振り返った。
「……ファルス君」
「はい」
「済まないが、その剣を借りてもいいかね」
領地を荒らした賊。その始末をつける責任は、彼にある。
俺は無言で剣を差し出そうとした。
「だ、だめですだ!」
離れたところにしゃがんでいたままのテンタクが、がばっと跳ね起きた。そして手足をバタバタと動かしながら、歩くというより這いずるようにして、エルとジノヤッチの間に割って入った。
「親が子供に、そんなこと、やっちゃあなんねぇですだ」
「テンタク」
「おらぁ、怒ってねぇだ。なんも怒ることねぇだ。やっちまったら、取り返しがつかねぇだ」
「お前の気持ちはありがたい。だが、わしには領主としての責務があるのだ」
だが、テンタクは目に涙を浮かべて、何度も何度も石畳に頭をぶっつけた。
「なんねぇだ、なんねぇだ、そんだけは……」
足元で、身を震わせながら縮こまる彼の姿に、エルは溜息をついた。
そして、一度は剣を取ろうと持ち上げた腕を、そっと下ろす。
彼は改めて向き直り、告げた。
「領主として命ずる。明朝、西の門より立ち去れ。二度とこの地に立ち入ることまかりならん」
ジノヤッチは、唇を引き結んだ。
屈辱だ。そして今度こそ、すべてを失った。だが、命は助かった。
「この決定に従わない場合、私は国王に逆賊の討伐を願い出る。この件については、この場の村人達が、その証人だ」
敗北を悟って、手下どもも、腕を下ろして俯いている。
「身の回りの物を持ち出す自由は与える。但し、日の出までにこの村を出よ。直ちに立ち去れ!」
鋭い口調に、彼らははっとして、動き出す。たいした財産など持っていない。だが、当座の食料や着替えくらい、持ち出さなければ。街道に放り出されてしまうのだ。いきなり飢え死になんて、したくない。
エルは、足元で祈り続けるテンタクに、静かに歩み寄った。そこで杖代わりの棒を手放し、よろよろと膝をつく。
「テンタク」
老いの滲む、その皺だらけの手で。
彼はテンタクを抱きしめた。
「すまなかった」
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