贈り物の真実

 キノコ鍋を食べ終えてから、俺達はまた、あの狭い家の中で寝転がった。前世はもちろん、都会のピュリスとも違って、夜の娯楽などない田舎の村だ。暗くなったら眠る以外にない。

 だが、俺は目を閉じたまま、静かに耳を傾けていた。予感があったのだ。


 時折、風が渡るだけの静かな夜に、雑音が混じった。


 一歩一歩、静かに。慎重に近付いてくる。そうはいっても視界の利かない夜間だ。足元の草を蹴散らすのは、どうにも避けられない。

 俺は動かない。家の出入口の外。そこから軽い足音が聞こえてくる。


 ガトッ、と何かが置かれた音がした。

 その瞬間、その場所を狙って、俺は毛布の中で、静かに詠唱した。


「……ふあっ!」


 押し殺した小さな悲鳴が聞こえる。女だ。俺は静かに身を起こし、剣だけ携えて、そっと外に出る。

 見れば、少し離れたところを駆けていく影。見失うわけにはいかない。俺は走り出した。


 ただ、もう正体ならわかっている。ピアシング・ハンドのおかげで、おぼろげにであっても相手の姿を認識できさえすれば、名前だけなら即座に判明するからだ。しかし、まだ動機を確認できていない。


 追跡者に気付いた女は、必死で走り出す。最初は足場のいい街道を進んでいたが、それでは逃げ切れないと悟ったのだろう。すぐ左に折れて、石橋の手前で、林の中に踏み込もうとした。夜の森に紛れられたら、追跡は困難だ。だが、させるか。


「きゃあっ!?」


 威力のこもった『行動阻害』を受けて、彼女は全身を引き攣らせた。自分の体を支えることができず、よろめいて、そのまま夜の川の中に落ちた。

 やりすぎたか? だが、夜の森に入るほうが、命の危険が大きかっただろう。猛獣に出会ったら、それこそ命がない。ここの川に落ちたくらいなら、怪我を負っても救える余地がある。

 慌てて駆け寄るも、問題はなかった。川の水量はそこまででもなく、彼女が溺れ死んだり、流されたりする恐れはなかった。ただ、突然のことに混乱して、派手に水しぶきをあげながらもがいている。

 ようやく正気に返って、そこが「足がつく」どころか、そもそも座った状態でも、せいぜい腰くらいまでしか水がないとわかったらしい。身を起こして、川べりに手をかけ、ふうと息をつく。その首元に、青白い刃が煌いた。


「ひっ!?」

「ヒズメッチェさん、そのまま、静かにあがってきてください」


 名前を言い当てられた。それでもう観念したらしく、彼女は抵抗するそぶりも見せずに、静かに川から這い上がってきた。


「寒いでしょう。ここまでやるつもりはありませんでした。済みません」

「……いえ」


 謝罪をして、頭を下げてから、俺は剣を鞘に戻した。もう脅かす必要も、その意味もない。顔を見られてしまった。名前まで知られている。それが彼女にとっては、一番の問題なのだから。


「だいたい見当はついていますが……教えてください。どちらですか」

「言わなければいけませんか」

「本来、僕には関係ないことです。ただ、納得したくて」

「ああ」


 暗がりの中で彼女は左右を見回した。誰もいないと確認してから、そっと答えた。


「……奥様のほうです」


 そう言った彼女。

 それは昼間にこの村を訪れた夫妻、フクマットとアンダラに仕える小間使いだった。


「お願いです。このことは誰にも」

「どうせ僕は、すぐこの村を出て行きます。誰かに何かを言い残す必要もありませんから」

「もし知られたら、アンダラはもうおしまいです」

「アンダラ?」


 呼び捨てにする? 奥様、ではなく?

 俺の疑問に、彼女は言い添えた。


「もともと、幼馴染なんです、アンダラとは」

「それがどうして小間使いなんかに」

「ポサドフさんの家は裕福でしたけど、うちは普通でしたから。それに、騎士の方と結婚するとなったら、使用人くらい、いないではすまないからって……アンダラが私に頼んだから」


 なるほど、信頼できる友人に、小間使いという名目で近くにいてもらおうと考えたわけだ。


「それで……要するに、ニュミさんの本当の母親は」

「はい、アンダラです」

「なぜ? ウゾク村では一番裕福な家なんでしょう? どうしてわざわざ、この辺で一番貧乏なテンタクさんなんかに押し付けたんですか。ひどすぎませんか」

「ええ」


 その場に膝をついてしゃがみこんだまま、滴る水にも頓着せず、彼女はぐったりと項垂れて、淡々と説明した。


 今から七年ほど前。アンダラはまだ十四歳の、美しい少女だった。

 セリパス教があろうがなんだろうが、若い男は、きれいな女に夢中になる。そういうものだ。ましてポサドフの家は、領主の一族を除けば、この辺で一番の金持ちでもある。要するに、ウゾク村の若者達にとって、アンダラに言い寄って損することなど、何一つなかった。

 彼女の父親は、娘に手垢がつくのを恐れていた。だから厳しく見張っていたのだが、どうしたって完璧にはいかないものだ。それに若い娘としても、そろそろ自分の値打ちを実感したくもあった。ほどなく、彼女に一時の満足を与えられる男が現れた。


 結果は? 戒律など何のその。その場の興奮に駆られての軽率な振る舞いは、妊娠を招いた。

 無論、大問題ではあったのだが、男の側からすれば、普通なら「してやったり」といったところだ。セリパス教の常識に染まった人達は、この手の不祥事をもっとも嫌う。で、そうなると、父親としてはまったく不本意ながらも、事後処理を進めざるを得ない。つまり、相手の男との結婚を認める。婚前交渉などなかったことにするのだ。


 ところが、今回に限っては事情が違った。

 先代の監察官が、高齢のために職を辞することになり、ほどなく代わりの人物がやってくることになっていた。その人物も、先代の監察官の親戚筋で、要はコネ、縁故人事だ。しかし、そうでもなければ、こんな田舎に就職する騎士なんて、なかなか見つからないだろう。

 新たな監察官となる若者は、独身だった。それでアンダラの父は、事前に手紙でやり取りを進めており、自分の娘を宛がうことも約束していた。

 現代日本からやってきた俺からすれば随分な話だが、前近代的な社会、それもこんな片田舎では、親の一存で結婚相手が決まるなど、不思議でもなんでもない。ましてや、相手は都からやってくる騎士様だ。この村に定住して、特産品の納税と、近隣の領主の監視を引き受けるという、いわば社会の頂点に立つ男なのだ。ポサドフが大喜びで話を進めたのも、自然なことだった。


 それがこの不始末だ。

 まだ妊娠していなければ、相手の男を追い払うだけで済んだ。処女ではなくなってしまったが、そこはなんとでもごまかしようはある。だが、子供は? 堕胎しようにも、既に手遅れなくらい、娘のお腹は大きくなっていた。


 幸い、フクマットの着任までは数ヶ月あった。彼女の父は、病気と称してアンダラを自宅に閉じ込め、出産させた。だが、そこからどうする? 子殺しは、姦通に勝る大罪だ。さすがに躊躇した。

 そこで思いついたのだ。隣の村に住んでいる、間抜けなお人よしのことを。


 後始末は、アンダラの幼馴染である彼女、ヒズメッチェが引き受けた。まだ赤ん坊のニュミを連れ出し、テンタクの家の前に捨てた。その後も、こっそり食べ物を差し入れてきた。ウゾク村にいる時には、アンダラの秘密が知られないように、それとなく庇ってきた。


「ですから、何卒、この秘密は」

「……はぁ」


 どこもかしこも変わらない。

 人間のやることなんて。


「よくごまかせましたね」

「旦那様は、真面目な方ですから」

「ろくに女を知らない男、ですか」


 妊娠の末、出産までしたのだ。いくらダイエットしようが、服を脱がせて昼間の光に照らしてみれば、その体にはごまかしようのない跡が残されているのがわかるはずだ。しかし、そんなことはまずしない。

 フクマットもまた、敬虔なセリパス教徒なのだ。それが妻とはいえ、女性の裸身をじっくり鑑賞するなど、もっての他だ。そういう行為は、人の立ち寄らない、光も差さない密室で、そっと済ませるべきものなのだから。

 そして、恐らく彼は、ここに来るまで童貞だった。恋愛はもちろんのこと、娼婦を買ったこともなかったに違いない。知識もなかった。だから、肌を合わせても、相手が処女か、そうでないかの区別などできなかった。


 近隣の村で一番裕福な農家に婿入りし、のどかな田舎でのんびり仕事をしながら、周りの人に敬われ、美しく優しい妻に寄り添われて、楽しく過ごす人生。ところが、中身はどうだ? 何も知らないフクマットこそ、いい面の皮だ。

 ただ、そうしてみると、昼間の行動にいちいち整合性が取れてくる。ニュミの母親とされたことで一瞬、動揺したのもそうだし、その後、やけに優しげに抱きしめたのも。それとヤラマのいやらしい視線に気付いてうまく牽制できたのも、過去の恋愛経験が生きているからだろう。


「あの」

「はい?」

「このことは、どうか内密に」

「ああ……」

「私にできることなら、なんでもしますから」

「別に何も……いや」


 ふと思いついて、俺は尋ねた。


「じゃあ、ネチュノの母親は誰か、知っていますか?」

「えっ?」

「サルスも、実はこの辺の村の誰かが親ってことは」

「済みません、それはどちらも、私には」

「そうですか」


 まぁ、知ったからといって、俺がどうするわけでもない。彼らを脅して、金品でも巻き上げる? ばかばかしい。

 今、ニュミの実の親の素性を知ったが、これを教えるのもなしだ。当然、サルスやネチュノについても、情報を得られたとしても、黙殺する以外にない。でないと、この狭い二つの村での人間関係が、滅茶苦茶になるからだ。まさに百害あって一利なし。聞かなかったことにするのが一番だ。


 ならどうして、わざわざヒズメッチェを捕まえたのか。だから、納得したかったのだ。

 この村で一番哀れなはずのテンタクに、みんながみんな、厄介ごとを押し付ける。サルスもネチュノも、そしてニュミも。ジノヤッチに睨まれたくないからって、俺の身柄もテンタクに任せた。

 そんな真似をしでかす連中が、どんな顔をしているか、見てやりたくなったのだ。


「僕はこの件を忘れます。もうすぐここを出て、遠くに行きますから。あなたは今まで通りになさってください。お邪魔しました」


 俺は振り返り、彼女を置いて去った。


 家の前に帰り着くと、小さな影が俺を待ち構えていた。


「余計なことしやがって」

「ネチュノ……さんですか」


 聡い彼のこと。とっくに気付いていたのだ。

 ニュミが引き取られてから、時折持ち込まれる食料だ。となれば、その親は二つの村の誰かに決まっている。捨てた理由も、経済的なものではない。家の名誉を保つためだ。となれば、深く考えるまでもなく、結論は出ていた。


「もらえるもんがもらえなくなったら、どうしてくれんだよ」

「見なかったことにしましたよ。これからも変わりません。大丈夫です」

「ちっ」


 気分が落ち着かないのか、彼は家には戻らず、街道のほうにフラフラと歩き出す。俺も後についていく。


「なぁ」

「はい?」

「俺の……いや、なんでもない。そっちは違ぇんだな」

「ええ、多分」

「くそったれ」


 いくら頭の切れる少年でも、断ち難い思いはある。普段は無理だとわかっていても、もしかして、と思うような出来事があれば、気持ちは揺れる。だが、ないものはないのだ。


「調べましょうか?」

「いらねぇよ。だってそうだろ? もう、答えなんか出てる」

「……そうですね」


 テンタクの家の前に捨てられてから、もう何年も経つ。だが、何の音沙汰もない。

 恐らく、ネチュノの心にあるのは、かつての俺が感じていたものと、大差ない。……確かに親は自分を捨てたのかもしれない。だとしても、一度だけ。一度だけでも顔を出して、見捨てた事実を認め、謝ってくれれば。

 なのに、その程度のこともしてくれないのだ。つまりはそれが答え。


 ニュミには母親が現れた。でも、彼には?


「ったくよ」


 吐き捨てるように彼は呟いた。


「責任取れねぇんなら、サカってんじゃねぇよって」


 ……以前、収容所でウィストに言ったことを思い出す。

 人間が得意としているのは生きることであって、幸せになることではない。そうしないほうがいいことであっても、目先の欲望に狂わされる。結果、子孫は残っても不幸になるような行動を選んでしまう。生まれること、生きることが素晴らしいとは限らないのに、人はどうしても生きよう、生きようとする。


「俺達には……親なんか、いやしねぇんだよ」


 そう呟く彼の声は、救いようもなく弱々しかった。

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