あれがお前の母ちゃんだあ!

 城砦を背にしてしばらく、俺は石橋を渡ろうとしたところで、俺は人だかりを目にした。


 薄く雲のかかった青空の下、背が高く身なりのいい男を囲んで、輪ができていた。彼の顔には笑みが浮かんでいる。その表情には、澱みや穢れのようなものは見て取れない。いかにも人のよさそうな、と言えば聞こえはいいが、なんとなく世間知らずな印象を与える顔つきだ。

 しかし、微笑みかけている相手が相手だけに、俺は不安を感じる。なにせ、話し相手はジノヤッチ。すぐ隣にはヤラマもいる。


「来るたびに大騒ぎじゃ、僕もどうしたらいいか、わからないな」

「何なら毎日いらしてくださいよ。チェギャラ村挙げて毎回大歓迎しますから」

「ははは……それじゃ、こっちに住むしかないね」

「ええ、是非。城館の一室をご用意しますよ」


 あの尊大なジノヤッチが、敬語で話しかけている。いかにもフレンドリーな感じの笑顔で。


 都から来た騎士、か。彼の外見は、この辺の住民と比べればずっと垢抜けている。ごてごてした襟の目立つ、赤紫色の上着。とはいえ、もしこんな格好でエスタ=フォレスティアの王宮に顔を出したら、時代遅れのファッションセンスを、影で笑われるだろう。

 彫りの深い顔立ちに、くりっとした目。短めの縮れた金髪が垂れ下がり、額が広々している。大柄だが、働いている人間の体ではない。表情にも、ストレスを感じさせるものがない。のびのび育った苦労知らずのお坊ちゃん、という雰囲気だ。


 王都からこんな田舎に来たくらいだから、俺はてっきり、もっといろいろ溜め込んでいる人物なのではないかと想像していた。まともな出世ができずに、社会から弾き出されたような……だが、どうもそんな風に見えない。

 なぜ、と考えて、すぐ理由に行き着いた。むしろ、この村にいるほうが、心地よいのだ。チェギャラ村とウゾク村。この二つの村落しかない社会で、彼はその頂点に立っている。一応、領主のエルもいるが、それと比べても、彼の地位は対等か、もしかすると上だ。この若さで、誰からも尊敬され、大切にされる暮らしができる。もともと欲もそこまでなかったのだろう。それなら、王都で過酷な出世レースを繰り広げるより、こっちのほうがずっといいのかもしれない。


「ぜひご一緒したいわ。久しぶりに王都の話に花を咲かせたい気分よ」

「それはそれは。じゃ、どうする、アンダラ」

「あなた、でも、ツマラーカの樹脂を集めて数えるお仕事がおありでしょう?」

「数日くらい、遊んでいっても、そんなに困らないでしょう」

「そうよ、どうせ手を動かすのは下っ端なんだし」


 最後に口を挟んだヤラマに、彼……フクマットは難しい顔をした。


「うーん、手作業をするのは村のみんなでも、責任は僕にあるからね」


 なるほど、基本的に真面目人間、と。空気も読めないが、ルールを破ったりもしない。嫌味をこめて「いい子ちゃん」と呼んでもいいかもしれないタイプの人物らしい。だが、むしろそれゆえにジノヤッチは攻略に手間取っているようだ。


「仮にも、この地域の責任者なんだ。それに、まだまだ慣れてないことも多い。せめて頑張ってるところを見せないと、みんなに呆れられちゃうな」


 ヤラマは引き攣った笑顔で頷いた。


 フクマットは、「下っ端」という言い回しが気に入らなかったみたいだ。

 実作業をしているのは村人で、自分はただ、それを監督しているだけ。仕事の要点なんて、まだまだ全然わかっていない。自分は一番偉い人ということにはなっているけれど、みんなの支持がなければ、それも意味をなさない。

 彼の気持ちを代弁すると、そんなところだろうか。


「ははは、大変結構ですよ。村のみんなも、いい監察官が来てくれたって思ってますよ、きっと」

「だったら、僕もうれしいけどね」


 妹のドジを埋め合わせようと、ジノヤッチがお追従を並べ立てる。


 ネチュノやヤシリクの言葉を信じるなら、彼はフクマットに妹のヤラマを押し付けたいらしい。そうすることで、仲間に取り込み、ジノヤッチのこの地に対する支配権を王国側に認めさせる手助けをさせたいのだ。

 今の時点では、どれだけ暴力で実効支配をしていても、王国の認める領有権は代わらずエルに残されている。彼の死後には、弟のヤシリクに委譲される。


 そもそも、この村の暴力支配が成り立っているのは、王国の統治体制の緩さにある。エスタ=フォレスティア王国では考えられないことだが、古臭い封建制度ゆえの領主への不干渉主義が、積極的介入をさせないのだ。

 そこにエルの優柔不断がある。不肖の息子とはいえ、実子を罪に落とすには迷いもあるのだろう。本気になれば、王国軍の派遣だって依頼できる。なぜなら領主と王国は封建関係で結ばれており、ゆえに領主は、王が認めた領主権の「保護」を求めることができるからだ。要するに今はまだ、「お目こぼし」されているといえる。

 もちろん、その優柔不断の中には、ジノヤッチの報復を恐れる気持ちもあるのだろう。いざ、本気で国王に支援を求めたと知れたら、まずヤシリクは殺される。エル自身もそうなる可能性がある。村人達にも災難が降りかかるのではないか。


 だが、そのエルももう、老境に差し掛かっている。既にイリクを失い、心身ともに弱り果てている彼には決断力がない。だが兄を恨みぬいているヤシリクが、父と同じように我慢してくれるとは思えない。なら、ヤシリクを殺す? それは王国が委任統治を認めた領主を排除する行為になる。つまり、反乱だ。

 今、ジノヤッチがエルを殺して成り代わることができずにいるのも、それが理由なのだ。やってしまってから王国に忠誠を誓うといえば? そんなの通用するわけもない。封建制度とは、王が地方領主の領有権を承認する代わりに、領主達の忠誠を得るシステムだ。一方通行で成立する代物ではない。


 だから、エルが後継者をジノヤッチに変更したことを証言する人物がいなければならない。しかもジノヤッチの経歴には既に傷がついている。そこもカバーして、再び騎士の腕輪を与えてもらえるよう、改心ぶりと実績、能力をアピールしてもらう必要もある。

 そしてヤラマはそれに協力している。彼女にはもう、失うものがない。王都での不行跡が原因で、この上なく不名誉な形での離婚を経験してしまった。だが、アンダラからフクマットを「寝取る」のに成功すれば、一躍、騎士の妻に返り咲きだ。


 だが、フクマットは気付かない。それとなくヤラマが示す「オーケー」のサインをあっさり見落とす。たとえばもし、彼がうかうかと城館での一泊を希望したら、その夜には「既成事実」が作られてしまうだろう。だが、それをアンダラが食い止めている。

 女の心は、やはり女が敏感に読み取るものだ。ヤラマのよからぬ思惑を感じ取り、彼女はそれとなく夫に仕事を思い出させる。それで充分、身を守れる。

 というのも、フクマットが世間知らずで、かつ真面目な人物だからだ。だからこそ、ジノヤッチは最初、簡単に取り込めると甘く見た。しかし、いざ動かそうとすると、融通の利かないこと、この上ない。結果として、賄賂も色仕掛けも何も通用しないのだ。


「じゃあ、来月の納入の件は、とりあえずそんな感じで……父に伝えておきます」

「いつも済みませんね、ジノヤッチさん」

「いえいえ、とんでもありません。本来なら、城館にお招きしておもてなししなければならないところなのに」

「お気遣いなさらず。ご病気のお父上には、宜しくお伝えください」


 エルは「病気」か。

 そして、評判とは裏腹に、ジノヤッチも「いい人」か。


 話が済んだジノヤッチは、身を翻してこちらにやってくる。一瞬、目が合った。だが、それだけだ。

 彼は一瞬、後方に視線を向け、それからまた、砦のほうへと歩き去っていった。


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 (自分自身) (11)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、9歳・アクティブ)

・マテリアル ラプター・フォーム

 (ランク7、オス、14歳)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 6レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 格闘術    5レベル


 空き(0)

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 とりあえず今日の収穫作業を済ませた。

 薬調合のスキルは、いったんバクシアの種に収納。そして手早くジノヤッチの格闘術を奪い取った。次はどうしようか。

 彼が持っている能力のうち、多少なりとも値打ちがあるのは、あとは剣術くらいだ。指揮や管理といった技能もあるが、何れもレベルが低い。一番ありがたみがあるのはルイン語の能力だが、これは奪うとさすがにバレる。


 それで、人だかりのほうを見ると……まだ村人が大勢いる。テンタクも、その子供達もいる。

 はて、それならフクマットに告げ口する絶好のチャンスなのではと思ったが、そうでもないらしい。ジノヤッチも弁えていて、ちゃんと監視要員を残していた。一人だけ、農業関係のスキルを持たない男がいたから、こいつだろう。

 もし、村人がジノヤッチの横暴を訴えたらどうなるか? フクマットがそれを信じた場合、都に向けて手紙を書いて送ることになるが、まずジノヤッチはその連絡を遮断しようとするだろう。それが難しいなら、もうここを捨てて逃げるしかなくなるが、その場合には、村人達に復讐してからになる。

 さっき、俺と目を合わせた後、わざわざ後ろに振り向いたのは、きっとそういう意味だ。お前、フクマットに余計なことを言うなよ? そうしたら、あそこまでお前を庇ったテンタクが、子供達と一緒に八つ裂きにされるぞ。


 さて、どうしようか。

 そう思ってぼんやり前を見ていると、俺に気付いたテンタクが手を振った。


「おぉ、ファルスでねぇか」


 フクマットは相変わらず、集団の真ん中に立っている。

 ジノヤッチと話していたのは、きっと王都への納税の件だろう。特産品であるツマラーカの樹脂を、来月辺り、またまとめて発送するのだ。その打ち合わせは済んだ。では、何しにここに居残っている?


「テンタクさん、皆さんはいったい、何をしているんですか?」

「ああ、取引、だべ」

「取引?」


 俺が首を傾げると、近くにいた女性が、気付いて声をかけてきた。


「ああ、こんにちは。ファルスだったかい?」

「これはボトナさん、こんにちは」

「あちらが、隣村の騎士さんで、フクマットさんちゅうだ」

「その騎士様が、どうしてこちらにいらっしゃるんですか?」

「そいつはねぇ」


 背中に背負った籠を、地面に下ろして彼女は続けた。


「ウゾク村は山ん中にあるでよ。ここより寒いで、なかなかできん作物もあるだで。けど、山ん中で取れるキノコとか、山菜もあるでよ。だで、こうやってたまに交換するだ」

「そうなんですね」


 いわゆる山中の微気候というやつだ。山の天気というのは、ほんの数十メートル離れただけでも、かなりの違いが出る場合がある。大規模な整地を行えば別だが、さもなければ、斜面の方向や角度など、ちょっとした要因で大きな気温差が出てしまう。それが農作物の出来にも影響してくる。

 ウゾク村は、ツマラーカの樹脂を採取するという目的あっての集落だから、農業に向かなくても存続させなければいけない。そのための後背地としても、ここチェギャラ村が機能しているのだ。


 そして、フクマットは二つの村を頻繁に行き来する仕事をしている。彼としても、入り婿という立場もあって、村人達に好かれたいのだろう。だから、ついでに取引の仲介もして、村民の手間を省いてやっている。

 自分で思いついたのだろうか? それとも、隣に立っている、あのしっかりしていそうな奥さんのアイディアだろうか?


「サルス、セリはどれだけあるだ」

「二十本持ってきたでよ」

「それで今夜はキノコ食べるべぇ」


 貧しいテンタク一家にとっても、これはご馳走のチャンスだ。決して見逃すわけにはいかない。


 村人達は列をなし、地面に並べられたキノコや山菜、それから多少の木工品などを指差して、あれこれ交渉している。相手をしているのはフクマットではなく、地元の事情に通じた彼の妻、アンダラと、もう一人の女性だ。


「はぁ、きれぇだべなぁ」


 先日はボトナが世界一の美女だとかぬかしていたくせに。今度はアンダラを見ながら、テンタクはそうこぼした。


「さっすが、騎士様ともなると、奥さんもきれいなもんだべ。な、ファルス」

「なんで僕に言うんですか」

「ファルスもええ男になるで、きっと美人の奥さんと結婚するべ」

「いや、そんな簡単じゃないですよ?」


 そもそも結婚自体、しないつもりだから。

 このまま不老不死を発見して、永遠の眠りにつく。たった一人で。それが俺の望みなのだから。


 縮れのない金髪が美しいアンダラは、なるほど、田舎の女としては充分すぎるほどに美しい。すぐに横に太くなるそこらの妻達とは比べものにならない。


「あの、アンダラさんとかいう」

「そうだべ、ポサドフんとこの」

「お若いんですね。まだお子さんは」

「いねぇはずだべ」


 出産したら、ブクブクになってしまうんだろうか。まさに、花の命は短くて、だ。


 ボトナが、やや呆れ気味に、笑いながら言った。


「なぁ、ファルスや、テンタクちゅうのはコロコロ言うことが変わるでな」

「まったくです。この前はボトナさんのことを世界一の美人と言っておきながら、今日は今日で」

「そっ、そらぁ、いや、あの」


 言葉に窮した彼は、周囲を見回す。そこにニュミがいた。

 さっと抱きかかえて、頭を撫でながら、彼は言った。


「そのうち、ニュミが世界一の美人さんになるでよ」

「はっはは、そいつはよかっただなぁ」


 ところが、ニュミの表情は冴えなかった。


「ん? どうしただ?」

「ここ、やだ」


 はて?

 周囲の大人達が、泣きだしそうな彼女の表情に、はたと動きを止める。


「おう、もうちょっと待っててな。今、ネチュノにセリをキノコに換えてきてもらうだで、それまで待ってな」

「やだ! やだ! もういや!」


 だが、優しく抱きかかえて頭を撫でるテンタクに、ニュミは激しく抗議した。


「何がそんなに嫌なんだべ」


 すると彼女は口元をきつく引き結んで、じっと前を見た。そこには、ボトナと彼女の息子がいた。

 そういうこと、か。


「……見たくない」

「ほぇ?」

「他の子のこと、見たくない! 私だけ! 私だけいない!」


 月に一度くらいの、この取引。村民総出でやってきて、それぞれ欲しいものを手に入れる。たいていはその日の夜のご馳走になるから、子供達も笑顔でこの場に駆けつける。もちろん、母親同伴で。

 ボトナの息子のキチュクは、彼女と同じくらいの年齢で、体も大きさも変わらない。それが母親の服の裾を掴んで、当たり前のように甘えている。ニュミには絶対に手に入らないものを手にして、それを見せ付けている。


「えっ、あー、と」


 しゃがみこんだままの格好で、テンタクは慌てだした。今度は本気で困っている。

 どうしたら、どうしたら……


 しかし、彼にろくな思い付きなど、あるわけもなく。

 いきなり指を前に向けると、大声で叫んでしまった。


「ニュミ! 母ちゃんおるぞ! あれがお前の母ちゃんだあ!」


 突然のことに、周囲は静まり返った。

 その指の先に立っていたのは、アンダラだった。


 さすがに、これはない。

 テンタクの必死の叫びに巻き込まれた彼女は、青い顔をして手にしたキノコを取り落とした。


 目を丸くしているのは、彼女だけではない。すぐ隣に立っていた小間使いらしい女性も、ネチュノから手渡されたセリを握り締めたまま、硬直している。だが何より、彼女の夫たるフクマットこそ、たまったものではなかった。目をパチクリさせながら、テンタクをまじまじと見つめている。


 セリパス教の価値観によれば、不義密通ほど不潔なものはない。では、この男は、妻の……


 しかし元々ここに住んでいた人間なら、ウゾク村からやってきた人も含めて、誰でも知っている。あれはテンタクだ。テンタクが、よりによって美人で庄屋の娘だったアンダラを口説き落としただなんて、まずあり得ない。いつものデタラメに決まっている。

 いち早く立ち直った村人が、そっとフクマットに耳打ちする。ムアンモじいさんだ。片手で頭の上をクルクルと指差している。言葉は聞き取れないが、何を言っているかはよくわかる。あれは村でも有名な阿呆なので、気にしなくていい、と。

 ややあって、フクマットはプッと噴き出した。視線がテンタクに向けられるが、そこには怒りも驚きもなかった。それでアンダラも、その小間使いも、ふう、と息をついて肩の力を抜く。


「あ、あ、あう……」


 思いがけず、この小さな市の真ん中に騒ぎを惹き起こしてしまい、テンタクもまた、身を縮めていた。そこへ微笑むフクマットが大股に歩み寄る。


「やあ、テンタクさん」

「は、はひっ」

「今、話を聞いたよ。身寄りのない子供を引き取って育てているんだってね」

「へ、へぇ」

「気高い行いだ」


 彼の視線は、足元にいる、半泣きの少女に向けられた。そっとその場にしゃがみこみ、ニュミの頭を撫でる。


「よしよし。名前はなんていうんだい?」

「ニュミ」

「そうか……アンダラ」

「はい」

「お前は確か、この女の子の母親だったよな」


 問われた彼女は、しばらく目を瞬かせていたが、ややあって夫の意図を飲み込んだ。


「ええ、そ、そうです、そうですね」

「せっかくだから、抱きしめてやってくれ」


 声をかけられたアンダラは、小走りにやってきて、膝立ちになって、そっとニュミを抱きしめた。


「……えっ?」


 状況が飲み込めないニュミは、ポカーンとしている。

 テンタクの叫びなど、いつもの作り話に決まっているのに、他の大人も、まるでそれが事実であるかのように振舞っている。フクマットも、アンダラも。


「寂しかったでしょう……ごめんなさいね」


 迫真の演技か、それとも孤児への同情か。やけに情感こもった振る舞いに、ニュミの戸惑いは頂点に達した。

 だが、そこで頭上から声が降ってきた。


「アンダラ」

「は? はい、あなた」


 慌ててアンダラは身を離し、すっと立ち上がる。


「このテンタクという人のことを、僕は今まで知らなかったが、本当に立派だ。知らなければともかく、知ってしまった以上、何もせずに帰るわけにもいくまい」

「え、ええ、そうね」


 妻の同意に頷くと、フクマットは懐から数枚の金貨を取り出した。


「済まない。今日はあまり持ち合わせがなくて」

「ぶああ! よ、よしてくだせぇだ! そんなもん、受け取れねぇだ!」


 相手が誰でも、彼の振る舞いは変わらない。金貨を前に、彼は首をよじって顔を背け、腕を突き出して後ずさった。


「そうはいっても、子供達のために入用じゃないか」

「そ、そうだども、おらぁ、よう使わんだ」

「困ったなぁ」


 苦笑するフクマットに、はたと思いついたテンタクが顔をあげて言った。


「そ、そうだべ。な、なぁ、えっと、その」

「うん? なんだい?」

「そ、その、えっと、あー、アンダラは……ニュミの母ちゃん、だべ、な?」


 本人の前で「そういう嘘をついてくれ」とは、さすがのテンタクでも口走ったりはしない。お金はいらない。だけど、ニュミを悲しませないために、手を貸してほしい。それが彼の望みだった。


「あっ、ああ、そうだな。そうだとも」


 察したフクマットは、上着の襟を正しつつ、咳き込みながらそう応えた。


「そうだな、アンダラ」

「え、ええ」

「うそだ」


 混乱から立ち直ったニュミが、ぽつりと言う。


「だったらどうして、わたしこの村にいるの? どうしてウゾク村で育ててくれなかったの?」


 至極当然の疑問に、アンダラもフクマットも、目を泳がせる。

 だが、テンタクが言った。


「そ、そりゃあ決まっとるで。うちは男ばっかだでな。一人くらい娘が欲しいだで、寂しくて、おらが我儘言って、アンダラのうちから借りてきただ」

「うそ」

「本当だべ。な? サルス、ネチュノ、覚えとるだろ? な? な? アンダラ、おらが貸してもらっとるだ」

「ええ、そう、そうよ」


 そう言いながら、アンダラはニュミの顔を包むように抱きしめた。


「ふうん……アンダラ」

「はい、あなた」

「せっかくだ。この子も寂しいだろう。うちもまだ、子供もいな……じゃなかった、うちのニュミを貸しっ放しにしてたせいで、家が広すぎると思っていたところだ。たまに遊びにきてもらってはどうかな」

「そらぁいい考えだべ!」


 するとアンダラは一瞬、考えるような素振りを見せてから、小間使いの女と視線を重ねた。だがすぐ振り返ると、返事をした。


「ええ、喜んで」

「よし、決まりだ」


 フクマットはニュミに歩み寄り、頭を撫でた。


「ニュミっていったね」

「うん」

「今日からうちの子でもあるからね」


 なんとか騒ぎが落ち着きそうな雰囲気に、サルスもネチュノも、ほっと息をついた。ニュミも、自分に向けられた親愛の情を理解したのだろう。それ以上、泣き喚いたりはしなかった。そしてテンタクは、そんな子供達の様子を、目を細めて眺めていた。

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