聖者の選別
「おぅい」
テンタクの声だ。
首だけ起こして見ると、彼だった。ガニ股歩きのその姿が、黒いシルエットになっている。
「ここにおっただかぁ」
「はい。外の空気を吸いたくなりまして」
「おう、確かになぁ、ここは広いで、気持ちいいだでなぁ」
そう言いながら、テンタクは俺の横に腰掛けた。
「テンタクさん」
さて、となると。
彼にも迷惑をかけない形を考えなくてはなるまい。
「もし、どうにも通してもらえなさそうだったら、僕はやっぱり、南に引き返しますよ」
本当は崖を飛び越えて先に進むつもりなのだが、そういうことにしておく。ある日、いきなりファルスがいなくなって、その原因を追及されたら? この善良な男を巻き込むわけにはいかない。
まあ、それ以前に、俺を追いかける可能性のある邪魔な奴を全部消してしまってもいいのだが。ジノヤッチあたりなんかは、本当に殺してもよさそうだ。
「そうだか」
しょぼんとして彼は俯いた。
「どうすればいいと思います?」
「ああ……いや、うちは賑やかなほうがええだで」
猪の肉を取ってきてくれるから、ではないのだろう。ましてや金貨を持っているからでもない。彼はそういう発想をする人ではないのだ。
「よければ、いつまでおってもええだぞ?」
「ありがとうございます」
しかし、不思議でならない。
この際なので、尋ねてみた。
「……が、あの」
「なんだべ?」
「どうしてテンタクさんは、そんなに親切にするんですか?」
「ほえ?」
「僕だけじゃなくて。他の子供達だって、みんなあなたが引き取って育てているんじゃないですか。なぜですか?」
俺の質問に、彼は心底不思議そうな顔で応えた。
まさしく鳩に豆鉄砲、といった風情で。
「そんなもん、当たり前だべ」
「当たり前?」
「ファルスは、小さい頃に言われんかったか。困ってる人には親切にすべぇ、誰にでも優しくすべぇ、いっつも女神様が見とるだで、悪いことはせんで、いつもできる限りいいことをするとええんだって」
まるで子供みたいな言いざまだ。
「い、いや、でも、でもですよ」
「うん?」
「捨てられた子供を、どうしてあなた一人が見なきゃいけないんですか。他の人がそんなに親切にしていますか?」
「よそはよそだべ。おらはおらだぁ」
「それはそうですけれども」
「みんな、抱えとるもんがあるだでよ。自分の子供、親、いろいろおるで、どうしてもそれ、守らなあかんだ」
「で、でも。おかげでテンタクさんはどうなんですか。いい歳なのに、あれこれ押し付けられて、結婚すらできないでいるのに」
「そいつは違うでよ」
彼は、腰を浮かして「よっ」と言いながら座り直した。
「こんなおらのところに、子供達がいてくれとるんだで、それだけでも感謝せにゃあなぁ」
「は、はぁあ!?」
「だいたい、自分でもわかっとるで。おらぁ、あんまり頭よくねぇし、もともと嫁っこなんざぁ、そうそう簡単にもらえたりなんかせんでよ。それが一人で寂しく暮らさんでええだけ、恵んでもらっとるだで」
……だからといって。
社会的弱者は、ときとして、強者よりも献身的になる。これは現実だ。
なぜそうなるのか? 弱者は、より少ない資源を割り当てられる。取引先も限られる。そうなると、誰かから何かをもらったり、やり取りさせてもらった場合、その繋がりを切り捨てることができない。
たとえば、前世の派遣社員だ。俺も経験があるからわかるが、その場限りの契約を繰り返す彼らには、後がない。だから、職場で不祥事を起こすわけにはいかない。いつか切り捨てられると知っていてもだ。真面目な勤務態度でした、という評価で切り抜けないと、仲介する会社にそっぽを向かれてしまう。ゆえに不満を抱えながらも従順になる。彼らにとって、勤労と献身の美徳は、不愉快極まりないながらも、生存戦略のうちなのだ。
そしてこれが、集団全体の生存戦略でもある。群れを形成するどんな動物でもそうだ。弱者を肉の盾にして、強者が生き残る。弱者の遺伝子など残しても仕方がないから、今後を生き延びる者達のための礎になってもらうのだ。
それがわかるだけに、俺は歯噛みする。
飄々として不満を言わない彼に、俺が苛立ちを覚えるのはそのせいだ。
「じゃあ、なんですか。普通の暮らしをしたくてもさせてもらえないから、人より惨めな立場になっても仕方がないんですか。他の人は自分の子供と一緒に笑うのに、あなたは、誰かが捨てた子供のために、自分を犠牲に」
「だから、人は人だべ。捨てられた子供でも、どこの子供でも、子供はかわええもんだ。おらぁ、子供達がいてくれて嬉しいでよ。んで、幸せになってくれりゃ、もっと嬉しいべ」
「人は人だというなら、自分で自分だけの幸せを探せばいいでしょう? どうしてあんな」
「ん?」
「……見ず知らずの僕のために、あんなことまで」
昨日のことを思い出す。
糞便まで食わされて。あれがただの親切で収まることか?
「ははあ、そうだったなぁ。そうか、そいで怒っとるだか」
「は?」
「気にせんでええ。あんなもん」
気にしない、で済むことか?
「まぁ、情けねぇところ見せて、悪いなぁとは思っとるだ。サルスも、おらの根性のなさには、いっつも呆れとるでよ。何度も言われたで。おれはテンタクみたいに逃げてばっかの男なんかになりたかねぇって」
「そ、そういうことではなくてですね……テンタクさん、あなた、頭にこないんですか?」
「あん?」
「乱暴されたのも、一度や二度ではないんでしょう? あんな男に、どうして頭を下げられるんですか? いや、そうしなければ何をされるかわからないから、従うしかないのはわかります。ですが、怒りはないんですか」
「あー、どうでもええべ」
本気か? 本気でまったく腹を立てていない? 仕返しを諦めているというのでもなく?
どこかネジがとんでるとしか思えない。
「あの……では、これはたとえ話なんですが」
「おう」
「僕が、仮に王様から派遣された調査員だとして。その気になれば、ジノヤッチでもなんでも、みんな罰を与えることができます。今、テンタクさんが訴えれば、その要求は通ります。どうしますか?」
実際にはそんな身分などない。だが、俺にはピアシング・ハンドがある。
俺が望めば、この村にいるすべての人間に対して、どのような裁きを下すこともできるのだ。
「んー」
だが、彼はいまいちピンとこないようだった。
「もしそんなんだったら、そうだべなぁ……ネチュノには学校に行かせてやってほしいだ。あれは頭ええでな」
「は? ……いや、他には」
「サルスには、将来やってけるだけの畑をくれてやって欲しいだ。ニュミには、母ちゃんの代わりになってくれる人がいて欲しいだなぁ」
「それもわかります。他には?」
「んー……まぁ、ニュミがどっか嫁にいくまでは、無事に育って欲しいだな。上二人はしっかりしとるだで、あんまり心配しとらんだ」
「他には。テンタクさん、あなたは何が欲しいんですか」
「ほへ? もう言ったべ? 他に何があるんだか?」
たまりかねて、俺は言った。
「他にもいろいろあるでしょう? あなたはどうなんですか。ここまで頑張ったんですよ? もっと広い家、農地、それにお金だって欲しいでしょう? 結婚は? 妻はもらいたくないんですか?」
「あったらええかもしれんなぁ」
「でしょう?」
「けど、いちいちお願いするほどでもねぇべ。食っていけとるだけ、満足だで」
なんとも。暖簾に腕押しとは、こういう場合に使う言葉なのだと思う。この世界では通用しない慣用句ではあるが。
「もっと裕福だったら、もっと幸せになれるとは思わないんですか」
「思わんでもねぇけど、大変そうだべ。それに、この村は狭ぇでよ、おらが畑もらったら、他の誰かが畑をなくすで、それはいやだでよ。嫁っこだってそうだぁ。おらの嫁なんかになったら、そらあ苦労するでよ」
「でも、あなたはそれだけの貢献をしてきたはずです。誰が身寄りのない子供を引き取って育ててきたと」
「別に褒めてもらいてぇんでもねぇだ」
ならば、これはどうだ。
俺は、物でなく、才能そのものを与えることだってできる。
「……では、もし、もしですよ? ある日、突然才能に目覚めて、すごい力を出せるようになったら? たとえばテンタクさん、あなたには剣術の才能があるかもしれません」
「ははは、ねぇだ。そいつはねぇだよ。間違えて自分を斬っちまうだ」
「それがそうでないとしたら? 強くなれば、もう誰にも馬鹿にされたりなんか、しないですよ」
「おらぁ、ジノヤッチの真似をしたいとは思わんだ」
自分の身の上については、これ以上の欲がないらしい。
だが、これは?
「……じゃあ、我儘放題のジノヤッチは、どうするんですか」
「そいつは、うまいこと話をして、これからは仲良くやっていけたらええだな」
「仲良く? テンタクさん、あれだけのことをされたんですよ?」
「おぉ? うん」
「仕返しは? 罰は?」
「ははは、いらねぇだよ」
目を丸くする俺に、テンタクは静かに言った。
「……大変だなぁ、ファルスは」
「はい?」
「いろいろ持っとるもんだで、苦労も多いだ」
彼の声は静かだった。そのせいか、俺は一瞬、我に返った。
テンタクはテンタクだ。愚かなテンタク、間抜けなテンタク。なのに、俺はそこに智慧のようなものを感じてしまったのだ。
「おらは、ほら、見てみい、なんもありゃあせんで、楽なもんだべ」
「何もないから、苦労しているんじゃないですか?」
「ないから大変ちゅうことは、確かにあるわな。食うもんがない、着るもんがない……だけんども、本当は足りないんじゃなくて、多すぎてそう感じることもあるんだべ」
彼は大岩の上からすっと立ち上がると、満天の星空を見上げた。
「隣村のポサドフんとこは、広い畑ぇ持っとるだ。それにアンダラちゅう、きれぇな娘さんもおってな」
「は、はい」
「おまけに、なんたらちゅう樹液もいっぱい取れて、それが売れるだ。何ヶ月かに一度、商人が来ると、金貨がもらえるだよ」
「お金持ちなんですね」
「それだけでねぇ、すげえ婿もおるんだわ。フクマットっちゅう、若ぇ都の騎士さんでなぁ」
聞いた限りでは、村の庄屋さんといったところか。ウィッカー家のように戦士階級に由来するのでなく、農民の中の有力者という出自なのだろう。
「だから大変なんだべ。畑が広いだで、必死こいて耕さなあかんし、娘にはなんか村の若い衆が寄ってくるし。なんかあればみんなポサドフんとこに相談にいくだ。フクマットもえらい人なもんで、しょっちゅうジノヤッチが顔見せにくるだで。ポサドフも、そらぁ苦労しとるだよ」
「そう、でしょうね」
「ファルスも大変だべ」
「えっ?」
「そんな小せぇのにこんなに頭もよくて、騎士の腕輪まで持っとるだ。だで、こんなところまで旅に出にゃあかん」
それは否定できなくもないのだが。騎士の腕輪を持ったまま、ピュリスや伯爵家に留まることもできたのだから。
しかし、そうすれば楽かというと、やはりそうでもないか。あのままエスタ=フォレスティア王国に留まっていたら。エンバイオ家に仕え続ければ、それはそれで将来の幹部ということで厄介ごとを背負っていただろうし、そうでなければ、あちこちの貴族が唾をすりつけにくるだろう。
「もちろん、たくさん持っとるのはええことだで。けど、ええことだけでもないんだで」
「はい」
「不思議なもんでな。たくさん持っとると、余計に物がいるだ。わかるか、ファルス」
「……少しは」
前世の記憶を掘り返す。
中学生の頃、本で読んだ。殷の紂王は、象牙の箸を持っていた。周囲はそれを見て、将来を恐れた。象牙の箸で食事をするのなら、料理を盛る皿も普通のものでは済まない。立派な器を用意したなら、そこに盛られる料理も、最高の珍味でなければ釣り合いがとれなくなる。果たして、王は奢侈に溺れた。
そこまで大袈裟な話でなくても、事情は同じだ。少し広い家を持つ。すると空いた空間があるので、そこに家具や装飾品を持ち込む。新しい品物が古い品物より立派だと、古いものを買い換える時、一段値の張るものを選んでしまう。やがて家具が傷ついたり壊れたりする。その修理費にもお金が飛んでいく。
才能もまたそうなのだ。田舎で一番の神童になったら、村のみんなは学費を出して帝都に送り出す。期待を背負った少年は、猛勉強して結果を出そうとする。そこで更に優良な成績を収めれば、貴族の家の幹部として登用される。家中のあれこれを切り盛りするようになったら、もう些細なことでは引き返せない。あれもこれもみんな自分の問題だ。そして主人が首を切られる時には、自分も一緒に死なねばならない。
「だで、足りない、足りないと思ったら、ちょっと待ってみるだ」
「待つ、ですか?」
「本当は多すぎる、多すぎる、ってことはないか。余計なものでねぇかって振り返ってみるだよ」
多すぎる? 今の俺は、確かに多くのものを持っている。大金を携えての旅行だが、ピュリスに帰れば更に桁違いの財産がある。才能という点でも、ほぼ無限大だ。次々能力を奪いまくれば、俺はなんだってできる。だが、まだないものがある。それが不老不死だ。
……或いは、それ自体が「余計なもの」だと?
「おらぁ、見ての通り、頭悪いだでよ、一度にあれもこれもできやせん」
また静かに大岩に腰掛けながら、彼は続けた。
「そん時は、選ぶんだで」
「何をですか?」
「大事なもんは、どっちだって、よーく考えるだ。んで、あとはまぁ、捨てちまうだ。忘れるだ」
「忘れる、ですか」
「んだべ。なぁ、ファルス、頑張るっつうてもな、足りない、足りないって頑張るのは、苦しいだよ。手の中にある大事なもんだけ、しっかり掴むだ。それで十分だって、おらは思うだがな」
一瞬、奇妙な整合性が、俺の思考を貫いた。
誰かの言葉と似通っている。そんな気がしたのだ。
「……だで、怒るのもいらんことだべ」
「えっ?」
「クソでもゴミでも何でも食えばええだ。けど、いちいち怒ったって、サルスもネチュノもニュミも、誰も喜ばんでよ」
「い、いや」
そんな?
そんな割りきりができるものなのか?
「それで許せるんですか? そんな、あんな目に遭って」
「ははは、だで、ファルスは大変だっちゅうだ」
そう言いながら、彼は立ち上がった。
「なぁ、女神様は『怒れ』っつうたか? そんなことねぇだ。『人様には優しくしろ』とは言っただ。だったら、そっちだけやればええだよ」
シンプルこの上ない価値判断。
だが、どうしてそこまで人の道を信じられるのか。
「大事なもんだけ選べばええだ。あとは、どうでもええ」
そしてゆっくりと歩き出す。
「おらぁ、もう寝るでよ。ファルスもあんまり夜更かしするでねぇぞ」
「あ、はい」
「夜道は気をつけてぇな」
そのまま手を振ると、いつものヒョコヒョコ歩きで、闇の中に去っていってしまった。
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