忌まわしき聖餅

 その日は、夜が明けてもテンタクが家にいた。寝坊したのでもなく、朝から庭先で草むしりをしている。

 俺が目を覚ますと、つと立ち上がって家の中に戻ってきた。


「今日あたりだべ」

「はい?」

「ジノヤッチのやつは、いつもウゾク村に行くだ。んなら、そろそろ戻ってくんべ」


 確か、ここから北にある山の中の小さな村の名前だ。

 いつも? どんな用事があるのだろう。


「では、関所を通れそうってことですね」

「んだ」


 すると、彼は表情を曇らせ、俯いた。


「ど、どうなさったんですか?」

「……まうだ」

「えっ?」

「ファルスがどっか行っちまうだぁ」


 呆れた。

 だから俺は「旅人」だって、最初に言ったろうに。


 テンタクは善人だ。その愚鈍さゆえにイライラさせられるところがないでもないが、それを補って余りあるほど善良で、情が深い。以前の俺であれば、こんな彼の顔を見て、どう思ったろうか。縁を残しておこうとか、何か助けてやろうとか、そんな風に思ったかもしれない。

 だが、今はそれどころではない。どうせ不死になれば、あとは永遠の眠りが待っている。


「ええと、それは仕方のないことで……あっ、でもそうですね」


 俺は懐から数枚の金貨を取り出す。目的第一と心に決めてはいるが、この程度、なんてことはない。それに俺はこの世界からいなくなるのだから、貸しや借り、後腐れなど残したくないのだ。


「少ないですが、今後の」

「どわあ! だ、だだだ、駄目だべ! さっさとしまうだ!」

「あの」

「そんなおっかねぇもん、見せるもんでねぇだ!」

「は、はぁ」


 初日と同じく、腕を突き出して顔を背けたまま、のけぞっている。テンタクはアレか? お金恐怖症とか?

 すぐ隣では、物欲しそうな顔をしたネチュノが俺の手元を見ているのだが。


「サルス、飯食うだ」

「おう」


 貧しい食事を分け合って済ませた後、テンタクは立ち上がって言った。


「今日はファルスを連れてくで、畑は後にするべ」

「ん」

「ネチュノ、悪ぃけど、エル様の畑、見にいってくれんか。雨が降りそうだで」

「ああ」

「サルスは……」

「うちで畑を見るでええ」

「ニュミは……じゃあ、兄ちゃんとうちにおってな」

「うん」


 俺は、荷物一式を確認して、また背負った。

 丸二日も休んだのだ。狭苦しくはあったが、体を休めるには悪くなかった。


「では、お世話になりました」


 家の前で子供達三人に頭を下げると、俺はテンタクについて、村の西端へと歩き出した。


 頭上を見上げる。薄曇の空が、微妙に寒々しい。ソーセージのように節のある、途切れがちな雲が浮かんでいる。

 大きな石橋を渡る。耳を撫でていく川のせせらぎも、今日は不思議と元気がなさそうだった。ただ、上流の地域で雨でも降ったのか、少しだけ水嵩は増していたようだったが。

 作業に勤しむ農民達の姿が遠くに見える。彼らは時折、空を仰いでいた。もしかすると、そのうち本当に一雨来るのかもしれない。


 そんな風に周囲を見回しつつ、これといった感慨もなく歩いていると、突然、目の前のテンタクが足を止めた。理由を問う前に、彼は振り返り、俺の肩を掴んで揺さぶった。


「ファ、ファルス」

「どうしました」

「あ、あかんだぞ」

「なにがです」

「さ……さっきの。き、金貨、あんなもん、見せたらあかんだぞ」

「え、ええ」


 それもそうだ。

 金持ちだと言いふらして、いいことなど何もない。テンタクは無欲だからいいが、村人相手にだってこんなもの、見せないほうがいい。


「ご忠告ありがとうございます。ですが、テンタクさんは二日も僕を泊めてくれたので、本当に遠慮なさらなくても」

「そっちの話でねぇ」


 すると、彼は肩をすくめたまま、怯えた表情で周囲を見回す。誰もいない。確認が済むと、また俺に振り返った。


「ええか、ジノヤッチの前で、あんなもん、見せたらあかんだ」

「え? もちろんですよ」


 テンタクは俺を泊めてくれた。それも善意でだ。だからお世話になった分、宿泊料金を支払うのに、何の問題も不満もない。むしろ請求して欲しいくらいだ。

 だが、ジノヤッチに関しては、顔も知らないし、何の恩義もない。それどころか、彼が留守にしていたおかげで足止めを食ったのだ。そして騎士の腕輪がある以上、通行税の支払いも必要ない。よって、金貨なんか見せるつもりなど、毛頭ないのだ。


「そんなにがめつい方なんですか」

「お、お、おっかねぇだ。だで、なんかまずいことあったら、逆らっちゃいけねぇだ」


 確かに、ここ二日間の村人の話からしても、いい噂は一つもなかった。半独立国家のこの山間の村を、暴力で無理やり支配するような奴だ。

 ただ、恐ろしいかと言われると、あんまりそんな気はしない。俺が今まで出会ってきた強者達ほどの能力、そして勇気や覚悟があるとも思えないからだ。思い出してみればわかる。かつて名声をほしいままにした傭兵隊長が、しみったれた汚職なんかするか? 一流の剣士が、こんな小さな村にいちいちこだわるか? 力と意志を兼ね備えた人物ならば、そんな惨めな振る舞いなどしない。自分自身を恃みに生きていけるからだ。


「お、おらがうまいこと話すだで、そしたら通してもらうだ。な?」

「はい」


 だが、そんな乱暴者に、テンタクなんかの口利きが通じるだろうか? むしろ逆効果のような気も……


 城砦の前には、相変わらず二人の守衛がいた。


「おっ?」

「テンタクじゃねぇか」


 当然ながら顔見知りらしく、彼らは気安く声をかけてきた。ただ、それは言葉の上だけのこと。

 その口調には妙なアクセントがある。表情には、不自然な笑顔が……いや、こんなの一目でわかる。馬鹿にしているのだ。


「へぇ、お世話さんで」

「何しにきやがったんだ」


 そう言いながらも、守衛は俺とテンタクとを見比べている。

 対するテンタクは、飄々としている。気の抜けた声で挨拶をし、いつも通りの力の入らない顔のまま、用件を述べた。


「こっちのぉ、ファルスが、西に行きたいちゅうもんで、ジノヤッチ様に通してもらいてぇだ」

「おう? お前、偉くなったじゃねぇか。おい、テンタクぅ」

「お前なんかが、領主様をお呼びたてしようってか」


 駄目だ。こいつら、話にならない。

 なお、当然ながらジノヤッチは領主ではない。だが、こいつらはわざとそう言っている。この村のボスはジノヤッチなのだと強調したいのだ。


 俺は、すっと前に出て、袖をめくった。


「騎士の腕輪です。先日、お見せしたはずです。これでも通行させてもらえないというのであれば、本当に帰国して、フォレスティス王家に訴えます。この責任は、当然アルディニア王国が負うことになります」

「あぁ?」

「アルディニア王国創建の根拠は旧六大国セリパシア王国に遡りますが皇帝より西方大陸北西部の統治を任されたセリパシス王家の血族がその使命を引き継いでこの地を治めているのですからそしてまた騎士とその権利もまた皇帝に由来しそれゆえこの不祥事は重大な義務の不履行でありひいては王家の正統性を根本から損なうものであるということができゆえにその六百年にわたる王国の歴史は否定されることになるのですがその原因を今あなたが」

「わ、わわっ、ちょ、ちょっと待て!」


 少しイラッときたのもあってか、また俺の癖が出たらしい。早口でまくしたてると、守衛は慌てだした。


「その、腕輪っつうのが本物かどうか、わかんねぇだろうが!」

「それを判断するのがあなた方の仕事でしょう。わからないなら、上役を呼べばいいのです」

「ちっ、こ、このガキ」


 言い争いに、テンタクは右往左往している。

 なるべくなら迷惑をかけずに済ませたいものだ。俺はすぐ去るからいいが、彼はここに住み続けるのだから。


「しょうがねぇ、今、呼んできてやる」

「お願いします」

「けっ……」


 険悪な感じになったが、こうでもしなければ、話が進まなかったろう。

 待つことしばし、城砦の門扉の横にある小さな出入口から、足音が響いてくる。


 腰を低くした守衛の後ろから、一人の男が姿を見せた。


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 ジノヤッチ・ウィッカー (34)


・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク6、男性、34歳)

・スキル ルイン語   5レベル

・スキル フォレス語  3レベル

・スキル 身体操作魔術 5レベル

・スキル 格闘術    5レベル

・スキル 剣術     4レベル

・スキル 指揮     3レベル

・スキル 管理     2レベル

・スキル 料理     1レベル

・スキル 裁縫     1レベル

・スキル 薬調合    1レベル


 空き(24)

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 はて。まさかとは思っていたが、この名前。そして何より見覚えのあるスキル……

 俺の記憶が正しければ、こいつは……


 高い身長、しかし骨太なために、むしろがっしりしているように見える。単純に体躯に恵まれているのだろう。いかにもルイン人らしい。

 短めの鬚が耳の横から顎の下まで繋がっている。こういうのを虎ヒゲというのだろうか?


 煌びやかな装飾のされた革の鎧の上に、灰色の陣羽織を被っている。ざっと見て、なかなか実戦的な装備だ。胸当ての部分は金属で装飾されているが、あれが武器、特に刃を逸らす役割を果たす。うまく重量を節約した防具といえるだろう。あそびの部分のある分厚い陣羽織は袖まで覆っているが、これも切っ先をずらすのに有効だ。そして、革のブーツの前面だけが、金属で補強されている。膝当ても装着済み。重量のバランスがいいとは言えないが、攻撃を受けやすい部位だけを守るという意味で、これも合理的だ。


 彼はニヤつきながら、脇の階段から姿を現した。そして俺とテンタクを見ると、その笑みを深くした。

 感じるのは……やはり悪意。


「その子供か」


 低い声色は、若干の圧力を感じさせた。


「そうですだ、ジノヤッチ様」


 テンタクは見苦しいほどへこへこと頭を下げまくった。

 俺はすっと一歩前に踏み出し、袖をめくった。


「この通り、フォレスティア王タンディラールより、銀の腕輪を与えられました。騎士たらんと望んでの修行の旅の途上です。通行の許可をいただきたく」


 俺の口上に、一瞬、口元を引き締めた彼だったが、徐々にまた、ニヤつきだした。


「ふうん、それで?」

「ここを通してください」

「旅人なら、規定の通行料を払わねばならん」

「騎士の権利を無視するのですか」

「お前が騎士だと信じられなかった。それだけだ。ならば別に法を犯しているわけではない」

「そんな」

「だが、本当に騎士であるなら、通行料くらい、支払えるはずだ。乞食が腕輪を授かるはずなどないからな」


 あざけるような口調だが、彼の判断は「断固拒否」だ。


「……まぁ、いいでしょう。おいくらですか」

「金貨百枚ってとこか」

「なっ!?」


 ぼったくりもいいところだ。

 そんな通行料、支払える人がいるわけない。商人だって定期的に来ているらしいが、こんな関税を取られるくらいなら、二度と立ち寄らないだろう。

 まあ、俺はそれくらい持っているのだが、実際にそれだけの金貨を見せたら、もっとひどいことになる。考えるまでもない。


「何を驚くことがある? 関所を通る者にどれだけの税を課すかは、領主の自由裁量だ。こちらが勝手に決めていいことになっている」

「とはいえ、無法にもほどがあります。あとで責任を問われますよ」

「ああ、いいぜ」

「本当にいいんですか」

「あー、問題ない」


 腰に手をやり、俺を見下ろしながら、彼は言った。


「どんどん訴えてくれ。ここの領主、エル・ウィッカーの不正をな」


 エル? 実父の不正?


「お前が本当に良家の子女だというなら、それくらいの金は持ってきているはずだ。たとえ留学先で教会の世話になるにせよ、な」

「旅の途中で飢え死にしろとでも言うんですか」

「どうしてもというなら、お前の荷物をここで全部見せろ。検査をするのも、領主の権利で義務だ。それでどうしても旅費が足りないというのなら、王都に着くまでに最低限必要な分だけは、お目こぼししてやるさ」


 冗談じゃない。

 こんな奴がミスリルの剣を見つけたら、何をしでかすか。貧しい村人と違って、こいつには見分けがつくはずだ。絶対に没収されるに決まっている。


 それにしても、どうしてこんなにひどい態度を取れるのか。

 だんだんその理由がわかってきた。


 こいつは今、父の領地を暴力で支配している。だが、アルディニア王家が認めているのは、あくまでエルの領主権だ。言い換えると、実効支配しているだけのジノヤッチには、責任がないことになる。

 それどころか、むしろ不祥事になって欲しいくらいなのだ。エルも、跡継ぎのヤシリクも、地方領主としての責任をまっとうできませんでした、となれば。

 俺が騒ぎ立てる? 悪いのはジノヤッチだと。所詮、子供の言うことだ。

 要するに、小遣いも稼げて、トラブルも起こせる。一石二鳥だ。


「一人でこんなところをほっつき歩いてるほうが変なんだよ。お供の者はどうした」

「修行の旅です。そんなものはいません」

「古風だなぁ、おい」


 だがもう、彼は俺に興味がないらしい。横を向いて、ガントレットを外し、耳の穴をほじくりながら続けた。


「追っ払え」

「へい」

「あー、待て」


 脇見をしながら、彼は言った。


「そいつ、何日ここにいやがんだ?」

「えーと、確か二日前ですね」

「じゃ、おい、ガキ」


 俺に振り返ると、ダメ押しのように付け加えた。


「金貨百二十枚だ。二日分の滞在税も支払え」


 この野郎……!

 そういうつもりなら、遠慮はいるまい。しかし、ここで殺すのは難しくないが、後々問題になる。エスタ=フォレスティアの王の名が刻まれた腕輪を身につけた騎士が、外国で領主の息子を殺害する。この通せんぼもかなりの問題だが、こっちはもっとまずい。


 それで対応を考えていると、すぐ横からテンタクが走り出て、その場に土下座した。


「ジノヤッチ様ぁ……!」

「はっ」


 テンタクの声は裏返っていた。必死すぎて、思わず力んでしまったのだろう。

 それに対し、ジノヤッチは冷笑で応えた。


「なぁ、テンタク」

「ははぁ」

「俺ぁ嬉しいんだぜ? 久しぶりに会いにきてくれてよぉ」

「へへぇ」


 ひたすらに平身低頭。

 威圧的なジノヤッチの言葉に一つ一つ頷き、額を地面にこすりつける。


「で、まぁ、俺の幼馴染とはいってもだ。お前はウィッカー家の領民だ。主従関係ってものがあるのは、理解してるよな」

「も、もちろんでございますだ」

「じゃあ、命令だ……そこのガキを身包み剥いで、金目の物を全部俺に寄越せ」


 この一言に、テンタクは息を詰まらせ、硬直した。

 だが、俺はもう、最悪の場合を想定している。いざとなれば、皆殺しだ。動けるうちに動く。こちらの力量を相手が知る前に、最大威力の一撃を叩き込む。

 なるほど、その鎧があれば、ミスリル製の刀身とはいえ、体重と筋力の不足する俺の剣は通らないかもしれない。これまで俺が戦い抜くことができたのも、身体強化薬があればこそだった。

 だが、今の俺には別の攻撃手段がある。炸裂する火の玉を避けるなどできはしない。ジノヤッチとその手下二人、まとめて丸焼きだ。


「そんな命令を下したら、結局はあなたの責任になりますよ?」

「問題ないさ。実行犯はテンタクだ。俺がこいつを牢屋にブチこめば、片付く話だ」

「どっちにしても犯罪者になるのに、そんな命令を彼がきくとでも?」

「ああ、きくだろうさ。なぁ、テンタク」

「ひっ」


 本気で怖いのだろう。土下座のポーズのまま、固まっているテンタクだが、首筋はもう、汗の雫でいっぱいだ。


「……お前のところ、今、ガキどもが何人いたっけな」

「お、お許しを!」


 あっさり板挟みだ。目の前のファルスを敵に回すか? それとも、今、自宅に引き取っている子供達を見捨てるか?

 テンタクには選べない。


 しかし、なるほど。こいつはとんだサディストだ。

 妙に突っかかってくるとは思ったが、こいつはもともと、人が苦しむのが楽しい奴なのだ。そして、貴族や領主の長男にありがちな性質なのだが……サフィスにも多少、それとルースレスにも見られた傾向だ……利己的で、他者への共感に乏しい。愛情ではなく、支配に安心感を見出す。そして、利益や賞賛が自分に集中していないと気がすまない。

 ジノヤッチは、汚職事件のせいで、こんな田舎に引き篭もらざるを得なくなった。そもそもこういう性格の人間が、自尊心をえぐられて戻ってきたのだ。イジメっ子がイジメられっ子を痛めつけることで自分の地位を確保するのと同じように、この地で自分の我儘がどこまでも通るのを確認しなければ、落ち着けないのだろう。

 ついでに言うと、この騎士の腕輪も目障りなのだ。というより、これのせいでヘソを曲げた可能性が大きい。ジノヤッチは汚職事件に連座して、腕輪を没収されて戻ってきたのだから。それをこんな年端もいかないような子供が持っている。胸糞悪いわけだ。


「……よくわかりました」


 とはいえ、俺が彼の事情をこれ以上、汲んでやる必要などない。

 話し合いで解決できないのなら、力でやるしかない。ならば、大義名分を乗っけてから、片付けてやろう。


「騎士の修行の旅は、ただの修行ではありません。それ自体、人の世に潜む悪を断つためのもの」

「ほう?」

「この上は」

「ま、待つだ! ファルス!」


 ガバッと起き上がったテンタクが、俺を押し留めた。

 そのまま振り返ると、膝をついて懇願を始めた。


「申し訳ねぇですだ、ジノヤッチ様、だども、おらぁ、怖くてようそんなことできねぇですだ」

「逆らうということか」

「とんでもねぇです、ただ、とってもじゃねぇけど、できねぇで、おらぁ、根性なしの弱虫だで」

「子供すら怖いと」

「一昨日、相撲で負けただぁ」


 本当のことだから始末に悪い。テンタクに武器なんか持たせたら、敵を殺す前に自分を刺すだろう。

 俺の表情に気付いて、実際にそうだったと察したジノヤッチが、一瞬、素の表情に戻る。相手があまりに情けないと、いじめ方にも困るというものだ。


「だが、命令は命令だ」

「んだで、申し訳ねぇです! おらぁでよければ、できることはなんーでも、なんーでもするで、どうか、どうか」


 何度も何度も地面に額をぶっつけながら、テンタクはひたすらにお願いを繰り返した。

 その様子が滑稽だったのか、二人の守衛が失笑を漏らす。


 その時、階段を降りてくる足音が聞こえた。


「……あら?」


 耳に絡みつくような女の声。

 続いて姿を見せたのは、この村には似つかわしくない、田舎にしては妙に洗練された雰囲気の漂う女だった。

 二十代半ばくらいの肉感的な女だった。身につけている黒いドレスには、あちこち赤い装飾が入っている。スカートには鋭いスリットが入っており、白い太腿がチラリと見える。

 髪の毛は豊かに膨らんでおり、それが気だるげな雰囲気を醸しだしている。そして、セリパス教において、髪の毛は「性的な部位」だ。それを隠すどころか、むしろ強調しているあたりに、彼女の性質が透けて見える。あと、少し距離が空いているのに、きつい香水の匂いがする。

 要するに艶かしくはあるが、あくまで田舎基準ではということだ。フォレスティアで見かけるような、本当に洗練された女性達とは比べ物にならない。あまりに直接的というか……言葉を選ばず表現するならば、大味で下品だ。

 どんな人物なのか? しっくりくるイメージを探して行き当たったのは「高級娼婦」だ。だが、もちろんそんなはずはない。ピアシング・ハンドは本人の名前を教えてくれるのだ。


「どこにいるのかと思ったら」

「呼び出されたんだ。こいつにな」

「ははっ、どうだか。まだ子供の頃の遊びをやめられないの?」


 遊び。

 テンタクをいじめることが、彼らの遊びだったのだ。


 彼女……ヤラマは、テンタクより七つも年下だ。だからこの城館に彼が住んでいた頃には、まだろくに物心ついてもいなかった。ということは、その数年後、テンタクが村の隅に引っ越してからも、ジノヤッチ達は彼を痛めつけていたのだ。そして恐らく、まだ幼かったヤラマも、その遊びに付き合った。


「呼び出されたといったろう。そこの……流民どもの子供を、騎士だと偽って、関所を通そうとした」

「まあ、大変ね」

「ウィッカー家として、責任ある対処を求められているわけだ」


 ふざけているがゆえに、あえて真面目そうな口ぶりで、ジノヤッチはそう言った。そしてこちらに向き直る。

 ヤラマも、こういうのは好きらしい。いやらしい笑みを浮かべて、見物にまわった。


「さて……では、今日のところはお前に罰を与えて済ませよう」

「ははっ、ありがとうごぜぇますだ!」

「じゃあ、まずは服を脱げ」


 俺は眉をしかめた。

 ここはセリパス教の根付いた地域だ。そして、この宗教において性的なものは、基本的にネガティブなイメージで捉えられる。人の裸身もそうだ。ゆえに屋外で裸になる、というのは、本来許されないことだ。同時にひどく恥ずかしいことでもある。

 だが、テンタクは迷わなかった。満面の笑みで、そそくさと上着を脱ぎ、ズボンをおろした。


「ぷっ、マジかよ」

「クソデケェ」


 ガニ股の間に見えるそれを指差して、守衛が下卑た笑い声をたてる。ジノヤッチも、これにはさすがに苦笑するばかりだ。


「どうだ、ヤラマ」

「どうって、何がよ」

「元旦那と比べて」

「ええ、こっちのがずっと大きいわね」

「じゃあ、いっそくわえ込んでみるか?」

「冗談よしてよ。裂けちゃうわ」

「だが、童貞だぞ? 性病なんか持ってない」

「い・や。なんか臭そう。ふふっ」

「ははっ」


 この会話だけでも、彼らの心根の下劣さがよくわかろうものだ。


「それで終わりじゃないぞ、テンタク」

「はいぃ」

「もう一つ。ここで排便しろ」

「は?」

「今すぐクソを漏らせと言っている」


 侮辱に続く侮辱。俺は顔色を変えかけたが、テンタクは振り返ると、思いとどまるようにと視線で合図をした。そのまま城門に尻を向けてしゃがみこみ、拳を下腹部に当てて、いきみ始めた。すぐに情けない音が響く。


「げっ」

「くっせぇ」


 やっぱりこいつら、バッサリ片付けたほうがいいんじゃないか。仮にも領民を治める立場にある人間がやることではない。生かしておいても、村人達のためにはなるまい。

 だが、ここで暴れては、なによりテンタクの気持ちを無駄にすることになる。彼は俺と子供達のために、恥辱に耐えてくれているというのに。


 ……いや、落ち着け。

 テンタクも、ジノヤッチも、俺にとってはただの他人だ。ただすれ違って別れるだけの。


「ん、うくく」


 転んだ衝撃で便を漏らすテンタクのこと。少し力めばこの通り。

 それと悟って、俺は思わず目を背けた。


「やぁだ」

「きったねぇ」

「マジかよ、本当にしやがったぜ、こいつ」


 ジノヤッチは慣れきっているかのように涼しい顔だ。思うに、子供の頃からずっとテンタクをいじめてきたのかもしれない。とすれば、領主のエルがテンタクを屋敷から追い出したというのも、或いはその辺に原因があったのだろうか。

 更にいえば、後継者が末子のヤシリクというのも、引っかかるところだ。普通は長男が家を継ぐものなのに。ジノヤッチとしても、華やかな王都での立身出世を希望したのかもしれないが、エルもまた、この息子に領地は任せられないと考えたのではなかろうか。


「ねぇ」


 ヤラマが少し、不機嫌そうに言った。


「ちょっとさ、うちの前にコレはないんじゃない?」

「言われてみればそうだな」

「片付けさせてよ」

「もちろん」


 勝手な言い草にもほどがある。自分達の命令なんだろうに。


「テンタク」


 冷淡な口調での呼びかけに、彼は笑顔で応えた。


「はいですだ!」

「お前は本当に忠実だな」

「ありがとうごぜぇますだ」

「なら、城門の前の掃除も、引き受けてくれるな?」

「もちろんですだ」

「じゃあ」


 彼の視線が、それに向けられる。


「さすがに汚いからな。片付けてくれ」

「へへぇ」

「ああ、ただ、手で触るな。汚いだろう?」

「えっ……ああ、そうだべ、じゃあ、どっかから掃除道具を借りてくるだで」

「だめだ」


 テンタクが、動きを止めた。


「手で触れるな。足で触れるな。道具を使うこともまかりならん」

「は、へ?」

「だが、口で始末するというのなら、許してやらんでもない」


 ……今、なんて言った?


「へへぇ、承知しましただ、ジノヤッチ様」


 テンタクは、いつも通りにヘラヘラ笑って、猫背にガニ股の、卑屈さの滲んだ格好でそう応えた。

 そして、汚物の目の前にしゃがみこもうとする。


「ま、待ってください! テンタクさん!」


 さすがにこれは、座視できない。


「いくらなんでも、あんまりじゃないですか! テンタクさんが何をしたって」

「おやぁ、テンタク? これは罰を増やさねばならんかなぁ」

「失礼しましただ、今すぐやりますだで」

「だ、だめで」


 ネチョッ、と柔らかいものが潰れる音がした。


 顔を背けるだけでは足りない。目を開けているだけで、彼の背中が視界に入る。体が揺れるその様子で、何をしているかがわかってしまう。一口、また一口、言葉にしたくもないものを、歯と歯の間に挟みこみ、含んでいく。

 呻き声が出そうになる。耳を塞ぎたくなる。彼が今、何をしているのか。口の中にどんな味と臭いが充満しているのか。

 臭いについては、説明を要しないだろう。だが、味は? さすがに料理人といえども、そんなものまで味わった経験はない。だが、書物でなら知っている。苦いのだ。昔、どこかで読んだっけ。中国は則天武后の時代、とある佞臣が病中の権力者に媚びようとして、その糞便を口にして、健康状態を占ったのだ。


『普通、健康な人の便は苦いのですが、死病に冒されている人の便は甘くなります。閣下の便はまだ苦いので、きっと回復なさいます』


 その記述が、頭の中で何度も読み上げられる。

 今朝、食べたものを戻しそうになる。


 だが。

 他ならぬテンタク自身がそれに耐えているのに。


 これでは、怒ってやめさせることも、暴れることもできない。

 余計な真似をすると、またジノヤッチがあれこれ言い出すかもしれない。


「よし、飲み込め。さっさとしろ」


 その命令に、俺は身を震わせた。続いてゴキュッと嚥下する音が聞こえてくる。思わず目を閉じ、身を縮めて、やり過ごした。


 恐る恐る目を開くと、すべては終わっていた。

 平然としていたのはジノヤッチとヤラマだけだった。二人の守衛も、あまりの振る舞いに、少し微妙な表情を浮かべている。嘲笑を浮かべつつも、どことなく引き気味と言おうか。


「汚い口だな」

「へぇ」

「本当によくやるわね……」

「口をきくな。臭いがうつる。帰っていい。とっとと失せろ」


 するとテンタクは、足元に落ちた衣服を片手で拾い、口元を押さえたまま、くるっと振り返った。ジノヤッチとヤラマも、用は済んだと言わんばかりに、すぐさま砦の中へと引き返していく。俺はテンタクの後ろについていった。

 彼の歩調は、砦から遠ざかるごとに速くなっていった。早足から小走り、小走りから全力疾走に。そして、あの大きな石橋のところまでくると、転げ落ちるかのように川の中に飛び込んだ。


「オッ……オゲェーッ……!」


 俺はまた顔を背けた。

 当たり前だ。気持ち悪くないはずがない。目で見て、耳で聞くだけでも耐えがたいのに。


「ポッ、ポゲェ」


 ……俺のために。

 どうしてここまでする?


 まだ冷たい春の初めの川に身をさらしながら、テンタクはひたすら吐いた。苦しげに。


 しばらくして、ようやく落ち着いたのか、彼はのろのろと川から這い上がってきた。


「……テンタクさん」

「どってことねぇべ」


 彼は気負わずそう言った。

 だが、俺の方が我慢ならない。


「そのうち、飽きたらしまいになんでよ、そしたらファルスも通れるで」

「そんな」


 こういう虐待を毎日見続けろと?

 いくらなんでも、これ以上テンタクに犠牲を強いる気にはなれない。


「安心してください」


 そして、俺の怒りの限度はとっくに超えている。だから、ジノヤッチには罰を受けてもらった。

 いや、むしろこれから罰が下るのだ。一日に一度ずつ。


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 (自分自身) (11)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、9歳・アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル ルイン語   4レベル

・スキル 身体操作魔術 6レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 薬調合    8レベル


 空き(1)

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 ジノヤッチはもう魔法を使えない。これくらい、当然の報いだ。

 せっかくだ。それなら毎日、あいつの顔を見にいってやろう。何の罪もない弱者を一方的にいたぶる下衆が相手なら、俺も心が痛まない。


「ああいうことをする人には、必ず天罰が下されますから」


 俺は怒りをこめてそう言った。

 だが、テンタクはカラッとした顔で、こう応えたのだ。


「いらんことだべ」

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