狭苦しい村での、最低の人生

 農村の朝は早い。


 夜明けと共にテンタクは立ち上がり、一人、作業用の棒切れを持って、外に出る。子供達のために、パンと水だけ残して。

 それでも、誰に起こされたわけでもないのに、サルスもネチュノもすぐに目を覚ます。そして、昨夜の残りの鍋に火をかける。そこで俺も起き上がった。

 基本的にテンタクは子供達に労働を要求しない。だが、彼らは自身の必要のために、動かざるを得ない。保護者の善意は疑いようもないが、彼はあまりに無力だった。


「おはよう」

「ん、ああ」


 俺の挨拶に、彼らはろくに返事をしなかった。ルイン人一般というより、彼らにその習慣がないのだろう。


「ニュミは寝かせとけ」

「おう」


 物音をたてまいとして、彼らはおとなしく立ち振る舞う。食器の触れ合う音にさえ注意を払っていた。

 古びたパンをシシ鍋スープに浸して柔らかくして、もそもそと食べる。それが済んだら、早速、仕事だ。


「じゃあ」

「ああ」


 分担なら、もう決まっているらしい。ネチュノは桶を片手に、水汲みに出かけた。サルスは昨日の農作業の続きだ。狭い庭だが、ここの農園が彼らの生命線なのだ。


「あの」

「ああ、ファルスはなんもせんでええぞ。あんな肉食わしてもらっといて、こき使えるか」

「気になさらなくても」

「んん、じゃあ」


 彼は白い歯を見せて笑った。


「もう一頭、しとめてきてくれ」


 それはちょっと。


「冗談だ。それより、ジノヤッチの野郎が戻ってきてねぇか、見にいったほうがいいんじゃねぇか」

「ですね。そうさせていただきます」


 少し考えて、俺は荷物を置いたまま、剣だけ携えて外に出た。盗んだところで、狭い村だ。本気で探せばなんとでもなる。

 それより、少しのんびりしたほうがいい。軽く散歩に出かけるつもりで歩き出す。


 あんな狭苦しい家の中で、俺は熟睡していた。考えてみれば、随分と不用心なことだ。

 俺のリュックには、この村では一財産といえるほどの金貨が詰まっている。しかも携えているのは、それ以上に値打ちのあるミスリルの剣。夜中に襲って金品を奪ったとしても、俺の行方を知っている人などいない。

 無論、テンタクにそんな真似をする度胸などない。金貨一枚で目を回すような男なのだし。


 油断といえばそれまでだが、疲労が蓄積していた証拠でもある。

 無理もない。野宿が何日も続いた。しかも、生まれて初めての山越えだ。自分で思っている以上に疲れ果てていたのだろう。となれば、ここは先を急ぐより、いっそ数日ほど、村に滞在して疲労を抜くのもいいかもしれない。ただ、それならもう少し、居心地のいい場所が欲しいのだが。


 西の空はまだ濁っている。薄くかかった雲、朝日の届かない藍色の領域が、徐々に色づきつつある。だが、谷間を渡るそよ風は清冽そのものだった。

 ふと立ち止まり、周囲を見回す。


 山間に刻まれた楕円形の集落。歪んだボウルの底から縁のほうを見上げるような感覚だ。黒々とした土。その向こうに、薄暗い森の木々が立ち並ぶ。その葉の色も、深い緑色だ。

 明るい茶色から、風雨にさらされて灰色になったのまで、四角い家々が連なる。ただ、屋根だけはやはり、斜めに切り立っている。ちょっとした盆地だから、冬場は雪が深く積もったりもするのだろう。

 そんな小さな村には不釣合いなほど、足元の石畳はしっかりしているし、道幅も広い。すぐ目の前の小川にかけられた橋も、馬車がなんとかすれ違えるほどの大きさだ。どこもかしこも黒ずんだこの景色の中で、足元だけが、やけに白く浮き上がって見える。

 遠くの山の雪解けのせいか、川の水量は思った以上に多い。そっけなく通り過ぎる流れが、川原の石の軽やかな歌声を引き連れていく。透き通った水は、黒い川底を隠そうともしない。


 言葉にしがたい、何かの感情が刺激されるようだった。

 のどかな村。美しい土地。そんな表現で片付けてしまっていいのだろうか。


 村民にとっては、いつも通りの朝でしかないのだろう。だが、俺にはやけに鮮やかに見えた。

 ちょっとした散歩のつもりだったのに。俺の周囲には目に見えない歓喜が飛び跳ね、踊り狂い、大声をあげているようだった。


 傍から見れば、俺はいい身分だ。大金を持って、街から街へ、国から国へと旅をする。いろんな景色を見て、いろんな話を聞いてまわる。贅沢そのものだ。

 しかし、そんな色とりどりの日々と、代わり映えのしないこの村の一日と、どれほど違いがあるというのだろう? 決して裕福とはいえないこの村だ。関所の向こうの崖を除けば、特別な絶景があるわけでもなく、白亜のピュリスのような立派な建造物があるのでもない。それでも、見るものを感動させる何かがある。


 彷徨うように歩きながら、俺はまた、城壁の下に辿り着いた。


「おはようございます」

「んあ?」


 あくびをしながら、二人の守衛が返事をした。


「なんだ、昨日のガキか」

「ジノヤッチ様はお帰りでしょうか」

「ちっ……明日か明後日には戻ってくる。それまで村の中でおとなしくしてろ。いいな」


 であれば、仕方ない。

 彼らの、およそ好意的とはいえない態度には気分が悪くなるが、まともに相手をしても無意味だ。

 背を向けて、またテンタクの家へと引き返していく。


 見晴らしのいい村の中心。石造りの橋の近くに辿り着く頃には、すっかり朝になっていた。おかげで遠くまできれいに見渡せる。

 北側の斜面には、テンタクの姿があった。特徴的なガニ股歩きと、棒切れを繰り返し突き立てる様子を見れば、間違えるなどあり得ない。

 ここでふと、疑問を感じた。


 彼は何をしているのだろう?


 もちろん、農作業に決まっている。しかし、棒切れで土を掻き回すなんて、耕すという目的からすると、実に非効率だ。

 もう一つ。この土地は誰のものなのだろう? 恐らくこの村の一等地だ。そんなところを、彼が所有している?


 左右を見回すと、見覚えのある姿がまた一つ。ムアンモじい、と呼ばれていた老人だ。


「おはようございます」

「おお、おお、おはよう。昨夜はよく眠れたかね」


 俺の挨拶に、すっかり白髪だらけになった老人が応える。


「おかげさまで」

「いやぁ、おかげさまというなら、こっちこそじゃな。まさかいきなり、猪を獲ってくるとは思わんかった」

「ネチュノさんが見つけてくれましたから」

「ほほう」


 そう相槌を打つ彼の肩には、鍬が乗っかっている。彼もこれから仕事なのだろう。しかし、そうしてみるとやはり、テンタクの働きぶりに疑問が生じる。あんな原始的なやり方を、誰もがやっているわけではないのだ。昨日はネチュノも鍬を持っていた。あれはてっきり、テンタクが道具を一つしか持っていなくて、だから使いやすいほうを子供を持たせたのかもしれないと思っていたのだが。


「あの……ムアンモ……さん?」

「ほい、なんじゃ」

「少しお伺いしたいんですが」


 並んで歩こうとしたが、彼は先を急ぐでもなく、すぐ足を止めた。


「あの、テンタクさんって」

「ああ」


 すると彼は溜息をつき、鍬を下ろして、杖代わりにした。


「狭いところで済まんかったの。じゃが、わしらもジノヤッチには睨まれたくないでな」

「テンタクさんなら、睨まれないんですか?」

「いや、そういうわけでもないんじゃが……」


 厄介ごとは、頭の弱い男に押し付ければ済む。なんて言えないか。

 彼は頭をぽりぽりかきながら、言葉を探していた。


「……もともと、あいつは孤児でな」

「えっ?」

「もう三十年近くも前のことじゃな。いや、テンタクにもちゃんと親はおっての。この村の隅っこで暮らしておったんじゃ。まぁ、農作業より、あの頃は鉱石の運搬で飯が食えたでな。王都で採掘されたのを、南のティンティナブリアに運ぶ……山越えだで、人手はいくらあっても足らん。あいつのオヤジも、そういう仕事をしとっただ」


 本業は荷運び人夫の兼業農家、といったところか。


「じゃが、あいつが四歳になるかならんかで、二人ともいなくなっちまった」

「ええっ!?」

「よっせと」


 橋の傍らにある大きな石の上に、彼はゆっくりと腰掛けた。


「最初にいなくなったのは、カカァのほうだな。当時は商人も割としょっちゅうきとったで、中にはええ男もおった。そんでま、駆け落ちしちまっただよ。んでまぁ、子供だけ残されて、もともとマメでもなかったで、オヤジのほうも、人夫の仕事で南に行ったきり、帰ってきやせんで」


 なんともはや。

 俺の出生に近いくらい、テンタクも悲惨だったらしい。もっとも、俺みたいに虐待されたり、食われそうになったわけではないが。


「でも、じゃあ四歳の子供が一人で、どうやって生きてきたんですか」

「それさな。あの頃はエル様も若かったで、村人の面倒を見とっただ」


 手を差し伸べたのは、領主の一家だった。


「歳の頃が、ちょうどお子さん方……まぁ、長男のジノヤッチとか、次男のイリクとかとあんまり変わらんかったでな。そんなら、召使になれるかもってことで、お屋敷に引き取って育ててやっとったんじゃ」

「そうだったんですね」

「ところがのう」


 表情を曇らせると、ムアンモは遠くで働くテンタクを、顎で指し示した。


「なんといったらええか、テンタクはな……とにかく、何をさせてもダメな子でのう。知っとるか、あいつはな、計算もできんのじゃ」

「は?」

「お前さん、一足す一はいくつじゃ?」

「それは……普通なら、二、でしょう?」


 何かの引っかけ問題かと身構えたが、そうではなかったらしい。


「さすがにこいつはテンタクでもわかる。じゃあ、百五十六足す七十二は」

「えっと……八……二……二百二十八、ですよね」

「それがあいつにはできんのじゃ」

「はぁ!?」


 目を丸くする俺に、彼は頭をぽりぽり掻きながら、説明してくれた。


「あいつは、暗算ちゅうんができんのじゃ。数える時は全部、こうやって指と指で、数を数えながらでないとできん」

「えっ」

「どうしてもって時は、石ころを並べるだ。けど、どこまで並べたか、あいつ自身、忘れちまう」

「えええ」

「こりゃあ誰もあいつにちゃんと教えてやらんかったで、仕方ないんじゃ。指で数える変な癖がついてしまってのう」


 ムアンモが指摘しているのは、つまり、テンタクの抽象化能力のなさだ。

 十の位、百の位の足し算をする時、俺達は無意識のうちに、その桁をただの一桁の数字に置き換えている。そうして下から遡って、最後に記憶を辿って足し合わせる。

 だが、「十」を「一」として考える、「十」の「十」たる本質を捨象する能力が、テンタクにはない。生まれつきの異常というより、恐らくは学習の機会がなかったから、訓練しなかったからだ。

 よって、今の三桁の足し算をやるのに、彼は道端の石ころを使うしかない。すべての数を、「一」の集合体としてしか、捉えられないからだ。


「うわぁ」

「他にも、同じことを何べん教えても忘れるし、おまけにしょっちゅうドジをやらかすもんだから、皿洗いすらできん。一度、料理を覚えさせようとしたら、ボヤ騒ぎを起こしたらしくてのう」


 想像に難くない。

 とにかく、不運としか言いようがないレベルで、彼は才能を欠いているのだ。


「もちろん、悪気はないんじゃ。ないんじゃが、とにかくどうしようもなくての……さすがのエル様も、これはということで、あいつが九歳になった頃に、家に帰しただ」

「それは……」


 諦められてしまった、か。

 しかし、ではその後はどうやって生きたのか?


「けど、それじゃあ寝覚めが悪い、死なれてもってことで、ほれ」


 もう一度、彼はテンタクを指し示す。


「エル様の農地の一部を、ああやって世話させとる」

「それなんですが」


 俺は咎めるような視線を彼に向けた。


「いくらなんでも、あんまりじゃないですか? あんな木の棒で、どれだけ頑張れば耕せるっていうんですか」

「あれはのう……意地悪しておるのではないぞ。しょうがないんじゃ。テンタクに鉄の刃のついた鍬なんか持たせたら、自分で自分の足を切っちまう」


 それのせいか。彼の足に古傷があったのは。

 そういえば昨日も、あの木の棒で自分の足を何度も突いていたっけ。


「わしらも、そこまで薄情じゃないだで、はじめはなんとか人並みに暮らせるように、あれこれ頑張っただ」


 溜息をつきながら、彼は首を振った。


「けど、あれじゃあなぁ。村の女は、誰も相手にせんから、結婚もできん。パープーシュんとこは、もともと人夫やっとったで、ろくに農地も持っとらん。そうこうするうちに、ほれ、十年くらい前から、南の方が荒れ始めてなぁ」


 オディウスが兄を暗殺して、ティンティナブリアの伯爵に収まった。王家に対する借金を支払うために、彼は領民に重税をかけた。結果、無数の流民が溢れ出し、一部はこのチェギャラ村にやってきた。当然、通商路も閉ざされる。もともとか細い繋がりしかなかったのに、これでもう、完全にこの地域は貧困の中に取り残されることになった。


「十年ほど前か。この橋の上に、赤ん坊が置き去りにされとってな。けど、あの頃はみんな食うに必死で、そんなもん、構っておられん。じゃが、テンタクはうちで引き取ると言いだしてなぁ……いや、立派なもんじゃが、それでもう、結婚もせんとコブ付きになりよって、これじゃあもう、本当に女が寄り付かん」

「それがサルスさんですか」

「そうじゃ。多分あれは、南からの流民が捨てていったんだと思うがの。そんでもって、一年経つかどうかで、またどっかの馬鹿が調子に乗りよったのか、今度はテンタクの家の前に、赤ん坊を捨てていった」


 ネチュノについては、もはや確信犯だ。テンタクのお人よしを知った上で、意図的に子供を置き去りにしていったのだから。しかし、ということは、犯人はこの村か、隣のウゾク村の住民に限られる。南からの流民は、テンタクという人物を知らない。西方向は関所が遮っている。となると、この村か、ここから北に繋がる集落か、どちらかしかない。


「なんでそんな」

「まぁ、いろいろあるんじゃろ」

「この村の人ですか? そうですよね?」

「わしにはわからん」


 これは、もし知っていても、きっと言わないだろう。

 しかし、子供を捨てていくなんて、結構な罪悪だ。住人としては、それなりのリスクがあっただろう。なのにどうしてそこまでするのか? 貧困のせい? しかし……


「では、ニュミさんは?」

「あれも、五年くらい前に、あいつの家に捨ててあったそうだ」


 もはや子供の廃棄場と化したテンタクの家に、三人目。そこへ今度は、俺が通りかかったというわけか。


「いいんですか、そんな、一人に何もかもを押し付けるなんて」

「わしに言われてもな」


 俺が言い出すことでもない。


「テンタクさんは、文句を言わなかったんですか?」


 この疑問に、彼は苦笑しながら手を振った。


「あいつが何か言うことなんて、まずねぇな。何が面白いんだか、いっつもケタケタ笑ってやがる」


 頭が悪すぎるのか?

 この状況、いじめられていると言っても過言ではない。


「さってと」


 岩の上から老人は立ち上がった。


「わしもそろそろ仕事せにゃならんでな」

「あ、はい」

「ま、ジノヤッチが戻ってくるまでは、のんびりするべ」


 そのまま彼は、鍬を担いで歩いていってしまった。


「おう」


 家に戻った俺を、サルスが迎えてくれた。座って草むしりをしながらだが。


「暇なら、できればニュミのこと、見とってくれや」

「はい」


 ここは、この小さな社会の隅っこだ。貧乏くじを引かされた男と、その子供達の居場所。貧しい中でも、とりわけ貧しい。

 だからだろう。子供同士で遊ぶということもなく。ニュミは一人きりで家の中にいる。


「おはよう」

「おはよ、ファルスお兄ちゃん」


 淡雪のように儚げな笑みを浮かべて、彼女はそう返事をした。だが、そのみすぼらしさに、俺は自分の笑顔が強張っていくのを感じていた。

 ワンピースは薄汚れていて、あちこちほつれかかっている。髪の毛もボサボサだ。毎日入浴できるわけでもないから、肌もなんとなく汚れているようにみえる。そんな中、表情だけが、ふんわりとしている。


「ねぇねぇ」

「うん、なにかな」

「遊んでー」

「いいよ。何して遊ぶ?」


 かわいそうに、という同情心。だが、それはどことなくよそよそしい。俺は旅人だ。本気になれば、彼らを救うことはできるが、そのために自分を犠牲にしてはならない。またそのつもりもない。

 そんな人間らしい生き方は、あの白い街に置いてきた。


「あのね、あのね、お父ちゃんやって」

「ああ、うん」

「わたし、お母ちゃん」

「うん」


 ままごと、か。

 前世でもやったことがない。どういう顔をすればいいんだろう? こういうのは苦手だ。


 この家の中には、オモチャもぬいぐるみもない。だから、ままごとに使えるのは本物の食器だけ。子供役はなし。どろんこで作ったご飯を載せるわけにはいかないから、あとは全部、想像力のみで補わねばならない。


「……いい子でしゅね。お行儀よくできましたね」


 架空の母親になりきったニュミを見ながら、俺は何とも言えない気持ちになった。


 現実の育児においては、こんな褒め言葉が主役になることなんて、まずない。あったとしても、ごくごく小さいうちだけだ。乳幼児が幼児になり、自分の足で歩き回るようになったら、親はその振る舞いを制御する必要に迫られる。一方、ある程度の行動力を得た子供は、乳幼児時代の権力を維持したまま、なおも自由を追求する。反抗期の到来だ。

 疲れ果てた母親は、あの手この手で事態を収拾しようとする。これこれしちゃダメでしょ、よしなさい、やめなさい、黙りなさい、知らないよ、置いていくからね、ほら言ったでしょう……

 その現実から浮かび上がるのは、やはりここでも「取引」なのだ。母親は大人としての支配力を、子供は未来を独占して、互いに主導権を奪い合っているのだから。


 悪いとは言わない。こうした体験を通して、母子の自他分離が進むのだ。むしろ、そうしたトラブルを起こさない、おとなしい子供というのは異常だ。前世の俺もそうだったらしいが……ごく早い段階で、自分の地位の低さを実感した幼児が、いち早く服従を覚えてしまうというだけなのだから。それは、泣いても叫んでも、愛情が返ってこない現実を自覚する体験でもある。

 もっとも、ニュミには、そうした争いをする機会もないらしい。


「ねぇ」


 はっとした。

 顔に出ていただろうか?


 気付くとニュミは、素のままの表情に返っていた。


「わたしのお母ちゃん、どこ?」

「えっ?」

「お母ちゃんは、どこにいるの?」

「う……ごめん、それはわからない」


 痛々しいが、これはどうにもならない。

 経緯を聞いた限りでは、ここか隣村の誰かが捨てたのだ。ゆえに、その中の誰かが母親に違いない。しかし、それを俺が突き詰めたとして、何になる? 無用なトラブルが起きるだけだ。


「ごめんね」


 暗い表情をすっと隠すと、彼女は静かに立ち上がった。


「ちょっと散歩してくる」

「えっ、ちょっと」

「川まで行かないから、大丈夫」


 いつも危ないところには行くな、と言われているのだろう。特に川には。

 しかし、放置はできない。どうしよう。


 俺も家を出た。すぐ横の畑には、相変わらずサルスがいる。


「あ、あの、ニュミさんが」

「あん? 出て行ったな」

「と、止めなくていいんですか? っていうか、ついていったほうが」

「平気だろ。なんか言ってたか?」

「えっと……」


 俺が言いづらそうにしていると、彼はすぐに察した。


「大方、母ちゃんがどうのとか言ってたんだろ」

「わかりますか」

「たまーにそれで勝手に落ち込みやがるんだ、ありゃあな」

「何か大変なことになったりとかは」

「ねぇよ。いつものことだべ。ちょっとしたら帰ってくるで、ほっときゃあいい」


 そう、か。

 事故にならないのなら、それでいいのだが。もう五歳だし、この世界には電車も自動車もない。牛馬はいても、それで全力疾走するような人もいない。川に落ちるか、村から出るのでなければ、危険はないのだ。


「なぁ」

「え」


 作業の手を休め、サルスは地面にしゃがみこんだ。


「俺も連れてってくれねぇか?」

「は?」

「お前、騎士になるんだろ」

「え、ええ」

「俺もなりてぇ」

「い、いや、でも」


 成り立つわけがない。腕輪がなければ、貴族の承認がなければ、騎士身分にはなれない。となれば、サルスの通行の自由は保障されないし、俺の後ろにくっついて各地を旅しても、それを修行と認めてもらえる道理もない。


「無理、ですよ。僕は貴族じゃないですから」

「そうかよ」

「申し訳ありませんが……」

「ハァ」


 地べたに座ったまま、彼は項垂れた。


「俺ぁ、イヤなんだよ」


 うんざりした、と言わんばかりの声色で、彼はそうこぼした。


「昨日の夜、見ただろ、アレ」

「あ……はい」

「俺もああなるのかよ。弱っちい、情けない男の息子って言われて。貧乏なまま、ずーっとこの村でいじめられて暮らすのかよ」


 情けない男。弱くて頼りにならない男。

 テンタクは、よくわからないが、今まで知り得た範囲においては、善人といえる。それでも、村の底辺を生きる彼の息子という立場は、少年の心を蝕むのに充分だった。


「あんなに臆病で……知っとるか? いっつもテンタクはなぁ、ジノヤッチにいじめられとるんだで」

「そうなんですか」

「けど、やられてもやられても、仕返しも言い返すのもできんで……ヘラヘラ笑ってばっかで、はぁ、かっこ悪い」

「で、でも」


 確かに弱いし、情けないかもしれないが。立場を考えれば当然ではないか?


「相手は領主様の息子ですよ? 家来もいるみたいですし、歯向かえるわけないですよ」

「わかってんだけどよ……いっつもいっつもあのザマだ。俺ぁ、あんな逃げてばかりの男になんか、なりたかねぇ」


 強くなりたいサルス。

 冷ややかで現実的なネチュノ。

 内気で孤独なニュミ。


 こんなに小さな家の中に、こんなに大きな苦しみが詰まっている。


「……っと、余計だったな、すまね」

「え、いえ」

「ま、遊んでてくれや。な?」


 言葉で送り出されて、俺はまた、家を後にする。


 街道に出て、のどかな村の中を眺め渡した。

 だが、もう早朝の爽やかな気分など、戻ってはこなかった。春の湿った暖かな空気が、重苦しく喉を塞ぐばかりだった。

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