女神に呪われた男

「ほ、ほれ、もっと食え、ニュミも、な? おっきくなれねぇぞ」


 さっきからずっと、テンタクはソワソワしっぱなしだった。こんな贅沢は何ヶ月ぶり、いや、何年ぶりだろう?

 猪の肉、一頭分。もちろん、剣で切ったりして、グチャグチャになった部分もあるし、そもそも食用に適さない部位もあるので、実際に食べられるのは十五キロ程度か。


 あの後、ネチュノとすぐさま谷川に下りていって血抜きをして、それから何とかこの家まで猪を運んだ。だが、しとめるのは簡単でも、解体となるとあまり自信がない。一応、経験ならあるのだが、思うところもあって、村人の助けを借りた。

 あっという間に他の村人達も駆けつけてきて、こちらに物欲しそうな視線を向けてくる。そこで俺は、お裾分けする代わりに、必要なものをいくつかもらうことにした。ニンニク、生姜、牛乳といった臭い消しに役立つ食材だ。

 あれだけあった生肉も、手元に残ったのは二キロ弱。それで充分。


「いやぁ、ファルスのおかげで、いきなりええもんが食えるべ! ネチュノもお手柄だったなぁ」


 こうして今は、シシ鍋を味わっている。


 しかし、よく見ると、テンタクはそれほど食べていない。子供達に食え、食えと促すばかりだ。そして、時折嬉しそうに目を細める。

 子供達は? まず、ネチュノはよく弁えている。余計なことは考えず、ひたすら肉にがっついているのだ。口をきく時間も惜しんで、とにかく食べる。ニュミも、目を輝かせてはいるのだが、そこはそれ、体の小さな五歳児なので、肉の争奪戦に勝てない。それでテンタクは、たまに小皿に肉を取り分けて、ニュミの前に置く。


「サルスも食っとるかぁ」

「……テンタクも食えよ」


 この家に滞在し始めて、まだ半日。しかし、気付いたことがある。

 サルスもネチュノも、テンタクのことを「親父」とは呼ばない。名前で呼ぶのだ。それも呼び捨て。善意の養い親に対して、さすがに失礼ではないかと目を剥いたのだが、当の本人は気にした風もない。

 ニュミだけ、小さな声で、躊躇いがちに「父ちゃん」というのだ。


「けど、危ないことはするなって言ったべ」

「ああ」


 そこで初めてネチュノも応えた。顔はあげない。


「今日はうっかりしてた。ファルスがいなかったら、危なかった」


 俺がいたから、余計に危なかったのかもしれない。目端の利くネチュノだ。図らずも手に入った金貨に舞い上がったのでもなければ、あんな間抜けはしでかさないだろう。


「本当になぁ。いやぁ、けど、肉が食えてよかった。ファルスはあれだべ、女神様の使いか何かだべ?」

「い、いえ」


 せきこみそうになりながら、俺はなんとか返事をする。

 女神といえば、確かに会ったことがあるみたいだし、助けられもしているらしいし。なので、違うとも言い切れないのだが。


「大袈裟ですよ。ただの旅人ですから」


 ……これは、奉仕者銅勲章なんか見せないほうがいいかもしれない。また騒ぎになってしまう。


 アルディニアも、広義にはセリパシアと呼ばれる地域の一部だ。そしてここでは、今でもセリパス教が主要な宗教だ。人々の信仰心は、女神教の信者達とは比較にならないほど根強い。

 というより、なんというか……こんな風に言ってしまっていいのかわからないが、女神教のほうが奇妙なのだ。まるで宗教色がない。女神を崇拝しています、という割には、信者に義務らしい義務もなく、戒律もゆるゆるだ。飲酒も自由、賭博も許可、売買春も許容、同性愛でも一夫多妻でも、本当になんでもあり。お祈りも、してもしなくてもいい。はっきり言って無宗教同然、メチャクチャだ。

 これに対して、セリパス教は、宗教らしい宗教といえる。聖職者にはもちろんのこと、一般信者にも厳しい戒律が課されているのだ。

 一番目立つのは、やはり性的な事柄についての取り決めだろう。童貞や処女に高い価値を置き、婚外の性交渉を厳禁している。当然、一夫一婦制で、離婚も基本的には許されない。それどころか、聖典派の支配地域では、夫婦であっても、場所や時間によっては、性交渉が禁止されるという。しかも、この「性交渉」というのが、非常に広い範囲を意味している。話に聞いただけだが、白昼堂々、夫婦が手を繋いで歩いていただけで、異端審問官に声をかけられるほどなのだ。

 飲酒については、神壁派では割と柔軟な態度を示しているが、聖典派においては特例を除き不許可。よって、ピュリスの酒場で飲酒していたリンなんかは、不良司祭ということになる。また、彼女がやっていたようなゲーム賭博も、もちろん禁止だ。


 そして、リンは気軽にばらまいていたが、実は教会からの勲章には、かなり重い意味がある。

 俺が手にしている奉仕者銅勲章については、司祭が独断で与えることが許されているが、これも本来は、聖典の内容をよく学び、暗記した信者が、数年間の禁欲生活と奉仕活動の末にやっと授けられる代物だ。セリパシアでは、一般市民も持っていたりするが、それは真面目な宗教生活を送った証であり、俺みたいな若輩者がちらつかせるようなものではない。

 一応、特例として、何か大きな功績を成し遂げ、公共の福祉に役立った場合にも、与えていいことになっているが、俺の場合は、こちらに該当するとしたのだろう。

 ゆえに、この勲章を見せれば人々の尊敬を得られもするが、それに相応しい態度を要求される。これらを安易に与えていた彼女の倫理観と信仰心について、大いに疑問の目が向けられてしかるべきだろう。


 テンタクも、物言いから判断するに、熱心なセリパス教信者であるはずだ。下手にこんなものを見られたら。ただでさえ、彼の中での俺は、何かすごい人、ということになりつつあるのに。


「ただの旅人? 何言っとるだ」


 サルスが肉をフォークに引っかけながら、割り込んだ。


「騎士の腕輪なんか持っとるくせに」


 それもそうだが、こちらは言い逃れる余地がある。


「いえ、こちらはですね……貴族というのは、従順な下僕が欲しいもので、僕みたいな子供を鍛えて、将来、役立てようとするんですよ。だから、子供でも腕輪を与えられる場合はあるんです」

「ほおん」


 また、ニュミに肉を取り分けてやりながら、テンタクが嘆息する。


「俺らぁには雲の上の話だべなぁ」


 一生をこの狭い集落の中で過ごす彼らにとっては、まさにそうだ。


「とんでもなかったぜ」


 ネチュノがボソッと言う。


「猪をあっさり一発だ。なんつう腕前だよ」

「い、いや」

「騎士ってのは、そんなに強ぇもんか?」

「ま、まぁ」


 強い、という単語に、サルスが反応した。


「いいなぁ! 俺も騎士になりてぇよ」

「やめとけ」

「ああ? なんでだよ、ネチュノ」


 サルスが問い詰めても、ネチュノは返事をしない。

 だが、聡い彼の頭の中なら、想像がつく。ほぼ同じ年齢なのに、ファルスはあれほどの技量だ。騎士になるのがみんなこうなら、サルスが追いつけるはずもない。それに礼儀作法や教養全般、外見などなど、課題は山積みだ。

 だが、何より決定的なのが、後援者の存在だろう。この村で一番の権力者は、爵位のない領主であるエル・ウィッカーか、実権を握っているジノヤッチだ。せいぜいのところ騎士相当の身分なのだ。その領民でしかない彼らが、どうやって騎士になるというのだろう? しかもここには教会もなく、したがって司祭もいない。宗教組織の後押しすら期待できないのに。


「騎士には、どうすりゃなれるんだ?」

「ええっと、それは」


 口ごもる俺だが、誰も助け舟など出してはくれない。俺は余所者で、よって彼らが外の世界の話をせびるのは自然なこと。第一、彼らはこの疑問について、本当に答えを持っていない。騎士の地位を得られるのが領主一家に限られる社会では、そもそも知る必要がなかった知識なのだから。


「……貴族など、有力者から、銀の装身具を授かります」

「銀? 銀の何かをもらえばいいのか?」

「騎士として、世の中のために働く人が、もらえるんです。その中で、特に自分を鍛えたい人が、僕みたいに旅に出るんですよ」

「旅に出ると、何かいいことあるのか?」

「正式な騎士になれます。そうなると、黄金の腕輪をもらって、今度は次の騎士を育てる側にまわるんです」

「ふうん」


 世の中のために働く、なんて言われても、ピンとこないのだろう。それより、サルス少年の意識は、もっと身近なところに向けられた。


「なぁ」

「はい」

「その剣、見せてくれね?」

「……ええ、構いませんよ」


 一瞬、躊躇したのは、それがミスリル製だからだ。見る人が見れば、途方もない高級品だとわかってしまう。となれば、次にくるのは物欲だ。不要なトラブルを招くことになる。

 だが、彼らは貧しい。普段の生活でミスリル製品を目にする機会など、まずなかったはずだ。現にさっき、猪をしとめた際にも、ネチュノはまったく反応していなかった。それに念のため、拵えの部分はごく平凡なものに取り替えてある。これなら、無理に盗もうとか、そんな風には考えないだろう。


「どうぞ」


 自分のベルトを外し、そこに吊り下げられていた鞘を引き抜いた。すぐ横に座るサルスにそっと手渡す。


「気をつけてください」

「おおお、すげぇ!」


 俺の忠告など、耳に入らないのだろう。彼はさっと剣を抜く。ミスリルの、ほんのり青白い輝きに夢中になっていた。そんな彼を横に、ネチュノはもくもくと肉を取り、食べている。

 だが、さすがにテンタクが言った。


「サルス、それ、危ねぇだ。しまってファルスに返すだ」

「お、おお」

「それに、飯食っとるのに、んんと、んと」

「無作法」

「そ、そう! ブサホウ、だべ!」


 ネチュノにサポートされながら、やっと彼は言った。

 言い分の正しさゆえに、サルスは不承不承、剣を鞘に戻して、俺に返した。


「騎士かぁ……」


 憧れる気持ちがわからないでもない。

 そういえば、収容所仲間のコヴォルも、騎士になりたがっていたっけ。今頃は、どうしているだろうか。


「カッコいいなぁ」

「そんなことはないですよ。騎士だから偉いとか、かっこいいとかなんて、ありません。真面目に働く農民も、同じくらい立派です」

「そうだぞ、サルス」


 指差しながら、テンタクは言った。


「できるところで頑張ればええだ。そうすりゃ、父ちゃんみたいな男らしい、強い男になれるだ」


 ツッコミどころ満載の説教に、サルスは顰め面して煙を吐いた。


「どこが男らしいんだよ」

「どこが……って、どこがかはわからんけれども、とにかくそうだべ」

「強いって何がだ」

「つ、強いのは、ほら、父ちゃんってのは、昔から強いもんだって決まっとるべ」

「はぁ」


 サルスは呆れ果てて脱力する。

 子供達も、とっくに察しているのだ。テンタクは、無能な男だと。それが無理に一人前の男のふりをしている。


「よ、よーし」


 子供達の冷たい視線を受けて、テンタクは胸を反らした。


「じゃ、じゃあ、父ちゃんが強いところを見せてやるだ」

「どうすんだよ」

「え、えーと、えーと、えーと」


 考えてなかったらしい。


「そうだべ!」


 思いついて、手を打ち合わせる。


「ファルスと勝負するべ!」

「はっ?」

「この村におる間、どっちが強いか、勝負だべ。な? ええか?」

「……いいですけど」


 なんという適当な思い付き。


「じゃ、早速やれよ」


 サルスが吐き捨てるように言う。


「よ、よーし、じゃあ、まずは相撲だ! 相撲だべ!」

「えっ?」

「外、出るだ」


 靴を履くと、もうほとんど真っ暗になりつつある家の外へと、彼は走り出た。


「こっからー」


 拾った木の棒で線を引く。


「ここまで、押し出されたり、転んだり、膝ついたり、手ぇついたら負けだべ。ええな?」

「は、はぁ」


 追いついた子供達が、暗がりの中で喚き散らす彼を見た。


「子供相手に勝って、自慢になんのか」


 サルスの、ごく自然かつ当然な疑問。それにテンタクは慌てて答えた。


「そ、そりゃあ! さ、最初はこんなもんだべ。できるところからなんだべ。な?」


 どうしよう、これ。

 馬鹿正直に組み合って、押し出されて負けてやればいいのか?


「じゃあ、ネチュノ、審判やってくれだ」

「……じゃ、位置について」


 勝とうと思えば、本当になんとでもなる。『行動阻害』で激痛を与えるだけでも、テンタクはひっくり返ってしまうだろう。ただ、肉体のランクの低さが気にかかる。それでうっかりショック死したら、大変だ。


「はじめ!」


 掛け声と同時に、テンタクがのっそりと身を起こす。

 まぁ、負けてもいいか。それより、怪我をしたり、揉めたりしないほうが大事だ。適当に相手をしてやれば……


 ところが、目の前に広がった影が、次の瞬間、ぱったりと地に伏した。


「勝負あり! ファルスの勝ち!」

「へっ?」


 まだ、何もしてないのに?


「いだだ……さすがファルスだべ」

「えっ? えっ?」

「アホゥ、自分で足元の石ころに蹴躓いて転んだだけでねぇか」

「あ、ははははぁ、しまっただなぁ」


 開いた口が塞がらない。

 もはや弱いという次元を超えている。ここまでくるともう、寝たきり老人でも肉弾戦で勝てるんじゃないか。動く必要すらないんだから。


「しかも……ウッ……またやっただな」

「あ、ははははぁ、やっちまっただなぁ」

「川行ってこい! 臭くて飯食えねぇよ!」


 なんだ? と思って、すぐ察した。臭いで。

 あろうことか、転んだショックで脱糞したらしい。まったくひどすぎる。


 それからテンタクは、ヒョコヒョコ歩きながら、村の中心を流れる川のほうへと歩いていった。途中で二、三回、転んだ。

 俺は呆然としながら、その後姿を見送った。


 前世でも、こちらでも。

 彼ほどダメな奴を、初めて見た。


 ここまで貧しく、才能もなく。そして、人間関係にも恵まれない。彼は何一つ持たない。

 なぜ生まれてきてしまったのだろう? 存在自体が、何かの悪戯のようだ。


 俺は首を振って、心の中で同情の言葉を吐いた。


 哀れなテンタク、お前は女神に呪われているのだ、と。

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