第十八章 辺境の村にて

黎明

 そこは無だった。

 形もなく、色もない。音も匂いも。温かさも冷たさもない。

 その永遠のような静寂に、ゆらぎが生まれた。


 灰色の壷の中を見下ろしているような、そんな意識。その中心に、小さな淡い光が点る。それはゆっくりと回転しながら、まどろみ続ける。

 音もなく通り過ぎていく何かに、どこかが反応している。


 この冷たさは、心地よくもあり、鞭打つようでもある。

 そう、これは頬を撫でていく、空気の流れ。風と呼ぶには、あまりに微かな。


 不意に軋みを感じる。

 温もりと潤いを失った四肢、その継ぎ目の部分が、前日の労苦を訴えている。そこからけだるげな熱を感じた。


 すぐ近くに、また違った熱がある。自分の息だ。それを拭い去っていく、新鮮な空気。

 夜の最後の名残だ。


 ようやく、目蓋の外に光を感じる。乾ききった空気にかさついたそれを、ゆっくり、ゆっくりと開く。


 世界は静けさの中で、美しく燃え上がっていた。

 背後ではまだ、濁った藍色の空に、小さな星々が瞬いている。それが頭上では紫色に、そして前へと目を向ければ。

 黒々と景色を切り刻む針葉樹、その無数の影の向こう。橙色に染まった彼方が見えた。

 暗い緑の葉が、くすんだ枝が、ところどころこの一時の輝きに照らされ、まばゆく輝く。


 右手を仰ぎ見れば、峰高く聳える山脈。左手を見渡せば暗い緑の樹冠が広がる。

 そして足元を見やれば、まだ灰色の、か細い街道が目に映る。ろくに整備もされず、ここ数年はたまにしか人が通らなかった道だ。


 ……今朝は、あの悪夢を見ずに済んだので、久々に心地よい目覚めだった。

 こうして樹木の上で仮眠を取るのにも、今ではすっかり慣れてしまった。


 ピュリスを出て八日、俺はコラプトに到着した。そこまで徒歩で移動したのだが、この時はさすがに疲れきっていた。こんなに歩かなければいけないものかと思ったものだ。だが、北に向かう馬車はなかった。ティンティナブリアは統治者を失い、目も当てられないほど混乱していたのだ。

 王国を出て、目指す目的地のいずれかに行き着こうと思ったら、選択肢は二つしかない。一つは、引き返すことだ。ピュリスに戻って船に乗るか、王都から西に抜けるか。そしてもう一つの選択肢が、ティンティナブリア盆地を経由するルートを取ることだ。ここを通らなければ、エキセー地方の港町まで南下することもできないし、セリパシアに抜けるのも無理だ。

 それで数日間、足止めを食ったのだが、さすがに新王も、治安の空白を放置し続けるほどいい加減ではなかった。ほどなく王国兵がコラプト経由で現地に向かい、治安維持に取り組み始めた。

 とはいえ。彼らが街に立ち寄った時、俺はその姿を遠目に見たのだが、正直不安しか感じなかった。簡素な装備にやる気のない兵士達、そして不運な指揮官はというと、病み上がりの体を引き摺るばかり。馬から下りるとまともに歩けない有様だった。

 彼らが去って三日後に、俺はまた徒歩で北を目指した。さすがに主要な街道や城砦付近の治安は保たれていたが、そこを離れると何が起きるかわかったものではなかった。具体的には、盗賊どもにとっての獲物になる豊かな地域は、盆地から南東方向にかけて広がっており、そちらに向かうほうが、より危険だと知らされたのだ。


 ならばいっそ、このまま北へ。

 どの手段によっても、目的を果たせさえすればいい。せっかく紹介状もあるのだし、こちらから旅を始めてみるのも悪くない。


 またもや馬車は見つからなかった。

 北に向かう場合、山間の険しい道を越えていくしかない。二十年ほど前までは、旧街道を補修しながら北方の商人が鉱石を売りにきていたのだが、ここ最近はそれが途絶えている。おかげで道の状態も悪く、馬車ではとても通れそうにないとのこと。


 だからここまで歩き詰めの旅をしている。


 はじめは足にまめができた。それが潰れて、また歩いて、潰れての繰り返しだった。

 そのうちに、健康の維持に気をつける必要を感じた。まず最初に意識したのは食事だが、それだけでは足りなかった。

 体の節々に痛みがないか、無理をさせていないか、確認するようになった。準備運動や柔軟体操の重要性を改めて確認させられた。立ち方、歩き方の偏り。荷物の持ち方一つとっても、ゆがみの原因になり得る。こういう体の中の小さな違和感に早く気付くこと。自然の中をたった一人で旅しているのだ。鈍感なままではやっていけない。

 当然ながら、入浴はできない。だが、それでも可能な限り、清潔には気を使わなければいけない。健康に直結するからだ。


 それで痛感した。

 こうしてただ歩いて旅をするだけでも、自らを鍛錬することになる。これこそ己の弱さを克服する手段なのだと。


 標高の低いところでは、猛獣や魔物が出ることもあった。一度、狼の群れに囲まれたことがある。その時は、火の玉を何度かぶつけてやっただけで撃退できた。

 厄介だったのは、オーガ……つまり、人食い鬼だった。トロールのような、のっぺりとした毛のない巨人ではなく、こちらはむしろ毛むくじゃらで、体格も三メートルから四メートルほどと、巨人種としては背が低い連中だ。

 無論、今の俺にとっては、さほどの強敵でもない。身体能力に頼って勝負するのはまだ危険だが、動きは鈍重だし、知能も低い。剣でも渡り合えなくはないが、それより火魔術で対応すれば、簡単に撃退可能だった。但し、相手が手強いとなると、途端に叫び声をあげて仲間を呼ぼうとする。こうなると面倒だ。

 だから、命懸けの戦いを繰り広げる前に、俺はピアシング・ハンドを用いる。つい昨日も、街道で一匹だけ見かけたオーガを、黙って消し去った。剣戟の音、火魔術の轟音で、すぐ仲間が駆け寄ってくるから、これが一番安全だ。

 なお、死体はバクシアの種の中に収めてある。その場に捨てると、臭いで見つけられてしまう。大騒ぎになりかねないからだ。その場で近くの樹木にでも移してしまえばよかったのだが、うっかりしていた。冒険者ギルドで買い取ってもらえるような素材にもならないし、ただの生ゴミでしかない。


 とはいえ、使い道もあるかもしれない。一つには、自分がオーガになってみる、というものだ。この貧相な子供の体を抜け出して、四メートルの巨体で暴れまわったら、どうだろう? 体の大きさに合った剣でもあれば、相当な強さを発揮できそうだ。

 但し、リスクもあるので、軽々しく試すのも気が引ける。これまでの経験上、どうも精神は肉体の影響を強く受けるらしい。昆虫や蛇になった時の知能低下も、その一例だ。オーガになったからといって、まさか虫けら程度の知能になったりはしないだろうが、何かこう、性格にも影響が出たりはしないだろうか? 例えば、必要以上に好戦的になったり、というように。

 どちらにせよ、人里付近でこの格好になるのは危険だ。あっという間に討伐隊が組織されるだろうし。

 そんな感じで、使い道を決められずに、ゴミ同然の肉体をなんとなく持ち運んでいる。


 木々も生えないような高地では、それらの魔物も見かけずに済んだ。ただ、吹き荒ぶ乾燥した寒風に、身を縮めることにはなったが。山の上にはあちこち雪が残っていて、まだ冬景色のままだった。

 山脈を越えてやっと今、少しずつ山をくだってきている。こうなると、今度はまた、環境より魔物の方が脅威となる。戦えば何とかなるが、奇襲を受けてはたまらない。それでこうして、ロープで体を固定しつつ、木の上で仮眠を取るようになった。


 旅の途中、何度も、あのいやな夢を見た。

 仮面の欠片が顔に貼りつく、あれだ。


 青空と、対岸の見えない広大な湖。その沿岸に立ち並ぶ未来的な建造物。そこへ現れた、怒れる黒龍。

 部屋の中で祈りを捧げる人々も、何度か見た。薄い座布団の上に膝をついた、恰幅のいい中年女性が、見慣れない祭司用の服を身に纏って、その場で何度も同じ仕草を繰り返す。その視線の向こうには、壁の奥に飾られた巨大な仮面がある。

 仮面と目が合ったら、もうおしまいだ。気付くと顔に貼り付いている。剥がそうにも剥がれなくて、息苦しくて目が覚める。


 あの思い出したくない日から。俺の中で何かが蠢いている。

 あれは何の記憶だろう。


 考えても答えは出ない。

 だから、俺はまず、現実の問題をどうするかに目を向ける。


 太い枝の上に立ち、北方を眺める。か細い道に沿って、森の裂け目がうっすら続いている。その先に……あった。

 集落らしき、大きな空き地だ。ここから少し北に進み、西に曲がった先にある。その集落の西端には、城砦とみられる丈の高い建造物もある。その砦の向こう側は急な下り坂で、また新たな岩山との間に谷間を作っている。

 それと、集落の北にも道が通じているらしい。あまり高さのない山があるようだが、その向こうはちょっとした盆地になっているのだろう。ここからだと、広がる森の向こうは、はっきり見えない。


 ありがたい。やっと人里に辿り着ける。何日ぶりだろうか。

 セリパシアに入ってから、最初の村だ。


 ロープをほどくと、俺は慎重に木から下りた。こういうのも、何度かやると、コツがつかめてくる。楽だからといって、滑って降りようだなんて、もってのほかだ。高所で手を滑らせたら怪我をするし、そうでなくても、下が平坦でなければ、足首をくじく危険もある。しっかり三点を固定し、安定させてから、手足のどれかを動かす。ちゃんと降り立つまで、決して油断しない。

 降りたら、改めて周囲を確認する。さっき上から周囲を見回しはしたが、それだけで安全確認ができたと考えるのは早計だ。枝葉に隠されて見つけられない危険が、森の中にはいくつもある。

 忘れ物もなさそうだ。そして、街道の後ろにも、進行方向にも、気配はない。人里が近いとあって、野生動物も魔物も、そうはいない。俺はそっと荒れた石畳の上に一歩を踏み出す。


 森の木々が左右に分かれ、急に視界が広がる。紡錘形に広がる、谷間の集落が目に映る。

 俺が立つ入口のところには、村の境界を示す石柱が二つ、左右に建てられている。そこから先の石畳の状態は、少しましになっている。人が暮らしているので、それなりに修繕されているのだ。

 ポツポツと草葺屋根の、木造の平屋が、なだらかな斜面に腰を据えている。黒々とした土を音もなく耕す村人が、遠くにポツンと見える。うっすらと頭上にかかる雲。夜の名残の暗さを残しつつも、今日が爽やかな快晴になるのが見て取れる。

 静かな辺境の村、か。


 一歩を踏み出す。

 俺が立ち入っても、誰も見咎めない。数年間、ほとんど南方との行き来がなかったのだ。そもそも旅行者がやってくるなんて、想定もしていないのだろう。だから、関所も見張りも何もない。

 足元が暖かい。なんとなくそう感じる。人が住んでいる領域だからだろうか。日差しが木々に遮られず、石畳を暖めているからか。或いは、ほのかな安心感から、足裏に感じる温もりに気付ける余裕が生まれただけなのかもしれない。


 しばらく進むと、村人がこちらに気付き始めた。だが、だからといって何もしない。なんだあの子供は? といった視線だ。見慣れない誰かがやってきたのはわかるが、警戒心をおぼえるほどでもない。いちいち声をかける必要もなさそうだ……そんなところか。


 さて。今日はどうしようか。

 久々の人里だ。できれば入浴したい。それができなくても、屋根のあるところで温かいものを食べ、布団に包まって安眠したい。ただ、それが可能かどうか。


 あの馬鹿な伯爵のせいで、交易路は数年間、機能しなかった。となれば、ろくに宿泊施設もないだろう。なにせ、かつてのリンガ村と大差ない貧しさだ。家々を見ればわかる。ピュリスと違って、窓ガラスなんて上等なものはない。これだけでも生活水準がわかろうものだ。

 こうなると、一般の個人宅に風呂場があるとも思えない。東方大陸ならともかく、こちらの人々はそこまで頻繁に全身浴を楽しもうとはしないのだ。

 入浴は諦めるとして、では、温かい食事と寝床は? そこらの農家に金貨を見せびらかして、泊めてもらうか。多少高くついても構わないが、トラブルになるのは避けたい。ここの人々に、現金収入がそんなにあるはずもない。実は強いといっても、俺の見た目は子供だから、侮られる可能性もある。


 ならば、いっそこのまま通過するか?

 一日はまだ始まったばかりだ。朝食だけ、どこかで振舞ってもらって、そのまま先に進む。疲れを取るのも大事だが、村はここだけではないだろう。近くにちょうどいい場所があれば、ここは通り過ぎてしまっても構わない。


 そう思って村を横断していく。ふと、視界を覆う、大きな岩山が目に付いた。

 巨大な岩に、人の手が加わっている。一番下には門があり、そこに分厚い木の格子戸が下ろされている。その向こう側は急な下り坂になっており、向こう側の岩山との間には吊り橋がかけられている。城砦の上の方には、くりぬかれた岩の窓がいくつかあり、その奥に長方形の石材で組み立てた部屋がある。

 何かに似ている。あれは……そうだ。ヌガ村の城砦。あれとそっくりだ。


 俺は立ち止まり、周囲を改めて見回した。

 そして、理解が追いついてくる。


 ここも旧ロージス街道の一部だ。もともとはギシアン・チーレムによるセリパシア帝国への侵攻路だった。

 ティンティナブリアからやってきた軍勢が、足を休める場所。そして、敵の流入を防ぐ拠点でもあった。その敵は西からやってくる。だから、村の東側には関所がないのに、西側には城砦があるのだ。それをアルディニア王国が流用しているに違いない。

 きっと、それ以前からも集落そのものはあったのだろう。世界統一以前、ティンティナブリアは帝国領だったから、東西を繋ぐ幹線道路が必要だったはずなのだ。


 しかし、今では見る影もない。ロージス街道の東半分が生き残っていた時代には、ここはまさに物流の中心だったに違いない。チーレム島から最短距離で西方大陸に船が着き、そこからまっすぐ街道を西進して、ティンティナブリアで北西に。ルイン人にとっては重要なルートだったはずだ。

 だが、諸国戦争が起き、ロージス街道の東部が機能しなくなると、ティンティナブリアはただの田舎になってしまった。かてて加えて、帝国時代と違い、南方にあるのは外国だから、自然、繋がりも薄くなる。

 ここにいるのは、かつての東方開拓民の末裔だ。それが、今となっては役割を失ったこの土地に、ただしがみついている。なるほど、貧しいわけだ。


 そうだ。

 なら、あの城砦に泊めてもらうのはどうだろう?


 ここを治めているのが誰かは知らない。この規模の村落だと、貴族というのは考えにくい。爵位を持たないみなし貴族に、騎士の称号がくっついているくらいか。どちらにせよ、決して裕福とはいえないはずだ。

 高くつくかもしれないが、それなりの食事も期待できるし、俺が騎士の腕輪を持っている以上、相手も揉め事は避けてくれるだろう。何より、きっと入浴できる。


 そうと決まったら、さっさとしよう。居心地がよさそうなら、数日、体を休めてもいい。

 思わず浮き足立った。

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