旅立ち

 肌寒い冬の日の朝だった。

 窓の外から見える空は、一面、灰色の雲に覆われていた。


 後片付けも済んだ。この部屋は、来週からジョイスが使う。私物は地下一階に運び込んだ。ベッドと本棚以外は何もない。ガランとしている。

 俺はリュックを背負った。


 一歩一歩、階段を降りていく。

 四年近く、ここで暮らした。それが本当に終わる。


 階段の下には、ランタンを手にしたノーラが立っていた。


「行ってくる」

「待って、ファルス」


 彼女はじっと俺を見つめて……なんだ?


「……大丈夫? 平気?」

「もちろん。何の問題もないよ」


 だが、彼女の目は、じっと射抜くように俺を見つめ続ける。

 すっと店舗側のバックヤードに引っ込むと、すぐ戻ってきた。


 小さな木箱を手にしている。


「忘れ物よ」


 これは……

 さっきその他の私物と一緒に、地下一階に置いた、あの包丁だ。

 持って行くつもりはなかった。


「旅先でも、使うでしょ?」

「あ、いや」


 なんと言おう。


「せっかくのいただきものだし、なくしたらもったいないから」

「使わないほうが、もっともったいないでしょ」


 そう言うと、彼女は勝手に俺の背中のリュックに、それを押し込んでしまう。


 俺の知る限り、ノーラは人付き合いが苦手なだけで、それなりに知恵のまわる子だ。ただ、それはそれとして、たまに妙なくらい勘がよかったりする。今回も、その手の何かが働いたのだろうか。


「行ってらっしゃい、ファルス」

「ああ。行ってくる」


 俺が置き去りにしていきたかった「それ」を、彼女はなお、押し付けた。

 ただ、楽になりたいだけなのに。


「……待ってるから」


 小さく呟く声が、聞こえた気がした。


 頬を食い破る冷たい空気が、街中に、しんと沈んでいた。

 人通りもやけに少ない。物音も、どこか遠くから聞こえるようだ。何もかもが朧な灰色の風景の中を、俺は白い息を漏らしながら、静かに歩んでいく。


 見慣れた店。焦げ茶色の扉の前に、知った顔が立っていた。いかにも寒そうに、背中を丸めている。


「……おう」

「店長」


 こんなところで、何を……


「今日、行くのか」

「ええ」


 とすると。わざわざ俺を待っていてくれたのか。

 俺は、その場ですっと頭を下げる。


「長い間、お世話になりました」

「いらねぇよ、んな挨拶」


 つっけんどんな態度で、彼はそう言い放った。


「お前の人生だ。行きたいところに行きゃあいいさ」

「……はい」


 俺が立ち去ることを、彼はどう思っているのか。

 人はどうしてこんなに複雑な表情を見せるのだろう。


 彼は、俺のこの街での生活を知っている。

 アイビィと過ごしたことも。ガッシュ達との付き合いも。最後には、シータに裏切られたことも。俺の気持ちがどんなところにあるか、想像がついている。


 そうだ。俺はもう、ここにはいられない。あまりに苦しい。あまりに悲しい。だから、旅立つのだ。


「行ってきます」


 改めて一礼して、俺は彼の前を通り過ぎた。

 数歩、進んだところで、後ろから声が響いた。


「ファルス!」


 怒鳴り声は常のことでも、こんなに必死な叫びは、初めて耳にした。思わず振り返る。

 彼は真剣な眼差しを向けていた。


「ここはお前の街だ! 忘れんな! ここがお前のっ……お前の街なんだ!」


 肩を震わせ、拳を握り締めて。

 ああ。俺は、自分で思っている以上に。本当にお世話になっていたのかもしれない。


 それでも。

 俺は旅立つ。


 大通りを北へ。

 雪でも降り出しそうな空の下、俺はただ、歩く。


 左側に聳える丘。白い家々が折り重なって、本当に真っ白な山に見える。

 これを見上げる時の気持ちは、もう言葉には表せない。


 やがて、道幅が広がる。足元の石畳の色が変わる。頭上と同じく、くすんだ灰色になった。

 北門前の広場だ。


 ほとんど人気がなかった。

 そんな中、門を背に、数人の人影が見えた。


 ……やっぱり、そうだった。


 中心に立つのは、見事に燕尾服を着こなした銀髪の執事。その横には、少女が二人。離れたところに、イーナ女史と、マオ・フーが立っている。反対側には、リンがサディスを伴っている。その横には、ジョイスも。

 全員が俺の出発を止めようとしているわけではない。恐らくマオは、最悪の事態に備えているだけだ。サディスもジョイスも、俺を見送りに来てくれたのだろう。

 だが……


 白刃のように冷たい空気の中、彼は身じろぎもせず、立っていた。

 俺は、一定の距離をおいて、立ち止まった。


 耳が痛くなるような沈黙。

 何もかもが氷のように冷え切った中、視線だけが、火のようだった。


「ファルス」


 イフロースは静かに呼びかけた。


「いつ見ても思うのだが、この街より美しいところなど、どこにもないのではないか」


 俺は応えない。


「船乗りや旅人も、ここを訪れるのをいつも楽しみにしているくらいだ」


 だが、彼は構わず話し続ける。


「あと何年か、暮らしてみてもいいかもしれんぞ」

「あなた方はここを去るのでしょう」

「そうだな、それが残念でならん」


 声色こそ穏やかだ。

 だが、その奥には黒い刃が潜んでいる。


 この地に根付いたエンバイオ家の権勢。その最後の力で、俺の出港を妨げた。

 ここで張っていれば、やがて俺は姿を現す。そして……決して通さない。


「お前には新しい仕事を用意した。家宰代理だ。月の収入は……そうだな、金貨百枚で手を打たないか」

「今のあなたに、そんな権限はないのでは」

「なに、今から引き返してカーンに言えば、すぐその通りになるとも」


 大変結構だ。

 だが、それは俺の望む未来ではない。


「私としては、このまま引き続き、お前にお嬢様を守ってもらいたくもある。それに、貴族の後援者というのは、やはりいたほうがいいものだ」


 真っ平御免だ。

 俺は永遠の静寂を、きっと手にする。


「よい人生を送るには、充分な富を手にし、美しい妻を横において、仕事を楽しみながら、誇らしく生きることだ。むざむざそれを手放すことはなかろう」


 何を白々しい。

 彼の主張におかしなところなどない。それでも素直に受け取ることなど、できそうにもなかった。


「私はお前に、人として生きろと言った。よもや忘れはしまいな」


 俺は、冷たい声で応じた。


「……エンバイオ家のためですか」

「お前のためだ!」


 突然、燃え盛る火のような激情を露にして、彼は叫んだ。


「僕は、行きます」

「行かせん」

「絶対に、行かなくてはなりません」

「ならん」


 小さな金属音が響く。目にもとまらぬ速さで、彼は剣を抜き放っていた。左手には、あの風の懐剣がある。


「是が非でも引き返してもらうぞ」


 円形の広場の真上には、今も灰色の雲がとぐろを巻いていた。

 木枯らしが、家々の壁に沿って周囲を一周する。何か呪わしいものが頭上にいて、これから起きる出来事を見つめているような気がした。


 俺はリュックを滑り落とした。静かに腰に手をやり、剣を抜く。


 脇に立つリリアーナが、両手を握り締める。そして、小さく呟いた。


「じいや……お願い……」


 そんな彼女を、ナギアがそっと支える。

 周囲を巻き込まないために、イフロースは静かに前に出た。


 一瞬の対峙。それはすぐ、突然の刺突に取って代わられた。

 イフロースの剣術には、無駄がない。先手をとって少しでも早く敵を葬り去るのが戦いの常道だから、余計な間などない。可能な限り直線的に、まっすぐ敵を狙う。

 だが、これは俺も知っている「型」だ。


 間合いの外から鋭く突き入れ、空気を掻き回すように切り上げ、振り払い、引きつけ、横薙ぎにする。

 俺の剣も、彼の剣も、ただ空を切る。


 洗練された技だ。

 無意味に剣を打ち合わせ、足を止めるような真似はしない。


 ……だが、それだけか?


 イフロースの目的は、俺の殺害にはない。足止めしたいのだ。軽い傷であればともかく、一生残るような重傷を負わせたいとは思っていないはず。

 であれば、剣は不適切な道具だ。


 現に俺も、彼への殺意などない。

 どいて欲しいとは思っているが、殺したくはない。


 ならば、彼の狙いはどこに……


 俺の視界に、風の懐剣が映る。一見すると、それは防御的な目的で持ち出されたものに見える。両手に剣を持つというのは、より守備的な構えなのだ。

 しかし、それ以外の目的があるとすれば? つまり、剣が囮で、こちらが「主攻」であるなら。

 そもそも彼の場合、もう片方の手は自由にしておくのが普通だ。使い慣れた石礫を投げつけるほうが、ずっと素早く攻撃できるからだ。それを犠牲にしてまで風の懐剣を持ち出すということは。


 彼が用いる風魔術には、いくつかの種類がある。


 一つは、空気の塊をぶつける打撃だ。官邸の中庭で、初めて手合わせした時に見た。ただ、これは咄嗟に繰り出せるものの、さほどの威力もない。それに、足元の塵まで巻き込んで動くので、注意深く観察すれば、その軌道は読み取れる。実はさほどの速度もないので、充分に回避可能だ。

 これをもう少し強力にすると、空気で切り刻む刃になる。だが、これは射程距離も限られるし、そう簡単には発動しない。現に海賊襲来の際にも、王都の争乱でも、彼は離れた場所にいる敵に、この魔法を使うことはなかった。飛び道具より使い勝手が悪いのだ。何より、この技を使うと、俺に深刻な怪我を負わせる危険がある。

 では、矢除けか? 俺が飛び道具を使わないのは承知のはずだ。実のところ、今の俺には火魔術という弾丸があるのだが、彼はその存在を知らない。


 つまり、俺が知っている限りで、彼が風魔術を用いる必然性などないことになる。だが、剣で俺を八つ裂きにするとも思えない。懐剣を投擲するのもあり得ない。それでは本末転倒だ。

 ということは……


 ……『俺に見せたことのない切り札』で、仕留めようとしている。


 そうだ。

 どうして俺は、今日までその可能性を考えなかったのか。


 イフロースは、俺を信用していた。それは確かに間違いではなかった。例えば俺が、目先の金目当てにエンバイオ家を売り渡したりとか、主人の寝首をかいたりといったことは、まず起き得ない話だった。

 だが、それはそれとして。彼は武人だ。武人は、いついかなる時にも、戦いの可能性を想定する。わかる範囲でも危険なほどの能力を有し、かつ秘密を決して明らかにしようとしない謎の少年に対して、一切の備えを放棄するなど、あってはならない。

 俺が欲しているのを知りながら、彼は風魔術の指導を渋ってきた。なぜか? ただの物惜しみでなかったのは、もはや明らかだ。

 そして今、彼は手持ちの切り札のうち、特に殺傷力の低い方法で、俺を取り押さえようと決めた。


 そして、俺にはその正体がわかってしまった。

 彼が知っているのは、俺が転生を繰り返した人間であるということだけ。科学の進んだ現代日本からやってきたという情報はない。恐らくイフロースは、これから行使しようとしている術が、風魔術としては予想され得ないものだと読んでいる。だが、俺は既に知っているのだ。

 俺は露骨に短剣に注目した。だが、彼が挙動を変えることはない。どれだけ注意していても、初見では回避できない。そう考えているのだろう。

 だがそれゆえに、気付きが確信に変わった。


 剣と剣が交差する。

 相手に当てるつもりもない型の応酬。こんなものは、ダンスに過ぎない。俺はただ、ひたすら、風の懐剣を見続けた。


 小さな詠唱が聞こえた。

 ……くる。


 懐剣の先端に、かすかな光が宿る。

 今だ!


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 (自分自身) (11)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、9歳・アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル 身体操作魔術 5レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 薬調合    8レベル

・スキル 風魔術    6レベル


 空き(1)

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「ぬおっ!?」


 切っ先に宿った紫電は、突如、その制御を失った。

 それは目指すべき対象ではなく、間近な本人を貫く。


 この世界の大多数の人々は知らない。

 摩擦が静電気を生む。そして空気と空気の摩擦が、雷の原因だ。

 電撃は、一度放たれれば、目で見て避けるのは不可能な代物だ。だからこそ、イフロースも必殺の武器として、最後まで隠し持っていたのだろう。だが、それを予測でき、しかも対処する手段まで持ち合わせていた俺には、まったく通用しなかった。


 高速での剣のやり取りにおいて、彼が見せた隙は決定的だ。

 俺はそっとそこに剣を置くだけだった。


 膝をつくイフロースの首元に、青みがかった銀色の刃が添えられた。


「じいや!」


 リリアーナが駆け寄る。

 勝負は終わったのだ。


 俺は剣を引き、鞘に納める。

 奪った風魔術のスキルも、俺には扱いきれるものではない。本人に返しておく。


「じいや! じいや!」

「……申し訳……ございません、お嬢様……」


 イフロースは気付いただろう。今のは偶然の失敗などではない。俺が何かをしたから、魔術が暴発したのだと。

 だが、彼がその秘密に至ることはないし、知ったところで、どうにかなるものでもなかった。


 彼はしばらく立ち上がれない。

 決着のついた俺達を、周囲の人々は遠巻きに見ていた。


 俺は振り返り、その場の人達の顔を一瞥した。だが、すぐに視線を切る。


 俺は去る。

 この街を。人の世界を。


 俺は背を向けて、門へと進んだ。

 遠くから勝負を見物していた門番は、明らかにうろたえた様子だった。俺はさっと銀の腕輪を見せる。それで無言のうちに、彼らは通行を許可した。俺は目の前の兵士を押しのけ、大股に歩いた。


 分厚い門の下を潜り終えた。背後で鉄格子が音をたてる。

 目の前には人気のない、寒々しい街道が広がるばかりだった。


 俺は振り返らない。

 一歩、また一歩……


 人として生まれ、人として生き、ついに人の世に倦んで、遥か彼方へと旅立つ。

 前世でも、こちらでも。数え切れないくらいあるお伽話のあちこちで、繰り返し語られる筋書きだ。

 俺の人生も、そんな一つ。どこにでもある、ありふれた物語でしかない。


 俺はどこへいく? どこまでいく?

 どこまでも。この苦しみが終わる、世界の果てまで。

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