自由になった不自由人
レストランのバックヤード。俺は厨房で、新鮮なキンメダイに頷いていた。あと、マグロもいいのが入っている。
会食の予約が一件。絶対においしいと言わせたい。いつだってそう思ってやってきた。
まず、アンティパストはいつも通りのナチュラルチーズに生ハム。イタリア料理はまずここからだ。まず最初におっ? うまい! と思わせる。うちの店の自慢できるところだ。
さて、どうしよう。二品目はマグロのカルパッチョか、キンメダイの白ワイン蒸しか。せっかくこれだけいい魚が入ってきているなら、どっちか出したい。メニューはお任せとの連絡を受けている。
そうすると逆算して、一品目はどうしよう。女性客もいるということだし、美容にもいいアロエを使おうか。アッサリしたパスタにしよう。で、二品目の魚料理の風味を存分に堪能してもらって、次にサラダ、デザートと。この辺はいつも通りか。
うちはコーヒーも結構いいのを入れている。エチオピアはカッファの、本場の豆だ。近頃は大麻への転作のせいで、価格が上がってしまっている。だが、それでも仕入れる値打ちはある。なんといっても華やかな香りが素晴らしい。なんと言ったらいいか、こう……「市場にいるお喋り好きの女性の笑顔」みたいなイメージがフッと浮かぶ。浅めの焙煎がオススメではあるが、フレンチローストくらいにすれば、カフェオレで飲んでもおいしい。ここがイタリアンの店でなければ、エスプレッソ以外の出し方もできるのに。あれを飲みながらなら、きっと会話も弾むだろう。
その日も俺は、自分の皿が誰かを幸せにするのだと、信じて疑わなかった。
俺の心には、子供の頃の思い出が焼き付いている。自分の誕生日に出した、雨の夜に投げ捨てられたあのホットケーキだ。だが、確かにあれは、ひどい出来栄えだった。食べてもらえないのも仕方ない。
今は違う。自分なりに勉強を重ねた結果、大きな店ではないが、この若さで副料理長を任せてもらえている。誇らしくも、ありがたい。
だから今日も全力を尽くすのだと。そう思っていた。
……事件は突然に起こった。
食後のコーヒーをお出しした直後、皿が割れる音がフロアに響いた。最初、俺は誰か給仕がしくじって、皿をお下げする際に、床に落としたのかと思った。
だが、続いて中年女性の怒鳴り声が聞こえてきた。口論だ。何だ? まさか、何か店側のミスでも……
慌てて駆けつけてみると、合計六人の男女が睨み合っていた。一人いた若い女性は、ハンカチで目元を押さえている。反対側の若い男は、現実逃避するかのように、斜め下をぼんやり見つめるばかり。
喧嘩腰なのは、主に若い女性の両親と思しき二人だった。
「そういうつもりなのね!? どこまでバカにすれば気が済むの!」
「いや、これはたまたま」
「たまたまで済みますか!」
原因は?
だが、どうも俺の出したものに関係があるらしい。なぜなら今、彼女は怒鳴りながら、テーブルを指差した。
「失礼致します、お客様」
俺は頭を下げながら、割って入った。
「当店の副料理長を務めております、佐伯と申します。私どもに不手際がございましたでしょうか。差し支えなければ……」
「ふざけんじゃないわよ!」
怒りの矛先がこちらに向いた。ということは、やはり俺の料理がいけなかったのだ。
だが、いったい何が? 味は完璧だった。それは絶対だ。言い切れる。
「あなたね、人様の体をなんだと思ってるの!」
「はっ!?」
体? 健康?
あり得ない。うちの店は、衛生面もきっちりしている。今日に限って、そんなミスは……
「うちの娘に流産でもさせたいの!?」
「えっ!」
ビクッとして、俺は跳ね起きた。そして、左右を見比べる。
……この微妙な雰囲気。
そこでやっと俺は察した。
いわゆる「できちゃった結婚」だ。今は授かり婚とか言うらしいが。
で、急遽、両家の人間が顔合わせ。恐らく、この若い男が予約を取ったのだ。そして、妊婦の体にどんな食品が有害かなんて、普通の男性の関心外だ。単に彼女が「イタリアンが好きだから」という理由で、うちに連絡を入れたのだろう。
いや、事情を確認しなかった店側も迂闊だった。妊婦がいるなら、こんなものは出さなかった。生ハムも、ナチュラルチーズも、アロエも、それにマグロのカルパッチョも……どれもこれも、全部「避けるべき食材」だ。そしてトドメがコーヒーか。なんてことだ!
昔とは時代が違うとはいえ、娘の親からすれば、婚前交渉の結果の妊娠なんて。「勝手に何してくれるんだ」という気持ちがあるだろう。そんな中、男性側の家族が、結婚に向けて少しでも円満に話をしようと、いいレストランを探しての会食を計画したのだ。そんな場面で……
痛恨のミスだ。
「申し訳ございません!」
「謝って済む話じゃないわよ!」
「お母さん、もう」
「あなたは黙ってなさい!」
俺はひたすら謝った。頭を下げて、下げて、下げまくって……
「ん……」
……ふと、目が覚めた。
いつもの寝室だ。ここは日本じゃない。ピュリスだ。冬の朝の淡い光が、カーテンの隙間から漏れている。
いやな夢だった。
俺が料理人をやめるきっかけになった事件。これでクビになったわけではない。ただ、心が折れてしまった。
たった一度のミスで? いいや、「ミスをしたから」ではない。
自分の気持ちに気付いてしまったのだ。
……家族には、俺の皿は拒まれた。だけど、真心こめて丁寧にお出しした料理なら、きっと誰かに受け入れてもらえる……
なんのことはない。
どこにも求めることのできなかったその気持ちを、縁もゆかりもないお客様に向けていた。乞食のような、情けない……最低の料理人だ。自分でそう思った。
そうではない。俺はただの道具。取替えのきく、ただの舞台装置だ。
そのお客にとっての大事な人は、テーブルを挟んだ向こう側にちゃんといる。俺じゃない。俺なんか、関係ない。
じゃあ、この努力はなんだったのか? 俺は間違っていた。料理を志すなら、料理そのものを目的とすべきだった。そこに「俺」はいらない。
いつの間にか、気力をなくしていた。
もういい。普通の人らしく、普通の人生を生きよう。土日も祝祭日も潰して働く料理人ではなく、どこにでもいる平凡な市民になろう。
終わったことだ。
俺はベッドから降りて、服を着替える。
前日に用意しておいたリュックを背負い、階段を降りていく。もうすぐノーラも起きるだろう。二階のキッチンに立ち寄り、スープを温めておく。食事は……帰ってからでいいか。
また階段を降り、玄関から外に出た。
子供の筋力で、二十キロ近いリュックを背負い続けるのには無理がある。だから、すぐ馬車を呼んだ。
そうして数日振りに、総督官邸の東門に立つ。また重い荷物を背負わねばならないが、今度はすぐ終わる。敷地北東の秘書課棟は目の前だ。
「おはようございます」
執務室に入って、声をかける。
そこで目を瞠った。
「ああ、おはよう」
返事をした人物が、違う。
銀髪に眼鏡の執事ではなく、北部サハリア風の丸い帽子をかぶったカーンが、そこに座っていたのだ。
「話は聞いている。借金の返済日は今日だったな」
「えっと、はい」
そう言いながら、俺は重い荷物を床に下ろした。
「これ、ちょっと」
「ああ、そこに置いておけばいい」
「数えないと」
「お前がごまかすとも思えん。あとで確認するから、心配するな」
じゃあ、これで返済はおしまい、ということだ。
俺の無言の催促を受けて、彼は手元の書類にささっとペンを走らせる。
「そら」
デスクの上から、彼は手を伸ばす。俺は歩み寄って、その紙片を受け取る。
「それが領収書だ。これで晴れて、名実共に、お前は自由の身だ」
「……ありがとうございます」
これで、俺の旅立ちを妨げるものは、本当になくなった。
「で、これは片付いたわけだが……念のために訊くぞ。再就職する気はないか」
「せっかくですが」
「好きな役職を空けてやるぞ」
「お気持ちだけ、ありがたく」
「ふん」
年が明けて、今。
トヴィーティ伯爵家の下僕の半分以上は、既に屋敷を去っていた。古くからの召使達だけが、サフィスと共に王都に向かう。あの狭い別邸が、今度は本拠地になるのだ。
本当は手放したくない人材もいたはずだ。だが、その辺り、サフィスの側には選択肢がなかった。ランをはじめとする旧来の下僕が残り、フィルの時代から掻き集めた外部の人間は、雇い止めとなる。そうしなければ、収まらなかった。
だが、俺は例外とするつもりだったらしい。
「あの」
「なんだ」
「イフロース様は」
「ああ」
鼻を鳴らすと、彼はこともなげに言った。
「クビにした」
「クビ?」
「私が家宰の役目を引き継いだ。その権限で、契約を打ち切った」
「どうして……いえ」
深い溜息をつき、カーンは手元のティーカップを引き寄せ、一口飲んだ。
氷が触れ合うような冷たい音がして、それがまた、皿に戻される。
「先代の頃から二十年かけて積み上げてきた努力が、パァだ」
「はい」
「近々トヴィーティア送りにする」
誰かが責任を取らねばならない。
後始末を済ませたイフロースは、きっと自らそれを望んだのだろう。だからカーンも、彼に厳しい処分を下したのだ。
「ちなみに」
皮肉めいた笑みを浮かべ、彼は続けた。
「私の息子達……こちらも三人とも、クビだ」
「そうなんですか」
「このまま伯爵家に残っても、やることがない」
とはいえ、カーンの中では、いつかこうなるのではないかという予感もあったはずだ。エンバイオ家が利権を失っても生きていけるように、息子達はそれぞれ商人として、外で鍛えてきた。だから、そこまでの打撃にはなっていない。
「カーンさんは」
「私か? 叩き出されるまではやるさ。そう遠いことではないだろうが……そこまでが腐れ縁だ」
家中の勢力争いでは、結局、改革派の敗北といえる。というより、改革する意味自体が雲散霧消した。
ピュリスに根付き、大きな組織を持つのでなければ。ただの下僕がサフィスやその子供達の世話だけこなすのなら、これ以上、有能な集団を目指す必要性がない。
だから、そのうちカーンも地位を追われるだろう。ただ、そうなっても、彼は生きていける。損をするのは、むしろ伯爵家だ。彼を失ったら、いったい誰が代わりになれるのか。
「もう行くのか」
「ええ」
「いつ出発するつもりだ?」
「ムスタム行きの船が見つかれば、明日にでも」
「そうか」
長い溜息をつきながら、カーンは背凭れに体を預けた。
「……無事に出発できるといいな」
やや不自然な見送りの言葉を背に、俺は家に帰った。
簡単に朝食を済ませてから、すぐ波止場に向かった。乗船券を買うためだ。目的地は、もちろんムスタム。そこからまっすぐ『人形の迷宮』に向かう。もちろん、迷宮の攻略を優先するつもりはない。今の俺には難しすぎるとわかったら、別の選択肢に切り替えればいい。
「……ない?」
「満席だ」
「そんな、藍玉の月でもあるまいし」
「ないものはないんだ」
波止場の脇にある、小さな小屋。そこには係員の中年男性が、だらしなく座っていた。これでもピュリス市の職員だ。
乗船券の販売も、今ではここで一本化されるようになった。おかげで、ここに行列ができるようになったが、メリットもある。客の方があちこちの船に個別に交渉しに行く必要はなくなったし、それに乗船券に役所のスタンプがないとおかしいということで、密航も防ぎやすくなった。
「じゃあ、ムスタムじゃなくていいです。ワディラム王国か、マルカーズ方面の船は?」
「それもない」
「そんな馬鹿な」
じゃあ、こいつは何しに座っているんだ。どこもかしこも、満員だっていうのか。
大きな市が開く場合とか、何か事件があった時ならともかく、平穏な時期にこれはおかしい。
「わかりました。じゃあ、帝都に行く船は」
「ないって言ってるだろ」
「変ですよ! 乗れる船がないっていうんですか!」
「ああ、そうだ」
やっぱり、何か妙だ。
「明日の出発じゃなくて、明後日、明々後日の便を」
男は首を横に振る。
「来週でも構いません」
「……悪いな。後がつかえてるんだ。そろそろ帰ってくれ」
「なんだって」
チケットが一枚も残ってないのに、後がつかえてるも何も、あるわけないだろう。仕事がないってことなんだから。
つまり……
「……僕に売る乗船券だけはない、そういう意味ですか」
「俺に言わないでくれ。ただの下っ端なんだから」
「そうですか」
ここで怒っても仕方ない。
俺と彼とは、面識もない。ただ、乗船券を買おうとして、自分の名前と、騎士の腕輪を見せた。それだけだ。だが、結果がこれだ。
個人的な恨みとか、賄賂目当ての嫌がらせであれば、ここで暴れてもよかった。だが、そうではない。多分、誰かの命令で、彼は動いている。ならば、乱暴に問い詰めても、相手を困らせるだけだ。
「失礼します」
俺は背を向けて去った。
ピュリスは王領だ。その市内は、厳密に外部と区別されている。特別に許可を取るなどしなければ、普段は東西の門は開けられない。南の出口は、軍港を除けば、この南東の波止場しかない。
残る出口は、北門だけ。そこを通れなければ……
俺は、街から出られない。
そして、こんなことができるのは……
家に帰った。
「あ、お帰りなさい」
屋上で水遣りをするノーラが、振り返る。
「結局、どこに決めたの?」
「乗船券は買えなかった」
「混んでたのね」
「……ああ」
彼女は少し嬉しそうに言う。
だが、俺は告げた。
「明日、出発する」
小さく息を飲むのが聞こえた。
寂しい思いをさせることになる。それでも、済んでしまえば。問題ない。彼女には、新しい家族ができる。俺がいなくても、生きていける。
「……そう」
「今夜はご馳走するよ」
そう言って、俺は自室に戻った。
ベッドの下に、既に荷物一式は揃えてある。
上着は二組、下着は四組。簡単な筆記用具。奉仕者銅勲章。タンディラールから与えられた短剣。それから、実際に戦闘に使うための、ミスリル製の剣。
現金は、金貨一千枚弱を、なるべく小分けして持つ。リュックとウェストポーチだけでなく、服の裾にも縫いこんでおく。靴の裏にも潜ませる。
資金はいくらあってもいいのだが、これ以上は重くて嵩張りすぎる。それと、宝石の形でいくらか持っていく。これだけあれば、旅費に困ることはないだろう。
ふと、俺の視線が脇に置かれた木箱に移る。店長がくれた包丁だ。
少し迷ったが、やはり置いていこうと思う。
嵩張るし、それに……俺はもう、料理人じゃない。
それより、明日だ。
無事に旅立てるといいが。
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