官邸から市街へ

 天井の半分を覆う茜色。古びたシャンデリアが、窓の外から差しこむ弱々しい冬の光に、朧な影を落とす。

 今は総督官邸のただの一室でしかないが、かつては誰の居室だったのだろう。ピュリス王国時代の建造物を改修したものだとすると、それなりに高い身分の人が寝泊りしていた部屋だったに違いない。

 そんな場所で寝起きするのも、あと何日か。


 今の日常が終わる。目が覚めた瞬間、まず思い出したのがその認識だった。


 王都からサフィスが帰還して二ヶ月ちょっと。官邸は半ば混乱状態にある。

 まず、毎朝の挨拶が廃止された。理由はいくつもある。


 表向きの理由は、主人の不在だ。

 王都の争乱に首を突っ込んだバルドは、ウェルモルド率いる軍団との戦闘中、なぜか行方不明になった。翌朝、発見されたが、すっかり変わり果てた姿になっていたという。手足が切り落とされ、並べられていた。切り離された首、その顔の半分は焼け焦げており、眼球は潰されていた。彼の胴体は刃物で刻まれており、そこにフォレス語で『裁き』とだけ記されていたのだとか。

 結果、サフィスは次の総督と軍団長が着任する来春まで、海竜兵団の指揮を任されている。それで毎朝、早朝に出かけていっては、軍団の管理に追われている。そのまま今度は総督府に赴き、こちらでも仕事をしなければならない。しかも、日常業務の他に引継ぎもあるので、普段の倍くらいは忙しいらしい。


 二つ目の理由。それは、エレイアラの不在だ。「明るく親しみやすい貴族の一家」という演出をするための朝礼なのに、そこに大きな空白があっては。それに、下僕達の支持を集めていたのは、主人ではなく、その妻だった。

 そして、三つ目。これが官邸の混乱の根本なのだが……


 俺は起き上がり、荷物をまとめる。私物を少しずつ、市内の自宅に運び込んでおかないと、あとで苦労する。

 朝食があれば、食べてから市内に戻ろう。そう思って廊下に出た。そこで、離れたところから怒鳴り声のようなものが聞こえた。またか。


 ……建設大臣に任命されたことで、サフィスはピュリスにいる下僕達の多くを、手放さなければならなくなった。

 彼らからすれば、どうせ出て行く予定のお屋敷だ。朝礼を通して仲間意識とか、結束とか……そんなもの、バカバカしいだけだ。


 無論、サフィスとイフロースは、彼らの行く先を考えている。市内に就職する者、独立してムスタム辺りで商売を始める者、トヴィーティアに戻る者、いろいろだ。もちろん、一家の下僕の地位に留まり続けるのもいる。だが、やはりそこは個々人で利害に差が出るし、大抵の下僕達にとっては、官邸の外で生きる未来は、明るいものではない。

 よって、不平不満があふれている。話が違うじゃないか、今まで言う通りにしてやったのに、これはなんだ、と。


 だから、最近はあちこちで業務が滞るようになった。それがまた、曲がりなりにも真面目に仕事をしている人間の不満を目覚めさせる。こうしてあちこちで、日常的に揉め事が発生するようになってしまったのだ。


 この状況だ。

 事後処理に追われるイフロースや、引継ぎのために公務にかかりきりのサフィスはいざ知らず、あとの人間はむしろ暇になる。俺も例外ではない。

 カーンも今では官邸に居座っている。陸上交易など、やっている場合ではない。そろそろその辺の利権ビジネスはしまいにしないと、後が怖いのだ。


 さて、朝食を済ませて帰宅しよう。今日の俺には、官邸での仕事などない。


 食堂に向かう。薄暗い。ロウソク一つ、立ててない。窓の外からの光が僅かに差しこむばかりだ。

 これは……いや、厨房の奥に人影が見える。


「おはようございます、料理長」

「ふん」


 下僕用の厨房に、セーン自身がいる。これが何を意味するか。

 この世界における料理人の地位は高くない。だから、本気で料理をやりたい男なんてのは、少数派だ。ゆえに、総督官邸での業務であれば料理人でも構わないが、追い出されるとなったら、そんな仕事はしたくない。

 全員がそうなったわけではないのだろうが、助手の多くがもはや厨房を放棄して、自分の将来を探しにいってしまったのだ。ゆえに、セーンも主人の食事だけ作っていればいい状況ではなくなった。手が足りないなりに、ここで自ら下僕用の料理を出そうとしている。

 だが、肝心の「客」がいない。多くの召使達が、既に官邸のことなど片手間にしているからだ。


「大したものは、用意しておらんぞ」

「十分ですよ……もったいないですね」

「ふん」


 腰を浮かすと、彼は奥に引っ込み、スープを一皿、持ってきてくれた。鶏と卵のスープ粥だ。それにピクルスの小壷をひとつ、ドンと置く。冬場ということもあり、新鮮な野菜はなかなか手に入らない。あっても、それは輸入品だから値が張る。


「いただきます」


 そう言ってから、俺は一口、食べてみた。

 やはり、丁寧に作られた一皿というのは、違う。うまい、まずいだけでは片付けられない。ほんのりした塩味の平べったい味わいが、ピクルスの酸味、それに僅かに添えられた香辛料によって、新鮮な甘みへと生まれ変わる。決して華やかさはないし高級でもないが、体を温め気持ちを目覚めさせる、素晴らしい朝食だ。


「せっかくこれを食べられるのに」

「それどころではないのだろう」

「わかりますけどね」


 サフィスも多忙。エレイアラもいないので、貴族の来訪もない。というより断っている。よって接遇担当の業務も、ほとんど発生しない。

 あとで尻尾をつかまれるのは嫌なので、金儲けもストップ。カーンが、問題になりそうな書類を探しては暖炉に放り込んでいる。海上交易に至っては、そのまま船乗りになれそうな人間は港に就職し、それ以外はトヴィーティアに出戻りだ。

 そういうわけで、手持ち無沙汰にプラプラしているか、或いは次の仕事先探しに必死になるか、どっちかなのだ。暇なのに余裕がない。緊張感と弛緩した空気とが入り混じる、この独特の雰囲気。決して心地よいものではない。


「旅に出るそうだな」

「誰から聞きました」

「そんなもの、とっくに噂になっておるわ」

「そうですか」


 俺も、今後の進路については、サフィスやイフロースに伝えてある。

 お世話になりましたと頭を下げて、今後は騎士としての修行の旅に出たいと思いますと言っておいた。サフィスは静かに了承してくれたが、イフロースは難しい顔をして黙り込んでしまった。

 その後、カーンから一度だけ、子爵……いや、伯爵家に残っては、と勧められた。だが、やんわりと断った。


「どう思っているんですか」

「うん?」

「僕は、修行の旅に出ます。カーンさんからは反対されました」

「ああ」


 珍しく、彼は明るい表情をして、言った。


「いいんじゃないか」

「えっ?」

「わしは、是非行くべきだと思う」

「どうしてですか」


 すると彼は、更に珍しいことに、どこか人をからかうような笑みさえ浮かべた。


「料理の勉強になるだろう」

「……あの、僕は騎士になるための修行に行くんですよ?」

「知っとるわい。だが、遠い外国にも行くのだろう」

「そうですが」

「であれば、問題ない」


 満足げに、彼は背凭れに身を預けて言った。


「どんどん違う国に行って、どんどん新しいものを食ってこい。それが何よりの勉強になる」

「あの、僕は」


 不老不死を求める旅に出るのであって、別に料理人の修業を始めるわけではないのだが。


「他の誰がなんと言おうとな。わしが思うに、お前は料理人だ。それも、このまま育てばきっと、この世界の料理を革新するような何かを成し遂げるはずだ」

「えっと」


 俺の話なんか聞いてない。まるっきり意志を無視してくれている。


「だから、好きなだけ食って覚えて帰ってくるといい」

「は、はぁ……」

「それに」


 笑顔を納めて、彼は思い出したように付け加えた。


「お前はどうせ、食べ物を粗末に扱うなど、できんだろう?」

「え? それは、だって、当たり前じゃないですか」

「だったら、旅先でもそうなるはずだ。だから、何も心配はしておらん」


 彼はいい人なのだが、たまに話が通じない。頑固な料理バカだから、仕方ない。


「ごちそうさまでした」

「粗末なもので済まんな」


 一礼すると、俺は食堂を後にした。


 官邸の東門に向かう道。市街地に出るには、やはりこちらが便利だ。

 左斜め前を見上げる。敷地北東部にある、秘書課の建物だ。今は人も減って、中でイフロースが残務に追われている。最初のうちは俺も働いたが、今となっては手伝えることも、あまりない。

 右側には、幅の広い建物と、中庭がある。倉庫を兼ねた建物が並んでいるが、今はひっそりとしている。かつては陸上交易で大勢の人が行き来した。そして、俺とイフロースが練習試合をした場所であり、グルービーによるピュリス襲撃の際には、患者を並べたところでもある。

 今となっては、どれも思い出の場所だ。だが、それを背にして、俺は先に進む……


「待ちなさいよ」


 門の手前で、声をかけられた。

 ナギアが、手に二本の木剣を携えて、建物の脇から現れた。


 妙に既視感がある。

 そう、あれは官邸を追い出されて、薬品店を始める時のことだ。半年も経たず屋敷を出される奴を見るのは初めてだ、と馬鹿にされたっけ。懐かしい。

 ……ただ、ここを通り過ぎても、外でアイビィが待っていてくれたりはしない。


「何かご用ですか」

「わざとらしい言葉遣いね」


 それもそうか。

 今の時点で、俺の身分は彼女より明確に上だ。


 ナギアはもう騎士の娘ではない。一応、父はまだ騎士の腕輪を所持しているが、その父が近くにおらず、またこのコミュニティーから切り離されている以上、その身分の恩恵に与ることができないのだ。

 一方の俺は、国王陛下から直々に銀の腕輪を賜った。誰がなんと言おうと騎士の身分だ。「みなし」騎士である、騎士の家族なんかではなく、正式な騎士。まだ従士ではあるが。


「まぁ、エンバイオ家の中では、僕より目上の立場ですからね」

「そう。じゃ、出て行けばそれもなくなるっていう腹積もりなのかしら」

「別にナギアが嫌いで出て行くわけじゃ……」


 言いかけた俺に、彼女は木剣を差し出した。


「……これは?」

「木剣よ」

「何のために?」

「ねぇ、ファルス」


 あまり見たことのない、わざとらしい笑顔で彼女は言った。


「私に剣術を教えてくれない?」

「はい?」

「だから、私も強くなりたいの」

「何のため」


 不意に彼女は、手元の剣を振りかぶり、叩きつけてきた。だが、素人そのものの動きだ。体を揺らすだけで簡単に避けられる。


「危ないですよ」

「もっと危ない目にだって遭ったじゃない!」


 なるほど、理解できた。

 王都の経験は、ナギアにとっても絶望だったのだ。目の前で、主人の母が殺された。なのに何もできなかった。

 実際には、ナギアはエレイアラの目論見通りに動いた。だからこそ、アネロスは残りの人間を捨てて去っていったのだ。だが、そんなのは関係ない。

 自分が強ければ。あの時、あの場所で、自分があの敵を追い払っていれば。


 とはいえ、それはさすがに高望み過ぎると思うのだが。


「くっ!」


 俺は剣先でそっと木剣を揺らす。それだけで、ナギアは前のめりになる。

 よろめきながらも、もう一度構え直して、上段から振り下ろす。だが、緩慢な動作だ。そうやって身構える隙に、俺やイフロースなら、三回は斬りつけている。


 正直なところ、ナギアがどれだけ頑張っても、俺には太刀打ちできない。

 もうすぐ十歳のこの体と、今の彼女とでは、体格の差もあまりない。加えて、彼女は普段から体を鍛えてもいない。そして、技量には絶対的な差がある。


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 (自分自身) (11)


・アルティメットアビリティ

 ピアシング・ハンド

・アビリティ マナ・コア・身体操作の魔力

 (ランク6)

・アビリティ マナ・コア・精神操作の魔力

 (ランク8)

・アビリティ マナ・コア・火の魔力

 (ランク4)

・マテリアル ヒューマン・フォーム

 (ランク7、男性、9歳・アクティブ)

・スキル フォレス語  6レベル

・スキル 身体操作魔術 5レベル

・スキル 精神操作魔術 9レベル

・スキル 火魔術    7レベル

・スキル 料理     6レベル

・スキル 剣術     8レベル

・スキル 薬調合    8レベル


 空き(0)

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 肉体の入れ替えを繰り返したせいか、魂の年齢と肉体の年齢の乖離が大きくなってきた。肉体年齢は、恐らく誕生日を迎えても九歳のままだろう。それに対して魂のほうは、既に四ヶ月ほど、ズレが生じている。おかげでこうして能力を詰め込める。

 それにしても、なんというか。メチャクチャだ。ツギハギと言ってもいいか。収容所で奪った身体操作魔術の技術に、ゴーファトから奪った魔術核。グルービーからは精神操作魔術と薬学の能力を。タンパット村を狙ったゴブリンのアピーから奪った魔術核に、アネロスから奪った火魔術と……何人かの能力を寄せ集めた剣術。

 俺自身のオリジナルと呼べる能力は、もう料理しかない。


 さすがにこれほどの強さとなると、俺も今までほとんど見たことがない。比較の対象になり得るとすれば、存命の人物ではキースくらいか。

 だからこそ、俺はあの恐ろしい体験……グルービーに敗れたあの日のことを、貴重に感じている。これだけの力があっても、なお油断してはならないのだ。


 なので、ナギア相手でも、油断はしない。手も抜かない。


「一応、念のために」

「なによ!」

「剣術は、人を殺す技術です」

「何を今更」


 俺は初めて反撃した。

 逸らした切っ先を大きくずらす。ナギアはつんのめって膝をつく。その首にそっと刃を当てた。


「はい、死にました」


 あまりの早業に、何が起きたか本人にはよくわかっていないだろう。やったこと自体は単純そのものなのだが、技量が違いすぎる。


「……な、なによ」

「だから、死んだと言ってます」

「こんなにも……こんなにもっ! 強いんじゃない!」


 まったく歯が立たない。

 その現実を噛み締めて、彼女は悔しげにスカートの縁を握った。


「それでも、敗れることはあります。そして、そうなれば」


 俺は木剣を放り出して、告げた。


「死ぬ」


 彼女は、はっと息を飲んだ。

 ナギアにとっては、命懸けの場面はあれが初めてだった。だが俺は違う。


 この世界に生まれ落ちてたった二年半で、最初の殺人を犯した。やらなければ、食い殺されていた。その後も、何度も修羅場に立たされた。

 その経験から、わかったことがある。


「剣なんて、持たないほうがいい」


 これは素直にそう思う。


「力を備えれば備えるほど……待ち受ける危険も大きくなる」


 俺がそうだった。

 ピアシング・ハンドという規格外の力を持つがゆえに。この世界でも最強といえるくらいの存在と、次々刃を交えることになった。力は力を引きつける。力で力に対抗しようとすれば、必ず危険を招く。

 俺は避けて通れない。だが、ナギアまで真似することはない。


「なによ」


 だが、彼女は納得などしなかった。


「じゃあ、なに? 本当に危ない目に遭ったら、どうすればいいのよ!」

「逃げたらいいでしょう」

「逃げられなかったら、どうするの!?」

「頭を使えばいい」


 そう言って、俺は背を向けて去っていこうとした。


「……そうね」


 低い声で応えると、彼女は立ち上がった。


「私、いい考えを思いついたわ」


 口元だけで笑みを浮かべて、彼女は言った。


「ありがたく思いなさい。この私、ナギアがあなたの婚約者になってあげるわ」


 あまりの台詞に、俺は心ならずも思わず噴き出した。


「冗談でしょう?」

「但し、終生お嬢様に仕えること」

「やっぱり冗談だ」

「そう思うくらい、いい話でしょ?」


 余裕を演じてみせつつも、彼女は必死だ。


「目が悪くなったんですか? ほら」


 俺は自分の前髪を引っ張りながら、あえておどけてみせた。


「僕は『フェイ』ですよ」

「物覚えが悪くなったの? 騎士の腕輪を持ってる人がいいって、私、前に言わなかった?」


 軽快な切り返しは、やはりナギアだ。確かに以前、そう言っていたっけ。


 ……覚悟、か。

 俺はどこか清々しいものを感じていた。


「その必要はない」


 俺は今度こそ背を向けた。


「ナギアはもう、僕より強い。だから、必要ない」

「ちょ、ちょっと!」


 彼女はこの先も、リリアーナの傍で生きる。人と人の間で、自分の使命を担いながら。それは立派な生き方だ。

 少し羨ましくもある。でも、もう……決めた。


「待ちなさいよ!」

「ナギア」


 俺は振り返って、一言だけ告げた。


「あとはもう少しだけ、自分を大切にしたほうがいい」


 憮然として立ち尽くす彼女に、それ以上、言うことはなかった。


「それじゃあ」

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