国王陛下からの宿題

 しん、と静まり返った秋の夜。風ひとつなく、空気に重みさえ感じる。かすかな星明かりに、居並ぶ庭木がその身を伏せる。


 王宮の奥の間。その一室に通じる渡り廊下だ。高さとしては地上三階に相当するが、この半屋外の通路の脇には、わざわざ大きめのプランターが据えてあり、そこに低木が密集している。思うに、快適性と安全対策の両方を兼ねたものだろう。風は通すが、視界は遮る。王族という地位がどれほどの危険の上にあるか、それはもう、少し前に散々思い知った。

 周囲には誰もいない。この渡り廊下の直前まで、白衣の宮廷人が案内してくれた。だが、この先にはタンディラールがただ一人。彼は本当に、俺と二人きりで話をしたいらしい。


 即位後、二日目の夜。本来なら、彼も忙しいはずだ。或いはこの二週間弱の間にいろいろ先行して片付けたのかもしれないが、暇というのはあり得ない。だが、明日の朝には、俺はサフィスと一緒にピュリスに帰る。だから、今しか機会がないのだ。


 ……軽い眠気がある。

 ウィーを逃がした後、別邸に戻ったが、何しろ徹夜したので、料理に集中できない。幸い、サフィスは朝食を済ませると、ほぼ一日、イフロースと共に外回りをすることになっていた。それで日中、俺はずっと横になっていた。だから充分寝たのだが、一度生活リズムが崩れると、なかなか元に戻らない。

 これから危険人物と会うのに、これではよくない。俺は頭を振った。


 そう、危険人物だ。


 タンディラールがどうして俺と話をしたいのか、それはわからない。だが、俺のほうでも知りたいことがある。

 なぜ、こんな動乱を惹き起こしたのか。素直に教えてくれるとは限らないが……


 やたらと長いはずの渡り廊下の突き当たり。黒い出入口が見えた。

 多少の躊躇いを覚えつつ、俺は呼吸を整える。


「ファルス・リンガ、ここに参りました」

「入れ」


 許可を得て、俺は室内に立ち入る。


 王宮の「離れ」ともいうべき場所だった。渡り廊下の向こう側は、ちょっとした塔になっている。一階、二階部分には剥き出しの柱があるだけで、この部屋のすぐ上には屋根があるばかり。そして、部屋はこれ一つきり。まさに密談専用スペースだ。

 部屋の中は、案外簡素だった。一応、小さな食器棚があり、そこにグラスが伏せてある。ワインの瓶が数本、斜めに寝かされている。それと、これも質素な本棚に、何冊か分厚い本が並べられている。メモ用紙とインクもあるが、あまり使われた形跡がない。

 部屋の奥に椅子が一つ。だが、机はない。丸いテーブルが部屋の隅にあるが、丈が高く、椅子とは合っていない。王者の私室なので、座席も一つで足りるのだろう。このテーブルは、一応、メモを取ったり、ワインを供したりするのに使うために置いてあるだけだ。

 窓からは、謁見の間の背後が見渡せた。足元には遠く、王宮の林が見える。もちろん、窓にはカーテンがついている。半開きになっている状態だ。


「明日には発つのだろう」

「はい」

「慌しいな」

「はっ」

「なに、畏まることはない。今日はただの雑談だ。お前も飲むか」

「せっかくですが」

「ははは、まぁ、仕方ないか」


 この男は、本当に油断ならない。

 一見するとフレンドリーだが、それはポーズだけだ。今となってはよくわかる。こいつは誰にも気を許していない。


 片手にワイングラス。彼は座って飲んでいた。

 だが、俺がやってくると、すっと腰を浮かせた。


「ようやく一通り片付いて、休む時間も取れそうだというのにな」

「陛下のご心労、私どもの思い及ぶところではありません」

「なに、それほどでもない……なんならお前だけ、あと何日か王都に留まってはどうだ? 宮殿の中に部屋を手配させよう」

「お気持ちはありがたい限りですが」

「ははは」


 彼は笑って無駄な会話を切り上げた。

 ここにいろと言われれば、俺はサフィスに仕えるという口実で逃げ出そうとする。無論、上から彼が命令すれば、俺もサフィスも従うが、それで俺の中の警戒心が消えるわけではない。

 思い通りに動かせないなら、行動を縛っても仕方がないのだ。


 彼は窓際に立ち、夜の闇に包まれた王宮内を見渡した。

 ところどころに篝火が見える。近衛兵が見回りをしているのだ。ただ、ここからは距離がある。声が届くことはないだろう。


「……安くついたな」

「はっ?」


 唐突な呟きに、俺は首を傾げた。


「なんと、たった四桁で済んだそうだ」


 四桁。何の数字だ?


「爵位剥奪が三十七件。領地の接収が十一件。財産没収が二十四件。それと犯罪奴隷が一万人以上。いやぁ、これは黒字かもわからんな」


 意味がわかった。

 戦後処理の結果、だ。


 今回の動乱で、罪を問われるなどして、爵位を失った貴族の家が三十七。そのうち、ショーク伯やティンティナブラム伯のように領土を有していたのが十一。これと重複するのかもしれないが、私有財産の没収にまで至ったのが二十四。

 犯罪奴隷が一万人以上、というのは……ルースレス配下の兵士達だろう。指揮官を失った彼らは、ろくに戦闘らしい戦闘もなく、王宮内に突入した聖林兵団相手に、あっさり投降した。だからといって罪が許されるはずもなく、そのまま全員、奴隷とされたのだろう。


 そして「四桁」というのは……


「これで中央森林の開発に、人員が割けるというものだ。ついでにスラムの解体にも名目がつけられる。いいこと尽くめだな」


 彼は上機嫌でそう言い、ワインを口に運ぶ。


 いいこと尽くめ。ふざけやがって。

 つまり、四桁の死者が出た。ぎりぎり五桁に届かない程度の。そういうことだ。それをこいつは「安い」と言ったのだ。


「……先王の時代から、レーシア湖からの水道工事が続いていたが、それもそろそろ終わりそうでな? 水源の確保が済んだら、王都の東の森林を切り開いて、農耕地を増やす。それから……」


 彼は嬉々として、今後の王国の経営計画について語り続ける。


「何より懸案だった中央森林の開拓事業、これに着手できる。余計な中小貴族の利権も排除できた。ここ百年かけてちまちま片付けていたものが、一気に前進したわけだ。これはもう、笑いが止まらんな」


 エスタ=フォレスティア王国の中央部には、広大な森林がある。王都とティンティナブリアを隔てているのが、これだ。この森を取り囲むように、王領やピュリス、コラプト、そしてフォンケーノ侯爵領がある。

 この森こそが、王家にとって頭痛の種だった。理由はいくつもある。

 まず、移動や流通の邪魔になる。そもそも王領の玄関口がなぜピュリスなのか。ティンティナブリアからだと、陸路を大きく迂回しなければならない。だから、その向こう側のエキセー地方は、実質、野放しだ。その悩みをある程度、解消するのに役立ったのが、トーキア特別統治領なのだろう。王家の目の届かなかった東部の辺境に、拠点を構えることができたのだ。

 治安の空白地帯になりがちだったのも、問題だった。以前にリリアーナを誘拐したドメイドの配下達、それにサフィスを襲撃した後のウィーも、この森に隠れ住むことで、難を逃れた。ティンティナブリアからの流民も、この森を越えて、違法に越境してきている。

 だが、この森林地帯の統治を一本化することはできなかった。森の中に小さな集落がいくつかあり、それぞれ領主がいる。彼らの多くは貧乏な田舎貴族に過ぎないが、独立した領主、つまり侯爵家か、それに由来する分家だ。よって王家には、基本的に彼らの領地を勝手に通行する権利がないし、司法権の行使も難しい。無論、犯罪者の捕縛となれば、彼ら領主も協力せざるを得ないが、何しろ縄張りが細切れになっている。自然、隙間だらけになってしまうのは、どうしようもない。


 今、王家は継承者を喪失したティンティナブリアの支配権を手にした。レジネスの首が持ち込まれた時、彼がどれだけ喜んだか。王国の一割を占める広大な領土が、やっと王家の管理下に収まったのだ。

 となれば必然、王領と新たな領地とを隔てる森を、切り拓かねばならない。直通道路を建設して、緊密な支配体制を確立したい。幸い、それを妨げる貴族の始末に、今回の動乱は役立った。


「おまけに、邪魔な抵抗勢力も一掃できた。正直、数年来の肩凝りが治ったような気分だな」


 そう言いながら、彼はまた、椅子に腰掛けた。


「そういえば、兄がどうなったか……ファルス、フミール元王子がどうなったか、知っているか?」

「いいえ、存じません」

「今はクッシュロキア……ああ、レーシア湖の向こうにある、山間の小さな公爵領だが、そこの主に納まっているよ」


 なんと、言うなれば今回の陰謀の中心人物だったのに、まだ生きていたのか。


「驚くことでもない。あくまで今回の内乱は、ウェルモルドを中心とした叛徒どもが起こしたものだ。王家の人間は、それに関わってなどおらん」

「……そういう名目、ですか」

「話が早いな。王家の名に傷をつけるわけにはいかん。それに、ただ殺したのでは、面白くも何ともない」


 脇のテーブルに置かれたワインボトルを手に取り、彼は酒を注ぎ足した。


「あの馬鹿王子はな……私の一番大事なものを奪っていった。その報いは受けてもらわねばならん」


 そこだけ真顔になって、タンディラールは大口に酒を飲み下した。


「ふふっ、クッシュロキアはな」


 また余裕のある笑みを浮かべ、彼は椅子の上にふんぞり返った。


「いうなれば、王家の『ゴミ箱』だ。わかるか?」

「宮廷人の」

「そうだ。誰から聞いた? 先王のお手付きとか、そういう外に出せない女が、死ぬまで閉じ込められる場所だな。で、王位を継承し損ねた王族が放り込まれる土地でもある」


 そしてまた一口。


「まぁ、毎度のことなのだろうが……今回は、特に念を入れるように命じておいた」

「念を入れる? ですか?」

「そうだ。つまり、こういうことだな。政争に敗れて傷心の公爵閣下を、まずは慰めろと」

「慰める?」

「ああ」


 ワイングラスをテーブルに置くと、彼は膝に肘を置き、前のめりになった。


「先王の食べ残した女達がいるだろう? あれに相手をさせる」

「なぜですか?」

「そうすると、あの馬鹿は楽しむだろう?」

「ええ」

「楽しんで、すると今度は、気が大きくなる。やり直せるかもと夢を見る。身を捧げる女どもや周囲の下僕達を、少しずつ信頼するようになる」

「そうですね」

「だいたい、一年か二年ほどだな。そうして過ごさせる。それから……」


 愉快でならないといわんばかりの笑顔で、彼は言った。


「じっくり一年かけて、いじめ殺す。最初は料理の質を落とすといった程度から。虫けらを混ぜてもいいな。夜の相手もだんだんなおざりに。そのうち、公然と罵ったり、殴りつけたりする。そうして、心身とも衰えきったところで、よってたかって辱めながら、無理やり毒を飲ませる」


 さっとグラスを掴み、中身を飲み干して、まだ俺に振り返る。


「そうして公爵閣下は病死と相成る……少しは私の気も晴れるというものだ」


 上げて落とす、ということか。それに、さすがに即位直後に病死では、あからさますぎる。その合間の時間を、個人的な復讐のために、うまく使おうと。

 悪趣味だ。


「一見、ゴミにしか見えないものにも、使い道があってな」


 肘掛にもたれつつ、彼は続けた。


「たとえば今回、スード伯には、裏から恩賞を与えてある」

「裏ですか?」

「表向きには、宝剣を与えただけで済ませたが……あれとは前々から密約を交わしておいた。お前もなんとなく気付いていたのだろう? 何の目算もなく、私があんな真似をするわけがない」


 これで、今回の動乱の真相の一部が明らかになった。

 やはり、タンディラールは、わざと内乱を起こした。その鎮圧のために、王国きっての武闘派貴族であるゴーファトと、前もって手を結んでおいたのだ。


「長子派貴族の息子で、特に見目麗しいのを、こっそり横流ししてやった。五人くらいか。もちろん、きっちり向こうで『処理』することが条件だが」


 奴の少年愛の趣味もご存知、か。

 うっかり逃げられたら、禍根を残すことになる。だから、後始末は欠かせない。もっともゴーファトは『手術』が大好きだ。既に配下もおらず、その上、子種のない少年達など、王家にとって脅威になるまい。


「いい夜だ」


 彼は、窓の外に視線を向けた。


「……今頃は、あれの始末も済んだ頃か」

「あれ、と言いますと」

「一昨日、立ち会っただろう?」


 フラウのことか?

 結局、あれはどういうことだったのだろう。リシュニアの近侍ともあろう者が、わざわざタンディラールに弓引くなんて。しかも、今思うとだが、どうもそれをする理由を、リシュニアは察しているようにも見えた。


「一応、この国にも法律というものがある」


 考えに沈む俺に構わず、彼は語り続けた。


「死刑にするにも、ちゃんと約束事があるのだ。たとえば、一般の女囚の絞首刑に際しては、必ず足を揃えさせてスカートの裾を縛ること。見苦しいのは避けねばならんからな」


 そういえば、今回の件に絡んで多数が処刑されたはずだが……

 目立つ場所で死んでいるのは、みんな男ばかりだ。彼らはエマスみたいに、公開処刑の対象となっている。


「一方、貴族の娘達については、余程の事情がなければ、人前で死刑とはならん」

「それはなぜですか?」

「まぁ、慣習だな。大抵は、牢獄の中で、絹の紐なんかを使って絞め殺されることになっている」


 ということは……フラウはもう、死んでいるのかもしれない。

 俺には関係ないし、自分にとってさほど重要な人物でもないのだが……


「ところが、この国の法律は、処女の処刑を禁じておってな」

「え?」

「だが、殺さねばならん……悩ましい限りだ。そうなると、処刑人に頑張ってもらうしかなくなる」

「が、頑張るというのは」

「少女を大人にする仕事だな」


 つまり。

 フラウは絞め殺される直前に、強姦されたと言っている。貴族の娘という肩書きもある。刑吏達も、さぞ楽しんだことだろう。


「くく……くくくっ」


 さも愉快そうに、タンディラールは笑った。


「なぁ、ファルス」

「は、はい」

「生まれてこの方、ずっと王族だった私には、まったく想像すらつかないのだが」

「は?」

「なんでも、下賎の者が高貴の生まれの娘を汚すというのは、大変な快楽というではないか。その辺り、どうなのだ?」


 ……こいつ。

 そういうつもりか。


「さぞ楽しいのだろうが、私としては、わざわざ見に行くわけにもいかんのでな。お前の意見と感想を聞きたい」

「他に、やりようはなかったのですか」


 俺がたまりかねて、こう切り出すまで。延々と続けるつもりだったのだ。

 要するに、これは挑発だ。この狡猾な男は、俺の中の反抗心、嫌悪の情にしっかり気付いていた。わざと動乱を起こしたのだと。あの内乱中の後宮で王冠を見た瞬間、俺の顔に浮かんだ表情を、彼は見逃さなかった。


 俺の追及を待ち構えていた彼は、ただ片眉を揺らすだけで、続きを促した。


「負けるかもしれないとは思わなかったのですか」

「三つに二つは勝てると踏んでいた」

「はっ?」


 笑みを残した表情で、彼はこともなげに言った。


「三つに二つ? じゃあ、あと一つだったら」

「どうということもない。負けていただろうな」


 やっぱりこいつはおかしい。

 三分の一の確率で死ぬロシアンルーレットを楽しんでいたのだ。


「そんな……っ」

「驚くことか? 絶対確実なやり方など、どこにも存在しない。私は私なりに冒険を選び、結果を掴んだ。それだけだ」


 不意に、内心から怒りがこみあげてきた。


「それだけ、ですか」

「そうとも、それだけだ」

「……さっき、大勢の死者が出たと」

「四桁だな。だいたい九千人くらいらしい」


 問い詰める俺に、彼は涼しい顔で応えている。

 彼からすれば、ただ勝負をかけて、結果を受け取っただけのことでしかない。だが、巻き込まれた大勢にとっては。


「曲がりなりにも、陛下は王では」

「そうとも。曲がりなりにも何も、私がこの国の正統な王だ」

「大事な兵や民を、どうして粗末に」

「悪いか?」

「なに?」

「悪いかと訊いている」


 なんら罪悪感などない、というのだ。

 これでは、あの狂ったルースレスとどう違うのか。


「……殺す相手を間違えた」

「ほう?」

「ウェルモルドに手を貸しておけば、今頃は……」


 挑発だとはわかっている。構うものか。これがこいつの聞きたい台詞だったのだ。俺がこう言うまで、彼が不愉快な放言をやめることはなかっただろう。


 それにしても。本当に、いちいち意思確認などせず、中身を入れ替えてしまえばよかったか。

 彼なら、人民を平気で犠牲にするなんて、あり得ない。


「私よりましだったと、そう言いたいのか?」


 溜息混じりに、タンディラールが言う。


「彼とは、少しだけ話しました」

「知っているとも」

「流民街のスラムを見ながら、少しでもきれいにしたいと」

「ああ、そうだな。おかげで『きれい』になりそうだ。汚いところが全部焼けてくれたからな、はっはは!」


 わざとだとはわかっている。それでも、火に油を注がれたような気分だ。


「彼は……彼は、言っていました。少しでもいいから、この国に自由と平等をもたらしたいと」

「ほほう?」

「そうすれば、今よりずっとこの国はよくなる、みんな、壁がなくなって愛し合って……幸せに暮らせるんだと」

「なるほど」


 納得した、というように頷くと、タンディラールは言い切った。


「もし、その言葉通りの考えしかなかったのであれば、やはり始末すべきだったな」

「陛下が権力を手放さないために、ですか」

「いいや? 奴が本気でそんな馬鹿だったのなら、この国にとって邪魔だから、殺すしかなかったということだ」


 顔は笑っている。だが、口調はまるで吐き捨てるようだった。


「確かに、国王の立場からすれば、目障りなんでしょうね」

「そうではない。仮に私が奴の奴隷でも、やっぱり殺していただろう」

「なぜですか」

「有害だからだ。大衆にとってさえ」


 きっぱりと言い切った。

 もう彼は笑ってはいなかった。


「ファルス、正直に言え」

「はい」

「お前は、私をどう思っている」


 言葉が出ない。

 フラウが彼に言ったのと、ほぼ同じ台詞が浮かんでくるばかりだ。狡猾で、油断ならなくて、残虐で……


「じゃあ、質問を変えよう。私を殺したいか」

「今更殺してどうするんですか」

「では、二ヶ月前に戻ったらどうだ。こうなるとわかっていたら、殺していたか?」


 タンディラールが、こんな無謀なギャンブルに手をつけなければ。

 あの、大勢の悲劇はなかった。


「……殺せない、自分だけは殺されないと、本気で思っているんですか」

「いいや? 死ぬ時は死ぬ」

「今だって、ここには僕しかいない。周囲には護衛もいない」

「そうだな」

「僕が何かすれば」

「その若さで敵将を血祭りにあげる腕前だ。私も無事ではすまんだろう。ただ、『何かすれば』だがな」


 俺がタンディラールを殺さないと?

 だが、その気になれば一瞬だ。既に深夜に差し掛かっている。ウィーに肉体を与えて一日だ。となれば、この場でタンディラールの肉体を奪うのだって、不可能じゃない。


「僕が何もしないという確信があるんですか」


 その問いに、彼は瞬きした。


「……お前の目には、国王というのは、さぞ素晴らしいものに見えているのかもしれんがな」


 彼はすっと立ち上がった。


「正直、火の車だった」

「はい?」

「エスタ=フォレスティア王国における王家の直轄領は、たった三割だった。だがその実情たるや」


 彼は顔を伏せ、淡々と述べた。


「王家が貴族相手に土地を受け取る場合、その収益に見合う分の年金を与え続けなくてはならない。もちろん、それだけなら公平な取引だ。だが、そこに王家ならではの義務がのしかかってくる。わかるか、ファルス」


 部屋の隅の照明の光が、彼の顔を半分だけ照らす。そこに浮かび上がる表情には、切迫した何かがあった。


「たとえば、街道を整備する。王家の費用でだ。相手が伯爵ならともかく、侯爵家かその分家の場合なら、いちいち許可も取る。つまり、金だ。ひどい話だろう? 王国全体の利益のために道路を敷設するのに、その負担は王家にばかり、それどころかこちらから金まで出さねばならん。その上、そこを聖林兵団に守らせる。これもこちらの持ち出しだ」


 確かに、そうした負担は王家に集中する。

 俺がミルークの収容所にいた頃も、あの辺りを守っていたのは、ゼルコバ率いる聖林兵団だったのだ。


「そして、これら建設事業や防衛計画のために、中央での組織作りが必要になる。官僚どもだ。彼らに支払う給料は? これも王家からだ。どれもこれも! だが、それだってまだ、出費に見合う見返りがあるならいい。勤勉で有能な文官には、高い賞与を与えるのも、やぶさかではない。だが、そんなにきれいにはいかん」


 上に立つがゆえの苦悩。

 彼はそれを隠しもせずに語っている。


「実際には、目立たないところで裏取引ばかりだ。派閥ができれば、それが組織の血の巡りを悪くする。そういう澱みがあちこちに溜まって、王国の運営はどんどん滞る。すると、どうなる」


 その具体例が、ピュリスだ。

 フィルは、あの街を私物化しようと考えた。王家のためでも、国民のためでもない。エンバイオ家のためにだ。


 平民から見る風景とは違う。

 王者の視点で国を見下ろせば、そこには、自分にぶら下がる無数の貴族や民衆がいる。彼らは「全体」を考えない。自分の責任ではないと考えているからだ。それでいて、国家が提供するサービスは利用する。その結果に関心を抱かずにだ。


「隣国は、いつ攻め込んできてもおかしくはないぞ。今はまだ、我が国に力があるから、和平が保たれているのだ。だが、こんな虫食い状態を何年も続けてみるがいい。弱りきった相手を前に、手を緩める馬鹿者はおらん」


 衰弱した組織に降りかかる外圧、か。

 もし、そんなことになったら……


「本当の戦争になってみろ。四桁では済まんぞ。だが、いざそうなれば、また貴族どもは、自分達の領地だけは守ろうとして、めいめいが勝手なことを仕出かすのだろう。その時に首を差し出すのも、また王家、王家だ! だがもちろん、庶民も血を流すぞ。だから、そうなる前に、芽を摘まねばならん」

「国を守るため、ですか」

「それだけではない。ファルス、お前はさっき、自由と平等とか言ったな。だが、それを保証するのは誰だ? 王ではないか」


 自由と平等を制限する仕組み。その頂点に立つ者が、我こそ、その守護者だと名乗り出た。


「王家が上に立って統治する。王家だけが、いや、ただ一人王者だけが尊く、万人がどれだけ王に寄与したか。それのみ問われる国があったとしよう。ならば、これほど公平な国はあるまい。利権が分散していては、効率が悪くなる一方だ。実際、中央森林の零細貴族どもがいい例ではないか。あのか細い森の道を抜けるのに、何箇所も関所がある。旅人は、その都度、税金を支払う! この無駄を省けるのは誰だ?」


 小さな山がいくつもあるピラミッドではなく。

 大きな山に頂点が一つだけ。上に行けば行くほど、責任が重くなり、仕事が難しくなり、報酬が増える。これが公平ということだ。独裁は、皮肉にもこの澱みをなくすのだと、彼はそう主張している。


 彼は王者こそが権力の「道路」だというのだ。何のことはない、俺がイフロースに提案した道路の論理と同じだ。万人が好き勝手に歩き回れば混雑する。その通行を制限することで、かえって秩序が生まれ、効率が改善される。


 ウェルモルドなら、反論するだろう。

 そうかもしれないが、その「寄与」されるべき対象が「王」である必要はない。公益に資するものが高く評価され、正当な報酬を得られれば、それでよいのだと。

 だが……


「ファルス、お前の考えていることはわかるぞ。確かに、それが王でなければならない理由はない。だが、王以外の誰にできる? 私も帝都にいたからわかるが……まさか愚民どもに決めさせるのか? 奴らにそんな自由を与えてみろ! 自分で自分を縛る縄を結うばかりだ!」


 ……俺がウェルモルドに言ったことそのものが返ってきた。


「確かに、奴ならば……ウェルモルドがこの国の摂政になれば。生きているうちは、しっかりと国家を支えるだろう。それはできよう。だが、死んだらどうする? その後は? 自分の損得を気にかけず、国の未来のために自分を投げ出せる有能な人物が、そう何度も現れると思うのか」

「……それは」


 俺は知っている。

 チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態」と述べたことも。

 ヴォルテールが「善良な専制君主が三代も続けば、人々は民主主義を忘れてしまう」と述べたことも。

 そして何より、俺が実際に生きた前世、自由も平等も、形ばかりのものになっていたことも。


 要するに、こんなルールは、ただの方法論だ。

 根本はもっと別のところにある。


 誰が支配者になっても、いい時代もあれば、悪い時代もあった。どんな制度を選び取ろうと、悲劇は起きた。善良な専制君主が国を富ませることもあれば、民主的に選ばれた大統領が、国民の大多数を死なせることもあった。もちろん、逆も。

 そんな不自由で不十分な社会の中で、人々は生きてきた。愛し合おうとしたり、幸せになろうとしてきたのだ。


 ……なぜだ?


 どうしてもっと簡単に生きられない?

 隣にいる人にキスするだけの単純な人生を、どうして選べない?


「ファルス、この国の王たる私の判断によれば、現状における最善は、王権を強化することだ。そして、王に仕えることが最良の結果を生む、そういう仕組みを確かにすることだ。そうすれば、たまたま凡庸な君主がその地位についても、国体は保たれる」


 タンディラールは、王族だから自由を否定しているのではない。

 生き抜くために必要なものが、たまたまそれだと述べているに過ぎないのだ。


「何の役にも立たない年金貴族どもなど、百害あって一利なしだ。機会があればどんどん取り潰さねばならん。考えてみるがいい。彼らに支払う年金は、庶民に降りかかる税金ではないか」

「それは、確かに……」

「保護ばかり求めて、国家事業には協力せず、権利ばかり主張する領主どもも同罪だ。手を貸してくれればあっさりできるはずの水路や街道を作るのに、何年かかっている? しかも、できたらできたで、奴らも利用させてくれという。図々しいにもほどがある」


 否定できない。


「それで王家の屋台骨が揺らいだら、どうするつもりだ? 散々、大黒柱を蹴飛ばしておいて、傾いた時には文句だけ言い、あとは家ごと見捨てて逃げる。こういう連中が王国を食い潰すのだ。ならば、奴らを始末して何が悪い」

「悪くは……ただ、他にやり方はなかったのですか」

「おとなしく即位してから、掃除をしろと? 玉座に腰掛けてから王者の自覚を持つような、そんな愚か者は、はじめからそんな場所にいるべきではない。奴らが身構える前に、まさかしでかすとは思わないところで仕掛ける。だから効果がある」


 王になる前から、王になった後のことを考える。それ自体は至極まっとうだ。これも反論しにくい。


「それでグズグズしている間に、王国はどんどん痩せ細っていく。やらなければ、もっと大きな犠牲が出るかもしれない。その責任は誰が負う?」

「それは……」

「四桁の死者は……だから、そのための『必要経費』だ」

「で、でも! そのせいで死んだ本人からすれば」

「理不尽そのものだろうな」

「それで納得しろと」

「しようがしまいが構わん。だが、お前がもし、私よりうまくやれると思うなら」


 彼はそう言って、腰掛けた。

 その顔には、皮肉めいた笑みが貼り付いている。


「裁く権利を認める。私を殺すがいい」


 俺はようやく正体を目にした。

 タンディラールの背後から広がる、おぞましい蜘蛛の巣。

 ドミノの原点だ。


 俺が今、ここにいるのはなぜだ? ミルークの収容所から、奴隷として売却されたからだ。

 なぜ俺が奴隷になったのか? リンガ村が壊滅したからだ。

 なぜリンガ村が滅びたのか? あの伯爵が重税を課していたからだ。

 なぜ伯爵は重税を課したのか? その地位を得るため、王家に借金ができてしまったからだ。

 なぜ王家はオディウスの申し出を受けたのか? 地方貴族を弱体化させ、王権を強化しなければ、国家の安定を保てないからだ。

 なぜそうまでしなければ、国を守れないのか?


 めいめいが、それぞれ勝手に生き抜こうとしているから、だ。


「どうした? 遠慮はいらんぞ? 邪魔は入るまい」


 すべてはそれだ。

 なのに、人はしばしば見誤る。たとえば、彼が暴君だから悪いのだと、或いは、王をいただく社会の仕組みがいけないのだと。だが、ニコライ二世を殺した人々の頭上に立ったのは、スターリンだった。倒すべき悪はいるのかもしれないが、倒せば解決するとも限らない。

 実際には、問題は別のところにある。邪悪な独裁者は、一人では生まれない。民主的な手続きを踏んでその地位を得たヒトラーのように、必ず社会が、状況がそれを生み出す。わかりやすい「悪」は、その依り代に過ぎない。


 ……そういう世界を背景にして、今の俺の人生がある。


 実の母と、恐らくは義理の父であろう二人には、まったく愛されなかった。なぜか? 理由ならいくらでもある。リンガ村が貧しかったから。結婚の自由もなかったから。不義の子だから。

 ミルークに引き取られた俺は、奴隷になった。なぜか? この社会で、孤児が生きていける場所なんて、他になかったからだ。

 その他も、似たようなものだ。総督官邸で、俺は随分と窮屈な思いをした。なぜか? アイビィと出会い、最後には殺しあった。なぜか? ネヴィンが冤罪で処刑され、ウィーがクレーヴェを殺した。なぜか?


 人々の縁と縁とが、蜘蛛の巣の糸のように絡まりあい、時に悲劇を、時に喜劇を惹き起こす。

 俺達は、隣り合った人とキスさえできない。無数の糸が、人をがんじがらめにするからだ。「生きる」ということ自体が、愛する自由、生きる意味すら踏みにじっていく。


 考えてみれば、当然ではないか。俺が果物屋の軒先で小銭を出す。林檎を一つ手にとって引き返す。取引は助け合いであり、殺し合いである。だが、どちらかといえば、やはり殺し合いなのだ。

 では、俺に愛する妻ができたとしよう。俺達は一糸纏わぬ姿で睦みあい、そしてどうなる? 十月十日の後に、彼女は歯を食いしばり、苦痛にのた打ち回って赤ん坊を産み落とす。どうだ?

 どれだけきれいごとを口にしようが、やることなすこと、自分や誰かを傷つけずには済まない。それは利害関係を生ずる。つまりこれが『取引』だ。しかも、その損得には差が出る。誰かが貧乏くじを引かされるのだ。


 そして、この運命の網は、波打つように脈動する。その鼓動の中心に……


 ……今、目の前にいる男のすぐ背中に『そいつ』がいる。

 だが、いくらタンディラールを殺そうと、無駄だ。


「そうだ、ファルス」


 彼は、狂気さえ感じさせる笑みを浮かべながら、歓喜と憤怒を織り交ぜたような声で、叫んだ。


「お前に私は殺せない!」


 タンディラールを殺せばどうなるか。

 王国は再び混乱に陥る。まだグラーブには国王など務まらない。長子派は壊滅したが、フミールはまだ生きている。隣国が介入するかもしれない。そうなれば、今度は五桁か、六桁か。数え切れないほどの人が、また死ぬ。


「私はお前など、恐ろしくもなんともない」


 彼は静かな声で言った。


「理屈の通らない気違いでもない。欲望に狂った馬鹿者でもない。ウェルモルドのように、理想を信じてすべてを捧げる覚悟もない。ただ善良でありたい、ただきれいな世界で生きていきたい……それだけの人間など、恐れるまでもない」


 言われた通りだ。

 ピアシング・ハンドという、並外れた力を持ちながら、俺は……


「お前は……」


 なんと無力なことだろう。なんと……


「……貧しいな」


 その言葉に俺は、はっとして顔をあげた。

 目の前には、にやつくタンディラールがいるばかりだ。


「もしかして、ミルーク・ネッキャメルにも、同じことを言われたか?」


 息を飲む。その通りだ。

 そして、それを見抜かれたことが腹立たしい。


「ピュリスの復興計画」


 じっと彼は俺を見つめながら、ポツリと言った。


「考えたのはお前だろう」

「なぜそう思うんですか」

「少し、調べさせてもらった」


 席を立ち、また彼は窓際に立った。


「サフィスはろくに仕事をしていなかったらしいな。それで、代理としてサウアーブ・イフロースが書面を総督府に持ち込んだ。だが、あの男に、こんな斬新な発想はできない」

「僕ならできると?」

「あり得るな。お前が薬品店でやっていたことも調べさせた。病気になってから治療するのでなく、病気を予防する。清潔を保つ。要するに、小さな負担で、後の大きな出費を防ぐ。普通の薬屋が考えることではない」


 窓枠に手をかけ、もたれかかりながら、彼は言った。


「一流の薬剤師で、貴族の口に合う料理も出せる。剣術もこなせば、魔法まで使う。挙句の果てには見たこともないような都市計画まで……それだけ優秀なのに、お前の惨めさといったらどうだ」

「……くっ」

「これを貧しいと言わずして、なんというのだ。いつもいつも、お前は追い立てられてばかり。奴隷の肩書きが取れても、やっぱりお前は奴隷のままだ。違うか」


 違わない。

 ミルークは俺になんと言った?


『お前の行動のあり方は優秀ではあっても、私から見ると、貧乏人のそれだ。ノール、富める人は夢を持ち、それを追いかける。だが貧乏人はというと、その逆だ。夢を追いかけていると口では言いながら、実のところは、目標に後ろからせっつかれて、無理やり走っている……だから、行くべき道を、まっすぐ走れない』


 あれから何年経った?

 なのに俺は、いまだに……


「他に、何かあるか」

「他、ですか?」

「ミルークは、お前に何を教えた?」


 指摘されて、思い返す。


「人間のやることは……みな、取引だと」

「ほう、それから?」

「基本的には、取引はすべて赤字だと」

「それも一理あるな……それ以外には」

「取引こそは、人間の本質的な営みだ、と」

「ふむ」


 それを聞くと、タンディラールは悠々と椅子に戻り、座り直した。

 そして尋ねた。


「それはなぜだ?」

「はい?」

「だから……取引が、人間の本質的な営みであるのは、なぜだ?」

「えっ」


 なぜ? 理由があることなのか?

 確かに、人のやることは、ほとんど取引だ。そしてミルークは、基本的には赤字だといった。なぜなら、相手が利益分を確保しているから。わかりやすく言うと、ボッタクリ価格になるからだ。

 なぜボッタクリ価格にしなければならないか? 利益の有無を別としても、取引は生産活動ではない。そのための移動や保存などのコストはただのロスだから、埋め合わせる必要が出てしまうためだ。

 なのにどうして、そんなものが「本質的な営み」になってしまうのか?


「はっはははは!」


 いきなりタンディラールは大笑いした。


「なるほど、なるほど。お前はその程度か」


 言葉もない。

 せっかくミルークは、俺にいろいろ教えてくれたのに。俺の耳はなんだ? ただの通気孔か? 何を聞いていたんだ。

 両耳の間にあるのは、なんだ? ただの空洞か? どうして立ち止まって考えようとしなかったんだ。


「それなら納得だ。自由とか、平等とか、わけのわからないことも、うかうかと受け入れてしまうわけだ」

「それと何の関係が」

「大有りだ。いいか、ファルス。自由で平等な社会というのはな」


 さも面白いと言わんばかりに、彼は言い切った。


「それこそ『乾燥した水』というのと、ほとんど同じ意味だ! まったく馬鹿げている!」

「そんな!」

「取引のなんたるかをわかっていないから、そんな馬鹿なことが言えるのだ」


 いやな汗が滲んできた。

 目を白黒させる俺に、タンディラールは諭すように言った。


「悪いことは言わん。身の程を知れ。お前のような人間は、誰かの下僕として生きるのがお似合いだ。なんなら私が使ってやろう」


 ……だが、そこは譲れない。


「いえ、陛下」

「うん?」

「僕には、やると決めていることがあるのです」

「ほう、それはなんだ」


 とはいえ、言葉は選ばなければなるまい。


「……修行の旅に出ます」

「ほほう!」


 いかにも面白い、と彼は手を打ち鳴らした。


「古式ゆかしく偉大な騎士の道に倣って、なんと修行の旅か! そいつはいいな!」


 茶化されようがなんだろうが構わない。俺はもう、決めている。

 こんな世界にいつまでも身を置いてなどいられるか。不老不死を手にして、俺は永遠に眠る。そして二度と苦しまず、二度と悲しまない。


「よかろう。そうしたいのなら、いくらでも旅立つがいい。但し」

「なんですか」

「十五歳になるまでに戻ってこい。お前には、帝都の学園に留学してもらう」

「学園? ですか?」

「貴族の子弟が通う場所だ。卒業後は、王国のために働いてもらう」

「いやだと言ったら」

「出国を許可しない」


 こいつ……

 俺の利用価値を見て、とことんまで使い倒すつもりか。

 構うものか。殺すのはたやすいが、口約束なら、更にたやすい。


「それと……せっかくだ。宿題をつけてやろう」

「宿題?」

「さっきの問いに答えてみせろ。それくらいは成長してもらわねばな」


 屈辱感はある。

 だが、無視できない。俺の未熟さは、ごまかしようがなかった。


「ああ、それと」


 彼は思い出したように付け加えた。


「言っておくが、ミルークに相談するのはなしだぞ?」

「そんなことはしません」

「まぁ、どうせ無理だがな……奴は、もうこの国にはいない」

「えっ!?」


 驚き慌てる俺に、彼は悠々と応えた。


「収容所を畳んで、立ち去ったらしいな。どこに行ったかは知らないが」


 また会えるかもと、どこかで思っていた。

 だが、どこへ行ってしまったのだろう?

 いずれにせよ、俺の目的地は彼の収容所ではない。


「まぁ、いろいろ話したが、言いたいことは一つだけだ」


 もはや余裕の表情で、タンディラールは俺に言った。


「私の目が黒いうちは、逃げられはせん。覚えておくことだな」

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