なんかスースーする
さて、夜は長いようで短い。
幸運にも今夜は闇夜だ。よって、人目を避けて行動するには都合がいい。
実のところ、どうすべきかと、一瞬だけ迷った。
ウィーは犯罪者だ。
ちゃんと理由はあるし、今後、罪のない人を襲ったりもしないのはわかるのだが、自分で選んで行動して、結果を受け取っている。であれば、無理して救う必要はないのではないか、とも思ったのだ。
しかし、俺にとって、彼女の救出は「無理」ではない。そして、俺にとっては王国の法より、自分の気持ちのほうが大切だ。
ただ……
彼女の命を本当に救おうと思ったら、俺も犠牲にしなければならないものが出てくる。
ともあれ、助けると言った以上、やれる限りはやってみる。
手順を考えるに、まずは衣服を確保したい。とはいえ、もう真夜中だ。貴族の壁にも、兵士の壁にも守衛がいるし、彼らを突破しても、市内の衣料品店はもう閉まっている。これを無理やり叩き起こして……いや、駄目だ。いちいち眠らせて、記憶を消して。手間が大きすぎる。
仕方ない。お古を着てもらおうか。
周囲に人影がないのを確認してから、俺は王宮の外周、西側に向かう。
以前、イータと共に訪れた王宮の牢獄の入口。当然だが、今は固く施錠されている。普通であれば、入る手段などない。
だが、最高水準で行使される精神操作魔術は、こんな無茶もできるのだ。
まず、『意識探知』で、扉の向こうの人間を調べる。
見張りが極端に少ない。ここからすぐ近くの入口に、詰所がある。一応そこに一人。それと奥のほうにもう一人。それぞれの牢屋の前には、人がいない。向かって右側はすぐ突き当たりだが、左側に行くと、自然のままの岩を掘り抜いた、いわば牢獄の「奥の間」がある。そこに無数の反応がある。何をしているかは……詳しく知りたくない。
だが、想像ならつく。過剰な興奮と歪な快楽とが伝わってくる。恐らく、今回の内乱の後始末だ。主要人物は公開処刑されるが、それ以外は裏手でこっそり始末される。特に、それが女性や子供の場合は……
ともあれ、見張りが少ないのなら好都合だ。では、最寄の警備員の心の中を『読心』で調べよう。
《……ちっ……クジ引きで負けたからって、俺だけ見張りかよ……酒くらい飲みてぇってのに……》
確かに今日は、新王即位の日だ。だから、彼ら刑吏にしても、めでたく祝うべき日ではある。しかし、ここは牢獄だ。
奥のほうで「お楽しみ」の連中は、酒を飲みながら黒いパーティーに夢中だが、貧乏クジを引かされた彼ともう一人は、この通り、酒も飲めずに見張りについている。手元に酒がないわけではない。不謹慎にも、この詰所の中に酒樽が持ち込まれている。
一応、あと何時間かしたら、奥のほうで楽しんでいる奴らが交代してくれることになっているので、それまでは我慢だ。ただ、酒は残っていても、他の娯楽は潰された後かもしれない。
よしよし、ならば仕掛けは可能だ。
ピアシング・ハンドは、自分の五感で把握できている範囲にしか通用しない。よって、扉の向こうの警備員を排除するには役立たない。しかし、精神操作魔術であれば。高い熟練をもってすれば、意識の位置だけ確認して『誘眠』を行使するのも、不可能ではない。
というわけで、手前のと奥のを、まずは両方眠らせた。
更に、お楽しみに夢中な連中にも、『暗示』をかけておく。
もっと興奮しろ。余計なことは気にするな。
グルービーの教えに従うなら、魔術は重ねがけするべきだ。詰所のほうに座って寝ている彼に、更に詠唱で魔術を浴びせていく。『認識阻害』、『眩惑』、そして『暗示』……遠くに感じた手応えと同時に、彼はムクリと起き上がり、鍵を手にしてこの入口までやってきた。
扉が開き、俺は中に滑り込む。茫然自失の状態で、ただなんとなく、夢遊病者のように鍵を開けた彼だが、頭の中は真っ白だ。とはいえ、何かのきっかけで目覚めてしまう危険がある。よってここで『強制使役』だ。
さすがにここまで魔法を連発すると、きついものがある。だがもう、あとちょっとでおしまいだ。
「脱げ」
ウィーには我慢してもらおう。背の高さが、ちょうどいい。こいつの服をもらう。
「鍵を寄越せ。そこで待て」
そして俺は、目指す牢屋へと向かう。
ウィーは、眠ってはいなかった。
足音に振り向くが、その視線には露骨に嫌悪の情が滲み出ていた。
牢獄の奥では、楽しいパーティーが繰り広げられている。彼女は、囚人となった貴族の子女の姿を目の当たりにしたのだろう。だが、ウィーは内乱に関係して収監されたわけではなく、よってこうして取調べを待つ身の上となった。
だから、影の小ささに気付いて、驚きに息を飲む。
さすがに二度目だ。騒ぎ立てるほど、彼女は間抜けではなかった。
「ウィー」
「ファルス君? どうして来たのさ?」
「イータに教えてもらった」
鉄格子に掴まりながら、彼女は横を向いた。
「どうして……」
「どうしても何も、後味が悪すぎたんだと思う。自分達を逃がすために、わざわざ出頭してもらって、それを何もしないで見殺しなんて」
「ボクは……よかったのに」
俺が彼女の脱獄に手を貸すべきか。迷った理由のもう一つが、顔を出した。
「逃げるつもりはなかった?」
「無駄に死ぬのは駄目だと思ってたよ」
「これは無駄じゃないの?」
「罪のない人を助けるためなら、意味はあるよね」
この世界に、愛するべき人などいない。
優しかった父も、頑張り屋の母も。甘やかしてくれたクレーヴェも。みんな死んだ。
そして、復讐という目標も果たしてしまった。ウィーは抜け殻だった。しかし、生き延びてしまった。
意味のない人生は、つらいものだ。息を吸って吐くだけでも、苦痛この上ない。
しかし、だからといって自殺はできない。それはどこか、大切だった人達を裏切るような気がするからだ。
なら、理由があればいい。
善を成して死ぬのなら、言い訳ができる。そう、言い訳だ。
「取ってつけたような理由だね」
「だって」
「自殺だ」
「……じゃ、どうしろってのさ」
俺に、自殺が悪いなんて考えはない。
人生とは、生きるに値するのか? 値しないかもしれない。いや、きっとそんな価値なんかないだろう。
だけど、死んでもまた生まれ変わってしまう。嫌がらせのように甦り、また苦しむ。ならば自殺もまた、無意味なのだ。やってもやらなくても同じ。
「僕が決めることじゃない。ただ、それは自殺だって指摘はする」
真実を言い当てられて、ウィーは力なく床に膝をついた。そんな彼女に、追い討ちを浴びせる。
「少し、怒ってもいい?」
「えっ?」
「ウィーがサフィスを殺し損ねて逃げてから。ガッシュ達、解散したよ」
「え!」
「ユミがワノノマの豪族に見つかって、連れ戻されてね。で、結局」
「そうだったんだ」
だが、俺の言いたいことは、その先だ。
「最後に、三人で酒盛りをしてたよ。五人分のカップを置いてね」
「五人……」
俺と店長も飲んだが、形だけだ。
さすがにウィーも理解する。ガッシュは、その場にいなかった二人も、仲間とみなして一緒に乾杯した。
「クレーヴェさんは、最後に言ったよ。世界は終わってなんかなかったって」
「うっ……」
「ウィーの世界は、終わったの?」
俺の一言に、ウィーは身を縮めて、己を抱きすくめた。
俺が言えた話じゃない。まさしく「自分のことは棚に上げて」「どの口が」というやつだ。
だが、これはやらなければいけない。そういう約束だから。
「でも……でも」
「まだ何かあるの?」
「もう、遅いよ」
「どうして?」
「逃げられない。逃げ切れない」
それは、そうだと思っていた。
なぜならもう、ウィーの顔と名前はバッチリ覚えられてしまっている。
「ここを抜けても、貴族の壁もあれば、兵士の壁もあるんだよ? 今はファルス君が何か、うまいことやってくれているのかもしれないけど、時間が経てば、見つかっちゃう。そうしたら、ファルス君まで巻き込むことになるんだ」
「まぁ、そうだね。その格好のままなら、すぐ見つかっちゃうかもね」
どちらの壁の門も、夜明け頃にやっと開く。紛争中ならいざ知らず、平時に戻った今では、強行突破も難しい。そして、いくら看守達が間抜けでも、さすがにその時間になれば、ウィーの脱走に気付いてしまう。まさに袋のネズミだ。
それでも俺が力を尽くせば、王都から脱出するくらいはできるかもしれない。だが、その後がない。国境を越えて逃げるのが難しい以上、出口などない。ピュリスではまず乗船前に見つけられてしまうし、エキセー地方やアルディニアを目指すにしても、遠すぎる。一番近いのは西部国境、つまりシモール=フォレスティアに出るルートだが、ここも検問がある。しかもウィーは、隣国でも罪を問われる身の上なのだ。
「だから」
「その前に」
俺は彼女を黙らせた。
「僕も、本当にウィーを逃がすべきかは、迷っているんだ」
「えっ?」
「どうあれ、犯罪に手を染めたのは事実だし。そもそも生きるつもりがあるかも怪しいし。それに……」
これが、俺にとっての最大の懸念事項だ。
「……僕の秘密の力を使わないと、多分、ウィーを逃がしきれない」
「秘密?」
「そう、秘密だよ。生きている人間で、本当にそれを知っているのは……今のところ、一応、二人かな。あとはなんとなく、気付きつつある人もいるけど」
キースは、俺がアネロスの火魔術を消し去った現場にいた。ウィーやイータも同じだが、彼ほどには目敏くないらしく、あまり気にしていないように見える。イフロースは、俺が何かの生まれ変わりであることを知っている。それは、ミルークも同じだ。
但し、能力そのものを直接体験したのは、知っている限りでは二人しかいない。ノーラとリリアーナだ。それ以外……アイビィとグルービーは、その記憶を語る手段を持たないし、彼ら以外の、まさしくピアシング・ハンドそのものに殺された連中は、既に輪廻に還っている。
「本来なら、これは誰にも見せたくない。秘密が知れ渡るくらいなら……その人を殺さなきゃいけない」
「……ファルス君?」
俺がそんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。ウィーには戸惑いがあった。子供離れした腕はあっても温厚な人、それが彼女にとってのファルス少年だったはずなのに。
とにかく、さすがにのんびりしすぎた。魔法の効果が切れたらまずい。そろそろ心配だ。
「もう、あまり時間はない。決めて欲しい」
「えっと、それは……秘密を守れるかどうかってこと?」
「いいや」
それもある。
だが、もっと大事なことがある。
「ウィーが本気で、全力で生き抜くつもりがあるかどうかだ。僕がそこまでするんだから、中途半端は許さない。言っておくけど、苦しいよ? 今までの人生は終わる。まったく新しい人生を始めなきゃいけなくなるんだから」
「それってどういう……」
「説明はできない。それ自体が僕の秘密そのものだから」
彼女は、じっと俺を見据えた。
俺は知っている。ウィーはただの少女じゃない。
決断力と行動力を兼ね備えた、強い人間だ。
「……やるよ」
「いいんだね」
「やる。そう言ったんだから、ボクはやる」
「よかった」
俺は胸を撫で下ろす。
「これで申し訳が立つ、か」
「誰に? イータ?」
「忘れたの? ……僕は買収されたんだからね」
念じる。肉体を取り出し、それを与え。
そして……
……振り返ると、聳え立つ市民の壁の上に、白い夜明けの光が霞んで見えた。
藍色の空、それを濁らせる雲。あれは夜明けと共に流されていく雲だ。きっと今日も晴れるだろう。
対照的に西の空は、既にくっきりときれいに晴れ渡っている。前途を祝福するかのように。
「ねぇ、ファルス君」
隣に立つ「男」は、女みたいな口調で、不具合を訴えた。
「やっぱりなんか、歩きにくいんだけど」
「慣れだよ、そこは」
「……言いたくないけど、こう、動くたびに恥ずかしいんだってば」
「顔には出さないほうがいいよ?」
「それになんか、スースーするし」
「しょうがないよ。顔を知ってる人が万一いたら、大変なことになるからね」
市民の壁を朝一番に抜け出て、俺とウィー……いや、ウィーだった人物は、王都の西に広がる草原を歩いていた。
「一応、元の体の持ち主は、無名の男ではあったけど、やっぱり少しは知ってる人もいるからね。死んだことになってるから、そうそうは気付かれないはずだけど……できたら、ヒゲも伸ばしたほうがいいかなぁ」
「ヒゲェッ!?」
イヤそうに叫ぶ。
今の彼女……いや、彼の外見は、ひどいものだ。髪の毛は全部剃り落とされ、見事につるっぱげ。その髪の毛を利用して、一応口元に付けヒゲを拵えてある。じっくり顔を見られたらまずいが、すぐに見分けられるということはない。
「男なら、珍しくないよ」
「お、お、お、男なら、ね?」
「男じゃない?」
「お、お、お、男、だけど、さ」
ルースレス・フィルシーの肉体だ。
本当はどこかに捨ててしまいたかったのだが、タイミングがなかった。王都のどこかにポイ捨てしたかったのだが、それをすると、刀傷がないのに気付かれる恐れがある。死体を切り刻んでも、さほど出血しないから、尚更怪しまれる。
かといって、帰りの馬車の中でも、そんな機会はなかった。荷物番だったし、一人で街道の脇に出たりしたら、すぐイフロースに見咎められる。
ピュリスに帰ってからも、なかなか難しかった。官邸にいる間はもちろん無理だし、帰宅した時にこっそり海に放り込もうにも、ノーラがぴったり傍にいた。
だが、運よく使い道が見つかってくれた。
お尋ね者という点では、ウィーもルースレスも似たようなものだ。ただ、ウィーはシモール=フォレスティアでも追われる立場だ。それにルースレスは死んだことになっているし、この偽造された……いや、正式に発行されているから偽造ではないのだが、別名の身分証もある。
このまま、西の国境から、隣国まで逃げ切れば、さすがにもう、追われる心配はなくなる。それに……
「名前、覚えた?」
「もちろんだよ」
「今日から、ウィーはガーネットの冒険者なんだからね」
「そこからやり直しかぁ……」
ティンティナブリア出身のケルプ・アーツ。この身分証も、なんとなく捨てずに持っていた。おかげで活用できる。
なお、牢獄のほうは、きっちり後始末を済ませてきた。
木のジョッキを二つ取り出して、昏睡中の見張りと、強制使役中の看守に握らせた。出口の鍵は、俺達が出る時に、彼に締めさせた。その後、最初に眠らされた男の服の、内ポケットに突っ込ませ、二人してその場に横たわってもらった。
傍から見ると、我慢しきれず二人は飲酒し、ウィーの脱獄を許したことになる。しかし個室も玄関も鍵がかかっており、脱出できたはずはない。今頃はきっと、大混乱に陥っているはずだ。
「よかったね」
「何が?」
「やっと本当の男になれてさ」
「遅すぎるよー!」
不満たらたらながらも、彼女は我慢して歩いている。
「ボクの人生、どうなってるのさ……仮にも女の子なのに、ヘンなことばっかり」
「今日から正式に男になったんだってば」
「えー……ねぇ、女の子の体はないの?」
「ないかな。それとも、どうしても欲しい? 罪のない人を殺してでも?」
「……やっぱり、いい。我慢する」
王都は脱出したが、ウィー自身の体で生きるとなると、やはりいろいろ問題がある。どちらにせよ、ほとぼりが冷めるまでは、その格好でなんとかするしかない。
「そのうち慣れるよ」
「だといいけどね」
そこで、俺とウィーは、足を止めた。
「……そろそろ、いいよ」
「うん、僕も戻らないといけないから」
別れ、だ。
次にまた会えるのはいつになるだろう?
或いは、これが今生の別れかもしれない。
「ありがとう」
「元気でね、ウィー」
彼女が、生まれついての名で呼ばれるのも、きっとこれが最後だろう。
俺は、背を向けて去っていく彼女に、そっと手を振った。
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