夜会からの逃走

 胸がすっとする香り。匂いは直接感情を動かすものだ。だが、俺はその芳しさが煩わしくてならなかった。ここに相応しいのは、腐臭だけだから。


 王宮の迎賓館。内乱中にも一切被害が出なかったらしい。暗い緑色のタイルにはひび割れ一つなく、頭上を覆う藍色のクリスタルも、壁を飾る数々の宝石も、以前見たのと変わりがなかった。

 中央の柱に目を向ける。純白の輝きを誇る『祝福の女神』、青い『時空の女神』、黒ずんだ『霊性の女神』、真っ赤な『力の女神』、そして明るい緑色の『龍神ヘミュービ』が、彼女らを取り巻いている。

 もし、ここに女神や龍神が実在したなら、この光景をどう思うだろうか?


 動乱を生き延びた貴族達が、いかにも楽しげに談笑している。だが、その内面は?

 長子派の貴族がゴッソリいなくなった。その分、ポストに空きができ、利権の持ち主が入れ替わった。先の人事異動を受けて、彼らは活発に動き出している。笑顔で喜び合うふりをしながら、実のところは必死で裏取引の準備だ。

 そして、この紛争に巻き込まれて死んだ庶民のことを思いやるような声は、どこからも聞かれない。


「ファルス」


 頭上から声。サフィスだ。


「ここはいい。イフロースもいる。お前は好きにしていい」


 これは彼なりの善意だ。

 しかし、俺はなるべくサフィスの傍にいようとしている。なぜか?


 さっきの論功行賞で、タンディラールが俺を激賞した。そして、エンバイオ家の下僕ということにはなっているが、騎士の腕輪を与えたのは王その人だ。

 騎士身分とはいえ、出世できないわけではない。ゼルコバのように、軍団長のトップになる人物もいる。そして、ファルスはまだ、なんと九歳の少年だ。


 ……どうやら余程の幸運か、さもなければ才能に恵まれた子供なのだろう。

 だが、子供は子供、サフィスはうまく扱えていないようだし、今に倍する利益を与えれば、飼い慣らせるのでは……


 大方の評価は、こんなものだ。

 よって、俺に恩を売りつけたい貴族が、それなりにいる。


 言うまでもなく、今となっては、俺を手放すことが不利益であろうことは、サフィスにもよくわかっている。だが、彼としてはもう、十分に元を取ったと思っているのだ。

 妻を救うことは叶わなかったにせよ、子供達は無事に生き延びてくれた。自分自身の命も、イフロースはもちろんだが、ファルスなしでは保てなかった。この上、俺から搾取しようとは考えていない。むしろ、望むものがあるなら、自由にしていいのだと。

 その辺、イフロースにはまた、違う腹積もりがある。サフィスは許しても、自分は許さない。王家が唾をつけたがっているが、そうはいくか。ましてやそこらの木っ端貴族などに、エンバイオ家の未来の守護者を奪われてなるものか。


 しかし、俺には俺の考えがある。

 確かに、立身出世を望むなら、いくらでもやりようはある。いっそエルゲンナームあたりに声をかけてもいい。俺の能力を目の当たりにしている以上、絶対に無視はすまい。一族から官位を授かる人間がいないという弱みもあるフォンケーノ侯爵家だが、そこを穴埋めしてくれる人材になってくれるなら、援助も惜しまないはずだ。俺の目標が、今のゼルコバくらいの地位にあるのなら、決して届かないものではない。

 だが、そんなのは真っ平御免だ。冗談じゃない。面倒臭い……どころではない。


 こんな醜悪な連中に囲まれて暮らすくらいなら、ピュリスの酒場で下働きでもしていたほうが、何百倍もマシだ。心からそう思う。


 さっきから、無数の貴族がサフィスに話しかけては、気持ち悪い猫なで声で媚びていく。彼は作った笑顔でなんとか対応しているが、もううんざりしているはずだ。横から見ているだけでも、吐き気がする。ぶちまけていいなら、今すぐこの場で胃液の最後の一滴まで搾り出せるくらいだ。


 真っ赤なワイングラスを片手に、サフィスは遠くを見るような目で、呟いた。


「なぁ、イフロース」

「はっ」

「皆に詫びることが増えたな」


 ピュリスに根付いて生きるフィルの計画は、頓挫した。もともとはむしろそれを望んでいたサフィスだったが、今では違う。子爵家にぶら下がって生きる人々のうち、どれだけに不利益を与えることになるのか。とてもではないが、中央の大臣になってしまっては、全員の面倒を見るなどできない。これまでのような利権ビジネスを続けられなくなるからだ。早い話が、リストラが不可避なのだ。


「それは私の仕事ですな」

「子供扱いするな」

「ふふっ、確かに、もう子供ではございませんか」

「なんだと? どういう意味だ?」


 イフロースの顔には、珍しく穏やかな笑みが浮かんでいた。


「ようやく成人なされたようで……これでもう、私がいなくなっても、不安はありません」

「ぬかせ」


 すると二人は、揃って笑い出した。

 ひとしきり笑った後、サフィスは寂しげに息をついた。


「……少々、遅きに失したがな」

「そういうこともありますな。私も人のことは言えません」

「違いない」


 思えば、形は違えど、二人は妻を失ったという点では同じになってしまった。どちらも家庭を粗末に扱ってきたのだ。

 自然、彼らの視線は俺に集まる。


「おい、ファルス」

「は、はい?」


 サフィスはおどけながら、イフロースの肩を叩き、言った。


「お前はこんな大人になるなよ?」

「ひどい言い草ですな」

「はっははは」


 また笑いを納めると、サフィスは手元のグラスを、通りかかった給仕に渡してしまった。


「ここで酔うまで飲むわけにもいくまい。私は帰る」

「では」

「イフロース。ファルスには……好きにさせてやってくれ」

「御意」


 俺はむしろ、一緒に帰りたいんだが。

 さっきまでずーっとサフィスを盾にして、俺に喰らいつこうとする木っ端貴族どもを防いできたんだが……


「心配するな。お前はもう、国王陛下の騎士だ。堂々と立っていればいい」

「あの」

「楽しんでおけ」


 それだけで、サフィスは手を振って、去っていってしまった。


 やれやれ、困った。

 こんな場所には、子供なんて滅多にいない。しかも黒髪となれば。他にいるとすれば、ベルノストくらいだろう。目立ってしょうがない。


 案の定、何人かの貴族がこちらをじっと見ている。

 これは回避……


「失礼、君」


 逃げようとしたところが、背後に待ち構えていたのがいた。


「ファルス・リンガ君だね」


 見覚えのある男達が立っていた。


 二人とも背が高い。

 一人は色白で、眉が太く目が細い男。ファンディ侯だ。今回、反逆者として処刑されたショーク伯に代わって、正式に財務大臣に就任した。すぐ横に娘を伴っている。今日もプチトマトみたいな髪形をした、勝気そうな少女。ケアーナだ。忘れかけていたが、ピアシング・ハンドのおかげですぐ名前を思い出せる。

 そしてもう一人。やはり、生理的にゾッとくる。

 逆三角形型の体格。ファンディ侯を超える身長。そして猛獣を思わせる顎鬚。鋭い眼光。以前に一度見ただけだが、忘れられない。スード伯ゴーファトだ。


「陛下があそこまで褒め称えるとは、前代未聞だ。いや、先の陛下も、少し前まで摂政を務めていた今の陛下も、どちらも軽々しく人を評価したりなど、なさらない方々だったからね……おっと、挨拶がまだだったな」

「お声がけいただけるとは思いもよりませんでした。存じ上げております。左がアッセン様で、右がゴーファト様ですね。このたびはご昇進、おめでとうございます」


 ああ、面倒。

 そう思いながらも、笑顔で頭を下げる。


「ほほう、これはこれは」


 喋っているのは、ほとんどファンディ侯だ。


「この幼さで腕が立つとは聞いていたが、頭のほうも、これまた随分と利発なようで」

「畏れ多いことです。いまだ未熟な身にございますれば」

「ははは、これはいい。陛下もよくぞ見出されたものだ」


 その間、ゴーファトはじっと俺を見つめている。妙に潤んだその瞳で。

 考えたくないが、こいつが小児性愛者なのは、いやというほど理解している。ファンディ侯は欲得で動いているが、下手をすると、スード伯のほうは、別の欲求に動かされているのかもしれない。


「そら、ケアーナ、ご挨拶なさい」


 父親に促されて……だが娘は不機嫌そうな顔をするばかりだ。


「どうして?」

「どうしてとはどういうことだね。いいか、ケアーナ。彼はファルス・リンガといって、この若さで陛下から直々に腕輪を賜った騎士なのだよ」

「騎士、なんでしょ?」


 おっと。

 プチトマト、グッジョブ。内心でサムズアップしたくなった。


「私、アナーニア様から聞いたわ。この子、もともと、奴隷だったんでしょ?」


 いい。実にいい。

 そうやって会話をブチ壊してくれると、逃げやすくていい。こちらから喧嘩を吹っかけるわけにはいかないから、本当に助かる。


 思うに、ファンディ侯としては、娘の使い道の選択肢の一つに、俺が挙がっているのだろう。

 確かに、騎士の妻になってしまっては、貴族ではなくなってしまうのだが。そこはそれ、彼には子供が大勢いる。大貴族だから、その気になれば、あちこちの貴族と縁談を結ぶことはできるのだが……この場合、それが一族の利益になるとは限らない。

 血縁とは、領地の継承権だ。ゆえに、ある程度までなら「保険」だが、あんまり多くの貴族と血筋で繋がってしまうと、後々の紛争を招きかねない。こと、ファンディ侯は四大貴族の一角でもあり、その利益にあやかろうとする乞食貴族も少なくない。それくらいなら、娘は将来有望な騎士あたりと結婚させて、自分が後援者になって、中央での権力を握ってくれたほうがありがたい。

 そして普通なら、騎士のほうでも大喜びするはずなのだ。なにしろ彼は大貴族なのだから。


 だが、ケアーナ本人からすれば、そんなのは嫌なのだ。

 貴族として扱われなくなる。身分が落ちる。騎士なんて、今の彼女からすれば、家中にたくさんいる目下の人間の地位だ。せっかく大貴族の令嬢として生まれてきたのに、結婚で値打ちが下がるなんて、我慢ならない。しかも、目の前の少年は奴隷出身だ。自分まで汚れるような気がしてしまう。


「ケアーナ、いいかい」


 溜息をつきながら、ファンディ侯は言葉を探す。さすがにこんな失礼をやらかされては。


「奴隷という悲惨な境遇から、陛下の寵愛を得るに至った……これほど素晴らしいことが、他にあるかね。なぁ、ファルス君」

「いえ、僕なんて、まだまだですよ。お嬢様のおっしゃる通りだと思います」


 よし。

 これで会話を終わらせる目処がついてきた。


「ファルス君といったね」


 遥か頭上から、声。

 異質なものが俺の胸をまさぐるような感触に、はっと仰ぎ見る。


 ゴーファトだった。


「実のところを教えて欲しい。無論、他言もしないし、迷惑をかけもしない。真実を知りたいだけだ」

「は、はい。なんでしょうか」

「あのウェルモルドの腕を切り落とし、ルースレスなる反逆の騎士を討ち取ったというのは、本当のことかね?」


 なるほど。納得の質問だ。

 こんな子供が、一人前の武将と渡り合ったなんて、常識では考えられない。


「それは……事実です」


 違います、とも言えないしな。どう違うのかも、説明できないし。

 第一、ウェルモルドの件は、どうにもごまかしようがない。第二軍の兵士の大勢が目撃している。その気になれば、ゴーファトはいくらでも裏を取れるのだ。


「ほう」


 彼の目が、妖しく煌いた。


「では、ファルス君……君には、武の素養があるわけだ」

「素養というほどでもありませんが、日々、ご指導をいただけています」

「謙遜は不要だ。武とは結果がすべて。そうだろう」


 そう語る彼が、どんどん情熱的になってきているのが、よくわかる。

 随分と元気そうだ。少年に欲情できるくらいには。そんな体力があるなら、もっと早くに出陣して、さっさと内紛を終わらせてくれればよかったのに……まぁ、どうせ仮病だったのだろうが。


「は、はぁ」

「それで、君に提案がある」

「はい」

「私の城に来る気はないかね?」

「えっ」


 今、全身に鳥肌が立った。間違いない。もう狙われている。何がとは言わないが。


「スーディアは、王国全土を見渡しても、最も武が盛んな土地だ。君の才能を伸ばしたいのなら、ここ以上の場所はない」

「は、ですが」

「私はね、ファルス君」


 一呼吸おいて、彼は言った。


「君こそが『理想的』な存在だと思うのだよ……」


 理想的。

 ああ、駄目だ。絶対に。

 こいつのいう理想っていうのは……知的で、勇敢で、有能で、そして美少年であるということ。

 ここでハイなんて言ったら、絶対に餌食にされる。うまく取り入れば、何でもくれるかもしれないが、だとしても冗談じゃない。まず確実に股間は伐採されてしまうだろう。


「ありがたいお話ではございますが」

「うんと言いたまえ」

「主家の恩義を忘れるわけには参りません」

「ふん……」


 諦めた様子はない。困ったものだ。


「気が変わったら、いつでも私に言ってくれ」

「は、はい」

「但し、『早め』にして欲しい」


 早め。

 彼が好きなのは少年だから。大人の男性になる前に。そういう意味に違いない。


「あ、お、お気遣い、ありがとうございます」


 俺は一礼した。


 十分後、俺はテラスに逃れて、溜息をついていた。

 やっぱり、とんでもない。きつい。苦しい。

 当たり前か。ここにいる連中も、遊んでるふりをしているだけ。実は切った張ったのビジネスをしているのだから。


 長時間いるのは得策じゃない。

 一休みしたら、さっさと逃げよう……


「お疲れですか? よく冷えたお水はいかがでしょう?」

「あ、ありがとうございます」


 給仕かと思って振り返り……叫び声をあげそうになった。

 彼女はそっと指を唇に持っていき、俺は頷く。


 ごく自然を装い、俺は小声で尋ねた。


「イータ、どうしてここに?」


 給仕役の服装で紛れ込んでいたのは、イータだった。

 宮廷内の知り合いに、力を貸してもらったのだろう。


「私だって来たくなかったけど、しょうがないのよ」

「モール様と逃げたんじゃ」

「逃げるわよ。明日。どっちにせよ、濡れ衣を着せられたままなんだもん」


 周囲に視線を走らせる。問題ない。今は注目されていないようだ。


「じゃあ、どうして」

「あなたの知り合いが、捕まったからよ」

「えっ」

「あの後ね」


 クレーヴェを討った後のウィーは、放心状態ながらも、無駄に死ぬわけにはいかないと、一応は行動を起こした。そして、イータ達の潜伏する家まで戻っていたのだ。もちろん、一緒に国外に脱出するためだ。

 ところが、彼らの潜伏している家というのは、ただの一般人の家だ。成り行き上、俺達が転がり込んだだけなのだから。それでも、少し前まではキースもいたし、武力で威嚇されていたから何も行動できなかったが、その場に残されたのが女と老人だけと見ると、別の選択肢があることに気付いた。つまり……密告だ。

 内紛が収まってまもなく。ここに犯罪者が隠れていますよ! と通報を受けた近衛兵が、彼らの家を取り囲んだ。万事休す、といったところだが、そこでウィーが前に出た。彼女は、自分が捕まることで兵士達を帰すことにしたのだ。もちろん、家主には「他に仲間がいるから、これ以上何かしたらタダでは済まない」と釘を刺して。


 結果、ウィーは連行されていった。イータ達は場所を移動して、脱出に備えている。だが、このままでは、自分達を庇ってくれたウィーを見殺しにすることになる。とはいっても大したことはできない。何より、モールを逃がすのがイータ達にとっての最優先事項でもあるし、それをしなかったらウィーの犠牲が無駄になる。

 そういうわけで、この一週間、彼女らはやきもきしながら過ごしていた。幸い、宮廷内には知り合いもいて、情報だけは入手できた。ウィーは、またあの王宮付属の牢獄に閉じ込められているらしい。だが、逃がす手段がない。

 そんな中、俺が王都にやってきて、陛下から直々に恩賞を賜った件を聞き知った。イータも、なんとなくだが『ファルスには不思議な能力があるらしい』とは勘付いている。駄目で元々、一応相談してみようと、意を決してここまでやってきたのだ。


「……そんなことが」

「ねぇ? なんとかならない? できることならするから」

「うーん」


 ウィーの犯罪は、どこまで知られているのだろう? 密入国だけなのか、それとももう、総督狙撃の件も知られているのか。どちらにせよ、ただでは済むまい。

 一つ、希望が持てるのは、彼女がワーリア伯の義理の娘であることだ。仮にも貴族の子女であるし、義父との関係性も把握されているわけではないので、密入国の容疑だけでは、拷問その他の過酷な取り扱いを受けることはないだろう。よって、恐らく彼女はまだ生きている。

 しかしそれも、総督を襲った事実が知られるまでだ。言ってみればテロ行為だから、こちらが知られたら、もう助からない。


「まず、無事かどうか、ですが」

「ごめん、それはわからない」

「ですよね……じゃあ、無理やりでも引っ張り出すしかないか」

「できるの? 協力するよ」

「いえ」


 俺は頭の中で、あれこれ計算する。


「イータさん達は、そのまま脱出してください。この件は、僕が引き取ります」

「え、う、うん」

「できればですが、あとで結果はお伝えします。ご連絡、ありがとうございました」


 俺の能力を惜しまず行使すれば、ウィーを逃がしきるのは不可能ではない。

 ただ、そのためには、近くにイータ達がいないほうがいい。ウィーには、ほぼすべてを見られることになるが……


 さて、それならもう、ここに長居する余裕はない。

 会場を去らなくては。


 精神操作魔術で、自分自身に注意が向かないよう、『認識阻害』を行使する。そして、何気なく、出口のドアを押して、廊下に出た。誰にも気付かれることなく……


「お疲れのようだ」


 ……のはずが、後ろから声をかけられた。


「今夜の主役がまた一人、お帰りか」


 振り返る。

 立っていたのは、端正な顔立ちの青年だ。だが、均整の取れた肉体の内側には、鍛えられた筋肉がついているのがわかる。


「これは大将軍閣下」


 俺は深々と頭を下げた。

 アルタールは、会場の出口の横の壁に凭れながら、俺が出てくるのを待っていたらしい。


「ふっ……よしてくれ。そういう呼び方は」

「そうおっしゃられましても」

「帰るのか? 未来の英雄殿」

「……そういう呼び方のが、ひどいと思いませんか」

「ふはは」


 身を起こすと、彼は俺の前に立った。


「私もちょうど外の空気を吸いたいと思っていたところだ。そこまで送ろう」

「恐縮です」


 どういうつもりだろう? 今からウィーを逃がそうとしている俺に気付いたとか? まさか、それはないと思うが。

 ただ彼は、俺が後宮の包囲を抜けて、サフィス達を送り込むところを目撃している。イフロースからの敵将討伐の報告も聞いているはずだ。興味を持つ理由はある。


 迎賓館を離れれば、夜は静かそのものだった。特に、王宮の敷地内は。

 離れたところから、水音がする。噴水だ。か弱い星の光を浴びて、煌く水滴がかすかに青白く染まる。


「いい夜だな」

「はい」


 アルタールは、やっと口を開いた。

 彼の言葉は、俺の感じたのと同じだった。静かで、風もなく、空は晴れ渡って。美しい秋の夜だ。ただ、足りないものがあるとすれば、それは月光だろう。二週間前が満月……よって今はほぼ新月だ。


「君の気持ちも、わからんでもない」


 唐突にわけのわからないことを言い出した。

 俺の気持ち? この気持ち悪い夜会なんか、さっさと抜け出したい? 確かにウィーの件がなくても、早めに逃げ出すつもりではあった。

 本当に、ここにジョイスがいなくてよかった。人の心の声が聞こえたら……欲望、嫉妬、怨恨、落胆、悪意……本当に何でも頭に飛び込んできてしまう。


 噴水の横で、彼は足を止めた。


「私自身、納得はしていないからな」

「と言いますと?」

「政治とは、不合理なものだ」


 彼は、王宮の門の向こうに視線を向けながら、呟くように言った。


「有能な人材であっても使い捨てられ、逆に無能な人物でも重用される……まるで私のように」

「そんな」


 それはさすがに自己評価が低すぎはしないか?


「閣下は、先の動乱で、陛下の盾となられたではありませんか。王国一の武人ともあろうお方が、どうして無能などとおっしゃるのですか」

「こんなものは、人気取りの人事だ。慈善事業で知られる私が大将軍になった……庶民は、これで世の中がよくなると期待する。実体があろうとなかろうとな」


 なるほど。

 いわば客寄せパンダにされたわけだ。確かに気持ちよくはなかろう。


「それに一人きりで剣を振るのと、兵士を率いて戦うのとでは、まったく話が違う」


 首を振ると、自嘲するように吐き捨てた。


「正直、ウェルモルド相手に、手も足も出なかった。彼に見えていたものが、私にはまったく見えていなかった。第一……私が今の陛下の下で戦ったというのも、言ってみれば仕組まれただけなのだからな」

「仕組まれた? ですか?」

「王宮内に兵とともに留め置かれただけ、だ。そうなれば、侵入者と戦うしかないだろう? 仮にだが、もし王族同士で内乱を起こしたなら……自由に選択できる立場であったなら、私は関わったりはしない。民を守ろうとはするがな」


 要するに、彼もタンディラールに謀られたというわけか。うまいこと利用された、と。


「……ユーシス殿が罷免になった件も、納得できない」

「えっ?」

「ユーシス・ドゥダード。疾風兵団の軍団長だった方だ。知らないか」

「え、いいえ……そうではなく、生きておいでだったのですか」

「ああ。背中に大きな傷を負ったそうだが、奇跡的に命を取り留めたそうでな」


 そうだったのか。

 ドゥーイら傭兵団の猛攻を引きつけて、そのまま死んだのかとばかり思っていたが。


「だが、一方的に決め付けられて、終わりだ。背中に傷があるとは何事か。敵から逃げようとしたのか、と」


 俺の記憶にあるユーシス……正確には、別邸に墜落した兵士のだが、彼はそんな臆病な人物ではなかった。伝令兵達を行かせるために、自分を囮にした。洒落た格好に似合わず、硬派な軍人だったはずだ。


「逃げるつもりがなくても、敵に取り囲まれれば、後ろから切りつけられもする。それに疾風兵団の仕事は、各地の軍団への連絡だ。それを全うしたのだから、逃げようがなんだろうが、立派に使命を果たしたといえる。それなのに、あの言いがかりだ」


 そういえば、疾風兵団の軍団長も、入れ替わっていた。

 俺はてっきり、戦死したユーシスの後釜とばかり思っていたのだが。


「おまけに、爵位まで没収とは」

「そ、そうなのですか?」

「ああ。マクトゥリア伯爵家も、これで終わりだ。王家のために尽くしても、隙を見せればこの通り、あっさり断絶となる」


 人事になんとなく不公平感が漂っていたのは、これが理由か。


「正直、王都の軍人の中では、ウェルモルドを除けば、彼以上の人物はいなかったと思う。武人としてはともかく、指揮官としてなら、私より上だ」

「そんな方が……」

「どちらかといえば、まぁ、軍政家といったほうがいいか。とにかく、職務には忠実な方だった」


 有能な人材まで切られてしまう。なるほど、不合理だ。

 しかし、政策がいかに優れていようと、政局を支配できなければ意味はない。職務にばかり忠実で、思い通りにならない人物は、ときとして支配者にとって邪魔となる。


「すっきりしないだろう?」


 そう言うと、彼はまた、歩き出した。


「あの」

「なんだ」

「どうしてそんなお話を?」

「ああ」


 また足を止める。


「なんとなくだな」


 星空を眺めながら、彼は言った。


「いや……」


 そのまま空を見つめつつ、じっくり考えながら、彼は口を開いた。


「有為な若者が、くだらないことに足を取られて、溺れていくのが嫌なだけだ」


 なんと言葉を返したらいいか、わからない。


「君が、陛下に見初められているようだったから、なんとなく忠告したくなった」

「は、はぁ……」


 皮肉なものだ。

 王国の平和に熱心な人物ほど、国王に対して不満を抱く。ウェルモルド然り、アルタール然り。


「で、でも、僕はそんな……有為とは言っても、確かに、命懸けで働きはしましたが、大したことは」

「単身、行軍中の兵士の群れに斬り込んで、ウェルモルドの腕を吹っ飛ばした。それが大したことではないと?」

「まぐれということもありますよ」

「どうだかな……では、包囲された後宮に辿り着けたのは」

「夜の闇に紛れただけです」

「はっははは」


 俺はもう、これ以上、自分を大きく見せる必要なんてない。出世することで得られるメリットは、既に享受し終えた。キースではないが、名誉貴族位なんて、欲しくもない。騎士の称号さえあれば、どこにでも行けるからだ。


「君だろう?」

「はい?」

「流民街で、あのアネロス・ククバンの遺体が見つかった。伯爵兵には偽名を名乗っていたそうだが、サハリア系住民が、確かにアネロスだと証言してくれたよ。……やったのは、君なんだろう?」


 ああ、そういえば。

 手柄に興味がなかったから、報告もしなかったのだ。だが、気付く人は気付いてしまう。

 だからか。わざわざ俺を待ち構えていたのは。


「これだけ喋ったんだ。少しは君の本音も聞かせてくれないか」

「本音、ですか」

「そうだな。今日はどうだった。楽しかったか?」


 そんなの、決まっている。


「……肩が凝りました」

「それだけか?」

「済みません、吐きそうでした。迎賓館って、なんであんなに臭いんでしょうね」

「理由もちゃんとあるんだろう? それも付け足してくれ」

「床がヨダレでテカテカしてるからですよ。なにしろみんな欲望むき出しなもんで、垂れ流しってわけでです」


 笑い、嘆息して、彼は言った。


「ベルノストにも、それくらいの余裕があればいいのだがな」

「えっ?」

「あれは真面目さが抜け切らん。そういう奴は危うい。もう少し堅さが取れないと、弟子にはしてやらんと言った」


 なるほどな。

 彼は頭のキレこそ素晴らしいが、とにかく余裕がない。頑張っているといえば聞こえはいいが、生真面目すぎて、いい意味でのアソビがない。

 そんな人物に鋭い剣の腕前だけ与えたら、どうなってしまうだろう? アルタールは、それではきっとベルノストが不幸になると思ったのだ。特に、タンディラールのような男に使い潰されることになって。


「長話してしまったな。すまん」

「いいえ、とんでもありません。お気遣い、ありがとうございます」

「あと一つだけ」


 彼は背を向けながら言った。


「……立場がいろいろできる前に、やりたいことをやりたまえ。さもないと、きっと後悔する」


 それだけ言うと、手を振って去っていった。

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